ph 75 教室の呪縛
phase 75 教室の呪縛
1
ジークの中の揺らぎが収まった。
ジークはサッパリした目覚めを迎えた。
魂が闇の深淵から肉体に戻ってきた。
けれど、その時、彼は翔の手から伸びる鎖で、きつく縛られていた。
「あ…」
ジークと翔の目が合った。
無意識のうちに、もがれた腕が磁石みたいに引き寄せられる。
急速に細胞が生まれ、雑にちぎられた部分を修復していく。
その腕に筋肉が隆起し、トライバル柄のタトゥーのような黒いラインが浮き上がる。
「何、これ!?」
ジークは自分の腕を見て、ぎょっとした。
しかし、異変は彼の全身に起きている。
髪は真っ白に。
顔、首にもタトゥーのような模様。
眸の周囲は、歌舞伎の隈取りそっくりだ。
翔は蒼褪めて、後方へ飛びずさった。
ジークは急に火照りや、喉の渇きに気付いた。
「シャアアアア…」
彼が熱い息を吐いた。
何だか、とても気持ち良かった。
彼は高く嘶いてみた。
「シャアアアア…!!」
彼を縛っていた鎖が、一度にバラバラに切れた。
「やべっ…!!」
翔が慌てて、結界を張り巡らせる。
自分の有利な方向へ、結界を再構築する。
翔が小学校の幻影に紛れた。
校舎の片隅から、影が滲み出した。
圭太が薄っぺらい影から出て、翔の背後から喉に刀を当てる。
「逃がさないよ。最初の黒蝶なんだってね? ちょっと話を聞かせてもらおっかなー」
圭太はグラウンドのジークを振り返った。
「ジーク。覚醒はいいとして、…忍佐加を自分の中に受け入れたな!?」
圭太は残念そうに、歯を噛み締めた。
覚醒したジークは、ぼんやりと前を眺めていた。
黒飛龍剣を通して流れ込んだ深淵の闇は、少しずつ彼の自我を溶かしてきた。
或いは、ケイシーと融合したことが、彼の理性を急激に奪ったのかも知れない。
彼は以前よりも、闇に近付いている。
彼は血を欲し、本能のままに獣の咆哮を響かせた。
「パァァー!!」
ジークは、
「何だろ、この高揚感は…。自分がすげー強くなった気がする…。こんなガキ捻り潰すなんて、楽勝過ぎるだろ?」
と、校舎の中の翔を透かし見た。
翔は焦りを浮かべて、半人半獣のジークを見返す。
「ジーク…」
「動くなよ。刃が食い込むよ」
圭太が翔に命令した。
「殺したら? 俺を殺せると思うんだったら…」
急に翔の背中から角が生え、圭太を突き刺そうとする。
圭太は素早く逃げ、
「どっから触角生やすんだよ!!」
と、怒鳴った。
翔の触角は背中から引っ込み、頭から生えた。
翔は大きな黒蝶になった。
圭太が哄笑する。
「成虫か。これは標本にすべきかな?」
ジークはグラウンドでとぐろを巻いている。
彼の心に、忍佐加の記憶の断片と、憎悪が流れ込んでくる。
忍佐加は殆ど自我を失っていたから、ジークを乗っ取るというより、吸収されて溶け込んだ。
ジークの脳裏に、フラッシュバックのように映像が浮かんだ。
忍佐加が死ぬ間際に見た、松明に焼かれる自分の心臓や、父親の黒瀧秀郷の苦脳の表情。
兄の忍人の寂しそうな横顔。
「忍佐加!! わかるか!? 俺だよ、徳阿弥だよ!!」
圭太がジークに向かって、大声で叫んだ。
ジークは広がる覚醒の快楽に、理性が飛んでいる。
彼の頭の中は、殺戮と吸血のことだけでいっぱいだ。
「ジーク! 朔夜が覚醒した時と同じだな。おまえは今、単なる腹ペコの蛇なんだよ!!」
圭太が焦り始めた。
翔がジークを誘うように、校舎の奥へ逃げ込んだ。
ジークは身を躍らせ、翔を追いかけた。
2
ジークは幻覚に落ちた。
忍佐加の記憶が、脳の情報処理のスピードを超えて蘇る。
しばらく後、忍佐加の記憶が途切れた。
ジークは再び、翔の世界に彷徨い込んだ。
教室の中は、互いに無関心な友人達がいた。
特にイジメがあるわけじゃない。
みんな別々の方向を見ていて、とにかくつまらなくて、
「何か面白いことないかな」
と、繰り返し呟いている。
誰も互いの立場にはなれない。
ある子供は塾の宿題をしている、ある子供は授業を無視して堂々とゲームしている。
二人の先生が必死に話しているけれど、どうでもいい。
翔はこう思っている。
「この世界が無くなってしまえばいいのに。その方が面白いのに」
翔の空想の世界で、黒板にひびが入る。
先生が怯え、悲鳴を上げる。
児童らが一斉に翔を見る。
教室の空間に亀裂が入り、黒板側から裂けていく。
先生は異空間に飲み込まれる。
ジークも亀裂から巻き起こる爆風によって、壁に打ち付けられ、ガラスの破片を浴びる。
児童らもジークと同じ目に遭う。
ジークは翔の笑い声を聞く。
「クソッ、どこに隠れてる!?」
彼は周囲を見回す。
ジークはチャイムの音を聞く。
放課後になった。
みんなランドセルを背負い、帰っていく。
教室に残っているのは、閉塞感だ。
やり場のない苛立ち、吐き出せない言葉がある。
ジークは子供達を追う。
半透明の子供達が彼の側を擦り抜け、明後日の方向へ向かう。
誰もいなくなった廊下に、片方だけ、上履きが落ちている。
ジークはぽつぽつ降り始めた雨に気付く。
翔の心に降る涙のように、ぱらぱらと小雨が降る。
グラウンドの砂を濡らし、窓を叩き、通り雨が小学校の空を行き過ぎる。
「翔…」
ジークは腹ペコの腹を抱え、空を見た。
翔の心の不安を象徴する、灰色の雲が、太陽の光を遮っている。
翔は悲しみに暮れて、悲観的になっている。
「泣いたっていいんだぜ、翔…」
ジークが呟いた。
空を切り裂き、黒い太陽が闇を射し込ませた。
校舎は突然傾いてひび割れ、廊下がギシギシ軋んで、穴が開いた。
誰かの足音が近付いてくる。
今度はクラスの子が腕をむしられ、脚をへし折られた。
殴り飛ばされ、蹴り飛ばされた。
誰かが怒りを露わにしている。
誰かは暴力に憑りつかれている。
チカラで学校に報復しようとしている。
彼はチカラで学校を、恐怖に陥れた。
そうすることが、楽しくて堪らなかった。
もう誰も、彼を無視出来なかった。
翔。目覚めた子供。
少年が翔の名前を呼び、責めてもいないのに勝手に謝り始めた。
「ごめん、ごめん…。消しゴム隠したの、僕なんだ。だって、翔が困るのを見るのが面白かったから」
翔は謝る友人の頭を踏み潰した。
血が、打ち上げ花火のように噴き上がった。
「やめて。もう許してよ。私は別に悪くない。興味がなくて、面倒臭かっただけ。翔くんが嫌いなわけじゃないよ」
泣き叫ぶ女の子を捕まえ、一瞬で切り刻んでミンチに変えた。
ジークも幻覚に取り込まれ、一緒に切り刻まれた。
ジークは特殊な視力で、空間に仕組まれた罠を見抜いた。
やっと彼の視力が、翔のスピードに追い付く。
「この結界全体が、翔なんだ…」
ジークはそれでも、空間の千枚刃から逃れられない。
彼は刻まれ、血を噴き出しながら、直感で翔の気配から距離を取る。
空間に薄く浸透した、空気のような翔。
翔は無性に腹を立てている。
どこに向けていいかわからない怒りを、同級生にぶつけていく。
誰にでもあるような劣等感、些細な出来事。
友達の素気ない反応や、無理解…。
翔は気持ちをうまく伝えられなくて、暴力という手段に置き換えていく。
本当はみんなと話したいし、みんなを好きなのに、何故か小さな擦れ違いが生じた。
最初は殺意なんてなかった。
たまたま、翔は強いチカラを手に入れてしまった。
彼はチカラを持て余した。
チカラはそのまま、暴力になった。
彼は黒蝶になった途端、同級生を襲った。
その血を本当に啜った。
同級生や先生を攫って、黒蝶の幼虫の餌にした。
「ざまぁみろ。別に恨みはないんだけど、何故か、とっても清々する。俺のチカラを思い知れよ」
翔は友達の頭を捩じり、頸椎を粉々に砕いた。
殺戮はゲームよりずっと面白かった。
翔はニタニタ笑いながら、何人も殺した。
ジークは翔の記憶の中を走り回っている。
「翔…、そんなことしたって、ママは喜ばねーぞ…」
翔がどこからか、ジークに返答した。
「おまえにはわかんないよ、ジーク。わかってくれたのは、憂ちゃんだけ。俺と憂ちゃんは、病院で親友になった。俺達はごちゃごちゃした現在をぶっ壊して、何もない明日を創る…」
翔の気配が、空間にぐっと濃くなった。
「ジークだって、人間を殺して、スッとしただろ? たくさん死んで、気持ちよかったろ? みんな心の中で思ってる。こんな世界、ぶっ壊れてしまえばいいのにって。人類なんか、滅びればいいんだ。どうしようもない人間が多過ぎる。食糧は限られてるんだし、数の調整の為に、どこかで大勢死ねばいいんだ」
ジークはとても切ない気持ちになった。
「俺は誰かを助けたくて、医者になったんだ。…こうして鬼になってしまった今も…」
彼はきゅっと、シャツの胸の部分を握った。
「俺は今も、誰かを守りたいと願ってる。…君と君のママを救えずに死なせてしまった医者も、きっと、どこかで泣いてる…」
「黙れよ」
翔が殺気立った。
「偽善者ぶるなよ、ヤブ医者が。ママはお腹に水が溜まって、苦しんで苦しんで死んでいった。俺だって、死ぬ時、どんなに痛かったか…。薬は効かなかった。地獄だったよ」
教室に子供達の幻が出現した。
翔の声が、
「だから、こいつらにも、俺の味わった地獄を教えてやるんだよ…」
と言った。
一人目の首にロープが食い込み、カクンと足が落ちた。
二人目の首にロープが締まり、豚の鳴き声みたいな息が漏れた。
「やめろ、翔」
ジークが叫んだ。
ジークはいつの間にか、子供達の列の最後に並ばされている。
順に子供達の首が締まっていく。
ジークの前に、ロープの輪が垂れる。
ジークの首が締まった。
幻覚ではない息苦しさが迫った。
目の前が一瞬で、真っ暗になる。
ジークがもがき、足をばたつかせる。
足は宙を掻き、爪は首の皮膚を抉った。
ジークが失神しそうになった。
彼は必死に堪えた。
これは幻覚なのだ、と自分に言い聞かせて。
「翔、目を覚ませよ…。君は…寂しかっただけなんだ」
彼は荒い息をしながら、ロープを塵に変えた。
「この子達は、全部君だ…。君は自分を殺し続けたんだ…。…この空想の結界で…」
彼は子供達を抱き締め、サラサラの髪を撫でた。
ジークに髪を撫でられて、子供達はおとなしくしている。
一人の子供が顔を上げ、ジークに言った。
「俺の中の獣を、どうしたらいいの? 俺の中の獣が、友達を食べちゃったんだ」
「行こう」
ジークが子供達の手を引き、教室から出た。
「危ない、ジーク!!」
圭太が叫ぶのが聞こえた。
「圭太?」
ジークは笑顔で、隙だらけだ。
ジークは鋼の鎖で張られた蜘蛛の巣に、吊し上げられた。
罠にかかり、縛られたところが食い込んだ。
トカゲが尻尾を切るように、自分で四肢を切断しない限り、逃れられないだろう。
「甘いね、ジークは」
翔がようやく姿を見せ、ジークを罵った。
「俺がそんな同情を期待するタイプだとか思う? 友達を食っても、全然後悔してない。俺は結構ドライなんだよ」
翔の掌の穴から、銀色の鎖が伸びていた。
「クソ! 情けねーな! 俺って、どうしてこうバカなんだろ…。まさか、子供に騙されるなんて」
ジークは自分自身にがっかりした。
翔は捕えたジークの周りを一周歩き、
「哲さんと同じ処刑にしてあげる。朝日に晒してやるよ。嬉しい?」
と囁いた。
翔はジークが朝日で燃え上がるのを想像し、愉快だった。
「残るネズミは一匹?」
翔が圭太を振り向いた。
3
圭太が蜘蛛の巣に近付いてきた。
圭太は翔を無視し、ジークに話しかけた。
「バカだね、ジーク。敵に同情なんかしてるから、そんな目に遭う。医者だったことなんか、早く忘れちゃえよ…。最初から殺すつもりでかからないと、その子に勝てない。おまえにはそういう非情さが必要なんだよ」
ジークは圭太の言う通りだと思った。
蜘蛛の巣に吊るされて、四肢と首を縛られ、情けない姿だった。
「次はおまえ…」
翔が圭太を指差した。
圭太は鼻で笑った。
「おまえの呪われた運命を、ジークに全て終わらせてもらいなよ。ママのところに行くんだね」
圭太は結界を破って、外に出た。
翔がジークに唾を吐きかけた。
「鎖を切ろうなんて、無理だよ。ジーク。ここは俺の結界だから」
「翔…。あれを見ろよ」
ジークが顎で前方を指した。
蜘蛛の巣の前方数メートルのところに、子供達が横一列に並んでいた。
今度は翔が創り出した幻じゃない。
地獄の淵から蘇るように、十人ばかり、小学六年生ぐらいの子供が歩いてくる。
一人は腕をむしられ、脚をへし折られ、片足を引き摺っている。
別の子供は打撲でボコボコに腫れ上がっている。
その横の子供は、首を捩じり砕かれて、首がぶらぶら垂れて揺れている。
頭を踏み潰された子供、ミンチ状に切り刻まれた女の子。
他の子供は顔を幼虫に食われ、酸で孔だらけにされている。
一番端の子供は腹を食われ、腸を引き摺って歩く。
「な、何だよ、こいつら…!!」
翔が愕然として、怯えた。
凄惨な死に顔は、同級生ばかり。
「翔ちゃん…」
「翔くん…、どうして僕を食べたの…!?」
「翔…、痛いよ…」
ゾンビになった子供達が、腐乱した両手を前に突き出して、翔にしがみついてきた。
「離せよ!!」
翔が四本の腕で払い除けた。
しかし、子供ゾンビは翔に伸し掛かってきた。
「僕達は痛かった…。滅茶苦茶、痛かったよ…」
「死にたくなかったよ…。どうして殺したの? 友達なのに、なんでこんな酷いことしたの?」
子供達が次々に、翔に恨み言を言った。
「痛かった…。痛かったよ…」
子供達が泣きながら翔を引っ掻き、耳たぶや髪をむしり取ろうとした。
「やめろってば!! ここは俺の世界なんだ!! おまえら、存在しないんだ!!」
翔が翅を閃かせ、幻影を斬り伏せた。
子供達は一瞬で掻き消えた。
翔は目を見開いて、肝心の蜘蛛の巣を見た。
「いない…!?」
ジークを縛っていた鎖がバラバラに切れ、いつの間にか消え失せている。
呆然とする翔。
蜘蛛の巣の真下から教室の反対側へ、点々と、誰かの血が落ちている。
結界がビリビリ破かれた。
外から、紙を破るように突破された。
「誰!?」
翔が振り返った。
圭太が結界を破り、誰かを連れて入ってきた。
霧が左右に分かれて行き、真ん中を黒蝶の影がよろよろ歩く。
中学三年ぐらいの、少女の黒蝶だった。
「し…ょ…う……」
「小暮くん!?」
翔が相手を呼んだ。
翔と同じ第一世代の黒蝶、小暮。
小暮は体のあちこちを、シャチに食われたみたいに失い、歯形を刻んでいる。
口から黒い血を吐き、ズタズタに裂けた内臓をぶら下げ、大量に出血している。
「小暮くん、大丈夫!?」
翔が駆け寄る手前で、小暮は膝を着いて倒れ込んだ。
「しょ…う…、朔夜が…来…る……」
小暮が翔の腕の中で息絶え、全身ドロドロと溶け始める。
茶色い汁になって流れ、翅が萎れた。
「朔夜が…?」
翔が圭太の背後に、背の高い人影を見た。




