ph 93 屍の果樹園
phase 93 屍の果樹園
1
愛理の首は空中で黒い霧となり、散った。
ジークは頭の中が真っ白になるのを感じた。
「愛理!! だから、待ってろって言ったのに!!」
衝撃が駆け巡り、彼は冷静ではいられなかった。
「愛理、嘘だろ? おまえはいつだってニコニコ笑ってたじゃねーか…」
ジークは愛理の胴体を探した。
胴体も霧散したのか、全然見当たらない。
気配も感じられなかった。
「大切な、妹みたいなコだった…」
ジークの眸から涙が溢れ出た。
彼は心の芯がポッキリ折れてしまったみたいに感じた。
「愛理…。あのバカ女…」
ジークは萎むように龍の幻を失い、ヒト型の姿に戻っていた。
彼の波は俄かに弱々しくなった。
愛理との短い時間が、次々に思い出された。
思えば、口喧嘩ばかりしていた。
彼女に本気で殴られたこともあった。
でも、いつも飾り気のない愛理は、正直でストレートで優しいコだった。
「こんなことってある!? 信じられねーよ。こんなにあっさりと死んでしまうもんなの!? おい、愛理。おまえは黒瀧秀郷の孫なんだろう!?」
ジークは涙で顔をくしゃくしゃにしながら、頭を左右に振った。
ジークの中で何かが壊れる音がした。
「許せねぇ……。憂…」
ジークの理性が一つ、ガラスのコップのように砕け散った。
急激な感情の高ぶりが、彼に変化をもたらした。
顔の隈取りが一層荒々しく、全身がタトゥー柄で満ちた。
眸が銀色にぎらぎら光った。
「待ってたよ、ジーク」
憂は血を飲み干し、ディーヴァに支えられて起き上がった。
「憎しみに駆られて暴走しろよ。それでオレ達は同じ生物。さぁ、来いよ」
憂は片方の翅をもがれて、もう飛べない。
崩れかけた高層ビルへ向かって、先に跳躍した。
2
彼等の目の前に、県下最高層のオーシャンズ・タワーがそびえていた。
ミッドタウンの夜景を見晴らせる、五つ星の超高級ホテルだった。
ベイサイドの広い公園の真ん前にあり、滑らかな曲線から天上へ昇っていく階段状の姿が、一際美しかった。
今では、崩れて傾いている。
世の終末を象徴する絵のように、灰色の雲の海に届く高さでありながら斜めに傾ぎ、剥落した外壁の惨めな姿が哀愁を感じさせる。
憂はオーシャンズ・タワーの曲線の壁面を駆け上がった。
ジークはタワーを見上げた。
夜空に雲が流れ、月を覆い隠していく。
「今の俺の気分は、おまえの血でしか晴れねーよ。憂!!」
彼もタワーへ向かって跳んだ。
胸と腹に開いた大きな風穴から、血を滴っていく。
「愛理の仇は絶対に討つ!!」
ジークは冷静さを完全に失って、無我夢中で憂を追った。
ジークは憂を切り刻もうと、滅茶苦茶に黒飛龍剣を振り回した。
空間が裂け、藍色の空がつぎはぎのように斑になった。
空間は異界と混じり合いながら、振動し歪んでゆく。
ジークの意志とは無関係に、オーシャンズ・タワーの空間は二人の視点を軸に狂っていった。
崩れかけの建物は、異界の熱を帯びて曲がった。
この世にはない造形をもたらした。
奇妙で美しく、醜い世界。
矛盾だらけの世界。
この世なのか、あの世なのか、定かではない境へ二人は踏み込んでゆく。
オーシャンズ・タワーの美しい曲線は途中から曲がりくねった。
まるで植物の蔦のように、自由に伸び広がった。
壁が溶けて穴が開き、元からのアーチのように変形した。
割れたガラスが消滅し、アーチが連続し、曲がった鉄骨が人間の肋骨のようである。
これは例えれば、魔性の宮殿のイメージだ。
誰の設計でもない。
建物が異界によって浸食されていく。
天井が抜けて瓦礫がオブジェのように重なり、神話か、古代遺跡みたいに蘇る。
地上の人間達の建造物にはないデザインと表現、美が誕生した。
非現実的な景色の中で、そのフレームにぴたりと嵌まりこむように、憂が昆虫の手足を曲げて着地した。
対峙するジークと憂は、与えられた舞台の主役として、幕が上がっていくのを感じた。
西洋風長椅子が変化してシャンデリアと絡み合い、植物が成長するように木製部分が伸びた。
クリスタルグラスが剣山のように刺々しく連なった。
そんな奇妙なモノに掴まり、憂が息を弾ませていた。
ジークは波が寄った天井にコウモリみたいに逆さにぶら下がり、憂と、逆さのA市の夜景を眺めていた。
眩しかったはずの夜景は今や、難民達が吸血鬼に怯えて暮らす、僅かばかりの光の粒々になっている。
「この世界におまえはいらない。死んでくれ、ジーク!!」
憂が叫び、轟音とともに爆風が起きた。
フロア全体が砕けて飛び、階下を押し潰した。
赤い絨毯の上に、粉塵とクリスタルグラスが横殴りの暴風雨のように降り注いだ。
ジークは波を発して、暴風雨を弾いた。
彼は粉塵の中を転がった。
憂は息を吸い込んで腹を膨らませ、毒の嵐を吐き出した。
建物の重力場がひっくり返り、上下も左右も無くなる。
ジークはタワーから眺める夜景に、ブラックホールのような闇が広がるのを見た。
彼は強引に引っ張られ、闇に飲み込まれそうになった。
彼は黒飛龍剣を建物の外壁に突き立て、その場に残ろうとした。
足元で、空が闇に食われていった。
タワーは闇にすっぽり包み込まれ、この世界が丸ごと魚眼レンズに落とし込まれるように、歪んで萎んでいく。
萎む中心に渦があり、虫の口が牙を剥く。
アリ地獄のような、黒い闇の虫けら。
「うああ…!! 飲み込まれる…!!」
ジークは自分がバリバリとひしゃげていくことに、焦りまくった。
彼のカラダはひしゃげ、重力に潰れながら闇に飲み込まれた。
3
風が唸り、髪に絡み付く。
酸っぱい血の匂い。屍の匂い。
ここはどこか。
わからない。
ジークは頭を擦りながら、起き上がった。
虫に食われたと思ったのに、彼にはまだカラダがあった。
傷だらけのカラダを動かし、彼は周辺を窺う。
大地に、樹の根が蛇のように這う。
見たことも無い、奇妙な赤い葉の植物が蔓を伸ばしている。
枝先には、実が熟れ過ぎて汁を垂れている。
その実とは、…腐った屍体だ…。
屍体の果樹園が、丘に広がっていた。
地面にも木々にも、桃やスイカのように人間の頭が実り、白目を剥いて舌を長く吐き出している。
その実はやはり、熟れ過ぎて腐り、悪臭を放つ。
樹には指にしか見えない花が咲き、ハエや蛾がたかっている。
果実は全て裸の屍。
男もあれば女もあり、子供もある。
皮膚は紫色に変色し、目玉がとろっと落ちる。
「気持ち悪ぃ…」
ジークは悪臭に吐き気を催した。
醜い虫達が這い回り、蠢いていた。
屋外なのか、未だオーシャンズ・タワーの内部なのか、奇抜過ぎる柱やオブジェ、切り抜いたように建物の一画がある。
天井や屋根はなく、魔界のような気味悪い装飾的な造形が果てまで続く。
ジークは赤い道を見つけた。
屍を引き摺って出来たような、血塗られた道だ。
道の先に、憂の気配があった。
ジークは貧血で、眩暈がしていた。
「どこだよ…? 俺は変なとこに迷い込んでしまったよ…」
チカラが抜けた彼の手元で、黒飛龍剣だけが敏感に、闇に反応していた。
刃が震え、キーンと耳鳴りのような音を立てた。
「何か居る……」
ジークは闇を、黒飛龍剣の切っ先から啜った。
それはなかなか、おぞましい景色だった。
景色は赤黒く、影と混じり合っていた。
屍の果樹園は果てしなく続き、あちこちの枝先や巻き付いた蔓に、人間の頭がぶら下がって死の形相を浮かべていた。
屍の果実は時折、呻き声を上げた。
「死にたくない、死にたくない…」
或いは、
「痛い、痛い…。死にそうだ…。死んでしまうー」
と、呟いた。
「おまえら、死んでるって」
ジークは残酷な事実を告げた。
途中、瓦礫で出来た墓石のようなものがあった。
その石が盛り上がって崩れ、下から手が這い出た。
手は必死で土を掻き、泥塗れの男が出て来た。
男は必死に地面を掻いて、這って進んだ。
すると、腐った腹が糸を引いて伸びて、まっぷたつにちぎれた。
男の下半身は勝手に立ち上がり、男を残して歩き去った。
「待てよー。俺を置いてくなよー」
男が情けない顔で泣いた。
泣き顔から歯が抜け落ち、目玉が落ち、手から爪が剥がれた。
「俺の足が、俺を置いてったんだー」
男がジークに訴えた。
「おまえは死んで、腐ってるからな」
ジークが側にあったシャベルを拾い上げ、男に土を被せた。
「やめてくれ!! 俺はまだ、死んでないよ!!」
男が叫ぶが、ジークは無情に土をかけ続けた。
「死んだ人間は、土に還るべきなんだ。蘇るんじゃなかった…」
ジークはシャベルを投げ捨て、道に戻った。
果樹園の丘の上を、小さな黒蝶がひらひら飛んでいた。
夕闇色の赤黒い空を、蝶の群れがゆく。
一匹なら美しい蝶も、この数では不気味に思われる。
「気味悪ぃ…」
ジークはゾッとした。
彼はルビーの蘭の温室を思い出した。
「ルビーもあんな蝶を飼ってたな…」
屍体が合唱するように唸っている。
墓石が次々倒れ、屍鬼が地面から這い出す。
黒蝶が舞う。
屍の実が腐り、樹から落ちてゆく。
ぼわっと弾けてドロドロになって、悪臭が漂う。
スイカのような人間の頭があちこちで揺れ、恨みつらみの唄を唄う。
ジークは耳を塞いだ。
狂った心、ネガティブな心。
そこに惹かれて集う、虫けら達。
腐った屍が磨滅するまで、変わり果てても前に進み、憂の気配に引き寄せられていく。
「おおぅ、恐怖は血で洗え。一人殺した時は、心が乱れる。二人殺せば、心が落ち着く。三人殺せば、心が軽くなり弾み出す…。十人殺せば、もう何も怖くない…。おおぅ、人間を食って、この痛みと孤独を和らげろ。死ぬことは、新たな世の始まり。永遠の夜の始まりだ…」
ゾンビ達が唄う。
ゾンビは肉塊になり、潰れていく。
「おおぅ、気が遠くなるほどの長い年月をかけ…、気が狂うような痛みの中で…、自我を擦り減らしながら、やがて目に見えないほどの粒になり…、最後は黒い霧になる…」
肉片の唄が、心に滲み込んでゆく。
思わず、ジークは、
「黙れ!! そんな唄を唄うんじゃねぇー!! そんなまでして存在し続けることに、何の意味がある!? 惨めだ!! 早くくたばった方がマシだ!!」
と喚いた。
自分自身を重ね合せ、彼は強い嫌悪感を抱いた。
「おおぅ、我等は砂粒になるまで…永遠を生きる。おおぅ、自我の果てるまで…、自我が果てても尚…、風に飛ばされて…流されていく…」
先刻の足に逃げられた男が、上半身だけで地面を這い、ジークを追い越していった。
腹から内臓が零れ、胴体がどんどん短くなっていく。
指が落ち、手首から先が溶け、白骨が露わになる。
男は骸骨と化していく。
ジークは呆然とした。
「この異界は誰の心だ? 俺の心か? この男は、俺の未来の姿なのか!?」
彼は虚無の世界で途方に暮れ、涙を零した。
「こんなものを見せるんじゃねぇ!!」
彼が大声で叫んだ。
天使のように雲に乗り、ふわりと空から何かが舞い降りた。
美しく邪まな笑みを浮かべ、彼は翅を広げて、手を差し伸べてきた。
「おまえの魂を闇に救済する…。沈黙の彼方へ…」
短刀のように尖った指先がジークの胸を抉り、心臓を貫く。
ジークは絶句し、憂を仰ぎ見た。
憂が微笑んでいる。
憂は虫の顔で、ジークの血を口の端から垂らしながら、
「心は肉体より脆いものだよね、ジーク…」
と、甘い声で囁いた。
ジークは果樹園の夢から覚めた。
ジークは未だ、壁に突き刺した黒飛龍剣に掴まっていた。
オーシャンズ・タワーの外側だ。
彼は胸まで闇にどっぷり捕われ、心臓に憂の牙がかかっていた。
憂はアリ地獄の虫のように、闇の渦の中心で、ジークを噛み裂いているところだった。
ジークは現実の世界で正気に戻って、憂をもう一度仰ぎ見た。
彼のカラダはバリバリと音を立てて、憂の口の中に食われていくのだった。




