ph 6 蛾女
phase 6 蛾女
1
鬼神の覆面の男・ヘルが仲間を制止し、屋根の上のジークを見上げた。
「俺達は黒蝶を始末する為の、バスターズってとこかな。あんたは別口の吸血鬼みたいだな!?」
彼の手には、物騒な本物の銃が握られていた。
ジークは舌打ちし、
「そういうおまえらも、吸血鬼なんだろう!? 覆面を脱げよ。俺には透けて見えてるぜ」
と言い返した。
ヘルは思わず、手で顔を隠すような仕草をした。
「俺達は吸血鬼なんかじゃねぇー!!」
スカルが前に出て、ジークに向かって叫んだ。
「おまえら、吸血ヒル野郎と一緒にされたくねぇ!!」
スカルが自分の覆面をむしり取った。
スカルの頭部は、勿論人間なのだが、昆虫の頭部にも似ている。
その眼は複眼じゃないにしても、異様に大きく発達している。
眉毛が触覚のように浮いている。
顔がうぶ毛に覆われ、歌舞伎の隈取のような模様がある。
「…おまえらも、腕が四本か? 人間より、蝶人に近くねぇか!?」
やっとのことで、ジークが声を絞り出した。
「おまえの質問にいちいち答えている暇はない。我々は黒蝶を追う…!! ディーヴァ、こっちへ!」
ヘルが急ぎ、仲間の一人を呼んだ。
「ディーヴァ、おまえに任せる。俺達は先に行く。おまえは後から来い」
「はい」
少女の声が短く応えた。
ジークの目に入ったのは、初め、褐色のロングコートだ。
フードを被っているので、ジークから少女の顔は見えなかった。
少女がコートを脱いだ。
正確には、両腕を袖から引き抜いた格好で、コートはそのまま、背中に引っ掛かっていた。
長いストレートの茶髪と、華奢な肩のラインが現れ、ジークはどきっとした。
十五歳ぐらいの少女なのに、艶めかしい雰囲気に包まれている。
少女の背中に引っ掛かっていた重そうなコートが、やがて横へ、するするっと広がっていった。
鮮やかに変形していくコート、何かのマジックみたいに、四枚の翅へ変化していく。
色も淡くなり、表側の中ほどに濃い青やピンクが差した。
絵本に描かれる、蝶の翅を持った妖精のようだ。
ジークは少女が振り返る瞬間を待っている。
少女が変貌を遂げるまで、時間は多くかからなかった。
その間に、大急ぎのヘル達は分かれて車に乗り込み、ダウンタウンへ消えていく。
少女の眉の辺りから、二本の触角のようなものが生え、ふさふさと毛を生やしながら両側に弧を描いた。
振り向いた少女は、色っぽいランジェリーみたいな、ラベンダー色のボディースーツを着ていた。
ぴったりした露出度の高いコスチュームが、彼女の豊かな胸の谷間と、引き締まったウエストを強調している。
ジークは反射的に、唾を飲んだ。
「何、このコ…? エロくねぇ?」
少女の顔立ちが完璧で、ジークは見とれてしまった。
ただ、彼女の視線は、敵愾心に満ちて鋭かった。
彼を見上げたディーヴァが、次の瞬間には跳躍一つで、屋根に上がってきた。
ジークとディーヴァが、同じ高さで対峙した。
「ディーヴァちゃんて言うの? スゲー綺麗な翅なんだけど、…蝶じゃなくて、蛾なの!?」
敵だと思いながら、ジークは少しトキメいた。
「それは禁句。私は鬼神」
ディーヴァは挑発的に翅を羽ばたかせ、蛾の鱗粉を飛ばせた。
グロテスクな兄弟達と違い、彼女の美貌は本物だ。
それに、美しい肢体は月に照り映え、白く輝いている。
「俺をどうしょうって?」
ジークは彼女の匂いに、フェロモンみたいなものを感じた。
彼は面白い格闘を期待した。
「始末する。人間を襲う吸血鬼は全部、我々の敵だ」
ディーヴァが凛として言い、宙に舞い上がった。
「おまえ、蛾女のくせに、人間を守る側かよ!? そんなのアリなんだ!?」
ジークも身構えた。
ディーヴァは鬼神の名の通りの神速で、攻撃を開始した。
ジークは彼女の爪先を軽く避けて退がり、続く攻撃もブロックを試みた。
ディーヴァは拳で打つと見せかけ、寸前に爪でジークのブロックを切り裂いた。
ぴゅっと、ジークの黒い血が飛んだ。
ジークは驚いて、ディーヴァの指先を見た。
黒い手袋をしていると思ったが、既にその指先が、剃刀のような切れ味へと変化していた。
微かに触れるだけで、肉が深く切り裂かれる。
このままだと、ジークが切り刻まれる。
「これだけ顔がカワイイと、殴りにくいな…」
彼は独り言を漏らした。
彼女の印象的な眸に、ジークの視線が吸い寄せられてしまう。
そうすると、彼女の美しい顔が何重かにダブって見えた。
「あの鱗粉、麻薬の成分でも入ってんのか…」
ジークの頭がクラクラした。
ジークは足元を誤り、屋根からアスファルトへ落ちた。
彼は空中で体勢を立て直し、何とか着地した。
それでも、全身の力が抜けていくようで、急に片手と片膝を地面に着いた。
「ヤベー。目が回る…」
酸素が足りないように、息が苦しくなってきた。
目の周りがチカチカして、青や赤の光が見える。
「ジークがヤバいよ!!」
愛理が助手席のドアを開け、外へ飛び出そうとした。
「待てよ。手を出すなよ、愛理さん。だって、黒瀧さんの血を分けられた男なんだろ。これしき、自分で何とか出来なきゃなぁー」
運転席で嫌味を言うのは、朔夜。
二人は向かいのハンバーガー店のドライブスルーを回っている。
ジークが蛾女と戦う、レンタルビデオ屋の裏口側は、通りから完全に死角になっている。
肉眼で見えないということは、この二人に特に問題なく、ジークがアスファルトに倒れ込む姿を、その眸で鮮明に捕えている。
愛理は朔夜のプラチナグレーの高級車に乗って、コーラのストローを齧りながら、やきもきした。
「ジーク。毒蛾なんだよ。でも、大した毒じゃないから、早く毒を体外に排出してぇー」
彼女は念じるように呟いた。
2
ジークは目眩ばかりか、体が痺れて重くなるように感じた。
頭が地面に向かって、下がっていく。
彼の霞む視線の先に、ピンヒールのブーツが降りた。
彼はピンヒールから細い足首、引き締まった肢体を順に見上げた。
ディーヴァが可憐な唇を曲げ、ジークを嘲笑っていた。
「大丈夫。とどめを刺したげる。甘いキスをしましょう…」
ディーヴァが長い舌を吐き出した。
赤灰色のヘビのような、長い舌がズルズルと出てきた。
舌は長く垂れた後、先が渦になるようにぐるぐる巻かれた。
「うへぇっ!!」
ジークは自分の目を疑って、美しい少女の醜い舌を見た。
「キモっ!!」
彼は鳥肌立った。
ディーヴァの長い巻き舌は、蝶や蛾に特有の舌管である。
蝶は花の蜜を吸う為に使う長い舌を、普段、巻き込んでいる。
ディーヴァはジークの心臓を貫く為、その長い長い舌を剣のように尖らせ、鞭のようにしならせた。
「うわわっ!」
ジークはおぞましく思い、ディーヴァから跳んで逃げた。
彼は蝶人の犠牲者の傷跡の、大きな直径を思い出した。
あれは牙の跡ではなく、舌管だったのだ。
彼等は首の動脈に直接舌を挿し込み、血を一息に飲み干すのに違いない。
ジークは体から毒を排出しようとした。
体内の異物を取り除かなくてはならない。
最近食事をしたばかりのジークには、難しいことじゃなかった。
彼の全身の毛孔から、目元や鼻孔から、黒い血が噴き出した。
黒い血がだらだらと彼から流れ落ち、アスファルトに血溜まりを作って、体内から噴き出すのをやめた。
毒素は全て排出された。
ディーヴァが舌打ちするのが、ジークにも聞こえた。
「第二ラウンドと行くか?」
今度はジークが先に動いた。
彼の指先が稲妻のように閃いて空を切った瞬間、触れてもいないディーヴァの脇腹から、内臓が噴き出した。
彼女の長い舌が両断され、飛んだ。
彼女は内臓を抜かれ、ジークの闇の力に持って行かれた。
内臓がいくつも、地面にぼたぼたと落ちて転がった。
「……!!」
ディーヴァは腹を押さえて蹲ったが、腹部に外傷はなかった。
彼女は舌を切られ、悲鳴も上げられなかった。
「悪いな。どうせキスするなら、変身前にやらせてくれよ」
ジークが言い、数歩離れたところからディーヴァを観察した。
落ちた内臓がぴちぴちと跳ねていた。
彼女は深いダメージを受け、苦しんでいた。
ディーヴァが内臓を拾って腹部を再生するのに、多少の時間が必要だ。
敵がそのチャンスを見逃してくれるわけがない。
まだ若い彼女は涙ぐみ、歯を食いしばって、気丈な視線をジークに向けた。
「そんな顔するなよ…。殺す気はねぇんだ」
ジークが話す間に、ディーヴァは短い舌を再生した。
「おまへに…手加減されちぇも、感謝なぬかしない…。次会ったら、必ず殺ふ…!」
彼女は口を片手で押さえ、舌足らずに罵った。
ジークは空に向かって大笑いした。
「それも悪くねーんだけどな。美少女に殺される、実に悪くねぇ死に方だよ。…で、その前にさ、提案があるんだ。組まねーか、俺と? 俺も蝶人を残らず始末したいんだ」
「…断る。おまえは…敵だ…!」
ディーヴァは即答で拒否した。
「考えといてくれよ。あの兄貴達に内緒でも構わねーから」
ジークは屋根に飛び上がり、屋根から屋根へ、軽々と飛び移った。
彼は夜に紛れて見えなくなった。
朔夜の車の中で、パティが二段の大きなハンバーガーをパクついていた愛理は、ほっと胸を撫で下ろした。
「よかったぁー、ジークが死ななくて…」
「相手が油断してたんだよ。そんなのに手こずって、ジークはやっぱりダメだな」
朔夜はほめるということがなく、とにかくジークをけなし続けた。
3
ジークは蛾女のおかげで、嫌な記憶を蘇らせてしまった。
脳にある、記憶を映し出すスクリーンで、親友の医師の大祐がジークに叫んでいる。
「黒瀧教授達は吸血鬼だったんだ!! 教授達を始末しないと、この病院の…いや、この街の住人がみんな、殺されてしまう!!」
大祐の後ろの洋風建築の大窓から、稲光が射し込み、記憶の淵で雷鳴が轟いていた。
「教授達を始末するって…、どうやって…!?」
ジークの声は小声で、とても震えていた。
「あいつらを罠に嵌めて、あの一族を全員、始末するんだ…! 一人でも逃がしちゃダメだ。チャンスは一度きりしかない…!」
大祐は震えているが、声はしっかりしている。
ジークは荒い息をして、頭を左右に振った。
「無理だ…」
大祐は真剣に、迷信じみたことを言った。
「教授達の棺桶を見つけ出して、蓋を開き、心臓に杭を打ち込むんだ…」
ジークは蒼くなり、冷や汗を垂らして、大祐の提案に慎重になった。
「おい、大祐。おまえはオカルト映画の見過ぎなんだよ。教授、普通にベッドで寝てるんだぞ。昼間も研究室に顔を出してるし…、吸血鬼だとしたら、少しおかしかねーか!?」
大祐は顎に指を掛け、しばらく悩んだ。
「昔と違って、現代の寝室では、遮光カーテンの遮光性が棺桶並みにいいのかも知れない。彼等は進化して、より人間社会に適応しながら、獲物を狩れるようになったのかも知れない。昼間でも、ある程度の外出が出来るようになった。だから、杭を打ち込むのはまさに、夜明けの瞬間しか有り得ない」
ジークは恐怖した。
「無理だ。あの人達に勝てるもんか。特に…教授のジイサンの…黒瀧博士には……」
彼の表情が凍りついていく。
「あの人は…闇そのものだ…」
すると、泣き腫らしたような赤い眸で、大祐がジークに尋ねた。
「ジーク。…お願いだ…。おまえは、俺を恨んでるはずだよな? 俺を殺したいほど、憎んでるだろ…?」
大祐が白衣の下から、用意していた杭と木槌を取り出した…。
ジークが半年前の悲しい出来事を思い出し、大声で叫び散らした。
「うわあああ、ああ!!」
彼はボロマンションの自宅玄関の床に倒れ込み、素手で床を叩いた。
床石が砕け、コンクリート片が飛び散った。
愛理は留守のようである。
「大祐、言うな!! もういいから、言うな!!」
ジークは床に蹲り、記憶の中の大祐に頼んだ。
彼は頭を抱えた。
彼の閉じた目から、涙が一粒、二粒、飛んだ。
苦しくて、また死にたくなった。
「大祐…。俺は知りたくなかったんだ…」
ジークが啜り泣くような声を上げた。
あの夜、大祐は自分の左胸に杭の先端を押し当て、木槌をジークに差し出してきた。
「打ってくれ。俺は黒滝教授の血を飲んだ。吸血鬼にされてしまったんだ。俺はもう…、人間を襲って、血を啜ってしまった!! 自分の欲望を、コントロール出来ないんだ!! 心がどんどん闇に染まっていく…。どす黒い闇に…。人を助けるために医者になったはずなのに、今はそれが、どうだっていいんだ。若い女性を手当り次第襲って、食欲を満たすことしか考えられない。俺を助けてくれ!!」
ジークは木槌を受け取り損ね、床に落としてしまった。
「俺に…、おまえを殺せるわけねーだろ!?」
ジークは震えがやまず、後ろに一歩ずつ退がった。
ジークが後退した分、大祐が前に詰めた。
「二人で黒瀧の一族を滅ぼそうと思った。それが、奴等の秘密を知ったばかりに、無理やり仲間に引き込まれてしまった。俺は、あんなに憧れてた永遠の命を得たんだ。でも、その代償に、命以外の全てを失った。もう、俺に正常な思考力は僅かしか残されてない。どんどん、闇が俺の脳を蝕んでいくんだ。俺は既に、ジークを見ても、餌を見てる気分なんだよ…」
大祐の口から涎が垂れた。
彼はジークを味わってみたくて、誘惑と戦っていた。
ジークはとっさに、木槌を拾った。
でも、それを振り下ろすことは出来そうにもなかった。
大祐が突然、さっきまで胸の前に握りしめていた杭を、後ろに投げた。
ジークの頭の中は、真っ白になっていく。
「ジーク、聞いてくれ。吸血鬼がニンニクや十字架に弱いと言うのは嘘じゃない。でも、俺が怖いのは、火だ。さすがに、焼いたら灰になる。血を吸わなければ、いずれ磨滅していく。夜明けの日差しを直接浴びたら、俺達の体は自然に発火して、黒い炭になるほどよく燃える。他は、切り刻まれようと、首を落とされようと、死にはしない。ああ、杭でも心臓に打ちこめば、しばらく動きを停めるだろうな。だけど、そのうち、杭は抜けてしまう。杭が抜ける前に、俺の体を焼いてくれ。夜明けの光は残酷過ぎる…」
大祐は哀願しながら、爪を立ててにじり寄ってきた。
言ってることと、行動が一致してない。
ジークはぶるぶる震えた。
いくら大祐が吸血鬼になったからって、ぶん殴って焼き殺すなんて、医者たるジークに出来るわけがない。
それに、大祐はジークの高校の時からの親友だ。
高校時代、ジークは女性には余り誠実じゃなく、面子を気にして、素気なく接してきたけれど、男同士の友情は堅く守ってきた。
ジークと大祐は同じバスケ部だった。
弱小チームだった割に部員全員が仲良くて、毎日が楽しかった。
「何があったんだ、大祐!?」
ジークは木槌を両手に構え、大祐に問い直した。
大祐は正気を失ったような眸で、まっすぐにジークの腹の辺りを見据え、
「闇を…見てしまったんだ。黒瀧教授の中に…。闇の深淵を覗いたら…、逆さまに堕ちる…。吸い込まれてくみたいに……」
と、答えた。
彼はジークの内臓を食らいたいと考えていた。
大祐の唇が捲れ上がり、牙を剥いた。
犬歯が普通より長く、鋭く尖っていた。
「シャアア…」
大祐が唸り声を響かせ、涎を撒き散らし、ジークに襲いかかってきた。