ph 90 さらば、愛しい人
phase 90 さらば、愛しい人
1
吹っ飛びながら、憂が舌管でジークの腕を掴んだ。
憂は軽々と、彼を投げ飛ばした。
「…てっ…。憂…」
ジークは壁で頭を打ち、床に落ちた。
彼の影から、刹那に愛理が飛び出して、憂に強烈な蹴りを見舞った。
突風のような蹴りだった。
憂は愛理を舌管で打ち落とした。
「ジークの全てを恨んでるよ…。見てるだけで苛々する。存在してるだけでメイワク!」
憂が表情を歪め、辛辣に罵った。
「そうだよ。オレは家族が欲しかったね。家のどこにも居場所がなくて。義理の父親にも馴染めなくて。病院で知り合った、哲さんと翔に悪魔の真珠を提供した。それから、中学の同じクラスだった小暮にも、幼虫を与えた。…だけど、哲さんはオレを捨ててった。これがどういうことか、わかる!?」
憂は拳でドンと、壁を叩いた。
ジークはボタボタと、唇から血を滴らせた。
「憂、哲さんは痛みを終わらせたかっただけだ。他人の血を吸わなきゃ、以前にも増した激痛に襲われることになって、運命を呪った」
彼は体を擦り、起き上がった。
憂は少し涙ぐんだ。
「オレは哲さんと翔の他にもう一人、美咲さんにも幼虫を与えた。美咲さんは子供を亡くしたばかりで、毎日泣いて暮らしてた。だから、オレは母親を亡くした翔と、美咲さんを引き合わせた。オレ達は家族になろうと約束したんだ。…なのに、美咲さんは羽化した後、血を吸うことを拒絶して餓死した。…せっかく、永遠の命をあげたんだぞ?」
憂が母性を求めた女性、美咲は死にたがっていた。
小児科に入院していた子供が死んで、彼女は鬱病になっていた。
憂は美咲を家族に選んだけれど、美咲は実子の死を乗り越えられなかった。
彼女は、自分を騙して黒蝶にした憂を呪いながら、餓死した。
「美咲さんはオレと翔を捨てて死んでしまった。あのクソババァ…」
憂は自分本位に考えている。
「憂…。愛してほしいなら、暴力で相手を従わせようとしてもムダだ」
「黙れ!!」
憂が怒鳴った。
「ジーク、実験は終わった。新しい家族がうまくいってたら、或いは違ったかも知れないけど。黒蝶の王国なんて、本当は必要なかった。加藤の描いた夢なんて、キモ過ぎて笑える。アハハ…」
憂は自嘲した。
「これはルビーの仇討ちなのさ、ジーク。おまえさえいなきゃ、あんなことにならなかったんだ。そこのガールフレンドと親友と、最後のお別れをやってなよ。録画しておくから、後で見せてもらう。じゃ、オレはもう寝る。お休み、ジーク。永遠に…」
憂が一歩下がった。
ジークが追いかけ、
「俺を殺して、ルビーが喜ぶのかよ!? 哲さんと美咲さんに側にいて欲しかったなら、何故そう言わねぇの? おまえは駄々っ子だ。心臓が悪いのはおまえ一人じゃねぇ! 甘ったれんな!!」
と憂の襟を掴み、揺さぶった。
憂はかっとなった。
「ジークにルビーを幸せに出来ると思った!? 思い上がるなよ、ジーク! おまえがいなきゃ、ルビーは黒瀧から血を盗んで、オレに永遠の命をくれたはずなんだ。オレはこんなに苦しまずに済んだよ! そうだ、おまえが邪魔したんだ!!」
憂がジークに殴りかかり、ジークが短いカウンターを撃ち込んだ。
憂が後ろ向きにのけ反り、指を開いて何か掴もうとした。
憂は突然、ドアに吸い込まれた。
追いかけようとしたジークは、ドアにぶつかって倒れた。
誰か、別の吸血鬼の意志がジークを拒み、結界に閉じ込めた。
憂は結界の境を通り抜けたが、ジークは擦り抜けられなかった。
「ああ!? 逃げんなよ、おい!?」
ジークがドアをドンドン叩きまくった。
「憂!! てめー!!」
憂の気配がディーヴァを連れ、病棟の通路を奥へ歩き去っていく。
ジークがヤケクソでドアを蹴った。
「俺のせいでルビーが死んだって!? ふざけんじゃねぇー!! 俺は黒瀧教授から、命懸けでルビーを守ろうとしてたんだ。それを…」
「ジーク…」
愛理がジークの腕に手をかけた。
「そんなことをしてる暇ないよ。もう夜明けまで時間がない」
ジークは窓を振り返って見た。
正面が東だ。
少しずつ、空の藍色が薄くなっていく。
2
「夜明けは美しいな。夜明けの光を浴びたら死ぬなんて、吸血鬼はなんて哀しい生き物なんだろう」
ジークはポケットからタバコを取り出した。
潰れてぺっちゃんこの一本をくわえ、ライターを探す。
「こんな時に、のんびりしてるよねぇー。私は朝日のことを考えただけで、気絶しそう!!」
愛理は泣き出しそうだ。
「朝日か。哲さんと一緒だった時は、地面に潜ったんだけどなぁー。ヴァンパイヤ・ナイトの夜明けの時は、愛理と海の底に潜ったっけ…」
ジークは思い出し、おっとりと話した。
「嫌だ!! まだ死にたくない!!」
愛理はしゃがみ込み、顔を両手で覆った。
車椅子のヨッシーは、彼女の側でおろおろしていた。
「ヨッシー、ライター持ってねぇ? おまえは朝日じゃ死なないから、大丈夫だな。俺達のこと、誰かに伝えてくれよ。こんな吸血鬼も居たんです、って」
ジークがふざけて言った。
ヨッシーは笑えなくて、また鼻を啜った。
「嫌だよ、ジーク。一緒に外へ出よう」
「外の世界は今、無茶苦茶なんだよ。ヨッシー、そのヒョロさで生き残れる? 殺るか殺られるか。超サバイバル時代に突入してるけど」
「どうかな。俺の特技は、料理で他人を喜ばせることだけ」
「ヨッシーのパスタ、もう一度食べたかった…」
愛理が心から、しんみり言った。
「チッ。ライターねぇのかよー」
ジークがぶつぶつ、ぼやく。
「火はあるよ!」
苛立った愛理が火を吐き、ジークの顔と髪が燃え上がった。
「ぶっ…」
「きゃはは。見て、あの顔ー!!」
ジークの顔がマンガみたいに煤だらけになって、愛理が大笑いした。
「ぶっ殺す!!」
ジークが半分本気で、黒飛龍剣をかざした。
「やめてよ。もうすぐ、どっちみち死ぬんだから。あ、でも、焼け死ぬぐらいなら、斬られて一思いに死ぬ方が楽かも知れないけど!」
愛理が剣の前に立ち上がった。
「ジーク。お願い。私を斬って」
「よせよ。どんな時でも、自殺はダメだ」
ジークが剣先を下げた。
「偉そうに。朝日がどんなに恐ろしいものか、見たんでしょ? 私達吸血鬼がどんな最後を迎えるかを…」
愛理が自ら、剣先に胸をつけようとした。
「やめろって言ってんの」
ジークが愛理を蹴飛ばした。
愛理は床によろめき、上目遣いにジークを見た。
その猫みたいな眸に、涙がみるみる盛り上がって、一筋溢れた。
「ジーク…。まさか、あんたと死ぬことになるなんて。朔夜と結婚する気も無かったけど、あんたとジ・エンドってのも無いって思ってたわ!」
「そうかい。そりゃ、悪かったね」
ジークは彼女の涙から目を逸らした。
「ジーク…」
ヨッシーは罪悪感を感じた。
二人をこの部屋に招き入れた責任を感じた。
深由を死なせてしまった時の、苦い後悔が胸に蘇る。
「もう、あんな後悔はごめんだ」
ヨッシーは言葉を絞り出した。
「ダメだよ、ジーク。諦めないでくれ。ここまで、かなり不可能なことの連続だったよ。諦めたら、何もかも終わってしまう。運命が変わってしまう気がする」
「こうなるのが運命だったんだよ、ヨッシー。俺は湖のボートの上で、くたばったんだよ」
ジークがへらへら笑って、ヨッシーに答えた。
ヨッシーは、
「諦めたら、そこで終わりだ。俺はあなたと過ごしたことを思うと、今ここで諦められない。あなたと友達になれて、本当に良かった。すげー楽しかったよ」
と、涙を止められなかった。
「ジーク、そうだ。朔夜さんは? 朔夜さんはどうしてる? 大家さんの知り合いの…」
ヨッシーが思いついて、尋ねた。
朔夜の名を聞き、途端にジークの表情が引き締まった。
脳裏に、朔夜のすました顔が思い浮かぶ。
「朔夜…か。あいつは来世で…、俺を待ってるよ…」
ジークは呟きながら、少し皮肉な笑みを浮かべた。
「死んだ…の…?」
愛理が驚いて、聞き返した。
「死んだわけじゃねぇ。きっと深淵にいる。黒いガスになって…ちょっとの間、休憩してるだけだ」
ジークは落ち着いて答えた。
「信じられない!! 朔夜が死ぬわけないよ!!」
「だから、死んでねーって言ってるじゃねーか。なぁ?」
ジークは愛理の肩に両手をかけた。
「ナオさんは!? 圭太さんは!? もしかして、みんな!?」
愛理がパニックになった。
ジークが否定しても、愛理は彼の脳を読めるのだ。
「もうダメ…!! 何もかも終わった。もうお終い…」
愛理が泣き崩れた。
「はぁ、黙れって言ってんの」
ジークが腹を立てて言い、白んでいく窓を睨んだ。
「ジーク、何か方法があるはずだよ。まだ間に合う」
ヨッシーが懸命に言う。
ジークは二人の顔を、交互に見詰めた。
「クソ。俺はともかく、愛理を死なせたくねーな。ヨッシーも何とか、ここから出してやりたい」
彼は真剣に考え込んだ。
沈黙が続いた。
時間が刻々と過ぎてゆく。
焦っても、どうにもならない。
ジークは心を澄まし、結界に集中した。
どこかに繋ぎ目や、漏れはないか?
薄い部分はないだろうか?
ジークは何かを感じ取った。
息を殺し、誰かの見詰める気配。
そっと覗き込み、興味津々で遠くから成り行きを眺めている視線。
ジークはふと、病室の洗面台に気付いた。
入口に近い一画に、洗面台と蛇口、鏡がある。
消毒石鹸と、除菌スプレーが備わっている。
その鏡の向こうから、ジークは視線を感じていたのだ。
「…そうか。忘れてた…。鏡はあの世とこの世を繋ぐってことを…」
ジークが呟いた。
鏡越しにこちらを覗いているのは、間違いなく、この結界を生み出した主だ。
執念深い視線だ。
ジークはどこかで覚えのある視線のように感じた。
呪術師フローラのような、禍々しく狂気に満ちた視線だった。
ジークはふらふらと鏡に寄って行った。
「…黒瀧の部屋から深淵に通じるトンネルも…、鏡が始まりになってたな…。鵜野影馬は鏡から、俺の部屋に入ってきた…。圭太は青銅製の古代鏡を用いて、異界に連絡路を作った…。異界縮図だ……」
洗面台の鏡に、ジークの上半身が映し出された。
彼は鏡の中の自分に、吸血鬼の気配を重ね視た。
ジークが黒飛龍剣を構え、鏡に映る自分を袈裟斬りに斬り下ろした。
3
鏡が粉々に砕け散った。
予想以上の手応えがあった。
次の瞬間、ジークは廊下に走り出ていた。
結界を破った。
彼は野生の本能のままに、廊下に控えていた黒蝶のガーディアンを一人、斬り伏せた。
続いて、もう一人、二人と黒蝶を斬り飛ばす。
「ヨッシー!! 行くよ!!」
愛理は嬉しくて飛び跳ねた。
大急ぎで、ヨッシーをおんぶする。
「やっぱり、ジークはやってくれるよ。俺、信じてた!」
ヨッシーが愛理の背中で、ひゅうと口笛を吹いた。
封印されていた黒飛龍剣が、チカラを取り戻した。
ジークは連続してガーディアンを斬りながら、廊下を矢のように飛んでいった。
黒飛龍剣は唸りながら空間を切り裂き、闇を撒き散らした。
空気が震え、床が震動した。
「憂…、どこにいる…!?」
ジークは狂った獣のように、憂を探す。
廊下に面した病室を全て透視し、眸をぎらぎらさせた。
「香の言った通りだ。憂を殺さなきゃ、黒蝶は終わらねー」
ジークは病棟を駆け抜け、階段に回った。
窓のない階段室。
薄暗い踊り場、上の階の手摺から何本もロープが垂れ下がって、数人が吊るされている。
「うう…。た…助けて…」
彼等はまだ息があり、ジークを見て呻いた。
ジークの知っている顔がある。
不二富町の飲み屋通り自警団。
ヨッシーの経営するベイカフェの常連でもある。
「あ…危ない…。気を付けて…」
吊るされた一人が、掠れる声で呻いた。
「待ってて。すぐ降ろしてあげるよ!」
ジークが慌てて近寄った。
後ろから何かが飛来し、ジークに警告した若い女に突き立った。
彼女の額に突き立ったのは、注射器だ。
女が死に、がっくりと頭を垂れた。
ジークが振り向く。
中学生が数人、勝ち誇った顔をしている。
「あの部屋から、よく出れたね…。でも、そんなこと、あんまり意味ないんだ…」
中学生の黒蝶が手に注射器を構え、
「あんたもやる? ダーツだよ」
と、吊るされた男女を的に、注射器を投げた。
ジークは嫌悪を表情に浮かべた。
「クソ…。黒蝶の核は…中学生グループかよ…」
吊るされた男女は、既に何本も注射器が深く突き立っている。
注射器が当たった男が、痛みよりも恐怖に震えた。
「…おまえら、やめろよ」
ジークが厳しい声で命じた。
子供達は更に楽しそうに、ジークをダーツに誘った。
「なんで? 面白いよ。生きた的だ。こいつらは俺達の餌だよ。血を飲んで、用が済んだから、後はダーツで遊んでるところ。あんたも一緒にやろうよ…」
ジークは不快感を示した。
「食事をするなとは言わねーよ。でも、殺して遊ぶのはやめろ。おえらも、以前は人間だったんだろ?」
中学生グループはどっと笑った。
「あれー。もしかして、人間に同情してるの? 弱肉強食って言葉を知らないの?」
彼等は面白がって、飲み屋通り自警団のメンバーに更に注射器を投げつけた。
ジークは避けずに人間を庇って、注射器が数本突き立った。
針どころか、プラスチック部分までめり込むほどの力で投げ込んでいる。
「くぅ…」
ジークは筋肉に力を込め、注射器を押し出した。
「はぁはぁ…、畜生…」
ジークは悪戯好きな子供達が、本気の表情に変わっていくのを見た。
「おまえら、知り合いを返してもらうぜ。一つ聞きたいことがあるんだけど、如月憂って同級生、どこに隠れてるか知らねーか?」
彼はロープを一本一本手で引きちぎり、吊られていた男女を降ろした。
「ありがとう、達紙さん…。私達、あなたを吸血鬼だと思って、警察に通報したのに…すまないね」
飲み屋の店長が泣きながら詫びた。
「んなことは、もういいってー。とっくに忘れてたよ」
ジークは自警団の前に立った。
そこに愛理とヨッシーが追いつき、ヨッシーが自警団のメンバーと抱き合った。
黒蝶の中学生は、苛々しながらヨッシー達の再会を眺めていた。
「如月くんの部屋? 知らないよ。あの人、秘密が多いから」
子供達の一人が舌打ちして答えた。
ドクン。
ジークの心臓に、何か衝撃が来た。
特殊な空気の波動を感じた。
黒飛龍剣が闇を吸い込み、膨らむように思った。
特別に強い敵が来た。
「あんたがさっきの結界の主か…」
ジークが背後の気配に言った。
階段室の空気が冷え、張り詰めていくのを感じた。
大きな冷凍庫に迷い込んだように。
「ジーク、気を付けて。これは…ただの黒蝶なんてレベルじゃない…」
愛理が囁く。
「…この気配の特徴、この波は…黒瀧の一族の…」
愛理ははっと息を飲んだ。
重い鉄の非常扉が、ギギギギ…と軋み音を上げて開いていく。
「私達、黒瀧の…血を受けた…吸血鬼が…」
と、愛理の小さな囁き声が、コンクリート打ち放しの階段室に大きく響き渡る。
廊下から一筋の光が射し込む。
薄暗がりの階段室に、光とともに影が射す。
浮かび上がる人物の影が、ジークの目前へ伸びる。
ジークの背筋に悪寒が走った。
黒飛龍剣が自動的に、ぶわっと闇を噴き出した。
「あ、達紙せんせー」
中学生が呑気な声で、そいつを呼んだ。
白衣の女が、ジークの背後に立った。
ジークは完全に血の気を失い、打ちのめされた思いで、
「なんでおまえが、達紙先生なんだ? ルビー!?」
と、振り返った。
ルビーは艶然と微笑んだ。
「私が生きてると思わなかったでしょ? ジーク」
ジークはしばらく言葉が浮かばなかった。
頭が真っ白になった。
愛理は状況が理解出来なかった。
「ル、ルビーさん…。確か、忍人に血を大量に吸われて、大祐さんに胎児を食われて死んだ…んだよね…!?」
ヨッシーはぽかんとした。
「どうかした? 知り合いすか? 達紙るみ先生がルビーさん!?」
すると、患者ヨッシーに対し、医師ルビーは、
「結婚届はもう出してたんですよ。でも結婚式の直前に、新郎が湖で、事故で死んじゃって…」
と、とても楽しそうに答えた。
「あなたの苗字になりました。あなたの遺産も相続したわ、ジーク」
ルビーが悪魔的に囁いた。
ジークは呆然としていた。
教会で行われた、あのルビーの葬式は何だったのか。
何が何だか、もうわからない。
「俺は…忍人を殺して復讐したのに……、肝心のおまえが生きてたのか…?」
ジークは次の瞬間、戦慄した。




