ph 9 永遠の愛
phase 9 永遠の愛
1
シーツに血が飛び散った。
深由は痛みを感じなかった。
けれど、余りにも恐ろしく感じ、反射的にジークに抗った。
「ジークさん!! やめて!!」
深由は違和感だらけのジークの肩を掴み、押し戻そうとした。
鬼と化した彼は、溢れ出る血を飲み続けていた。
「イヤだ!! ジークさん、お願い! 元に戻ってよ!」
深由は妖気漂うジークに対し、嫌悪感を抱いた。
しかし、次第に意識が遠のいていった。
ジークは喉が潤うまで、味わうように血を飲み続けた。
この世に、こんなうまい飲み物は他にない。
彼は喜びと満足感に酔い痴れていく。
血に満足したら、ジークは次に腸を食いたくなった。
深由の白く滑らかな肌と、ぺたっと平らな腹部が、彼の眼を刺激した。
ジークは深由の首筋から、牙を引き抜いた。
噛まれた傷口より、血が激しく滴った。
深由の胸元で、血が赤い薔薇のように咲いて見えた。
ジークは長い舌で、トカゲのように口元を舐め回し、深由を見下ろす。
その途端、彼は雷に撃たれたように、大きく身を震わせた。
彼の眸に映ったのは、首筋から血を流し、胸元を朱に染めた女。
女の眸は堅く閉じられ、長い髪を乱し、息も微かである。
深由の姿は強烈なインパクトで、ジークの記憶を呼び覚ました。
あの日、ジークの足元に倒れていた婚約者。
白昼の惨劇。
眩い光を受け、白衣の白さが目に飛び込む。
その彼女の白衣に、血が大きな染みを広げていく。
首筋に残る、牙の跡。
ジークは気も狂わんばかりに絶叫した。
「うわああああ…!!」
彼は両手で眼を覆った。
血だらけの深由が、死んだ恋人に見えた。
ジークは喚き、狂人のように叫び散らした。
「なんで死んだ!? なんで死ななきゃならなかった!? 誰が殺したんだ!?」
彼の逆巻いていた髪が萎み、眸が褐色を取り戻した。
あの獣のようなジークは遠ざかり、傷付いた子供のように泣き出した。
「死なないでくれ、ルビー! お願いだ…。俺を一人にしないでくれ…」
ジークが深由を揺さぶった。
「…ジークさん…、何を言ってるの…?」
深由は半分意識がなくなりかけていたが、何となく、ジークの様子が変わったことに気付いた。
「こんなに誰かを好きになったのは、生まれて初めてだった…。おまえを失うぐらいなら、俺も死んでしまいたい…」
ジークは記憶と現実が重なって混乱し、泣きながら深由の頬を撫でた。
深由はぼんやりと、ジークの顔を見詰めていた。
「恋人を殺された時を思い出したって?」
朔夜が容赦のない言葉を浴びせた。
「感謝するんだな、その殺人犯に。おかげでおまえ、こっちの世界に戻って来れたみたいだな。もう一歩で、闇の側に完全に堕ちるとこだったけどな」
朔夜は横から、せせら笑って言った。
「愛のなせる業だよ」
愛理が、何も言い返せないジークの代わりに応えた。
朔夜はぷっと吹き出した。
「愛だって? 笑わせる。俺達にそんなものはない。この世に永遠の愛なんてない。そんなものは偽りだ」
朔夜にすぐさま、愛理が反論した。
「そんなことないよ。愛はある。ジークを見てよ、朔夜!」
二人がジークを振り返った。
ジークは何か祈っているような姿勢だった。
体が小刻みに震え、啜り泣いているのが感じられた。
彼は時々、嗚咽を漏らした。
最愛の人の最後が、彼の脳裏に生々しく蘇っていた。
「女々しいんだよ、野良犬が!」
朔夜が軽く、ジークの頭を蹴った。
ドゴッとすごい音がして、ジークはクローゼットまで吹っ飛び、厚い木製の扉を頭で突き破った。
朔夜はジークを嘲笑った。
「ちょうどよかったんだよ。女なんてな、愛する価値のない生き物だ。我儘で嫉妬深くて、やたら束縛してくるわりに、男に何かくれるわけじゃない。女の愛情は要求ばっかり。すごく疲れるんだよな!」
話す途中で、朔夜は愛理の方を向いた。
「愛理さんも、一緒。女は血を啜った途端に、邪悪に変わる。男の吸血鬼より、欲望に積極的で残忍だ。聞いてるか、ジーク。人間の女を愛しても、いずれ、餌にしか見えない日がやってくる…」
朔夜がクローゼットからジークを引き摺り出し、顔面を蹴り付けた。
愛理は腹を立てた。
「朔夜の被害妄想だよ。あんた、モテ過ぎて頭がおかしくなったんじゃない? 永遠の愛がないなんて、そんな悲し過ぎること言わないで。もし、そうだとしたら、私達は何を支えに永い時間を生きてけばいいの? 私のパパとママは、深く愛し合ってるよ」
「吸血鬼同士だから、理解し合えたんだよ。下等なゾンビくんには、そんな高尚な恋愛は無理」
朔夜が無抵抗のジークを、またも蹴り付けようとした。
ジークの顔は既に凸凹になり、血だらけだ。
「朔夜…、もうやめてよ!」
愛理が朔夜を止めようと駆け寄った。
だが、愛理より一歩早く、誰かがジークを庇った。
深由がいつの間にか、ベッドから降り、ふらつく体を盾にした。
彼女はよろめきながらジークの肩に手を回し、彼を抱きしめた。
ジークは心に巣食った闇と戦い、疲れきって動けなかった。
「深由ちゃん、帰ろー。車で送ってくから」
愛理が深由の服を拾い、彼女の側に投げた。
愛理の声を聞き、深由はびっくりしたような顔をした。
「えっ!? 弟さんじゃなくて…、妹さんだったんだ!?」
愛理は怒りも露わに、
「はぁ、何だってー!? もう一回、言ってみな!!」
と、顔をしかめ、低音で唸った。
2
二週間が過ぎた。
深由は極度の貧血状態だったから、実家に戻っていた。
深由は体調がよくなってから、ベイカフェを訪れた。
「おっ! いらっしゃい!」
店長が驚いて、深由を出迎えた。
彼女はまっすぐカウンターに来て、店長の真向いの椅子に座った。
「こんにちは…」
店長は嬉しそうに相好を崩し、
「今日はまだ、ジークさん、来てないんすよー。たぶん、隣りのボロマンションの105号室にいますよー」
と言った。
「今日はヨッシーさんに、お話が……」
深由は店長に告げ、バイトの向日葵からおしぼりを受け取った。
「えっ、俺ですかー!?」
店長が期待した次の瞬間、深由は溜息をついて、
「ジークさんのことで…」
と、彼をがっかりさせた。
向日葵は横でクククと笑い、深由のミルクティーを入れる支度をした。
店長は帽子を被り直し、照れ笑いでごまかした。
「そんなことだろーと思いましたよ。ジークさんの話っすね? あれから、どんな感じなんですかね?」
深由は木製のカウンターに頬杖を着き、正直に心境を語り出した。
「…すごく、気になっちゃうんです。ジークさんがとても危険な人だって、よくわかったんだけど…。近付かない方がいいってことも…。でも…」
店長は興奮して厨房側から乗り出した。
「へぇー、とても危険な人って…、それは俺もよーく知ってますよ!!」
彼は意味を、少し勘違いした。
深由は店長と向日葵の勘違いに気付かなかった。
ちょうど、カウンターには他に客もなく、深由は話し続けた。
「ジークさんには、忘れられない人がいるんです。とても悲劇的な終わり方をして…死に別れた彼女さんがいて。今も、その人だけを思ってて…」
深由はちょっと涙ぐみ、
「私、彼の傷が早く癒えるように、何とかしてあげたいなぁーって…。だけど、どうしたらいいか、全然わかんないし。余計なことなのかも…」
と、溜息を続けた。
店長は顎に生やした髭を、手で撫でた。
「ジークさんも、新しい恋をしたら立ち直れるんでしょうねぇー。でも、こればっかりはねぇー。深由ちゃん、ジークさんとどうなんです? 何にも芽生えて来ないんすか?」
深由は真っ赤になって、両手を振った。
「私は別に。ジークさんに食われかけて、ものすごく怖かったし。ちょっとそんな気分には…」
「食われかけた!?」
店長と向日葵が声を揃え、叫んだ。
二人は意味を誤解した。
「ジークさんて、ケダモノじゃない? よっぽど我慢できなかったのかな!?」
向日葵がジークを非難した。
「いやー、向日葵。男って、そういうふうに衝動的に、ググッと来る時がどうしてもあるんだよ」
店長はわけわからないことを言って、ジークを庇った。
口を滑らせた深由は焦っていた。
「今のは、ナイショにして下さい。食われかけたなんて、冗談です。アハハ…」
焦りまくってる深由の背後でドアが開き、ジークがカフェに入ってきた。
ジークはいくつも持っている帽子の一つを被り、カジュアルな格好で天然石の数珠を付けていた。
シルバーのアクセサリーは見えなかった。
あれから目の下が黒ずんで、古くなった刺青みたいになっていた。
目つきが前にも増して悪くなり、何だか近寄りがたくなった。
「ジークさん…。雰囲気変わったね…」
深由が呟いた。
「そう? どこも変わってないと思うけど」
店長や向日葵は、ジークの変貌に気付かないようだった。
店長はニヤニヤしながら、張り切ってジークに絡んだ。
「ジークさん、もう、ほんっとにヤバい人っすねー。弟とか嘘ついて、女の子と一緒に住んでるし。こんな可愛い女の子を泣かせちゃうしー」
「俺がいつ、愛理を弟って言ったんだよ!? けど、弟みてーなもんだよ。間違っても、女とは思って見てねーからな」
ジークが店長に言い返し、後ろを振り向いた。
後から、愛理が店に入ってきた。
ジークは深由の隣りの席に座り、
「よぉー。もう大丈夫?」
と、体調を気遣った。
深由はただ、頷いた。
カウンターで、愛理が店長に言った。
「私は弟じゃなくてー、おじいちゃんにジークのことを見張るように頼まれただけですからー。家賃の取り立て屋みたいなもんです。私が食べた分は、全部彼が払うことになってますから!」
ジークは蒼くなった。
「俺を破産させる気だろ!? この大食い女! 金持ちの孫のくせしやがって。ヨッシー、こいつのパスタはニンニク大盛りで頼むよ。好物らしいから」
ジークが店長にペペロンチーノを二つ頼んだ。
深由はやりとりを聞き、ジークと愛理がとても仲良さそうなので、羨ましくなった。
「深由ちゃん。俺、料理なら教えてあげられますよ。パスタとか、デザートとか」
店長が提案した。
ジークに飯を作ってやったらどうか、と言っている。
「無理です。料理なんか。私、キャベツの千切りも出来ないのに」
深由は残念そうに答え、隣りに座るジークの横顔を見詰めた。
3
夕方、愛理がベイカフェに、ジークを誘った。
「小腹が空いたから、隣りのカフェで何か食べようよ」
「小腹が? とか言って、大盛りのパスタ食うんだろ?」
ジークは的確に当てて見せた。
二人が店に入った時、先に深由がカウンター席にいた。
ジークは深由を見て、口の中にじゅわっと唾が湧くのを感じた。
二回味わった血の味が、条件反射のように唾を湧かせた。
ジークは店長と話しながら、深由の隣りに座った。
彼はさりげなく、視線を彼女の首筋の痛々しい牙跡に向けた。
同情と申し訳なさと、そして食欲にかられ、ジークは自己嫌悪した。
朔夜が言った通り、深由が家畜か餌に見えた。
目の前に吊るされたサーロインステーキのように、深由の白い肌が思い出され、その味がハッキリと想像出来るのだ。
隣りに座っていると、深由の甘い匂いが漂ってくるようで、密かにジークは苛々した。
彼はあれからずっと、体内に起きた異変と戦っていた。
ひもじい。
腹が減って、堪らない。
見透かすように、愛理が、
「ジーク、お腹が空いたみたいだね…」
と笑う。
ジークは血への渇望をごまかす為に、ペペロンチーノで胃袋を無理やり膨らますことに決めた。
店長が、
「ジークさん。また痩せたんじゃないすか? ちゃんと食べてます?」
と尋ねた。
「食事してるよ。食っても食っても、腹が満たされねーんだけど。腹ペコで頭がクラクラする…」
ジークは実際に、何度も若い女性を襲っていた。
少しずつ血をかき集めて飲むことは、効率が悪い。
誰も殺さないように、そんなことを考えている自分が、馬鹿みたいに思えた。
今、隣りに人間の若い女がいると思うと、ジークの脳内で、闇がごそごそ蠢き始めた。
思考が再び、黒く染められていく気がした。
愛理に全て読み取られそうなので、彼も汚れた思考を抑え込もうとする。
しかし、また真っ黒な、歪な闇が蠢き始める。
脳内で、闇の血がジークに、
「何とか言いくるめて、その女の血を飲んじゃえよ。今度こそ、全部。一息にだ」
と唆す。
「くそー」
ジークは声に出して言った。
目の前に深由がいると、苦しくなった。
愛理が様子を見かねて言った。
「うまく闇の力をコントロール出来るようにならないとね。今はジークが抑えてても、そのうち、支配されることだって有り得るから」
ジークは実感として、その忠告を聞き入れた。
コントロール出来なければ、自分を失った大祐の二の舞というわけだ。
愛理は今朝のニュースについて話した。
「この街でも、いよいよ自警団が結成されたよ。街の住人達は、吸血鬼の噂は信じなくても、夜回りはした方がいいだろうと考えた。このままだと、私達の生活範囲も狭められてくるよね…」
遂に来たと、ジークは思った。
そのうち、人間達が吸血鬼狩りを始めるかも知れない。
「とりあえず、今夜、朔夜達が蝶人を捕獲するよ。だからね、ジークは今回、黙って見ててほしいんだ。まあ、彼に任せてほしいの」
「また朔夜かよ」
ジークはパスタの茹で上がるのを待つ間、タバコを吸って、空腹を我慢した。
「俺達は特等席から見せてもらおうぜ」
悔し紛れに、ジークが言った。
「いいよ。じゃ、今夜、出掛けようか」
愛理が美味しそうに、グラスのワインを飲んだ。
4
食後、深由はジーク達と一緒に、カフェを出た。
「送ってこうか。深由ちゃん」
ジークが車のキーを、深由に見せた。
深由は頭を左右に振った。
「いらない。近いから」
「俺が怪我させたんだし…。俺がこんなことに巻き込んだから…」
ジークは責任を感じているようだった。
「私は…ジークさんが…この世の存在じゃないって知ってて、この店まで来たんだから…。怪我をしたのは、私自身のせい」
深由は下唇を噛んだ。
「もう、来ない方がいいよ。俺は自制できなくて、また襲ってしまうかも知れないから」
ジークが言うと、深由は眸を潤ませ、
「私、バカだから。また来るかも」
と呟くなり、飲み屋通りへ飛び出していった。
ジークが何か呟くより早く、愛理が、
「キュンと来るねー。来たでしょ? ズキューン、来ちゃったでしょ!?」
とワクワクしながら言った。
「チッ。何を期待してんの?」
ジークは愛理が嬉しそうなことに、腹を立てた。
ジークがボロSUVにキーを差し、エンジンを始動させた。
愛理が帽子を斜めに被り、シートベルトを緩めに締め、足をシートに載せる。
彼女はご機嫌で、車内にアップテンポの音楽を流した。
ジークが左手でハンドルを握り、右手の先を見ずに胸ポケットからタバコを取り出し、口にくわえた。
すかさず、タバコが嫌いな愛理は鼻を摘む。
嗅覚が犬並みの愛理には、タバコが臭くて煙たくて仕方ない。
ジークの運転は、いささか荒っぽい。
車がかなりの年代物という上に、タイヤも減っているようで、すぐに嫌な音が鳴る。
車はガタガタ揺れが激しく、シートが硬くて座り心地も悪かった。
愛理は気にせずに、歌を口ずさんだ。
愛理はとても歌がうまかった。
彼女の張りのある澄んだ声が、BGMのように流れていた。
ウィンドーの外は暗く、対向車のヘッドライトのハイビームだけが、やけに眩しかった。
大通りの明るい賑わいの向こう、黒いガスに霞むように、街のシンボルタワーが見えた。
タワーの頂点で赤いライトが点滅している。
「なんで女は、朔夜みたいな顔だけの男がいいのかなぁー!?」
ジークは前を見ながら、呟いた。
「気になる? 朔夜は他にも、経済力があってアーチストっていう、モテる男の条件が揃ってるんだよ」
愛理は、いつもの分の嫌味を返したつもりだった。
「あいつ、本気でムカつくよなー」
ジークが吐き捨てた。
彼は吸血鬼になって以来、仕事も地位も預金も失った。
反対に、何もかも持ち合わせ、裕福な朔夜。
「で、朔夜はどこで虫取り網振り回して、でかい蝶を捕えようとしてるんの?」
ジークはとても不機嫌だった。
「朔夜は一番気配の薄いところに潜んで、蜘蛛の巣みたいな網を広げて、蝶人を計画的に捕獲しようとしてるの」
愛理は波の網目を追っていく。
「朔夜は仲間達と波を織り込んで、街を覆うような網を張った。黒い蝶を生け捕る為に。その網に、今ちょうど、蝶人が引っ掛かりそうだよ」
愛理は遠くミッドタウンの方角を眺め、その光景を楽しそうに眺めた。
彼女は数百メートル先の、ビルの向こう側を透かし見ていた。
「ジーク。そこを右に曲がって」
愛理がナビを務める。
「おう」
ジークがハンドルを回し続け、くわえたままのタバコから煙を吐き出した。