ph 67 生贄
phase 67 生贄
1
愛理は国会議事堂に近付いて行った。
中央塔のピラミッド状の屋根に、ジークの外見をしたケイシーがいる。
建物前面には、ギリシャ神殿のような柱が並んでいる。
愛理の左右に島状の二筋の植込みがあり、正面には大階段と車寄せの半円型スロープがある。
彼女は貴賓専用の大玄関の前に立っている。
建物の左右に、衆議院と参議院の各本会議場がある。
この国会議事堂の裏手に首相官邸、愛理の後方に皇居の堀がある。
皇居の向こうにスカイツリーが見えていたはずだが、今は上半分が無い。
「ジーク…。本当はジークなんでしょ…?」
愛理は僅かな希望にすがりたかった。
斜めに被ったキャップから、雨が滴る。
彼女は軽く助走を付け、大玄関を飛び越えた。
彼女が大玄関の屋根に乗ると、塔の上のケイシーと、距離が一層近くなった。
ケイシーは膝を立てて座ったまま、三つの眸で愛理を睨んでいる。
言葉を解さない獣のように。
「ジーク? 返事してよ…。私の知ってるジークなんだよね?」
愛理は彼の波を読んだ。
どこにもジークの波長はなく、全く未知の巨大なチカラのみが彼女を圧迫してきた。
ケイシーは野良犬のように、低く唸った。
愛理は残念だった。
そして、恐怖が込み上げた。
東京にこの激震をもたらした元凶に、一人で挑まなくてはならないのだ。
覚醒も出来ない彼女の命は、まるで風前の灯だ。
彼女の足が竦む。
愛理はジークと出会った日を思い出した。
ボロマンションのドアから現れた男は、痩せて目つきが悪い、野良犬みたいな男だった。
泣き虫の愛理が、涙を拭った。
「私の友達のジークは…、本当に死んじゃった? あなたの中に、欠片も残ってないの?」
愛理は言いようのない寂しさを感じた。
「ウウ…」
ケイシーがまた唸った。
彼の自我は崩れてしまい、どんな言葉も出て来ない。
「じゃ、その顔やめてよ。殺しにくいんだから。なんで、ジークの心もないくせに…」
愛理は悔しそうに言った。
彼女はケイシーの血を飲んで、生まれて初めて覚醒しようと考えている…。
それしか、方法がない。
愛理は緊張の余り、心臓がバクバク言って破裂するんじゃないかと思った。
彼女はキャップを脱ぎ捨て、濡れたショートヘアーを晒した。
度胸を振り絞って、ケイシーを見据えた。
膝が笑った。
ケイシーの体から、湯気が立っている。
彼に触れる雨が、瞬時に水蒸気になる。
「あいつの血、熱過ぎて飲めないかも…」
愛理は膝を屈め、中央塔の屋根へ跳躍した。
国会議事堂の真上で渦巻く、闇の深淵の境界。
雷が落ちるように、深淵から閃光がケイシーに走って、パワーが流れ込む。
今や心を失くしたケイシーは、闇の深淵がこの世に作用を及ぼす為の、単なる媒体に過ぎない。
闇が彼を中心として、この世全体へ広がっていく。
世界がどす黒く染められていく。
愛理がケイシーの後ろに回り、噛みつこうとした。
「ケイシーの血が欲しい!!」
牙を剥き、心の中で叫ぶ。
ケイシーは頭を180度回転させ、頸椎をバキバキ鳴らした。
愛理はケイシーに睨み付けられただけで、見えない力に100メートル吹っ飛ばされた。
「ダメだ、側にも寄れない!!」
愛理は空中で体勢を立て直し、ケイシーの衝撃波を避けた。
「オオー…ン…」
ケイシーが獣の声で啼いた。
皮膚の下で骨が蠢き、頸椎が自然治癒していく。
ケイシーは右手で黒飛龍剣を掲げ、物質界を更に切り裂いていった。
闇が怒涛の洪水のように流れ込み、焼けた大地に降り注いだ。
「おじいちゃん!!」
愛理は怖くて泣きそうになって、祖父を見た。
八人のSPに囲まれた黒瀧は、距離を開けて、別の黒服の男達と対峙していた。
「あっ…!!」
愛理は空中で叫び声を漏らした。
黒瀧は、黒瀧弥一郎と大祐ら数人の幹部を前にしていた。
「おじいちゃん!! 弥一郎おじさん…!!」
愛理は祖父の元へ戻りたかった。
が、ケイシーの攻撃の第二波が来た。
彼女は渦巻く風に捕らわれ、回転しながら吸い上げられた。
風の中に仕込まれた亀裂が、愛理を細かな千切りにしようとする。
彼女は亀裂をかろうじて避ける。
愛理は突風の向きに集中した。
でも、深淵に向かって渦巻く波に呑まれてしまう。
「ジーク!! 助けて!!」
愛理は思わず、口に出した。
「あんたがいなきゃ、私は…半分もチカラが出ないよ!!」
彼女の体から、魂が引き剥がされていく。
愛理の眸が潤み、涙が溢れそうに盛り上がった。
「ジーク! あんたと一緒にいる時は、いつも笑えたよ!!」
彼女の魂は、肉体から抜け出た。
「ジーク…、助けてあげたかったよ…。こんなの残念だ…」
とうとう愛理の全てが、肉体から離れた。
涙がぱあっと、シャボン玉みたいに散った。
涙の滴が雨の滴と絡まり合って、ケイシーの上に落ちていった。
ケイシーは無表情に、雨を受け流した。
落ちていく愛理の肉体を、誰かが受けた。
朔夜が彼女をしっかり抱き留め、
「ジーク、目を覚ませ!! おまえはケイシーじゃない。自分を取り戻せ!!」
と、咆哮した。
2
黒瀧が空を見上げ、満足そうに言った。
「帰って来たな…、新月…」
黒瀧弥一郎の方は、悔しそうに歯軋りした。
「秀郷さん。喜ぶのはまだ早いんじゃないですか? 朔夜は死にかけの龍。ジークも死んだ。あなたの手元に、有効なカードは残ってない」
「そう思うか? 弥一郎」
黒瀧秀郷がにやりと笑んだ。
暗雲の空、ナオと香が、異界縮図を一枚ずつ抱えていた。
異界縮図は薄暗い空に出現した、二つの太陽のようだった。
「黒瀧さーん。そろそろ、深淵を閉じましょうー」
圭太が地上の秀郷に告げ、光る六芒星を描いた。
「そうだな。徳阿弥、頼んだよ」
秀郷が圭太に応え、杖を横に投げ捨てた。
「やめろ、黒瀧!!」
大祐が叫び、妨害しようとした。
それを、弥一郎が掴んで止めた。
秀郷が両手を交差し、十本の指をかっと開いた。
秀郷の波が一点に織り込まれ、黒い光を発した。
いや、黒い光なんてものは存在しない。
黒いものは闇だ。
この黒い稲妻は、ネガとポジのように世界を逆に暗転させる。
巨大なチカラが頂点に達し、超新星が誕生するように闇を周辺に放った。
弥一郎と大祐達は、闇の閃きに背を向けて伏せた。
黒い地獄火のように、身が焼かれるのを感じた。
黒瀧秀郷の発した黒い閃きは、彼自身を包み込み、渦巻く黒雲を取り込んだ。
闇は遠い地平の彼方まで包み、世界を夜に引き戻した。
黒い稲妻が異界縮図を貫いた。
呪術具を通過した闇が交差し、暗黒の特異点を開く。
圭太が異界に手を伸ばした。
「愛理ちゃん!! 俺の手に掴まって!!」
圭太の手と、愛理の魂の手が取り合った。
「愛理ちゃん、ケイシーにこれを捻じ込んでくれ!!」
圭太が愛理を物質界に引き戻し、荷物を手渡した。
愛理は自分の肉体に戻り、朔夜の腕の中で目覚めた。
彼女の手には、圭太のリュックがあった。
「これ、中身は何?」
愛理が朔夜に聞いた。
「ここ、桜田門か。俺が人間だった幕末に、桜田門で誰が暗殺されたか、知ってるか?」
朔夜が彼女の質問と無関係なことを言った。
「今、どうでもいいよ。朔夜」
「愛理、そのリュックの中身で、ケイシーに止めを刺せ。援護する」
朔夜が愛理を放り出す。
彼女は朔夜が微笑むのを見た。
「朔夜!? 何があったの?」
愛理が地上へ落ちていく。
愛理の落下するのを、ケイシーが待っていた。
ケイシーはチカラを漲らせ、体から白い炎を噴き出した。
「熱っ!!」
愛理は衆議院本会議場の屋根に降りた。
ケイシーが愛理を狙って衝撃波を撃ち、南棟の大屋根がポンッと吹き飛んだ。
国会議事堂の屋根がどんどん爆破されていく。
ケイシーの周囲が、熱で溶け始めた。
彼は黒飛龍剣を振りかざし、黒瀧秀郷の発した闇を吸い取った。
国会議事堂の上空に開いていた深淵は、圭太達によって閉じられつつあった。
「弥一郎。誰が深淵の王だって? 闇の深淵とは、私自身の異名に過ぎない」
黒瀧秀郷が弥一郎に言った。
弥一郎は大祐の下から這い出た。
大祐は黒焦げになり、干からびて死んだ。
「秀郷さん…。あなたの自惚れが一族の衰退を招いたんだ…。私は…人間なんかに屈服しない…。最強の吸血鬼を作ってみせる…」
弥一郎が秀郷を睨み上げた。
3
愛理はいつものように、軽く動けない。
いつもなら豹のようにしなやかに、全身がバネになって跳べるのに。
今日の彼女は、緊張してガチガチに固まった。
「朔夜、どうやってもケイシーに近付けないよ。ケイシーを殺したら、ジークは二度と戻ってこないよね? そんなこと、出来ないよ…」
愛理の思念が、朔夜に届く。
朔夜は闇色の翼を操り、ゆっくり降りてきた。
「愛理。おまえなら、きっと出来るはずだ。ジークの心に一番近付けるのは、おまえじゃないか…?」
「私が?」
愛理が考え込んだ。
「愛理、動くなよ」
朔夜が流星剣を地上に撃ち込んだ。
国会議事堂と周辺一帯が、粉末状まで砕かれ、塵となった。
流星剣はケイシーの逃げ場を奪った。
彼は追い詰められ、愛理の立つ場所に次々と、衝撃波を撃った。
愛理は瓦礫で埋まった。
「愛理ー!!」
朔夜が呼ぶ。
愛理は一応、生きていた。
手傷を負い、血だらけだ。
「朔夜は…ケイシーの中に、ジークがまだ残ってると思ってるんだ…? 私はどうやって、ジークを見つけてあげたらいい…?」
彼女は瓦礫の上へ這い出した。
前方に、切り刻まれながら死ぬのことない、不死身のケイシーが立っている。
全身から、黒い血を垂れ流して。
「ジーク…。絶対、私の声が聞こえてるはずなんだよ。あんたには、まだ精神が残ってる。ケイシーの自我が崩壊したのに、あんたの形骸を保ってるんだから…」
愛理は埃と雨でどろどろのシャツを脱いだ。
肌に張り付いた、薄いキャミソール。
体のラインが出て、豊かな胸の谷間がくっきり見える。
愛理はベルトに付けたシースから、ナイフを抜いた。
「ジーク。あんたはかなり弱ってる。ケイシーの意識に支配されて、自分をケイシーだと思ってる。もう同化してしまったわけだけど…」
愛理は左腕に、ナイフの刃を斜めに当てた。
彼女は雨で刃が滑らないように、きっちりと押さえ、身に食い込ませた。
ケイシーはじっと愛理を見ていた。
その眸は青さを失い、今はただ、ジークの眸のように白い。
愛理の左腕が縦に長く切れ、血が滴った。
血は指を伝って流れ、爪先から地面へ、ポタポタと散った。
血の匂いが、ケイシーの鼻孔を刺激した。
「ジーク。バカで変態で見栄っ張りで、甘えん坊で寂しがり屋で、ドン臭くて弱っちぃジーク。ダメで情けない男だけど。あんたはもう、この世にいないかも知れないし、また異界の深淵に沈んでるかも知れない…。でも、私とあんたは繋がってる。私達を繋ぐ、ただ一つのもの…。それは、血だよ…」
愛理が話すのを、ケイシーは黙って聞いていた。
「ジーク。私とあんたには同じ血が流れている。黒瀧の一族の血。おじいちゃんの血。ケイシーにも…」
愛理は血の流れる手を、ケイシーに向けた。
「さあ、飲んで。ジーク、自分を思い出して。私の血の匂いを嗅いで。私の血を飲み干していい。それで、あんたの体力が回復してくれるなら…」
愛理が硬い表情で無理に微笑み、ケイシーを誘った。
ケイシーは血の匂いに、ぞわぞわと体中の神経がざわつくのを感じた。
条件反射で、口の中にヨダレが湧く。
深淵というエネルギー源を絶たれたケイシーは、喉に激しい渇きを感じた。
ケイシーは夏の犬のように、はあはあ荒い息をした。
「血…!!」
彼の意識が狂う。
眸が鬼よりも吊りあがる。
「血ダ…!!」
ケイシーは口からヨダレを吹き出し、愛理の血に引き寄せられた。
「そうだよ。飲んでいいの。私は血をあげること以外、ジークを助けてあげられないんだから…」
愛理は彼を抱き締めた。
彼の体温は、愛理が火傷するほど熱かった。
彼女は奥歯を噛んで、火傷に堪えた。
ケイシーは眸を閉じ、遥か昔の、母親に抱かれた記憶を思い出した。
記憶の中で、彼の両親は離婚し、母は彼を捨てて男と出て行った。
ケイシーは愛理に抱きしめられ、数秒、おとなしくしていた。
やがて、彼の本能が、行動に切り替わった。
「血ダ…!!」
ケイシーは愛理の背中に爪を立て、肩から思いきり噛みついた。
牙が食い込み、血飛沫が飛んだ。
「痛っ…!!」
愛理は一瞬、歯が突き刺さる痛みを感じた。
けれど、すぐに感覚が麻痺した。
愛理は鈍る感覚に負けないように、歯を食い縛った。
「くぅ…」
彼女は渾身の力を込め、圭太のリュックをケイシーの腹に捻じ込んだ。
「死ね、ケイシー!!」
「グウガァッ!!」
ケイシーが必死で愛理を突き飛ばした。
愛理はケイシーに突き飛ばされ、肩を手で押さえた。
「ざまぁーみろ!! よくも、ジークを殺したな!! 畜生!!」
彼女が表情を荒げ、本音を吐露した。
彼女はよろめき、貧血を感じた。
「もっと…、血を寄越せ…!!」
ジークの声が、ケイシーの口から洩れた。
「ジ…ジーク!?」
愛理が驚いて叫ぶ。
彼女はかなり大量の血を奪われ、ひどい火傷で爛れている。
彼女の肩と細い首はちぎれそうに裂け、命を落とすほどの重傷を負っている。
ケイシーが愛理を掴み、乱暴に血を啜った。
彼は血を飲みながら、腹部に食らった攻撃の為、腹から腐乱し始めた。
「これでケイシーは死ぬ…。相打ちでも構わない。ジークの仇が討てたなら…」
愛理が泥の水溜りに倒れた。
「グボッ!」
ケイシーが血にむせた。
腹にはリュックが捻じ込まれ、背中を突き破っている。
リュックが熱で溶けた。
何かが直に、ケイシーの血や肉と触れ合った。
「これは…何だ!?」
ケイシーがジークの声で呟いた。
愛理は倒れた状態で、薄目を開けて見た。
彼女はケイシーの方から、ジークの波を感じた。
ドクン、ドクン。
ケイシーの腹から、ジークの鼓動が聞こえ始めた。
「ジーク…。ジークなの…!?」
愛理が死を前に、彼に尋ねた。
「愛理…か…?」
ケイシーがジークそっくりの表情で言う。
しかし、彼は貪欲に血を求めた。
飲むことを中断出来そうにない。
朔夜が舞い降り、漆黒の翼を畳んだ。
「ジークが俺達の結界の中に残したカラダは、腐乱して溶けてしまった。唯一残った、干物みたいな心臓を…、俺達がこの時空に運んできたんだ!」
朔夜は気持ち悪そうに、吐き気を堪えた。
「俺とナオが自分の身を切り裂いて、ジークの心臓に血を与えた。心臓が腐ったり、干からびたりしたら、ジークの命も終わってしまう。だから…」
朔夜はいきなり、喀血した。
手に付いた血を凝視し、また彼は口を開いた。
「ジークの心臓が動いてる…。そうだ、ジークは死んじゃいない…。あのバカは、自分を見失ってるだけだ…」
ケイシーの体にある二つの心臓が、連動してリズムを刻んだ。
心臓と心臓が共鳴し、ケイシーの静脈が膨らみ、いつもの倍も強く脈打った。
「朔夜…。ジークの為に、どんだけ血を使ったの…? なんか、様子が変だよ…」
愛理は朔夜が衰弱しきっているのを感じた。
「俺は別にどうなったっていいんだ…。俺は仲間を死なせない。百五十年前、吸血鬼になった時に誓ったんだ」
朔夜がぺっと血の塊を吐いた。
「あ…愛理。朔夜…。俺は一体…どうなって…。これは夢か…?」
獣のケイシーと、ジークの自我が交互に現れた。
彼は膝を着き、呼吸困難で喘いだ。
それから急にばたんと倒れ、痙攣した。
「ジーク!!」
朔夜が駆け寄った。
ジークはもう冷えてきた。
彼の二つの眼孔から、眼球が流れ出した。
顔が溶け始め、ドロドロに溶けてカタチを失っていった。
彼の体から黒い霧が立ち上り、闇へ帰結していく。
ケイシーの肉体が、遂に力尽きようとしている。
「なんで!? あんなに俺達の血を注いだのに!! 愛理の血も飲んだのに!!」
朔夜が失望に声を荒げた。
ケイシーが溶けていく。
同時に、自我を取り戻したジークも、溶けていく。
ジークの額の眸の中で、黒い銀河が回転する。
黒い星々が引き合う。
もっと多くの生贄を求め…。




