ph 68 雨 のち 虹
phase 68 雨 のち 虹
1
森の中の一軒家、いつか来たような…。
強い風で落ち葉が舞い上がり、小枝が折れて飛ぶ。
枯れ木ばかり多い森、梢の間から月が覗く。
ジークは肌寒く感じて、襟を立て、肩を窄める。
ここはどこだ?
ランプの灯りに誘われるように、ジークは戸を押し開く。
屋根に苔が生え、穴が開いている。
穴から、夜空の星が見える。
ジークは家の奥に、誰かの気配を感じる。
誰の家だろう?
知っていたはずなのに、今は思い出せない。
居間に暖炉があり、椅子が引いたままになっている。
誰かが今しがたまで、暖炉の側に座っていたらしい。
椅子には温もりが残っている。
「そうだ、俺はここで…彼と話をした。彼を怒らせ、悲しませてしまって…」
家が傾き、崩れていく。
時間の経過が急に進んだ。
埃が立ち、木が粉になり、天井や床が抜けていく。
「あいつの名前は…、確か…」
ジークが砂埃に飲み込まれていく。
2
ケイシーは愛理と朔夜の前で、ドロドロに腐敗して崩れ去った。
顔も体も、骨も内臓も、鍋で煮るように蕩けた。
愛理は水溜りに倒れたまま、彼が形骸を失い、闇の霧へ還っていくのを見た。
ケイシーが溶けた跡は、泡がぶくぶく沸き立っていた。
やがて、潮が引いた海辺に現れる岩のように、塊が隆起してきた。
ぬめぬめした膜に包まれ、腐った血の悪臭を放った。
塊が人間ぐらいの大きさになった時、プツッと膜の表面が破れた。
血が噴き出して流れ、中に入っていた人間が露わになった。
「ジーク!!」
朔夜が駆け寄り、よろめいて立つジークを支えた。
ジークは古代風の、前で合わせて帯を締めるチュニックを着ている。
どうしてそういう服装なのか、朔夜は一瞬ためらった。
「どこの国から戻って来たんだよ!? ジーク! 俺はもう、おまえがケイシーと一緒に溶けちまったかと思ったよ…!」
朔夜がジークを抱き締めた。
呆然としていたジークは、夢の続きを見るように呟いた。
「そうだ、あいつの名前はケイシーだ…。…俺は…彼を助けてやれなかった…。あいつの自我は…古い家が倒壊するみたいに、壊れてしまった…」
彼は残念な気持ちでいっぱいになった。
誰かがジークの前に膝を着いた。
「うあああ……。ケイシー…。こんなことが…。私の最高傑作がぁー!!」
黒瀧教授がすごい形相で、溶けたケイシーの残り汁を見詰めた。
黒瀧秀郷が上から、
「残念だったな、弥一郎? おまえは独立して自分の一族を持ちたいそうだが、許可しよう。好きにするがいい。どのみち、これから数年、我々吸血鬼も淘汰される時代に入る…」
と、話し掛けた。
黒瀧弥一郎は何も答えなかった。
秀郷は愛理を抱き上げ、
「弥一郎。最早、あの病院の研究も続けられないだろう。おまえは自分の道を探してくれ」
と、事実上、弥一郎の追放を言い渡した。
ジークは滅茶苦茶になった東京を見渡した。
言葉がなかなか出て来なかった。
世界は短い時間のうちに、大きく様変わりしていた。
どのぐらいの被害が出たか、ジークには想像もつかなかった。
「…ひどいな。これ…、全部、ケイシーがやったのか?」
「誰がやったと思う?」
ナオが笑いながら寄ってきた。
「ケイシーの…、あいつの妄想、願望がそのまんま、形になってる…。あいつは全てを破壊したかった。願望を現実にしてしまったんだ…」
ジークは止められなかった自分に、責任を感じた。
突然、愛理が秀郷の腕の中から、
「ジーク…! 大祐さんが死んだよ…!」
と、叫んだ。
ジークはびっくりして、鋭い目線を彼女に向けた。
「大祐が!? そんなのはダメだ。あいつは俺が殺すんだ!」
ジークが周囲を見回した。
大祐の黒焦げの遺体は、とうに闇に吸い込まれていた。
「大祐さんに聞いたよ。ジーク、ルビーさんを殺したのは、黒瀧忍人……」
愛理は苦しそうに喉を押さえた。
彼女の首から、出血が止まらない。
「愛理、どうしたんだよー!! おまえ、その傷、ケイシーに噛まれたのかよー!?」
ジークが何も覚えてないので、愛理は憎たらしく思った。
「あんたを助ける為に、こうなったんだよ」
「ジーク、おまえが愛理を噛んだ。正確に言うと、おまえと融合していたケイシーが…」
朔夜がジークに説明した。
「お、俺が!?」
ジークが混乱した。
「ジーク。忍人のことは、朔夜か圭太さんに聞いて…。それから、K医大病院にヨッシーさんがいる…。大祐さんに殺されそうになったけど…、たぶん命は助かる…」
愛理はぜいぜい言いながら、何とか掠れる声で伝えた。
ジークは彼女の手を握り、
「わかった。ありがとうな、愛理!!」
と、言った。
「大祐のヤツ、今度はヨッシーを…」
ジークは様々な思いが去来して、戸惑った。
でも、ヨッシーが助かるだろうと聞いて、嬉しかった。
「ジーク…。朔夜とナオさんが血をくれたから、ジークの心臓は腐らずに済んだんだよ。忘れないで…」
愛理が伝えると、ジークの中で、朔夜とナオの血が反応を示すようだった。
血に意識があるように、彼等の温かい血がジークの中をめぐっているのがわかった。
「マジかよ」
ジークが朔夜を振り返った。
「忍人って、誰?」
ジークが早速、尋ねた。
朔夜は気まずい顔をした。
秀郷が代わりに答えた。
「忍人は…四百年前に廃嫡した、私の長男だ。母親は鵜野影馬の娘、お那津。神出鬼没な男で、どこからでも出入りする。ルビーを殺したのは、あいつだ」
「ジイサン…。ずっと、知ってたんだよな…」
ジークが眉間に皺を刻んだ。
黒瀧は頷いた。
「ああ。私は全て視ていた。私があいつを一族から追放した。あいつが残虐な行為を好むのは、鵜野譲り。常に諍いの種を蒔く。あいつの成長は十八歳で止まっている」
「マジか。あんたの息子が犯人なのか。ジイサン。そいつ、今どこにいる!?」
ジークの声が低くなり、苛立ちが感じられた。
「この世の最果ての城…と言う。多くの奴隷を支配している」
秀郷は腕の中の愛理を見詰めた。
「この子の両親を追放せざるを得ない状況に追い込んだのも、既に他人であるはずの忍人だった…」
「気に食わねー。…ジイサン。俺はずっと不満だった。あんたの秘密主義や勿体ぶった話し方…、黒瀧教授の研究の黙認…。ケイシーを…、あんたは最初から殺すつもりで、俺を遣わしたんじゃねーのか?」
ジークが凶暴な目つきで睨んだ。
「…ジーク。深淵の王降臨のシナリオは、弥一郎が書いたものだ」
「信じられねー。いや、信じろっつー方が無理だろ!?」
ジークは強く言い切った。
「ジイサン、あんたの話が全部信じられねー。あんたが一番悪党なんじゃねーの?」
ジークの髪が風に吹かれ、逆立っていく。
骨がピキピキ音を立てる。
「人間の世は混乱を極めていく。今日の出来事が発端となって。世界中で人間が、吸血鬼を狩る為に立ち上がるだろう。終わりなき戦いが待っている…」
秀郷は踵を返した。
愛理は貧血で意識を失っている。
「ジーク。ルビーの仇を討つがいい。私はおまえの方を支援する。…笑ってくれ、ジーク。私は鵜野の娘との間に生まれた十人の子供を、全て追放か、死刑にしたんだよ」
「笑えるか。待てよ、ジイサン!」
ジークが秀郷の肩を掴んだ。
SPが秀郷の前に進み出た。
「そろそろ、愛理お嬢さまのご容体が…」
「そうだな」
黒瀧秀郷は愛理を治療する為、車に乗った。
ジークは愛理の為に、ぐっと我慢した。
ジークは悪酔いしたような気分で、走り去る車を眺めていた。
「全てがどんどん悪くなってくような気がする…」
「そうだ。おまえに自衛隊と米軍がミサイルを撃ち込んだら、俺が冤罪だと言ってやる」
朔夜が咳込み、ふらついた。
「朔夜? てめー、無理しやがって…」
ジークが朔夜の腕を肩に担ぐ。
「愛理ちゃん、大丈夫かなー。重体だよねー、あれ。遂に、人間の血を吸うしかないだろうねー」
圭太が愛理を心配している。
「私達も狩りをしないと、限界です」
香が冷静な意見を付け足した。
「行くか。ジーク。最果ての城へ…」
ナオが、ジークとハイタッチした。
「おお、来てくれんの? ナオ」
ナオがジークの反対に回り、朔夜の腕を担いだ。
「おまえら、パーカ。俺はまだ死なないし」
担がれた朔夜が笑う。
「永遠にここでお別れだ、大祐…」
かつての親友に別れを告げ、ジークが地下に入った。
その後、金色の朝日が、斜めに大地に射し込んでいった。
日の光で衝撃的に明らかになるのは、破壊され尽くした東京の姿と、無残な死体の多さだ。
今までの常識が覆される、血生臭い日常がやって来る…。
3
ケイシーと愛理が戦いを始める少し前に、ディーヴァは国会議事堂のすぐ側に降りた。
彼女はそこから一番強い波を感じていた。
ディーヴァは雨に煙る議事堂の、最も高い屋根の上に、ジークに似た人影を見つけた。
「あれ…、ジーク!? でも、波が全然別人なんだけど…」
彼女は自分の気配を消し、様子を窺っていた。
物音がして、
「誰!?」
と、振り向いた。
意外な人物が、すぐ側にいた。
彼は笑っていた。
「鬼姫ちゃん。久し振り。東京まで、何しに来たの?」
「如月…くん…!!」
ディーヴァは思わず、声を上げた。
「そんな幽霊見るみたいな顔しないで。大分弱ってるけど、オレ、まだ生きてるから。今日の黒瀧の攻撃で、またたくさんのガーデンと卵を失っちゃったけど…。そんなの心配しなくていいぐらい、順調に黒蝶を増やしたから。悪魔の真珠、あの種の直系で、日本に新しい国を造るよ…」
憂が囁いた。
「き…如月くん…」
ディーヴァはショックを受けた。
喉がカラカラになった。
「如月くん、一人でやったの? 何人か同級生を引き込んだって聞いてるけど…、子供だけで黒蝶を繁殖し続けたってこと!?」
「そう。すごいだろ?」
憂は自賛した。
「この国の総理大臣にも、黒蝶を寄生させてやった。不老不死になれますよ、って。後の副作用なんて、ははン、教えてやるもんか」
憂は空に向かって両手を広げ、
「鬼姫ちゃん、オレが新しい世界秩序を作る。オレが作るのは、ゲームのルールブックさ。後は勝手に、世界が動いていく。…みんな殺し合って、人口がスッキリ減るんだよ」
と、無茶苦茶な理論を口にした。
「黒蝶を寄生させた…?」
ディーヴァは首を傾げた。
「鬼姫ちゃんは蛾より、人間の意識が勝ってるね。黒蝶は蝶の意識が勝つんだ」
憂が瓦礫に足を掛け、背伸びをした。
議事堂の方では、ケイシーと愛理の戦いが始まった。
「吸血鬼の意識が勝つって言ってるの?」
「そうだよ。蝶が勝つからね、頭の中、凶暴な食欲だけになる。あはは…」
憂は無邪気そうに笑って見せた。
言ってる内容は、悪魔的だった。
「鬼姫ちゃん、しばらく学校は休みになるよ。明日の朝刊によると、オレ達は突然の隕石だか、ミサイルの誤爆だかの災厄に見舞われたんだよね。難民になったんだよ。わかる? 日本の首都機能がしばらく麻痺しちゃうの。何万人も死んじゃったんだよー」
彼は嬉しそうに言う。
「当分、学校なんて行かなくていいんだ!」
ディーヴァは言葉が浮かばなかった。
憂が饒舌に喋り続けた。
「オレは学校大好きだったんだけど。なんか馴染めなくて。何だろうね、自分から入れないっつーか。自分を見せるのがうまくないんだよね。学校なんかさ、もう無くなったっていい。会社も無くっていい。みんなストレスから解放されて、自分で野菜作ったり魚釣ったりすればいいじゃん? 面倒なら、血を吸うって手もあるし。鬼姫ちゃん、お父さんが出て行ったんだろ? 独りになっちゃったんだ。じゃ、オレ達と遊ばない? 子供同士でね。オレと行こうよ」
ディーヴァは憂の手を払った。
「誰のせいで独りぼっちになったと思ってんの? あんたのせい。黒蝶がラボを襲撃したから…」
「自由になれたじゃない。組織から、クソ親父から、あの塾の先生、加藤から…。鬼姫ちゃんはこう思ってた。結婚ぐらい自由にしたいって…。夢が叶うじゃん。これからは自由に選べる。蛾でも、人間でも、黒蝶でもいい。夜叉だって吸血鬼だってゾンビだって、何でもある」
憂は狂ったような理屈を並べた。
「私は…人間なの! 私は血液パックで血を飲んでるだけだから」
「それって、立派な吸血鬼だよ。主食は人間。米でも小麦でもない」
憂がディーヴァを嘲笑う。
「吸血鬼って言うのは、やめて!! あいつらと一緒にしないで!!」
ディーヴァがキレた。
「鬼姫ちゃん。なんで、そもそもこういう事態になったと思う? 人間が老いと病に苦しめられる生物で、吸血鬼が長寿を独占してたからさ。オレ、吸血鬼大嫌い。あいつら、滅ぼしてやる。オレの黒蝶の兵隊使って、吸血鬼を皆殺しにするんだ。それがオレと加藤のヴァンパイヤ・ナイトだったんだよ…」
憂がディーヴァの耳元に囁いた。
「ね。一緒に吸血鬼を狩ろう。そうしよう」
憂がディーヴァを誘った。
ディーヴァは始め、困惑していた。
「私だって、仲間の仇を取りたいけど。一人じゃ何も出来ないし。…如月くん。それ、最終的に黒蝶はどうするの? あいつら、大量に餌を必要とするんでしょ?」
「黒蝶と吸血鬼を相打ちさせる。始末は簡単だよ」
憂が腰に手を当てた。
「面白そうだね…。もう少し聞かせて」
彼女はその話に興味を抱いた。
4
ヨッシーが病室で目覚めた。
「まだ夢を見てんのかな…」
彼は呟きかけ、麻酔でまだ体や唇が動きにくいことに気付く。
彼の包帯で縁取られた視界の中に、泣き顔のベロニカと、擦り傷だらけのサリム、それからもう一つ、どこかで見たような顔がある。
幾分髪が伸びたような、更に痩せて野良犬っぽい顔立ちになったような、目つきの悪い男がいる。
「これがジークさんだったら…、俺、話したいことあったんだけどな…」
ヨッシーがぼそぼそ話した。
「言ってみろよ。早く」
目つきの悪い男が急かした。
「ジークさん…。ううん、面倒だ…。ジークでいいや。…ジーク、この野郎…。俺があんたのせいで、どんな怖い思いをしたと思ってんだ…。何回もだぞ…」
ヨッシーが言うと、目つきの悪い男は、似合わない涙を流した。
「ごめんな…」
ヨッシーは何だか本当にジークに伝えられた気分になって、満足した。
また眸を閉じ、うとうと眠った。
しばらく寝て目が覚めたら、今度は目つきの悪い男が一人で、枕元の椅子に座っていた。
彼は心配そうに、ヨッシーの顔を覗き込んでいた。
「ジークさん…?」
先程よりはっきりした意識で、ヨッシーがジークに問い掛けた。
「ジークさん…。…吸血鬼でもいいや。…俺達、友達でいよう…」
ヨッシーが指先を微かに動かし、ジークのシャツに触れた。
ジークはヨッシーの手を取り、
「ん…。ありがとう。すげー嬉しいよ」
と、素直に表情を和ませた。
二人は何も話さずに、時間が過ぎた。
「また来るわ」
ジークが立ち上がり、背中を向けた。
「うん、待ってる。また今度」
「ああ、じゃーな」
ジークが手を振り、ドアを閉めた。
「あ、虹だ」
ヨッシーが窓の外に、虹を見つけた。
雨上がりの空に、淡く光る虹が架かっていた。
ヨッシーは安心して眠りに落ちた。




