ph 82 命懸けの…
phase 82 命懸けの…
1
湿地の濃い葉陰に、殺意が潜んでいる。
ナオと香とその仲間数人は、クレイの結界に引き込まれていた。
汗が吹き出すほどの高い湿度を感じる。
足元はぬかるみで、動きを鈍らせる。
唐突に崖や沼が現れる。
この視覚は全て、罠だ。
クレイの結界では、隙を見せた者が精気を抜き取られていく。
ナオと香はクレイの気配を探った。
クレイは最初、完全に息を潜めていた。
「幻術のクレイが相手だ。見たものを信じるな」
ナオが若手に指示した。
しかし、ある者は底なし沼に沈んだ。
ある者は蠢く植物群に捕らわれ、血と養分を抜かれてシワシワの死体になった。
パニックを起こし、命を落としていく。
ナオ達は分断され、苦戦した。
ナオはふと気付いた。
腹心の部下の、香がいない。
「香ー!?」
ナオが周囲を見回した。
辺りはクレイの創作した世界。
クレイの思い通りになる迷路だ。
ナオは一番年少の部下と二人きりになった。
「離れるなよ」
彼は若い吸血鬼の緊張した面持ちを見た。
ナオは攻撃に備え、耳を澄ました。
言うならば、ナオとクレイは正反対のタイプだった。
義理と誠の侍ナオと、狡賢く現代的なクレイ。
ナオが剣術、柔術を得意とするのに、クレイは接近戦を避けて、結界で罠を張っている。
でも、罠だけではナオを仕留められない。
「ナオさん、これ、何ですか!?」
若い吸血鬼が手の汚れを服で拭った。
汚れは取れず、内出血のように掌全体に広がっていく。
「心配するな、レン。クレイの見せる幻覚だよ」
ナオが言い聞かせる。
「えっ、でも…。何か熱くなってきたんですけど」
レンはおろおろして、何度も手を拭った。
手の中央に潰瘍のように孔が開き、血が滴った。
アメーバみたいな、正体不明のものが溢れ、蠢いた。
「うわっ、これって…!!」
レンは気持ち悪さにゾッとした。
薄赤い筋子のようなブツブツしたものが流れ出し、太腿の上を滑り落ちた。
手の皮膚は赤紫色に変わり、腕全体に広がった。
慌てたレンは、自分の右腕を切り落とした。
「バカ!! 何やってんだ!!」
ナオが叱った。
レンは冷静になれず、肩口から溢れ出した塊に悲鳴を上げた。
「レン!! 落ち着け!! ただの幻覚だよ!!」
ナオがレンの腕を掴んで、目を正面から見た。
「熱いんです!! 熱いものが浸透して、僕の体を抉っていく!! うわぁー」
レンはヨダレを垂らし、喚いた。
レンは自分に対し、刀を大振りした。
それから、ナオにも斬りかかってきた。
「ナオさん、僕はもうダメです!! やられました!! クレイの波が僕を浸食していく!!」
ナオは手加減しながら、乱打に応じた。
滅茶苦茶な相手を怪我させずにおとなしくさせることは、容易でもない。
「落ち着けって、レンー!!」
ナオの足が、沼に捉まった。
「くぅ…」
レンが左手で振るう刀が、ナオの鍔の上に伸し掛かる。
「ナオさん、僕を斬って下さい!! 僕はもう…うう…!」
レンが口からアメーバ状のものを吐き、ナオの顔にかかった。
ナオは片目を閉じて避け、手の甲で拭った。
急に、顔の半分と片手が熱くなった。
「こんなのは幻術の初歩だよ。しっかりしろ、レンー!!」
ナオが叫んでも、レンはすごい形相で斬りかかってきた。
「俺は仲間を殺せない…。だから、クレイは仲間に俺を殺させようってのか…」
背水の陣で、ナオが呟く。
レンは狂ったように打ち込んでくる。
ナオは金属音を響かせながら、確実に払い返す。
そこに、はぐれていた香が戻ってきた。
「レン、どうしてナオさんに斬りかかってる?」
香は急いで割って入った。
ナオは、助かった、と思った。
香が笑顔で、ナオに斬りかかってきた。
「香…!?」
「ナオさん…かと思ったら、ああ。クレイさんでしたか!?」
跳ね返された香が、素早く打ち込んでくる。
香はレンより遥かに剣速が速く、手練れである。
香には、レンと打ち合うナオがクレイに見えた。
ナオの顔と腕には、クレイの波が濃厚に感じられた。
「おまえこそ…、もしかしてクレイか!?」
ナオは本気で打ち返した。
しかし、すぐ迷って、
「本物の香だとしたら、戦うのは馬鹿げてる。俺の教えた通りの使い方じゃないか!?」
と、手加減して切り結んだ。
二人は互いに迷い、動きを停めた。
「どっちなんですか? ナオさん? クレイ?」
香が尋ねる。
「おまえこそ。はぐれてる間に入れ替わったんじゃないだろうな!? 香だっていう証拠を見せろよ!!」
ナオが構えたまま、叫んだ。
「いいですよ。証拠はこれ。人間だった私が死ぬ時、ナオさんが斬ってくれた傷跡が今も残ってますよ」
香が首の後ろを見せた。
「死の直前の苦しみから救ってくれたナオさんに感謝して、私はこの傷だけは残したんですから」
「おまえを…俺の血で蘇らせてしまった。恨んでると言ってたな」
ナオは相手が本物の香だと、確信して刀を鞘に納めた。
香が頷いた。
「その件に関しましては…、恨まずにはいられません。私はその後七十年も、修羅の世界に引きずり込まれてきたわけですから」
香が音もなく近寄り、ズバッと斬り上げた。
ナオの脚は膝まで沼に取られて、動けなかった。
彼は喉の奥が渇くのを感じた。
レンが香に斬られて、沼に沈んだ。
「ナオさん、私の死ぬ時にあなたがしたのと同じことですよ。レンは骨の髄までクレイに蝕まれた。長く苦しませるのは、忍びないです」
香は冷徹に言った。
膝がカクカク震えるナオの隣りで、レンがジュウジュウ煙を上げて、溶けていく。
「ナオさん…。まだ私がクレイだと思いますか?」
香が微笑みながら、手を差し出した。
ナオは沼地から陸へ足を一歩かけ、香の手に掴まった。
「思わないよ。おまえは香だ。その冷徹さは間違いない…」
ナオが安心して、香の手に体重をかけた瞬間。
香の右手の中に見えない刀が生じ、ナオの右手内部から右腕の中心を刺し貫き、肺まで達した。
「ぶっ…」
ナオが込み上がる血にむせた。
2
ナオは崩れながら、香が微笑むのを見た。
「誰だ…? おまえは…?」
ナオの問いかけに、
「死んで下さい、ナオさん。あなたも既に蝕まれている」
と、香が刃を横に切り開いた。
ナオの右腕全体が縦に割かれ、指が飛んだ。
ナオは膝を着き、左手で抜刀した。
「香…じゃないのか。香しか知らないはずの話を知ってたのに…」
彼は悔しがった。
「誰でもいいでしょ? とりあえず、私はクレイ。そう名乗っておきましょうか?」
香が香の顔のまま、名乗った。
ナオは鬼美津の刃先に、炎を噴いた。
「クレイ…。その幻術を焼き尽くしてやる。あんまり俺をナメないでくれ」
ナオが駆け出した。
ナオは走りながら火の球を飛ばし、鬼美津を振るった。
密林の枝葉が飛び、木々が倒れた。
薄暗かった空間に光が射し込み、全てに光と影の境が出来る。
足元に底なし沼が口を開いた。
ナオは沼を飛び越え、崖を飛び越え、割れた地面を越えた。
「うぉぉお!!」
ナオが怒涛の波のように走り抜けながら、木々を斬り倒していった。
密林に火が放たれ、ナオを中心にして外向きに燃え広がっていった。
ナオの顔が赤紫に転じ、鼻孔から薄赤いアメーバが垂れてきた。
全身に火が点いたように熱かった。
ナオは覚醒し、全身にチカラを注ぎ込んで、毒素を焼こうとした。
香は倒れていく木々の上を敏捷に跳ね、鹿のようにしなやかに駆け抜けた。
「あはは、ナオさん。楽しいですねぇー。こうやって、香の師範であったナオさんと戦えるなんて…、とても光栄ですよ」
「黙れ!!」
ナオは香に向かって火焔を飛ばした。
香は刃で受け流し、ナオに迫った。
ナオは結界全体に火を放ち、クレイを探した。
香はナオの迷いに付け込むように、本気の攻撃を仕掛けてきた。
ナオと香が激突した。
紅蓮の炎と、青い雷光がぶつかった。
ぱちぱちと火花が散り、香の顔半分が吹き飛んだ。
美しい顔の残り半分は歪み、別のカタチになった。
「その顔…。おまえ、鳴海だったのか……」
ナオが唸った。
香ではなく、クレイの部下の鳴海が、雷光の弓を構えていた。
「ナオさん…。香は今頃、鷹詩と戦って殺されてる…」
鳴海は荒い息をして、焼け爛れた半身を手で押えた。
「クレイは俺と直接やり合わないで…、部下を影武者に仕立てたのか…。あいつ、本当に卑怯な糞野郎だな…」
ナオの火焔が一層燃え上がった。
彼の皮膚が裂け、アメーバがドロドロ流れ出た。
「ダメージは俺といい勝負だね、ナオさん」
鳴海が脳味噌を零し、片目と片側の歯で嗤った。
3
その頃、香は同じ結界の中の、別の場所にいた。
香の視界は突然真っ暗になって、逆さまに落下する感覚になった。
落とし穴に落ちるようだった。
「ナオさんと引き離された…」
香は冷静に思った。
香は古井戸のような、狭い穴の底に着地した。
直径が2メートルない。
壁は濡れた粘土状で、よく滑る。足場にはならない。
すぐに誰かが出現した。
壁の中から躍り出て、香の右手を掴んだのは、クレイの片腕、鷹詩だった。
「香さん、そろそろ本気出しましょーよ!!」
鷹詩が逃げ場のない場所で、香を蹴ってきた。
コンクリートの壁を砕く脚力で、香の華奢な体を狙う。
香はぴょん、と身軽に飛び上がって蹴りを避け、軽く宙返りして鷹詩の手首を捩じり切った。
すごく軽い動きだった。
「うわぁ!!」
鷹詩は手首をもがれ、多少焦った。
でも、元より覚悟の上だった。
「あんたが抜群に速くて、軽いことはよく知ってる」
鷹詩は井戸底のデスマッチを楽しむことにした。
香は粘土状の壁が足場にならなくても、踏板のようにうまく使って、狭い空間を跳ね続けた。
鷹詩は拳や蹴りを躱され、粘土の壁を殴った。
真っ暗で、二人の息使いしか聞こえなかった。
鷹詩が香の襟を掴み、もしくは腕を取って、互いに場所を入れ替わりながら格闘を続ける。
香はどこからともなく、両手に短剣を取り出し、琉球古武術のサイのように使う。
刃が外を向いて鷹詩の腹を抉り、肩を斬り、柄側が外を向いて鷹詩の顎を砕いた。
「あんた、すばしこいなぁー!! 速ぇー」
鷹詩は血をだらだら流しながら、
「あんたがこんなに接近戦が得意とは知らなかったよ。すげー楽しい」
と、言った。
「なぁ、香さん。俺達は似てる。俺達は主人の忠実な下僕で、いつも汚れ仕事をやらされてきた。影の仕事だ。暗殺や、死体の片付け…、警察をうまく丸め込むこと…。俺達は主人の親衛隊みたいなもので、いつも身を盾にして、血を流してきたんだ…」
鷹詩が暗闇で囁いた。
「似てませんね」
香は否定した。
「そうかな? 俺はクレイさんが好きだ。滅茶苦茶だけど、面白い人だ。あんたの好きなナオさんは、ちょこっとクソ真面目過ぎるだろ?」
「そこがいいんですよ」
香は目尻を吊り上げ、鷹詩を睨んだ。
「カウントダウンだ。…次の攻撃がラストになるかも知れない…。俺はありったけを出す。これはそういうゲーム…」
鷹詩が心の中で秒読みを開始した。
香は鷹詩の気配に集中した。
鷹詩は粘土の壁に最大限の気を放った。
壁が爆発して膨らみ、井戸の縦穴を埋没させた。
鷹詩はまた粘土の壁と同化するように、するっと外部へ逃れ出た。
香がどんなに速かろうと、ここはクレイが支配する結界だ。
いくら何でも逃れようがないと、鷹詩は思った。
粘土の急激な膨らみは、何トンもの圧力で竪穴の隙間を埋めた。
鷹詩は地上に出て、更に地面が割れるほどに、地下に向かって圧力を加えた。
鷹詩の波が地を突き抜け、地震のように鳴り響いた。
地面が海のように波立ち、山や森がごうごう唸って崩れた。
鷹詩は背中に冷たい気配が走るのを感じた。
「え、まさか…」
鷹詩が蒼褪めた。
彼の背中をバリバリと割って、彼の内側から香が飛び出してきた。
香に割られた鷹詩の背骨と肩の筋肉から、血が噴水のように噴き上がった。
「どうして俺の中を通過して出て来るんだ…!?」
鷹詩には理解出来なかった。
香は鷹詩の肩の上で短剣を振りかざし、相手の心臓のラインを切断した。
「鷹詩さん、さようなら」
鷹詩は黒いガスを噴き出し、ドロドロと溶け始めた。
香は鷹詩の頭を蹴って、足を外に抜き出した。
香は犬のようにぶるぶるっと身を震わせ、鷹詩の血を周囲に飛ばした。
「鷹詩さん、私はナオさんのところへ行きます…。ナオさんは私の主人じゃなくて、…意外かも知れませんが、仲間…なんです」
香が結界の地図を読むように、正確にナオの方へ歩き始めた。
4
ジークは崖の上へ飛翔した。
彼が見た光景は、朔夜の魂が覚醒するところだった。
魂は無限のエネルギーを呼吸させながら、大きなうねりとなって、とぐろを巻いていく。
ヘルはそれを会心の笑みで見詰めている。
ジークは何かヤバいと思った。
ヘルが舞い上がってきたジークを振り返った。
「ジーク。朔夜の味方をするなよ。こいつを倒さないことには、黒瀧の長には会えないんだぞ」
ジークは先に言われ、黙った。
ヘルの魂が、今までと違う波を出している。
ヘルは地獄の住人らしく、暗く低い波動で空間を振動させていた。
ジークはちぎれた体と、不足していくエネルギーをどこかで補わなければ、動く余力もなさそうだった。
彼は空に漂い、ただ景色を眺めていた。
朔夜は自身を封印する柵を取り除く為に、巨大なエネルギー体に覚醒する。
物理的な攻撃の効かない柵は、朔夜の巨大化に合わせて身に食い込んでいった。
朔夜は大きな黒龍になりながら、ヘルに杭を打たれるように縛られていく。
「朔夜…。それ、ヤバいんじゃね?」
ジークは心の中で呟いた。
朔夜は縛られながらもがき、身をくねらせた。
「シャアーアアアッ!!」
龍の嘶き。
「朔夜、興奮して自我を失うんじゃねーぞ。チカラだけでかくなったって、ここじゃ勝てねーぞ…」
ジークは自分のことみたいに、ハラハラした。
朔夜は杭を数本、力ずくで吹き飛ばした。
「ふむぅ!!」
ヘルがチカラを込め直し、雷撃のように空から柵が撃ち込まれた。
次々と杭を打たれ、縄がかかるように、朔夜は地面に縛り付けられた。
「シャアア!! シャアア!!」
朔夜が啼き声を荒げ、身をくねらせた。
空間がバリバリ音を立てて揺れた。
ジークは黙っていられなくなった。
「朔夜ぁー!! 何やってんだよー!! 龍変化したんだ、火ぐらい吐けよ!!」
朔夜の龍眼が赤く光った。
黒龍が火焔を吐いた。
火焔は物理的な火と言うより、エネルギーの集合だ。
それは自分の身を削り出すような行為だった。
「ふはは…」
ヘルが哄笑した。
火を吐くほど、黒龍は小さく萎んでいくだろう。
その時、朔夜の魂が杭を残らず吹き飛ばし、自由になって空へ駆け上った。
ヘルがジークに囁く。
「どうだ? 朔夜が理性を失った。荒ぶる龍神の最後を見せてやるぞ」
朔夜はジークとヘルの二人に向かって、地獄の火焔を吐き出した。




