ph 56 海の藻屑になり果てる
phase 56 海の藻屑になり果てる
1
香が運転する車で、ジークと朔夜達は出来る限り船に近付いた。
「あと十五分で救出出来なかった場合、止むを得ず撤収する。もう夜明けだ」
残酷な決定を下す朔夜。
ジークは歯噛みし、拳でダッシュボードを叩く。
「それじゃ、愛理が朝日に焼かれちゃうだろ!? 哲さんみたいに…」
「でも、全員が朝日に焼かれるわけには行かない」
朔夜が香に、状況を確認する。
「他は全員無事だな? 香」
「うちの地区は全員揃ってます。他の地区の人達も、脱出完了しました」
香の話に、異種の吸血鬼は含まれない。
「新種の黒アゲハは? ヘルの部下は?」
「聞くまでもないですよね?」
香は悪気はなくても、結構、生意気な話し方をする。
埠頭で車を降りたのは、ジークと朔夜だけだった。
ナオは出血が激しかったので仕方ないとして、圭太は気分次第だった。
香は待機を命じられた。
「十五分だ。いいな? それでギリギリだ」
朔夜がジークに念を押した。
「わかってる…」
朔夜は背に黒い翼を生やし、海上へ飛び立った。
ジークも同様の翼を羽ばたかせ、朔夜を追った。
潮風が下から吹きつける。
空の藍色が薄くなり、東側が明るくなっていく。
ジークが愛理に呼びかけた。
「愛理、俺だよ…。聞こえるか? 返事しろよ…」
返事が来なくて、彼の心配が募る。
朔夜が愛理の側に着き、彼女の頬を軽く叩いた。
愛理は目覚めなかった。
「ジーク。たぶん、愛理は…。魂がどっかに行っちゃってるみたいだ…」
朔夜は彼女の内側を透かし見た。
「それ、どーいう意味!?」
「魂がそこに居ない感じがする。おまえも魂だけ、深淵に堕ちたからわかるだろ? ああいう状態にあると思う。このままじゃ、愛理は死ぬ…」
「死ぬ…?」
ジークが蒼くなった。
「魂を早く呼び戻さないと、肉体が朽ちていく。とにかく、愛理を安全な場所へ移そうか」
二人が愛理を降ろそうとした時、あの頑丈なネットが空から落ちてきた。
「ふあっ!?」
ジークは朔夜に引っ張られ、危機一髪、後方に退いた。
ヘルが甲板で、銃を構えている。
甲板に、ヘルの最後の部隊が待ち伏せている。
全員が毒蛾の翅を持ち、特別な反射神経を持つ。
二人をあらゆる角度と距離から狙い撃ち、銃弾の雨を降らせた。
ジークは翼を広げ、風を切って飛んだ。
彼は黒飛龍剣を振り回し、闇を掻き回して銃弾を払う。
朔夜は刀を抜いて旋風を起こし、弾丸を全く寄せ付けなかった。
朔夜に近寄る蛾人は、血を噴いて墜落する。
ヘルがジークの真ん前に現れた。
「おまえら吸血鬼を殲滅出来るんなら、死ぬも本望だ。俺は人間を守りたい」
「ヘル。おまえはそのつもりでも、加藤は違う。黒アゲハを使って、何か企んでるんだぞ。おまえらみたいな醜い蛾には、なりたくねーんだとさ!!」
「加藤なんか、どうでもいい。あいつはァ、ただの金蔓だからな!!」
ヘルは長い舌を吐き出した。
「なんで自ら蛾になった!? 蛾になったスカルに対する罪の意識か? おまえは悪くねーよ、ヘル! 実験体をミキサーで潰して、スカルに食わせたフローラが悪いんだ。それで、スカルが蛾になったんだから!!」
ジークはヘルに同情している。
それが、ヘルは気に入らなかった。
「黙れ。ジーク。実験体が俺の妻を殺したから、輸血をストップしたまでだ。実験体を殺したのはフローラじゃなくて、この俺だ!!」
ヘルが銃をぶっ放した。
黒飛龍剣は折れず、衝撃を飲み込んだ。
闇がそこから広がり、溢れ出した。
朔夜は愛刀で、愛理を縛るロープを切りかかった。
見ていたのは、操舵室にいた加藤だ。
「うひゃ、ひゃ、堪らんわ…」
加藤がヨダレを手で拭う。
加藤はインカムを口元に寄せ、
「落とせ!!」
と、一言命令した。
クレーンが眠りから覚めた。
機械の鈍い操作音。
機首が回転し、アームが揺れる。
次の瞬間、吊られていた愛理が、鉄骨ごと海に落ちた。
鉄骨が重しとなって、凄い速さで海中へ沈んでいく。
操舵室のガラスを砕き、朔夜の旋風が襲った。
粉々に砕かれたガラスが舞い、窓のフレームが有り得ない形に歪んだ。
加藤は辛くも命拾いして、低姿勢で鉄扉の脇を擦り抜けた。
ジークは愛理が逆さまに落ちるのを目撃した。
「愛理!!」
彼は海に飛び込んだ。
シャチのように勢いよく、深く潜水していく。
水圧が重く伸し掛かり、ジークをぺっしゃんこに潰そうとする。
愛理はどんどん沈んで行く…。
2
海の上で、朔夜は腕時計を見た。
「ジークのバカが。十五分経ったぞ…」
ジークが浮かんでくるわけがない。
彼は急沈下する鉄骨と、愛理を追いかけて行ったのだ。
朔夜は冷徹に判断を下した。
「俺達は引く。ヘル、おまえも生き延びろ。勝負の機会は先送りだ」
翼を羽ばたかせ、朔夜は埠頭へ引き返した。
ヘルは別方向を見た。
加藤の乗るヘリコプターが、船上のヘリポートから飛び立つ。
「俺達も撤退する。あともう少しだったのに。サンプルは入手出来ず、あの二人も抹殺出来なかった。朔夜にビビった加藤が、愛理を海に捨てたからだ…」
ヘルが腹心の部下に、苦々しい思いを吐き出した。
加藤はヘリの操縦席の真後ろのシートに座っている。
「何もかも、海の藻屑になってしまえ!!」
加藤は歯を剥いて嗤った。
その加藤が何かの気配を感じ、隣りの席を振り向いた。
いつの間にか、ヘルが座っている。
「へ…ヘル…!?」
加藤が蒼褪めた。
ヘルはにっと笑い、
「加藤さん。いや、本名は別。でも、……カイザー…って呼べばいいんですよね…?」
と、彼の希望に合わせて、加藤を呼んだ。
3
愛理の魂は、夢を見ていた。
昨晩、ジークと分かれてから、彼女は舞台袖で客を眺めていた。
音楽が流れ、ご機嫌だった。
急に、背中に悪寒を感じた。
振り向いたら、ヘルが立っていた。
反射的に、愛理が身を捩じって飛び上がり、ヘルの顔面に強烈な蹴りを入れた。
銃弾を素手で叩き落とす愛理だから、蹴りも半端ない。
ヘルの頭半分が潰れて飛んだ。
彼の眼球も飛び出して、散った。
残った顔の下半分は、衝撃で波立ち、黒い血が大量に床まで流れた。
だが、ヘルは何事もなかったかのように、その場に立っていた。
「君を地獄へ案内する。黒瀧愛理…」
ヘルの口が動き、愛理の名を呼んだ。
「驚かせたかな…」
ヘルが下半分の顔で、喋り続けた。
「どうして!? 私に蹴られて、なんで立ってられるの!?」
愛理は怖くなった。
でも、すぐにとどめを刺す為に、五本の指をヘルの胸に突き立てた。
彼女はヘルの心臓を抉り出そうとする。
その手を、ヘルががっちり掴んだ。
「見たことない? 俺みたいな敵を…」
ヘルが怪力で、愛理の手をぐっと押し戻した。
愛理は一つ、不思議なことに気付く。
「冷たい…。あんたの手…」
ヘルの手は、冷水のように冷たかった。
彼に手を掴まれると、そこから冷水が侵入するみたいに冷えていく。
「死霊の手だからな…」
ヘルが呟いた。
ヘルの潰れていた脳がブクブク泡立ち、元のカタチを再生していった。
彼の頭部は元通りに復元し、目の周りに骸骨のように黒い染みが浮き上がった。
愛理の膝が震えた。
「…死んだら、闇に還るはずだよ!」
「吸血鬼はね。俺は違う」
ヘルが愛理の手を、自分の左胸に当てた。
「ほら。脈がない。俺の体は、血がめぐってない。俺は血によって支配されてない…」
ヘルが死の息を吐き出した。
腐乱した酸っぱい匂いじゃなく、もっと粉っぽい、カビ臭い匂い。
「か、体をどうやって維持してるの?」
愛理は闇の掟に逆らうヘルに、疑問が湧いた。
「どうやってだと思う? 君は、この体が骨と肉で出来てると思う? それとも、幽霊のように壁を擦り抜ける体かな?」
ヘルは笑いながら、銃口を自分に向け、一発、ドンと撃った。
胸に穴が開き、壁に血飛沫が飛ぶ。
弾丸は彼を貫通し、壁に食い込む。
彼は胸の傷を自分でほじくり、愛理に心臓を見せる。
「ほら。君達は心臓を破壊されると死ぬ。完全に不死身の君達の、唯一の弱点だが…。俺はここが急所じゃない」
死んだ心臓は鼓動もなく静かで、青白い臓器だった。
彼は心臓を突いて見せ、
「ここにはもう、何もない。愛も心も…。空虚そのものだ…」
と、語った。
「死霊…」
愛理が怯えたような顔をした。
「聞いたことある? そう、俺は彷徨う魂……」
愛理の魂がヘルに手を引かれ、肉体から抜け出た。
愛理の肉体は、その場に残る。
ヘルの肉体は、その場に無かった。
二人の魂が手を繋ぎ、上昇していく。
ステージの照明の横を抜け、ホールの天井を突き抜け、空へと昇って行く。
「イヤだっ!! これ、何!?」
幽体の愛理が、空中でジタバタした。
彼女の体は薄く透き通るようだ。
彼女から見たヘルも、半透明でぼんやり光っている。
彼女は頭上に、瑠璃色のゲートを見た。
「あれはゲートじゃない。君がそう認識しようとしてるだけだ。君の脳が、まだ理論的に考えている証拠だ。しかし、君の脳は肉体側にある。君の思考は、いずれ鈍っていく」
ヘルがゲートの扉を押し開き、愛理は強い向かい風を感じた。
「その向かい風は、君の恐怖と抵抗を表現してる。だけど、ここは物質界じゃないから、風そのものが本当は存在しない」
「深淵?」
愛理が問い掛けた。
「違うな。ここから先は、また別の…。深淵が心の闇にあるものだとしたら、地獄はこの世の苦しみ、不条理の中にこそ存在する…」
ヘルが答え、二人は異界の道を進んだ。
4
異界は、乾燥しきった砂漠のような景色だった。
黄色い土埃が舞い、石造りの建物が彼方に見えた。
愛理には、遠い昔のシルクロードのように感じられる。
「眼に映る全てのカタチは、君の認識による。ここは空虚なところだ」
ヘルが言う。
砂塵に吹き付けられ、一本の巨大な石柱が傾いでいる。
表面には、歴史的な碑文が刻まれている。
見たこともない古代文字で、愛理にはわからない。
「かつて、この世界に英雄が居たんだ。そいつは悪霊をあの寺院に封印した…」
ヘルと愛理は、柔らかい砂の上を歩く。
愛理は黒い石造りの寺院を見て、また悪寒を感じた。
何か、おぞましい気配がする。
彼女は逃げ出したい衝動に駆られた。
風が轟轟と唸っていた。
この先に居るのは汚らわしい者だと、風が告げていた。
ヘルの髪が風に靡き、服がはためく。
眩しいほどの日差しが、砂漠を灼く。
ヘルが微笑み、
「先に教えてあげるが、君はこのまま千年でも、ここから出られはしない。先に君の肉体が朽ちて、君の愛した誰かも朽ちて、家族が全てこの世を去っても、君の魂はここで孤独なままだ」
と、伝えた。
「君の心は、孤独から憎しみへ変わっていく。憎しみが最も強い感情だからだ。憎まないならば、君は自我を保てず、名もなきエネルギーに変わる。君の肉体は我々に回収されて、吸血鬼の解明に役立てられるだろう」
と、砂を一握り掬った。
「君は憎悪のエネルギーとなり、この砂に埋もれて堕ちる。孤独に打ちひしがれて狂っていく。永い年月をかけ…」
「地獄の底には、何があるの?」
「理不尽さ以外に、何もない。何の救済もない世界だ…」
ヘルは寺院の門を潜った。
急に世界が暗くなった。
日の差さない、じめじめした建物内部。
迷路のように長々と、細い通路が続く。
「ここに入るんだ」
ヘルが愛理を、ドアの向こうへ投げ込んだ。
「ここは…?」
愛理はドアの小窓に嵌まった鉄格子にしがみ付き、尋ねた。
「囚人を閉じ込める為の部屋だ。そこが君の最後になる…。海で溺れ死ぬのと、地獄の牢で狂い死ぬのと、どっちがいい?」
ヘルが外から鍵を閉めた。
愛理が激しくドアを叩いた。
「待って!! 行かないで!!」
必死に叫ぶ。
愛理は唐突に動いた人影に気付いて、ぎょっとした。
視界の隅に、黒くぼやけた塊が蠢いている。
「ヘル、あいつは何?」
「囚人だ。…気の毒だが、ここには無数の悪霊が棲んでいる。そいつはここに幽閉され、肉体は病死した。魂だけがいつまでも逃れられずにいる。君の話し相手には、なってくれないだろうけどねぇ…」
ヘルの足音が遠ざかる。
「えー、てことは、本物の幽霊!?」
愛理はひきつってドアの内側に張り付いた。
先刻感じた、おぞましい気配。
その悪霊が、ぼやけた影の中から空ろな眼を愛理に向ける。
目玉しか、はっきりしない。
「間もなく、君も本物の幽霊だよ」
ヘルが寺院を出て、瑠璃色のゲートへゆく。
愛理は半泣きで悪霊と向き合い、
「こっちに来るな。しっ、しっ!」
と、手で払う仕草をした。
悪霊はじっと愛理を睨みながら、じわじわと寄ってきた。
男か女かもわからないほど、自我を失い、カタチを失ってしまっている。
忌まわしい毒気だけを吐き出して、白目を向けてくる。
「なんで、私がこんな目に遭わなきゃいけないの…!?」
愛理は納得出来なかった。
愛理の中で感情が高ぶった。
「何故、異種と戦わなくちゃいけないの? 理不尽な長い戦い…。パパとママを追放して、仲間を失って、終わりなく続く殺し合い…。多くの犠牲の果てに、何を求めてる?」
彼女の中に、怒りが湧き上がった。
愛理の中に負の感情が湧くと、悪霊が距離を狭めてきた。
まとわりつくような、悪霊の闇。
「誰か、助けて…。ここはイヤだ…」
愛理が泣き出した。
5
ジークは沈む鉄骨に追いついた。
「愛理!! 目を覚ませよ!!」
ジークはロープを引きちぎり、愛理と鉄骨を切り離した。
鉄骨は海底に沈んだが、ジークの胸に愛理が抱き留められた。
愛理の口から漏れていた泡が、途絶えた。
「大丈夫。すぐには死なねーよ…」
彼は海面を見上げた。
「間に合わねーだろな。もう夜明けだ…。海面に上がれば、ジュワッと溶けてしまう…」
彼は濁った海中を泳ぎ、息苦しさと戦った。
6
ヘルと加藤は後部席で、目と目を数秒合わせていた。
加藤は腰からピストルを抜き、ヘルに向けた。
「へぇー、ここで撃つんですか? 機体に穴が開くけどね…」
ヘルがハスキーな声で喋った。
「ヘル!! この役立たずがー。責任取れって言うんだよ。何やってたんだぁー!? フローラもシャバダも、黒アゲハも、全員死なせやがってー…!!」
ピストルをヘルのこめかみに向けたまま、加藤が叫んだ。
彼は震えていた。
震える銃口を、バカにするようにヘルが見詰めた。
「皇帝…。俺一人の責任ですかね?」
「よ…余計なことしてみろ…。ただじゃおかねーからな…。おまえは俺の命令通り動きゃーいいんだよ、ヘル。俺がおまえのボスだ…。俺がおまえに給料を払ってるんだ…」
加藤はガクガク震えている。
「あともう少しで、黒瀧朔夜とジークを道連れに出来たのに…。それがあなたのお望みだった。皇帝、あなたは俺達もろとも、そろそろ処分しちまおーと思ってたんじゃないですか?」
ヘルはシートで反り返った。
汗びっしょりの加藤は、震える手でピストルを握り締めていた。
銃口は揺れ続けた。
「う、うるせー。今、俺をその名で呼ぶな。おまえは俺の命令に絶対服従しろ。今すぐヘリを降りて、異次元から黒瀧愛理の死体を回収して来い!!」
子供みたいに感情的に叫ぶ、加藤。
ヘルは憐れむように言った。
「加藤さん。あなたの資金は頂きます。遺志を継がせてもらいますよ」
「遺志…だって!?」
加藤が目を見開いた。
ヘルは残念そうに眉を寄せ、手に握った、ヘリの操縦レバーを加藤に見せた。
蛾人の力でもぎ取られた鉄屑。
「うわぁーー!!」
加藤が絶望し、ヘルメットを抱えるように頭に両手を当てた。
ヘルがその瞬間に、忽然とシートから消えた。
この機体に現れた時みたいな、唐突さで。
ヘリコプターが海面に斜めに墜落し、ローターが弾け飛んだ。
機体は波に砕かれ、大破した。
加藤は海の藻屑となり果てた。




