ph 79 最後の幼虫の行方
phase 79 最後の幼虫の行方
1
守護蝶の血飛沫が壁に飛び、筋を引いて流れた。
黒い翅が燃え上がり、熱風が吹き荒れる。
コンクリートに穴が開き、鉄筋が一度に捻じ曲げられて、柱が崩れる。
彼等はサラダを作ろうとしているみたいだ。
黒蝶の手足がぶつ切りになって、その傍らを首が転がる。
クレイ達は情け容赦なく、獲物をいたぶった。
一方。
ナオはジークを探していた。
彼がいないことに、ホッとする。
そして、再び、暗い病棟を走り抜けていく。
その頃、圭太は闇に潜んでいた。
時折、闇から半身乗り出し、蛹を刀で刺し貫いた。
「おまえらは、生まれて来ちゃダメってことだよ。俺に見つかったのは、運が悪かったのさ」
刺された蛹の中から、断末魔の呻き声が漏れた。
「ぎぁ…、ぎ…あ…」
「ふん、刀がおまえらの体液で汚れたよ」
圭太が刀の汚れを、一振りで払った。
クレイは余り時間をかけずに、全ての守護蝶を殺し終えた。
彼は死体の顔面を踏み付けた。
「ああ、弱いヤツを殺すのって、本当にスカッとして気持ちいい」
聞いていた鷹詩が、
「前から思ってましたけど、クレイさんは性格悪いですよねー」
と、言った。
すると、鳴海が首を振った。
「そんなことないって。普通だろ?」
鳴海は首なし死体二匹を両手に引き摺って、クレイの前に出た。
「退屈だー。黒蝶の本家でも、もう強いヤツは残ってないのかな?」
鷹詩が空手の蹴り方で、コンクリートの壁を蹴った。
亀裂が広がり、壁一面が崩れ落ちた。
2
憂の最後のガーデンが破壊された。
憂はそのことよりも、悪魔の真珠という実験種の第一世代、翔と小暮が死んでしまったことがショックだった。
小暮が同級生と交尾して、産卵したのが、第二世代の黒蝶。
人間との混血だったので、チカラが薄まってしまった。
ラボの黒蝶とかけ合せたのが、第三世代。
第一世代ほどの優秀さはなかった。
「オレと加藤が作ろうとしていた帝国が、傾いていく…」
憂はマンションから街を眺めていた。
窓には頑丈な鉄格子が取り付けられ、ベランダの手摺には鉄条網が巻かれている。
どこの家も、吸血鬼対策で窓を塞いでいる。
鉄格子の隙間から街の夜景を眺め、みんな息を潜めている。
憂は避難先の親戚の家の、彼らしくない部屋にいた。
ブルーと水色と紺と白のボーダーのカーテン、紺色のチェックのスプレッドを敷いたベッドがあった。
木製のデスクには、ノートパソコン。
他には、ガラス製の飼育ケースが一つあるだけ。
憂が床に置かれた、飼育ケースの蓋を開けた。
中にいるのは、一匹の幼虫。
その幼虫は、体長50センチぐらいある。
異常に大きく、ぷりぷり太っている。
ディーヴァは気持ち悪さで、身震いした。
「ゾッとする。私は自分の父親に、蛾の遺伝子を点滴されたんだよ!!」
「オレ達は違う。ガーデンで蛹になって、人間と決別する。みんな喜んで、美しい黒蝶に生まれ変わるんだ。オレはずっと、蝶に憧れてた。華麗な変身を遂げるんだ…」
憂は蠢く幼虫の背中を、両手で摘み上げた。
「ちょっとー。やめてよー」
ディーヴァは幼虫から遠ざかり、部屋の隅に退いていく。
「鬼姫ちゃん、わかる? こいつが悪魔の真珠の、最後の一粒なのさ」
憂が幼虫を得意げに見せた。
「ラボから盗まれた五個の卵…。最後の一個を、遂に解凍したってわけ? なんで今頃?」
ディーヴァはこんな大きさの幼虫を見たことがなかった。
憂は幼虫をベッドに降ろし、ペットを可愛がるように、幼虫の頭を撫でた。
醜い幼虫は頭を反らせ、憂の指に食いつこうと暴れた。
「オレはいつか、忍人の血をもらって、吸血鬼になろうと思ってた。小暮くんにオレの血を引く卵を産んでもらうつもりだった。それが、最強の黒蝶を作る方法じゃない? …でも、もうみんな死んでしまった…」
ディーヴァは自分の耳を疑った。
「如月くん、マジで言ってる?」
憂は頷いた。
「本気だよ。オレがこの幼虫の体液を飲んで、黒蝶になったら…。その時は、君がオレと結婚して、卵を生むんだ。鬼姫ちゃん」
ディーヴァは真っ青になった。
容器の中で、幼虫が人肉を欲しがって鳴いた。
憂は寝室のクローゼットを開け、まだ新しい死体をむしって、幼虫に食わせた。
「たくさんの幼虫に、こうして餌をやった。楽しかったよ…」
「…狂ってない?」
ディーヴァは部屋から後ろ向きに出た。
「狂ってないよ」
憂はディーヴァを振り返り、廊下まで追いかけた。
「い…イヤよ。私は…人間の如月くんが好き。黒蝶になった如月くんは、ちょっと…」
「自分は蛾人なのに? いつまで血液パックに頼ってんの? そろそろ生の血を吸いに、狩りにでも行ってきなよ」
憂がディーヴァの手首を掴み、マンションの玄関から追い出し、彼女のブーツを外に投げた。
「き…如月くん!!」
「続きはまた話そう。眠いから寝るよ。お休み!」
憂が乱暴にドアを閉め、鍵をかけた。
ディーヴァはおろおろした。
「待って…。財布と荷物が、部屋の中なんだけど!!」
憂は無視して、寝室に戻る。
ベッドで幼虫が待っていた。
3
一掴みの風が壁を滑り上がり、鉄格子の間に吹き込む。
ベランダの手摺に巻かれた鉄条網が、パツン、パツンと切れた。
鉄格子のナットが飛び、勝手に窓から外れて落ちる。
一掴みの風が地面のすぐ上を流れ、ドアの鍵穴から流れ込む。
玄関の鍵が弾けて、パカッと割れた。
ドアが風で開き、誰かを招き入れるように風を引き込み、また閉じた。
一掴みの風が、廊下を吹き抜ける。
寝室のドアの鍵を壊し、ドアを開くと同時に、窓の施錠が外れ落ち、ガラスが割れる。
風は窓からドアへ、ドアから窓へ、同時に擦れ違った。
カーテンが夜風に揺れた。
誰か、いる。
誰かが月明かりを背にして、窓に足を掛け、鳥のように留まっている。
憂はしばらく、寝たふりを続けた。
静寂が続く。
どれぐらい、時間が流れただろうか。
侵入者は窓台で羽根を休めている。
そして、じっと、憂を見詰めている。
やがて、侵入者が喋った。
「寝てるところを殺すのは、とても簡単なんですが。ちょっと起きてもらえませんか。子供を殺すのに闇討ちなんて、私の良心が咎めるもんで」
憂は窓辺に向けて、ぱっちりと眸を開いた。
「…吸血鬼に良心なんてあるの?」
「最低限度ぐらいはありますよ。お隣りの部屋にいた守護蝶は、もう死にました。このマンションのこの階に、あなたは一人きりです」
香が返事した。
憂がもぞもぞと起き、布団の中から、月明かりで相手の顔を見る。
「…あんた、何歳なの?」
「九十歳ですよ」
香は静かに答え、まだ攻撃しようとしない。
「…ズルいな。…オレは小さい頃から、何度も医者に言われてきた。君はもう長くない、って。医者は毎回、頑張れとか言うんだ。オレは自分の弱い心臓が悔しくて…。…ねぇ、あんたは不死身か?」
憂が恨めしそうに言う。
「何が羨ましいんですかね? 呪われた私の身が? 笑わせないで下さいよ。あなたは何もわかってない。永遠に続く悲しみを。…言えることは一つ。これが最後の死の宣告です」
香が嫌味を込めて返す。
死と聞き、憂がぴくっと反応した。
「オレを殺してどうするの? オレのガーデンを全て、あんたらが破壊しまくった…。これ以上、何が必要なんだ?」
「殺しますよ。あなたは抜け目ないクソガキだから」
香が刀の柄に手を掛けた。
鯉口が鳴る。
憂は後ろへ思いきり飛んだ。
無我夢中の彼は、ベッドから落ちた。
香の刀が、ベッドを真っ二つに斬った。
ベッドは真ん中でくの字型になり、沈む。
憂はベッドの高さの分で、命を拾った。
憂は荒い息をしていた。
妙に息が上がっている。
「はぁはぁ…、はぁ…、はぁはぁ…」
香は、青白いというよりも黄色みががった、憂の顔色に気付いた。
香がすかさず追い詰め、綺麗な顔を崩さずに、
「持病の心臓発作ですかね。終わりましょうよ。その方が遥かに楽なんですから」
と、呟いて刀を突き出した。
「よぉ、ちょっと待ってくれね?」
香の付き出した刀を、誰かが指で摘んだ。
「そいつ、俺の患者なんだ。譲ってくれよ、香」
一瞬で、天上から降ってきた男。
香が彼を睨み付けた。
「ジークさん、どこから湧いて来たんですか? …ダメです、これは朔夜さんの命令ですから」
「そこをまぁ、何とかー」
ジークがねだる。
憂が咳込み、ジークを睨んだ。
「オレの命乞いなんか、するなよ。ジーク」
「誰がするか、バカ」
ジークが舌打ちした。
気のせいか、憂の顔の皮膚が硬くなったように見える。
疲れ果てたみたいに、動きが鈍くなった。
彼の波が弱々しい。
「香、ごめん。出てってくれねーか。こいつが俺を罠にはめて、ボートに細工しやがったのよ」
ジークが指差した。
「無理ですね。あなたはもう黒瀧の一族を抜けたんですから。あなたこそ、出て行ってもらえませんかね?」
香がジークに対し、殺気立った。
「やるの? 俺と? 香、相手が違うだろー。やだな、もうー」
ジークも香の剣術の腕は知っている。
ナオの仕込だ。
「なぁ、香ー。俺もさ、おまえらの邪魔する気はねーのよ。ガーデンの破壊は続けてくれよ。俺はおまえがこっちに向かうのを見て、不審に思って見てたわけだ。…そしたら、狙いは憂ちゃんじゃねーか。そりゃ、黙って見てらんねーよ。いつから、憂ちゃんの居場所知ってたの? 俺が憂ちゃん探してるの、知ってたろ?」
ジークは親しげで、のんびりとした口調で話した。
香は腹を立てた。
「はい? だから何ですか? あなたはルビーさんの仇の忍人と組んだわけでしょ。もう復讐はやめたんじゃないんですか!? 誰がボートに細工したか、それもどうだっていいはずでしょ!?」
香がジークを振り払い、切っ先を正面に向けた。
ジークは白刃の煌めきを、片目で眩しそうに見る。
「俺は今でも、ルビーを愛してる。世界で一番、愛してる」
「黙れ!!」
ルビーの弟、憂が力いっぱい吠えた。
「おまえのせいで、ルビーが死んだ…」
憂がむせた。
彼は急に床に伏せて、激しく嘔吐した。
「なんか悪いもんでも食ったの? 憂ちゃん、顔色が悪いよ」
ジークが医者みたいに聞いた。
憂は吐き過ぎて倒れ、ピクピク痙攣した。
「外国で心臓移植したって聞いたぞ。よかったじゃねーか。脈を診せろよ」
ジークが憂の手を取ろうとした。
その手の前に、香の刀の切っ先が来た。
「ジークさん。朔夜さんが憂を殺せと言ってます。それで、ガーデンの破壊は一段落なんです」
ジークの動きが止まった。
「香、…憂ちゃんはすげー医者嫌いなんだよ。誰も憂ちゃんの病気を治してやれなかったからさ。痛みよりも、憂ちゃんを苦しめたものは…不安だよ。いつ死ぬかわからないっていう…」
「わかったようなこと言いやがって…」
憂の声が掠れた。
憂はガクガク震え、どんどん血の気を失って変化していった。
「わかりますけどね、ジークさん」
香が呆れ果てて言う。
「ジークさん。このクソガキは患者じゃない。お医者さんごっこはやめましょう。私達に情けは禁物です。あなたは帰って、忍人に復讐するべきです。私は朔夜さんとナオさんを守りきり、未来に活路を開いて行きます。ここで憂を殺せば、黒蝶は統率する者がいなくなって、集団として機能しなくなる」
「…賢いねぇー、おまえは」
ジークは黒飛龍剣を抜こうとして、一掴みの風に邪魔された。
彼が風に圧されて一歩下がった瞬間、香の刀が憂を捉えた。
香は、這って腕を伸ばした憂の右腕を斬り落とす。
続いて、香は一歩踏み込んで片膝を着く間に、憂の頭頂に刀を振り下ろした。
「憂…ちゃん…!?」
ジークが叫んだ。
香はさっと身を引き、立ち去ろうとして停まった。
「如月くん、大丈夫!?」
ディーヴァが部屋に戻ってきた。
「ディーヴァちゃん!! なんでここにいるの!? そう言えば、転校した憂を探してるみたいなこと言ってたっけ…」
ジークは憂とディーヴァの顔を、交互に見た。
ディーヴァは憂に走り寄って、彼を抱き起した。
「如月くん!! しっかりして!! 死んじゃダメー!!」
彼女の眸が潤み、ポタポタと涙が落ちる。
香はジークを嘲笑った。
「モテないんですねぇー」
「うるせぇ!!」
ジークは腹立たしかった。
ディーヴァはハンカチで憂の血を拭った。
憂の死に顔は薄い黄緑色で、眉間に皺を寄せている。
「如月くん…。本当は中学一年の時から、ずっと気になってた…。結婚するって…さっきの話、どこまでマジ?」
ディーヴァは憂を抱き締め、蛾の翅を背中に生やした。
彼女が羽ばたきして、毒の鱗粉が周囲に舞った。
「わっ、ディーヴァ! こんな狭いとこで、翅動かすなよ!」
ジークと香が手で、鼻と口元を押さえた。
「バイバイ、ジーク。また、いつかね」
ディーヴァが憂の死体を抱え、窓台に一歩足を乗せた。
軽い跳躍一つで、ディーヴァは夜空へ飛び上がった。
4
「あーあ…。バイバイって…」
ジークが溜息を漏らした。
ジークはシケのような、荒い波を振り返った。
彼の表情が固まった。
ナオが到着した。
「ジーク、ここにいたんだ…」
ナオはとても残念そうに呟く。
ジークも苦しそうに答えた。
「ナオ…。憂なら、香が仕留めたぞ。今夜の狩りは終了だろ?」
ナオはフローリングの床を見下ろした。
「まだ一匹残ってる。最後の獲物が…」
ジークは黙った。
「ジーク…。香と、憂の取り合いか? くだらないな。俺はおまえを斬らなきゃいけない…」
ナオはこの数ヶ月の戦いを思う。
危なっかしいジークを助けたり、助けられたり、冗談を言い合った日々を。
「朔夜の命令かよ。俺を見なかったことにしろよ」
ジークは戦いを避けようと思った。
「ジーク。俺だって、おまえを斬りたくないって。でも、殺らなきゃ、おまえは黒瀧と対立して、いつか朔夜さんと戦うだろ? あの人はもう、…死期が近付いてる。覚醒する度に、壊れていく。俺はおまえと朔夜さんを戦わせたくないんだ」
ナオの波が更に荒れ、チカラが解放されていく。
骨がギシギシ鳴って、彼のカラダが鎧のように硬さを増す。
「俺はおまえを殺りたくねー」
ジークは逃げ場を求め、窓辺ににじり寄った。
「ナオ、聞いてくれ。黒瀧のジイサンは…」
「大体、見当は付いてるよ。ジーク。俺は百五十年、黒瀧さんの下にいるんだぜ。…おまえはこの世が何で出来てるか、知ってるか? この世は…苦しみで出来てる。どうしようもない、誰も逃げられない。この戦いも、俺達が生まれる前から決まってたことなんだ」
ナオが顎で、ジークの黒飛龍剣を指した。
「抜けよ、ジーク。俺も抜く」
ナオが先に、愛刀・鬼美津を抜いた。
「嘘だろ…? こんなの、夢なんだろ…?」
ジークは条件反射的に、黒飛龍剣の鍔に触れた。
バチッと電気の火花が飛んだ。
ジークの全身に電気が走り、髪が白く逆立つ。
彼の顔と腕に、タトゥーのような黒いラインが浮き上がった。




