ph 7 闇の深淵
phase 7 闇の深淵
1
大祐が、ジークに襲いかかってきた。
大祐は人間離れした腕力で、ジークに伸し掛かった。
「大祐っ!! 目を覚ませ!!」
ジークが叫ぶけれども、大祐は正気に戻らない。
大祐の手が熊の鋭い爪のように、ジークのシャツを切り裂いた。
壁まで、血飛沫が飛ぶ。
彼はジークの腹に、長い牙で噛みつこうとした。
ジークが木槌で、大祐の顔面を横向きに払い飛ばした時、がつんと鈍い音がした。
「はぁ、はぁ…」
ジークは大きく肩を上下させ、荒い息をした。
「うう…、ジーク…! 痛いじゃないか…?」
こめかみを打たれた大祐が木槌を掴み、片手の握力で握り潰した。
木槌は原型もなく、木端微塵に砕けた。
その間に、ジークは床を四つん這いで逃げた。
部屋は真っ暗だったが、時折光る稲妻が辺りを照らした。
ジークの背後で、窓ガラスの割れる音がした。
大祐は大きな格子窓を体当たりで突き破り、バルコニーを飛び越えた。
この部屋は五階だったが、大祐は岩山の山羊のように駆け降りていく。
ジークは慌てて、一番近くの窓に走り寄った。
「大祐! 大祐!」
ジークが庭の暗がりに向かって、名を呼んだ。
大祐はその夜から、大学病院に戻らなかった。
ジークは永久に、一人の親友を失った。
2
愛理は朔夜と抱擁を交わし、彼の車が走り去るのを見送った。
彼女がボロマンションの通路に入ってくると、突き当りのドアの前に、ジークが倒れていた。
「えー、もうエネルギー切れたんだ!?」
愛理はジークを引き摺り、玄関に入った。
愛理は暗がりのLDKを進んだ。
「ジーク、お腹減ったんじゃないの? お菓子あるよ。さっきさ、グロ吸血鬼の女と戦ってたね。毒に苦しんでたけど、何とか毒を体外に出したんだよねー」
彼女はジークをほめようと思ったが、
「覗いてんじゃねぇー」
ジークの機嫌が悪かった。
いつの間にか、彼のLDKに随分とガールズアイテムが増えていた。
勝手に運び込まれたインテリアやクッション、彼女が音楽を楽しむ為の機器が並べられている。
そして、相変わらず堂々と下着が干してあった。
愛理は気をきかせたつもりで、彼を寝室まで運んだ。
見た目に似合わず、怪力の愛理は楽々とジークを担ぎ上げ、ベッドに寝かそうとした。
普通、逆である。
愛理はバランスを崩し、一緒にベッドに倒れ込んだ。
ジークは愛理の下敷きになった。
「おい!! おまえ、重いんだよ!」
ジークが愛理に手を掛け、ベッドから押し出した。
「あれ!? おまえ、意外と胸デカい……?」
ジークが首を傾げ、いつもゆったりめの服を着ている愛理の胸元を見た。
「どこ見てんだよ、バカ!!」
愛理がジークを拳で殴った。
ジークの首の骨がグキンと鳴り、おかしな形に曲がった。
「あ、ごめん。少し、きつかった?」
彼女は照れながら、急いでジークの頭を荒く叩き、向きを矯正した。
ジークは痛む首を撫で擦り、
「最低の女…」
と確信を込めて呟いた。
愛理は大笑いした。
「そりゃ悪かったねー。じゃあ、ジークの恋人って、どんな人だったの?」
愛理がベッドの端に腰を下ろす。
しかし、ジークは彼女に背中を向けるように寝返りして、答えた。
「おまえと違って、オシトヤカで、すげー美人だったよ」
愛理は嫌味に気付かないみたいに、
「ふーん。男はやっぱり、そういうタイプが好き? おとなしい深由ちゃんに似てる感じ?」
と、ジークが襲って血を吸った相手を、引き合いに出した。
ジークは振り向かず、
「なんで、そんな名前出すんだよ。深由ちゃん? もっと美人だよ。俺が婚約までした相手なんだからな」
と欠伸しながら話した。
「顔で選んだの? 有り得ないな! その相手も、よくジークと婚約したねぇー。ちょっと頼りなくて冷たい男なのにー」
愛理はがっかりしたように言い、立ち上がって、寝室から出て行こうとした。
ジークは先刻からの苛立ちを愛理にぶつけるみたいに、
「顔だけじゃねぇし。胸もデカかったし。声も可愛かった。それから、いろんな意味で相性が…」
と起き上がって、彼女に聞かせようとした。
「あっ、そっ!」
愛理はドアを閉める前に、鼻で笑って言った。
「じゃ、深由ちゃんのことは、どうでもいいよね。今から朔夜が、深由ちゃんをいただきに行くって言ってたけど」
ジークの見ている前でドアが閉まった。
「俺に関係ねぇだろ?」
彼は怒って、ベッドで丸くなった。
眠ろうとしたが、朔夜のムカつく顔が頭に浮かぶ。
深由はあんな顔だけの男に引っ掛かったりしないと思うが、やはり、顔がいい男がモテるわけで。
深由が遊ばれて捨てられようと、血を残らず吸い尽くされようと、自分には関係ないと思う。
でも、もし、深由がまた、吸血鬼になりたいなんて、朔夜に話したらどうしよう。
「その時は、俺に責任はないと言えるか!?」
ジークは自分に問い掛け、溜息をついた。
深夜。
愛理がソファーに寝転び、音楽に浸っている時、ジークがLDKに入ってきた。
「愛理、朔夜の波を追える?」
彼女はジークの質問に呆れた。
「どうするか決めるのに、こんなに時間がかかったんだ? 優柔不断じゃない!? 朔夜は気配を消して行動するから、私には追えないよ」
彼女の返事に、ジークは舌打ちした。
「とりあえず、深由ちゃんの家に行ってみたら? そこから匂いを嗅いで、追っかけるしかないよ」
「おまえじゃあるまいし。俺にそんな犬みたいな嗅覚はねーよ」
ジークはジャケットを着て帽子を被り、出掛ける支度を始めた。
「結局行くんだー? まぁ、頑張ってー。朔夜は強いから、この地区任されてんだけどね。気を付けてー」
愛理は菓子を頬張りながら、忠告した。
「おまえも来る? 手出しは無用だけど」
玄関からジークが誘った。
「もぉっ。仕方ないなぁ…」
愛理はぶつぶつ言ってパジャマを脱ぎ、床に落ちていたパーカーとデニムとスニーカーを適当に身に付けて、玄関へ向かった。
3
ジークと愛理が、深由のアパートに向かう間。
深由がバイトから帰ってきた。
彼女がアパートに到着してドアを開けている時に、クラクションが鳴った。
深由が振り返ったら、アパートの前に停まっていた車から朔夜が降りてきた。
「あれー、誰かと思ったら、この間の…。ジークの彼女さんじゃない?」
朔夜はジークに見せたこともない、愛想のいい笑顔で深由に話しかけた。
「あ、もしかして、ジークさんの大家さんの知り合いの…」
深由も、朔夜の顔を憶えていた。
彼女にしたら、ジークより朔夜の方が、ずっと格好よく見えた。
「私、別に彼女じゃありません」
深由は否定し、ジークに血をあげると言ったのに、冷たく拒まれたことを思い出した。
彼女は吸血鬼になりたかったが、ジークは吸血鬼の在り方そのものに、否定的な見方だった。
「どっちでもいいよ。今からジークと会うんだけど、深由ちゃんだっけ? 一緒に行かない? あいつとダーツやるんだよ。ベイカフェの店長のヨッシーと、バイトの向日葵ちゃんも来るよ」
朔夜は楽しそうに誘った。
「ダーツ、面白そうだけど、やったことないです」
「教えたげるよ。俺は朔夜。ほら、乗って」
朔夜が助手席のドアを開けると、深由は警戒心もなく、すんなり乗った。
車が走り出した。
4
ジークのボロい車に乗り込み、愛理は眠そうに、助手席で膝を抱えた。
彼女は無意識のうちに、シートにスニーカーを乗せた。
「あっ…。泥が…」
潔癖なジークが、眉を顰めた。
愛理は行儀が悪い。それと、細かいことを気にしない。
身長から性格まで、この二人は正反対だ。
「ジークの恋人は、どうして急に亡くなったの?」
「…殺されたんだよ。吸血鬼に血を吸われ、切り刻まれて…。そう、おまえらに…!!」
彼は愛理を睨み付けた。
愛理は驚き、
「知らなかった。うちの一族の誰かに?」
と尋ねた。
「わからねぇー。顔は見たんだけどな。俺は仇の名前も知らねーんだよ」
ジークはテンションが下がるのを感じた。
「愛理。黒瀧のジイサンがいる街って、おまえの身内以外に吸血鬼はいねーのか?」
「さぁね。でも、おじいちゃんは誰が犯人か、知ってるはずだよ。教えてくれなかった?」
「教えてくれねーよ!! あの妖怪ジジィ!!」
ジークは恨みが込み上げ、ハンドルを叩いた。
黒瀧の血のせいで、彼は生ける屍と化した。
愛理はジークの記憶を覗こうとするように、その眸を見開いた。
「ジーク! 犯人、どんなヤツだった!?」
「そうだな…」
ジークは記憶を取り戻そうとした。
しかし、暗闇が押し寄せてきて、記憶がぼやけてしまう。
微かな記憶の中、ジークの足元に、白衣を着た美しい女性が倒れている。
彼女は堅く、眸を閉じている。
あちこちに血が飛び散り、首筋から垂れた血が胸元を朱に染めている。
彼女の白衣に、眩いほどの午後の陽光が煌めいている。
子供を宿した彼女の腹が、残酷に切り裂かれている。
ジークは言葉を失くし、ただ立ち尽くす。
口を押え、震え続けるジーク。
目の前に、宙に浮いた脚がある。
黒いスーツを着た男、男物の黒い革靴が空中にある。
相手は空中に立っている。
ジークは相手を見上げた。
ジークは男の顔を、たぶん見た。
悪魔のような顔だった。
男は薄い唇の両端を上げ、微笑んでいた。
記憶の中の男は、周囲の輝きにも関わらず、黒く闇に包まれている。
そこだけ、空間の裂け目のように闇と溶け合い、一瞬だけ白い顔が浮かび上がるが、すぐに影ってしまう。
ジークは男の顔立ちを、うっすらとしか思い出せない。
「見えるか? 俺の記憶」
ジークが愛理に問う。
愛理は頭を振った。
「私には、ジークの記憶がぼやけてるのしか見えない。かなり強いヤツだってことは、なんとなくわかるけど…」
彼女は溜息を吐き出した。
「ジークの恋人、綺麗な人だったんだね。本当に」
愛理が覗き見た記憶の感想を言った。
「あんな綺麗な女は、他に見たことがねぇな…」
ジークの呟く声が、少し鼻にくぐもって聞こえた。
愛理は気遣い、彼から視線を逸らした。
ジークが泣いているような気がしたから。
「本当に好きだったんだねぇ…」
愛理まで、何だか切なくなった。
5
ジークが婚約者と知り合ったのは、南半球の地方都市。
研修で訪れた、異国の地。
空気中の湿度が低く、空気が澄んでいる為に、空は絵の具で塗ったようなスカイブルーで、湖もくっきりとした群青色をしている。
遠くにアルプスのような、雪と氷河を冠にした山々が見える。
湖岸の城館で行われた、初日のレセプション。
退屈なはずの顔合わせで、事件が起きる。
ジークの向かい側、最前列には、しばらく世話になる黒瀧教授と、その「祖父」である黒瀧博士が座っていた。
ジークと大祐の他、何人かの若手医師が左右に並んでいた。
その場に、彼女がいた。
彼女の美し過ぎる美しさが、ジークにとって、衝撃的な事件だった。
彼女は白い薔薇のように清楚で、儚げで、一際目立った。
彼女はまだ医大を卒業したばかりで、その歓迎会の参加者の中で最も若かった。
庇のように濃い睫、眸はガラス玉が入っているみたいにきらきらと輝き、なめらかな肌が透けそうに白い。
ジークは正直、大学病院の幹部連中なんてどうでもよくて、全然視界に入らなかった。
美しい彼女の姿だけで、彼の視界は満杯になった。
城館の中庭に設けられた席で、ジークが隣りの大祐に、ひそひそ囁いた。
「斜め後ろ、見ろよ。白いワンピースの。大祐。俺、こんな綺麗な女、見たことねーよ!!」
「へぇー。ジークが女をほめるなんて、珍しいな。初めてかな!? もしかして、一目惚れ!?」
大祐が驚いた。
でも、彼自身も興奮していて、
「ジーク。俺もさっきから、同じことを思ってた。これはヤバいよ。心臓がバクバク言ってる!」
と、囁き返した。
その日から、若い男性医師全員で、彼女をめぐる熾烈な争いが始まった。
彼女の夢は、難病から子供達を救うこと。
彼女は清らかな心と、崇高な理想の持ち主だった。
ジークはすぐに、彼女の全てが愛しくなった。
彼女の声も、仕草も、無邪気さも、彼を魅了した。
女性に積極的になったことがないジークが、彼女には用もなく話しかけた。
ジークの話す内容が余りにも不器用過ぎて、大祐は度々、横で吹き出した。
やがて、誰が見ても不釣り合いなカップルが生まれた。
ジークが彼女の心を射止めた。
「なんで、ジークなんだ!?」
周囲は、このカップルの誕生を不思議がった。
「何故、達紙くんみたいな無愛想な男に、あんな美人で性格もよくて知的な女性が!? 彼女は一体、達紙くんのどこに惹かれたんだろうね!? 何だか、勿体ない!」
そうストレートに呟いたのは、黒瀧教授だった。
傍から見ても、彼女の方が熱を上げてジークを追い掛け回すように見えてきた。
彼女はよく大祐に零していた。
ジークのメールの返事が遅いとか。お互い忙しくても、もっと一緒にいたいとか。
大祐は腹の底に、黒く嫉妬の炎が燻り出すのを、自覚せずにはいられなかった。
「ぶっきらぼうなのが、ジークの売りなんだよ」
大祐は苦々しく答えた。
大祐がどんなに親切に、情熱的に振る舞っても、彼女は一見冷たいジークに夢中だ。
大祐の方がルックスがよかったし、今までは女の子にモテたのに、彼女は興味を示さない。
「ジーク、どんな気分だよ!?」
大祐が冷やかすと、ジークはデレデレしつつ、
「なんか、最近、面倒臭ぇー」
と、天邪鬼ぶりを見せていた。
ジークと彼女が婚約した時、大祐は失恋と友情のジレンマに苦しんだ。
だけど、大祐は無理して微笑んだ。
「ジーク、おめでとう。おまえが羨ましいよ。すごく悔しいけど、祝福する。おまえは世界で一番、幸せな男だよ」
「大祐…、ありがとうな…」
ジークは大祐の葛藤を知っていた。
ジークは大祐に心から感謝して、差し出された手を強く握った。
知り合って三ヶ月、研修期間の途中で、彼女は身籠ったことをジークに告げた。
「赤ちゃんが出来たみたい。私達の子供よ」
天使のような笑顔で、喜びを告げる彼女を抱きしめ、ジークは、
「愛してる…。…俺と…結婚して下さい……」
とプロポーズした。
彼女といると、とてもピュアな気持ちになった。
彼は幸せの絶頂にいた。
不幸というものは、最も幸せな瞬間の後にめぐってくるのかも知れない。
まるでジークを奈落の底へ突き落とそうと、運命が皮肉な企みを、予め仕組んだかのように。
妊娠したことで、二人は結婚を決め、街の教会で結婚式を挙げることにした。
式の一ヶ月前、大学病院の中庭で、ジークを黒瀧博士が呼び止め、杖をつきながら近付いてきた。
「ジーク…」
黒瀧は中折れ帽を脱ぎ、テラスで、祝福の言葉を述べた。
「婚約おめでとう。きっと、こうなると思ってたよ…」
時折、黒瀧は未来を見ているかのような発言をする。
ジークは黒瀧の研究をリスペクトしていたし、こうして声を掛けられたのも嬉しかった。
黒瀧は意味ありげに話を続けた。
「あえて言う。結婚生活は長く続かないかも知れない……」
ジークは黒瀧の不謹慎な発言に、初めて顔をしかめ、不愉快に思った。
「ジーク。気を付けることだ…。君の心は深く闇に閉ざされ、光を完全に失うだろう…。それでも…、君は君であり続ける。君の意志の強さは本物だから…」
黒瀧は不吉な予言めいたことを呟いた。
「黒瀧博士…。どういう意味ですか…!?」
ジークが不安になり、黒瀧の眸を間近で、真正面から見た。
黒瀧の眸は深淵のように、穿たれた空洞のように、闇そのものだった…。
その眸は光を吸収するように黒々として、ジークの姿も映り込んでなかった。
ジークの背筋を、冷たい汗が流れていった。
彼は心底、黒瀧が恐ろしくなったが、闇に吸い込まれそうになり、視線を外せなかった。
黒瀧の眸の奥の深淵は、濃い闇の世界へジークを誘った。
どろどろとしたヘドロのような、汚らわしい闇が彼の両腕にへばり付き、彼を腐食していった。
彼は闇の中で錆び、ボロボロに朽ちていった。
意識が希薄になり、彼は数秒、闇と一体化した。
ジークはぶるぶるっと、水をかけられた犬のように身震いした。
精神の全てで闇を拒否し、抗うように、彼は黒瀧から眸を背けた。
彼は黒瀧が怖かった。
あの時の黒瀧は、黒い龍がとぐろを巻き、彼を見下ろしているかのように感じた。
「ジーク!! ジークったら!!」
愛理の繰り返し叫ぶ声で、ジークははっと、現在の時間に還ってきた。
ジークは驚いた表情で、愛理を振り向いた。
「蝶人の波が、ここから近いよ!! ジークを半殺しにした、あの老人の吸血鬼だよ!! どっちを追いかける!? 朔夜と深由ちゃん? それとも、蝶人!?」
愛理が叫んだ。
ジークは数秒、固まっていた。
彼はハンドルを叩き、歯噛みした。
「クソッ!!」
彼はブレーキを踏み、車を停止させた。