ph 84 闇の傀儡
phase 84 闇の傀儡
1
忍佐加は思い出したくない記憶に触れている。
ジークは傍観するように、少し離れたところから彼の記憶の映像を眺めている。
深淵にいたのは父ではなく、深淵に完全に支配された闇の塊だった。
闇で出来た人形のようなものだった。
闇が意志を持とうとして、一人の人間を手に入れたのだ。
忍佐加は今、闇と相対していた。
闇が望むものは、世界の支配ではなく、終焉だった。
闇が生み出そうとしているのは、繁栄ではなく、死だった。
「父上が…まさか、こんな…」
忍佐加はわけがわからなくなって混乱した。
恐怖が彼を締め付けた。
真の恐怖とは、全く理解しがたいもの、完全なる狂気が身近に存在することであった。
黒瀧の二つに割れた頭は、すっと中央に寄り添って、一つに戻った。
ひびも傷も残さずに完全に修復され、斧はひとりでに抜け落ちた。
「長く生きてきたのだ、忍佐加…。我々は光と別れてから、ずっと孤独の闇を生き抜いてきた…」
深淵を震わす低い声で、黒瀧が囁いた。
「忍佐加…、吸血鬼の定めとは…、血を吸って生きることや、朝日を恐れることではない…。
我々は今後、光を潰していく…。この世を闇だけで覆い尽くす為…」
黒瀧の言葉に、忍佐加は頭を振って拒絶しながら、後退した。
「父上、弥一郎殿は血を濃くすることで古代の吸血鬼を復活させると言ってましたよ。そうすれば我々も、劣化した種族など言われなくなるのでは?」
忍佐加が言い返し、来た道を引き返そうとしている。
黒瀧は追い詰めるように、
「劣化は避けられぬ。人間も吸血鬼も、ある時を境に進化しなくなったのだ。世界の頂点に立ったものは、その時点から劣化が始まる。古代の吸血鬼のような爆発的なチカラを持つ者は、百人に一人しか生まれなくなり、千人に一人に減り、今や、万人に一人しか生まれない」
と、先回りした。
「忍佐加。万人に一人の誕生を待つことは、一族の滅亡を待つに等しい。いや、一族など、最初から意味ないよ。我々は全体でたった一つの血、ダーク、なんだ…」
黒瀧はその狂気を見せ始めた。
端正な顔が歪み、ぶるぶると震えて、皺が寄っていった。
唐突に、隠されていた年齢が現れるように、黒瀧が老い、眸の色が薄くなっていった。
忍佐加の前に、狂った老人のなれの果てが居た。
「我々の血の契約書を見よ。我々は全体で一つの命。不滅であり、永遠であり、宇宙そのものだ。個々ではない。おまえと私の間柄でさえ、親子ではなく、同一の存在なのだ。そこにどんな自我があろうが関係ない。おまえは私なのだ…」
黒瀧が息子を指差した。
忍佐加は必死で首を横に振った。
「違います、父上。私達は…決して同一ではありません」
彼は運命に抵抗した。
「忍佐加。おまえの自我は無意味だ。そんなものは、私に与えられ、組み込まれた情報に過ぎない。真実として、おまえは私の血から作り出された、私自身の複製だ。おまえはこれから、私の思う通りに動くだろう…」
黒瀧が未来の方向に視線を向けた。
「忍佐加、おまえはこれから私に逆らおうとするだろう。それすら、私の意志によるのだ。おまえは自ら滅びの道を選ぶ。おまえという選択肢が、私にこれからの一族の在り方を教えてくれるだろう。おまえの死を越えて、私がこの一族をうまく一つにまとめ上げていく…。おまえはその為の石だ。おまえは実にちょうど良い踏石なんだよ」
黒瀧は狂った言葉を浴びせ続けた。
「私は…吸血鬼にもっとまっとうな未来を与えたいと思います。当たり前に生存し、闇の意志に縛られぬ未来を…」
忍佐加が言い張った時、彼の心臓で、チクリと痛みが起きた。
心臓に針が刺さるみたいに。
「うかつなことを言うと、ラインが切れるぞ」
「私が死ぬのは構いません。しかし、父上は…これから先、どんな未来に向かって歩いて行かれるのですか?」
忍佐加の頬に涙が溢れた。
心臓の痛みが増していく。
「忍佐加。私は疲れた。誰かに世代交代せねばならぬ。後三百年もすれば、私の身は朽ちて、闇に溶けていく…。私は誰かのカラダを必要としている。抜け殻の如き…カラダを…。憑代というものを……」
闇そのものが、黒瀧の口を借りて発言した。
黒瀧が見せびらかすように、上着の前を広げた。
「あっ!!」
黒瀧の胸の奥には、あるはずの心臓がなかった。
心臓一つ分の空間にしてはだだっ広く、深淵を覗き込むように底が深く感じられた。
おぞましいものを見てしまった忍佐加は顔を背けた…。
彼は死ぬまで悪夢にうなされることになる。
闇に巣食われた懐に、おぞましい悪虫がぞわぞわと這い回っていた。
腐敗した肉片のこびりついた肋骨、その奥から這い出た悪虫が一匹、ぽとりと黒瀧の手に落ちた。
ジークのカラダを借りて復活した忍佐加の怨霊は、そこまで全て思い出し、恐怖に震えた。
「思い出すのもおぞましい…。穢れた虫が…」
忍佐加は吐き気を催した。
記憶を目撃していたジークも、悪寒の為に腕を抱えた。
記憶は続く。
黒瀧が指先で忍佐加の口元に触れ、その指を辿って、悪虫が這っていく。
忍佐加は凍りついたように動けない。
震える彼の唇の奥へ、悪虫が潜り込む。
「うわぁっ!!」
記憶の再現を見ていたジークが悲鳴を上げた。
忍佐加は悪臭と苦味を感じた。
悪虫は彼の喉へ飲み込まれた。
吐こうとして、彼はその場にしゃがみ込んだ。
「その虫はおまえの死を象徴するものだ。おまえは遠からず死ぬ。おまえの最も望まぬ死に方を、与えてくれるだろう」
黒瀧が嘲笑した。
忍佐加は何度も吐いたが、虫は出なかった。
彼は父の言葉から、何となく自分の死ぬ瞬間を連想してしまった。
武士としては最も不名誉な、首を落とされる死に方だった。
忍佐加は四百年前の記憶に耐え切れなくなり、自分の身を短剣で抉って、悪夢から目覚めた。
ジークの意識も、現実に帰ってきた。
「兄上…。遂に、父上を殺す日が来たのですね…」
忍佐加が忍人に言った。
「そうだよ…。二人であいつを討とう。忍佐加、その黒飛龍剣で…」
忍人が忍佐加の腕を引き、黒瀧の部屋のドアを指した。
ドアからは明かりが漏れている。
忍佐加は兄を見て、
「父のカラダは三百年で朽ちるはずだった。既に百年超過しています。おかしい…」
と、呟いた。
ジークは忍佐加と自我を交替して、脳内にいた。
二つの眼孔から世界を覗くような感覚で、忍人と忍佐加の会話を聞いている。
「この世にいる父は、既にダミーだ。本体は深淵にある。醜悪な残骸に変わり果てているだろうけど…」
忍人が推測で答えた。
3
クレイの結界では、勝敗が決しつつあった。
ナオは鳴海を切り裂き、鳴海は細切れになって崩れた。
そこに香が戻って来た。
「今度こそ、本物の香か!?」
「ナオさん!!」
香は生きて再会できたことを、心底からは喜べなかった。
ナオはクレイの毒にやられて、顔と体が半分以上腐っていた。
細胞が壊死していく苦しみに、ナオは精神力で戦っている。
「大丈夫だ、香…。俺に触るなよ…」
ナオは刀を杖代わりにして立っていた。
立ったまま死にそうなほどの重体だ。
香は唾を飲み込み、
「ナオさんがいよいよという時には、楽にして差し上げますよ」
と、言った。
ナオはふっと笑い、
「バカ。俺は早く、朔夜さんとこに行きたいんだよ。その為にはまず、隠れてるクレイを引き摺り出さなきゃならない」
と、自分の波を放って、クレイの気配を探った。
「鷹詩は仕留めました。クレイの部下も、もう残ってないでしょ? 本人が出てくるしかありません。ナオさんと私には、幻術は通じませんから」
香は冷静に分析した。
「このアメーバみたいな、筋子みたいなヤツがなぁー…」
ナオは自分の内側から溢れて来る、薄赤いプツプツを睨んだ。
「アメーバみたいに見えますけど、確かにクレイの波を感じますね…」
香がじっと観察した。
邪悪な意志が、粘っこくナオに憑りついている。
周辺は木々や草の焦げた匂いがしていた。
夜明けの藍色の空の下、鬱蒼としていた密林が焼けて開けていた。
空気が澱んでいて、結界も縮んできたことが感じられる。
「もう誰も影武者にはなれない。操れる相手はない。出て来いよ、クレイ…」
ナオが湿地の端に立った。
水面に映るナオの影が揺らめき、クレイの顔に変わった。
「ふふふふ…」
クレイの含み笑いが聞こえた。
「やってくれましたね。私の腹が焼けて、ヒリヒリしてますよ。鷹詩と鳴海の命なんて、どうでもいいけど…、これって面倒臭い展開なんですよねぇー」
クレイが水中の幻を通し、喋った。
「どうして簡単にくたばってくれないんです? その毒、効くでしょう? ナオさん、それ、根性で頑張ってるんですか? そういうの、うざい。迷惑なんですけどー」
ナオは幻覚を見下ろした。
「この場に及んで、文句かよ。うざいのはおまえだよ」
すると、クレイは、
「じゃ、この辺で今日は終わりにしません? 私、忍人様がダークランドに入るまでの時間は稼ぎ切りましたから。圭太さんも朔夜さんも、亡くなられたみたいですしー」
と、大笑いした。
「なっ…!! 朔夜さんが死ぬかよ!! 圭太はともかく…」
ナオは驚いて、舌打ちした。
「卑怯な幻術師、クレイ。おまえの言うことなんか、信じるか!!」
「ご自由に。私、嘘は付いてませんよ」
クレイは水の中を泳ぎ、沼の反対側に魚となって逃げていった。
「待てよ、クレイ!!」
ナオが鬼美津の切先に炎を点し、逃げる魚に照準を合わそうとした。
「ナオさん!! 後ろです!!」
香が飛び込んだ。
香以外なら、誰であっても間に合わなかった。
一瞬を長い時間のように繋ぐ香だからこそ間に合い、ナオの危機を救った。
ナオは振り向くより先に、背中に香がドンとぶつかるのを感じた。
ナオに香の体重が全て落ちて来て、彼は片膝を沼地に着いた。
香の左手がだらりと、ナオの目の前に垂れた。
「か…お…る…!?」
「グ八ッ…」
カエルの鳴くような声がした。
クレイの声らしいが?
香がクレイを刀で刺し貫き、クレイが香の胸をぶち抜いて、その指先がナオの背中を掴んだ。
「ナオさ…。早く…朔夜さんのとこ…へ…」
香が突き出した刀の刃を捩じり、クレイの傷口を抉った。
心臓のラインが切断され、クレイは激しく痙攣した。
その痙攣がナオにまで伝わった。
「香!!」
ナオの背中から香がずり落ち、沼の水に浸かった。
「香!!」
ナオがもう一度叫んだ。
香は水の中で美しい眸を閉じた。
その瞬間、クレイの死によって結界が消え、沼が消えた。
香は風に乗って、散っていった。
ナオはクレイの毒が抜け、半身・半顔が腐った状態で生き残った。
彼は嗚咽し、香が唯一残した刀の柄を握り締めた。
「香…。バカ、何やってんだよ…。おまえは……俺の一番の親友なんだろう…!? なんで俺を置いてった!?」
ナオが床を叩いた。
そこは黒瀧の別荘の三階ホール。
クレイの結界が全て消え失せ、暗い場所でジークと忍人が喋っていた。
朔夜の気配も、圭太の気配もなかった。
4
「ナオ!? 生きてたのか!?」
ジークが忍佐加と交替し、口を開いた。
ナオはポロポロ泣いていた。
ジークはナオをハグして、
「行こう。俺達だけで先へ進もう。今度こそ、ちゃんとおまえにも事情を話す」
と、肩越しに言った。
「ジーク、朔夜さんは…」
「深淵の一番底で待ってるよ」
ジークは呆然としているナオに話した。
「ナオ、おまえらを巻き込みたくなかったんだ。絶対、黒瀧のジイサンを守るって言うに決まってるし。黒瀧のジイサンは、もう長じゃねーんだよ。ただの深淵の傀儡なんだ。本当は、一族みんなを殺そうとしてる」
ジークが打ち明けた。
「ナオ、ジイサンは混沌としてる。不安定な闇そのものだ。俺達は存在を脅かされてる。吸血鬼の未来がなくなるんだ。ジイサンは光を潰す為に動いている」
「どういう意味なんだ!?」
ナオがジークに尋ねた。
「ゆっくり説明してる暇がねーよ。歩きながら話すわ」
彼はナオに肩を貸し、無理やり歩かせた。
「全部で四人か。カラダは三人だけど、魂は四人分だ」
忍人が数えた。
「ヘルが先に着いてるだろ。だから、五人だ」
ジークが答えた。
ジークが部屋に飛び込み、その場を眺め回した。
古典的で貴族的な家具の他、特に何もない。
黒瀧はいなかった。
テーブルには飲みかけの紅茶と、ティーポット。
椅子は軽く引いたままだ。
カーテンは厚く二重に閉ざされ、古い柱時計がコチコチ時を刻む音が響く。
ジークは忍佐加の記憶に従った。
「実体を伴ったまま、異界の深淵へ降る道だ」
ジークが大きな鏡を黒飛龍剣で粉砕した。
暗黒の空間が覗いた。
狭苦しいトンネルが、深淵に向かって下っていく。
忍人が全員に告げた。
「ここから先、弱味は全て置いて行け。無感動で、執着が何もない心じゃないと、深淵の闇に食われる」
ナオが深呼吸した。
香や朔夜や圭太に対する思いを、断ち切らなければならなかった。
ジークも覚悟を決めた。
ジークの内なる忍佐加も、とうに覚悟を決めていた。
忍人も深く長い息を吐き出した。
「誰が殺られかけても、助け合うことは不要だ。情けがあったら、深淵から生きて出られない」
忍人が壁を跨ぎ、鏡の中へ入った。
「そりゃそーだ。俺が死んでも、あんたは今月の家賃だけ払っといてくれ」
ジークが続いた。
「こんな命、今更惜しくないさ」
ナオが追った。
暗い道に、僻み妬み、憎しみ、怨み、あらゆる負の感情が満ち満ちてきた。




