ph 92 拮抗
phase 92 拮抗
1
ジークが剣に巻いていた布を捨てると、その切っ先から、深淵の闇が溢れ出した。
黒飛龍剣を飾るオニキスが、闇よりも黒々と光を飲み込んでゆく。
ごうごうと、屋上に吹く風が唸っている。
夜空は闇に塗り潰され、ただ一つ、普段より大きい月だけが奇妙にも輝きを放っている。
神秘的な光景。
「憂…。生意気だけど可愛かった、俺の義弟…」
ジークは心の内で呟いた。
彼は一気に覚醒し、波が爆発的に最高潮に達した。
彼は稲妻のように駆け抜けた。
コンクリートの屋上を蹴り、宙高く跳び上がる。
「死ね、憂ー!!」
剣を大きく一閃、憂をぶった斬った。
切先が憂の額に吸い込まれたと思った。
しかし、血は飛び散らず、憂の残像がジークを馬鹿にするようにニッと嗤った。
「憂!?」
何故か、空振りだった。
憂は一瞬で消えた。
ジークは空を見回し、憂の気配を追う。
どこからか、蝶の羽音が聞こえる…。
憂は夜空を優雅に旋回し、戻って来る。
ジークは眉間に皺を寄せ、狼のように吠えた。
「ウウウ…」
彼の顔にタトゥーのような、黒い隈取りが浮かんでいる。
額に青筋が立つ。
彼の両腕の筋肉に白い鱗が生え、 骨がビキビキと鳴っていた。
背中に翼が生えていく。
黒飛龍剣の先で空間が歪み、青白い電気が弾けた。
ジークは剣先に闇を寄せ集め、力を込めて膨らませた。
闇は雷となって発光し始め、青白い光の球が膨らんでいった。
2
憂は月明かりを浴びて、シャガールの絵のように幻想的に美しかった。
艶やかなベルベットの翅は、ダイヤを鏤めたみたいにきらきらと光っていた。
憂は人間ではないものに転じていた。
瞼は大きく裂け、複眼が眼窩から迫り出ていた。
その眸は左右に大きな視界を持ち、可愛らしい少女っぽい顔立ちの中で異様に目立った。
憂の華奢な体の線は、不思議に節立って細長く伸びた。
細い腕は四本の前脚になり、足は妙な方向に二段階の角度で曲がった。
前脚の二十本の爪は、ナイフのように長く尖った。
特に、上の段の前脚の人差し指の爪は鎌状に湾曲し、長く伸びた。
憂は大きく羽ばたきながら戻り、ジークに鱗粉の風を浴びせた。
鱗粉が不快に匂う。
ディーヴァの毒蛾の翅と同様に、彼の鱗粉も毒を含んでいた。
ジークは左手で口元を押さえ、右手で雷をまとった剣を振るった。
雷撃が憂を焼いた。
憂は高速のシャッターでも捉えきれないスピードで、ジークに挑んだ。
先刻の空振りは、スピードの差だったのだ。
憂の軽やかな後脚の跳躍、そして鋭い前方への踏み込み。
唸る剣風を切る、動きの俊敏さ。
憂はジークの黒飛龍剣を二本の鎌状の人差指を使って食い止め、二段目の前脚を両方使って、ジークの体を突き破った。
雷撃のダメージを覚悟で、憂は前のめりに重心をかけた。
十本の爪が夫々、ジークの胸と腹を破った。
爪は肉を抉り、骨を砕いた。
憂は指を捩じらせながら、背中まで突き破った。
後は両腕を、脇を締めて引き抜く。
ジークの腹の肉が飛び散り、血飛沫が遠くまで飛んだ。
開いた穴から内臓が噴き出た。
「ぐはぁぁっ!!」
ジークが悶え、のけ反った。
その首筋に、憂の舌管が伸びた。
憂はジークの首筋に突き刺した舌管から、ゴクゴクと血を吸った。
「ウォッ!!」
ジークが吠え、剣で憂の舌を切断した。
舌管の先が飛んだが、憂は平気そうだった。
憂はすぐに、傷を修復した。
触角が雷撃で焦げ、曲がっていたが、手の火傷よりはマシだった。
「ふふ…、大したことないんだよね」
憂は火傷の指を、舌管の先で舐めた。
大きなアンモナイトを顔にぶら下げたような、気持ち悪い渦巻き舌管。
嗤いがくぐもって聞こえた。
憂は返り血を舐め、内臓が外に垂れ下がっているジークの姿にヨダレを零した。
「ジーク、美味そうだ…。それも味見させてよ」
巻かれていた舌管が、するっと伸びた。
ジークは体の中心に、旋回する大きな貫通傷を負って、屋上に落下した。
屋上の入口で、このビルに住みついていた難民が数人、戦いを眺めていた。
血みどろジークが落下し、憂が降下して来ると、難民達は、
「ひゃああ!!」
と、叫び声を上げて逃げ出した。
「悪魔だ!! この世のものとは思えない!! これは悪い夢だ!! 俺は気が狂ったのか!?」
難民の一人が大声で叫んだ。
憂は目撃されることも気にならない。
落ちたジークの上に覆い被さり、翅を伏せて、血を貪った。
内臓もすり潰すように飲んだ。
「ううっ…!!」
ジークは激痛に身を捩らせた。
気を失いそうなぐらい、凄まじいまでの激痛が走る。
憂は心臓のラインを切断しようとしない。
ジークの生き血を絞り出し、音立てて啜った。
ジークは痛みにエビ反りになり、体をバウンドさせた。
かつて味わったことのないほどの痛みが、ギリギリと全身を絞った。
ジークの命が萎んでいく。
ジークの顔色が紫に変化し、失血性ショックで痙攣した。
腕はだらりと外向きに垂れ、黒飛龍剣が床に滑り落ちた。
全身のチカラが抜けていく。
顔の隈取りが薄くなっていく。
けれど、急に憂が血を飲むのをやめた。
彼はむせて、激しく咳き込んだ。
自分の膝に、飲んだばかりの血とヨダレを零した。
「ゲブッ、ゲボッ!! ゲブッ!!」
憂は大量に嘔吐した。
ジークはうっすら眸を開き、
「なんだ…。お口に合わねーようだな…」
と、掠れた声で言った。
ジークはちぎれかけの胴体を自分で眺め、
「お。心臓だけは無事じゃん。俺の運もまだ尽きてねーな…」
と、満足そうに言った。
ジークの顔に、濃い隈取が戻った。
彼は震える片手を床に着き、何とか身を起こして、黒飛龍剣を拾った。
憂は粗方吐き出して、口を手の甲で拭った。
「何だ、おまえの血…!? 後味がマズ過ぎる…。ニンニクみたいな匂いだ…」
ジークは吹き出した。
「ああ。夕方、ラーメン食ったんだよ。愛理がラーメン大好きでさ。今日のラーメン、ニンニク入ってたな。ギョウザも食った」
「おまえ、それでも吸血鬼か!!」
憂が罵った。
「馬鹿言え。最後の食事にラーメン選んで、何が悪い。食糧危機に陥ってんの。贅沢な食い物はねーんだよ!!」
ジークがふらふら起き上がった。
「ジーク! 吸血鬼が人間の食べ物を食うなよ。その出血じゃ、もう動けない。おとなしくオレに殺されて死ね!!」
憂が刃物だらけの手を、鋭く振った。
ジークがひょいと避けた。
「おっと。危ねーじゃねーか…。ちょっとすばしこいからって、自惚れんなよ。俺は深淵から、何度も復活してきた男だよ…」
ジークは腹に手を当ててみた。
穴は深く、内臓も半分無かった。
傷が燃えるように熱かった。
彼は激痛に顔をしかめた。
「よぅ、それじゃー第二ラウンドと行くか!?」
彼は黒飛龍剣を構え直した。
彼の腹部からベルトを伝って、黒い血が床に滴った。
3
憂の両手の火傷の深度は、骨に達していた。
憂の両側の鼻孔から、血が筋になって流れた。
彼は深いダメージを受けていた。
雷撃により、翅の一枚が破れていた。
ジークは第二段階へ、覚醒を始めた。
思えば、今日この時に合わせるかのように、ジークの成長があった。
彼はとうとう、百パーセントの覚醒へ向かおうとしている。
「グギョギョ…」
ジークの喉が奇妙な音を立てている。
全身の骨が微妙に動き、ヒト型を保ちつつ、全く異なる存在へ変貌していく。
彼に服とか皮膚、鱗といったものはなくなった。
チカラの具現化そのものだ。
「痛ぇ…。…俺みたいなヤツは殺された方がいいの? 俺は不要な存在か?」
ジークが自分に問い掛ける。
ジークのB面が答える。
「やめちまえよ、苦しいだけのことなんか。さっさとどっかに行っちまおうぜ。おまえに何の責任もねーよ。しんどいことなんか、真っ平だ。さっさと狩りをして、腹いっぱいの血を吸おうぜー」
「うるせぇ!! …三浦先生…、深由ちゃん…、俺は黒蝶と戦う…。俺は…」
ジークがB面に言い返し、覚醒した。
「俺はプライドの為に戦ってる。野良犬のプライドだ。哲さん…」
「う…」
憂が少し気後れした。
彼はチカラを振り絞って、自分も第二段階の覚醒へと進んだ。
憂にとっては、未知への覚醒だった。
憂は自身の理性を、覚醒に必要な分、闇に置き換えた。
「もう人間らしさは要らない。強ければ、それでいい…」
彼は一段と凶暴化した。
ジークはヒト型のまま、龍に近付いた。
憂は蝶から、悪魔に近付いていく。
憂の複眼が広がり、触角が角となり、長い尻尾が生えた。
獣なのか、昆虫なのか、わからないほど混沌とした姿に変貌してゆく。
舌管は三本に増え、長過ぎて重く、床に垂れ下がった。
重い舌管のせいで、彼の姿勢は前屈みになり、鎌状の爪はハサミ状になった。
サソリもしくは、数億年前の海底生物のようなグロテスクさでもあった。
醜悪にして、美しい悪魔。
怖いもの見たさに惹きつけられ、目が離せなくなるほど、憂は不気味に美しくなった。
ジークのカラダから噴き出す波が、白い光のように周囲の闇を押し退ける。
ジークの傷は深すぎて、なかなか癒えていかないが、彼は死力を賭けて覚醒した。
このチカラは黒飛龍剣を通し、闇の深淵から湧いて来るものだ。
「ここで倒れたら、力尽きて死ぬかも知れねー。朔夜みたいに…」
ジークは死を覚悟した。
「ジーク…。コロス、コロス、コロス…!!」
憂が虫の声で鳴いた。
六本のハサミがジークに襲いかかり、尻尾の毒針が反対方向からジークを狙った。
そして、三本の舌管が火焔弾を三方向からジークに向かって連射した。
ジークは軽く床を蹴って跳び上がった。
体重を全く感じさせない軽やかさ。
しかし、ビルの屋上はその一蹴りで崩壊し、建物が傾いた。
白い龍の幻影が、ジークを包んでいる。
ジークは幻の中に霞んでいき、龍が旋回しながら長い身を解いていった。
愛理は建物の向かい側から、ジークの最終覚醒を見届けた。
「ジーク…。どうしちゃったの!? まさか、黒瀧の一族から白い龍が出るなんて…。どうして朔夜みたいな黒龍じゃないの!?」
彼女は不思議そうに呟いた。
ジークの最後のチカラと、憂の最大のチカラが激突した。
火花が散り、建物がどんどん崩れ落ちていった。
ジークの血肉が再び吹き飛び、憂の肩に龍の牙が食い込み、翅がもがれた。
力が拮抗し、死闘が続く。
「おまえを兄貴なんて思ったことはないよ、ジーク…」
憂がジークを打ちのめし、焼き尽くし、切り刻もうとする。
ジークは龍となった身を躍らせ、天空を舞う。
憂はハサミ状の前脚で胸を押さえ、動きを停めた。
「はぁはぁ、オレは…無敵だ…。不死身なんだ…」
憂が心臓の動悸に喘いだ。
憂は三本の舌管を自分で引きちぎり、ヒト型の口をパクパクと動かした。
「はぁはぁ…、ジーク。これを見ろよ」
彼はジークに映像を見せた。
月を画面に、愛理の姿が見えた。
愛理がディーヴァに捕まり、首を刎ねられるところだ。
「愛理!!」
ジークが目を見開き、強く動揺した。
「ふははは、みとっもない声出して、龍が啼くんじゃないよ」
憂が冷や汗を拭い、地上に身を横たえた。
「如月くん!」
物陰からディーヴァが歩み寄り、憂に飲み物を与えた。
絞った血であった。
ディーヴァは無言で、ジークに渡すように首を投げ上げた。
白目を剥いた愛理の生首が空に飛び、血を撒き散らしながら落ちていった。
ジークは急降下して、愛理の首を追った。




