ph 5 呪われた蝶を追って
phase 5 呪われた蝶を追って
1
ジークは入口近くの床にへたり込んだ。
店長がおどけて、その場の空気を繋ごうとした。
「ジークさん、マズいっすよー。こんな真面目そうなコを本気にさせちゃー。女の子にホメ言葉の一つも言わないのに、どうやって口説いたんだか!? マジ、聞きたいっすよー」
店長がジークの腕を引っ張り上げ、カウンターの深由の隣りに連れて行く。
「私は別に、そんなんじゃないです」
深由がきっぱりと言い、
「ジークさんに聞きたいことがあったんだけど、お友達と一緒みたいだし。今日はこれで…」
急に帰ろうとした。
「あれは弟さんっすよ、最近、一緒にお住まいの。もう一人は…確か、大家さんのお知り合いで…。後は知らない顔ですけど」
店長が気を遣い、ぺらぺらと喋る。
愛理はすっかり、ジークの弟ということになっている。
「何しに来たの? どうやって、ここに?」
ジークが予想以上に冷たい言葉を吐き、深由の酔いも冷めた。
「ジークさんに会いたくて…。不二富町って言ったら、この通りしか知らないし…、歩いてたら…偶然」
「なんで俺に会いたいの? 理由がねぇじゃん」
ジークは焦っていた。
深由の記憶が残ったとなると、ヤバい。
しかも、彼の方が深由に何を喋ったか、うろ覚えだった。
深由はきよろきょろ見回し、小声になって尋ねた。
「ジークさん、私の血を吸ったでしょ。私、死ぬかと思ったのに…。死ななかった。もしかして…、私、吸血鬼になっちやうの!?」
「ぶっ」
ジークは出されたビールを吹き出しそうになり、カウンターに突っ伏した。
「ヤベー。こいつ、全部覚えてやがる…」
彼は頭を抱えた。
離れたテーブル席で、耳のいい愛理がくすくす笑っている。
音楽が激しくても、愛理の耳は全部聞き分けることが出来る。
「吸血鬼になりたいの!? てか、君、俺が怖くないの?」
ジークが焦っているのに、深由は話の展開にワクワクした。
彼女の優しい眸が、楽しく美しい妄想しか見てない。
「怖くなんか。もし吸血鬼になれるとしたら、何をすればいいの?」
深由は闇の力が欲しかった。
毎日、彼女はびくびくしながら暮らしていた。
専門学校では強気の同級生に気を遣い、道を歩く時も見知らぬ相手にどぎまぎして、買い物をする時も店員にぺこぺこしている、卑屈な自分が嫌だった。
もっと自由に思う通りに生きられたなら、どんなにいいだろう…と、彼女は思う。
もし自分が強い何者かだったら、きっと自信に溢れて行動できるはずだと。
ジークは深由の気弱な思考を読み取った。
「深由ちゃん、俺らはそんな楽しい生き物じゃねーよ。血を吸わねーと干からびちまうんだよ?」
「人間だって、飲まず食わずじゃ生きてけない。そこは同じだと思う」
深由は抵抗なさそうに言った。
「深由ちゃん、誰かの血を吸える!?」
ジークが聞くと、
「うん。大丈夫」
と深由は迷わず返事した。
「女ってやつは…、こういう時、すぐ割り切れるよなぁー!」
彼はゾッとして、呟いた。
自分が血を吸うまでの、長い葛藤を思った。
「ジークさんの彼女も、吸血鬼?」
ジークは深由の質問に答える前に、まず、カウンター内のバイトの向日葵に、ビールのお代わりを注文した。
それから、深由を振り返った。
「彼女は死んだよ。結婚式の一ヶ月前に、死んだ」
彼は淡々と話した。
「ジークさんの彼女、死んだの…?」
カウンター内の向日葵も、気まずい空気の中で生ビールを注いだ。
深由は小声で、
「なんで吸血鬼にしてあげなかったの? そしたら、ずっと一緒にいられたのに…」
と聞いた。
ジークは溜息をついた。
「あんた、身内と死に別れたことねぇだろ? 死ぬって、そんな簡単じゃねーし…」
彼はビールを受け取り、ちらっと愛理を振り返った。
もう、愛理がいるテーブルの方へ移るつもりだった。
「俺は、その彼女が忘れられねぇんだ。たぶん、一生忘れられねぇ。望みもしないのに吸血鬼にされて、早く死んでしまいたいぐらいさ」
ジークはカウンターの椅子から立ち上がりかけた。
我ながら、女々しいと思いながら。
「深由ちゃん、吸血鬼になりてーなんて、バカなこと思わないで。そんなもんになったって、何もいいことなんかないと思うよ。早く、この間のことは忘れて」
その場から去ろうとする、彼のシャツの裾を、深由がギュッと引っ張った。
「ジークさん…」
深由は必死に訴えた。
「わ…私の血をあげる。吸いたい時に、吸っていいから。いいことなんか、なくてもいい。そんなの、今と一緒だもん。私、それでも吸血鬼になりたい…」
「バカか」
ジークは深由の手を払い、愛理のいるテーブル席に向かった。
2
愛理はトマトクリームのパスタを注文した。
朔夜と連れ三人は、何も頼んでいなかった。
ジークはテーブル席に移動してから、ビールを喉に流し込んだ。
ビールのうまさがわからない愛理には、ジークの飲みっぷりが理解できなかった。
「俺があのコの記憶を、消しといてやろうか?」
朔夜がジークに笑いかけた。
「死因は心不全でお願い。時期が時期だけに、失血死とかやめてね」
愛理が朔夜に釘を刺した。
ジークはびっくりして、
「おい、殺さなくていいだろ!? あのコは俺の正体を、誰にも言いやしねーよ」
と、慌てた。
「何言ってるんだ? ただの餌じゃないか。美味そうだ」
朔夜は深由を遠くから眺め、長い舌で唇を舐めた。
「ジーク。聖職者や、シャーマンの血筋の者は、時々記憶が消えにくかったりするから。襲う時は気を付けて。自分の首を絞めないように」
愛理が忠告した。
朔夜は低く笑いを漏らし、
「つまり、新たなパワーをもたらす血だ。すごく美味そうだ。全部飲み干してやろうかな」
と囁いた。
「朔夜ー。心不全でー」
愛理が念を押した。
「殺すな、って言ってるだろ」
ジークが怒った。
「おや、気に入ってるの? なんで、助けようとしてるの?」
朔夜の連れの男が、初めて口を開いた。
「餌をキープしたいんだよ」
連れの中で一番若い男が、わかったように答えた。
「あ、こっちを睨んでる。怖い目つきだなー」
三番目の男が皮肉を込め、ジークを冷やかした。
「顔じゃ、ジークの負けなんだよ。朔夜に女の子全部取られちゃうってー」
愛理がきつい一言を言った。
「蝶のことは任せろよ。半人前が口出すんじゃねーよ。何もわかってねーくせに」
朔夜がジークを脅した。
ジークが男達を睨み返した。
「言いたいことがあるなら、言ってみろよ」
朔夜が挑発した。
この一週間、未だ女性の変死事件が続いていた。
目撃証言も相次いだ。
大きな翅か、黒いマントのようなものを背負った何者かに、道端で攫われかけたとか。
夜空を飛ぶ、得体の知れない生き物を見たとか。
マスコミは面白おかしく騒ぎ立て、吸血鬼が犯人だと仄めかした。
ジークが蝶人と出会った夜、第三の犠牲者が出た。
その後、ペースが早くなり、第四、第五の犠牲者と続いた。
死体は首筋や胸を、何カ所も刺されていた。
直径1センチほどの傷口で、遺体の下に血溜まりがあり、以前と違い、周辺に飛び散った血痕があったらしい。
「乱暴な殺し方になってきた…」
ジークと愛理は思った。
警察は医療用の器具で血を抜かれたと考えている。
被害者は比較的短時間で、大量の血を失って死んでいる。
ジークと愛理は、例の新種の吸血鬼の仕業だと睨んだ。
「蝶人のジジィは尋常じゃねぇ渇きに、狂ったように血を求めてる」
ジークは、先日の蝶人とのやり取りを語った。
「おまえらと、新種の蝶人と、どっちが強い!?」
ジークが好奇心から聞いた。
愛理はプライドを刺激され、頬をぷくっと膨らませた。
「失礼な。やめてくれる? 蝶人なんかと一緒にしないで。うちのおじいちゃんは戦国時代から四百年以上も生きてる、本物のサムライなんだから。うちは世界的に見ても、伝統のある一族なんだ」
「黒瀧のジイサン、妖怪なみとは思ってたけど、そこまで高齢だったとはなぁー」
ジークは黒瀧の顔を思い浮かべた。
3
A中学の正門前に、樹齢数百年のクスノキが立っている。
抱えきれないほどの胴まわりで、細かく茂った葉が、屋根のように周囲を覆っている。
毎年、ドングリがすずなりに実る。
この樹は、長い歴史の移ろいを眺めてきた。
学校の周囲のフェンスの内側に沿って、桜が植えられている。
花が咲き終わり、葉が青々と茂っている。
桜の木越しにグラウンドが見え、運動部のランニングの掛け声が聞こえる。
ジークの知り合いの弟・憂は、A中学の制服を着ていた。
紺のブレザーの胸ポケットにエンブレムのような刺繍があり、赤いAの一文字が嵌めこまれていた。
憂は一人で正門から出てきた。
彼は俯き、早足で歩く。
同級生も、彼の側に来ない。彼はとっつきにくいと思われている。
憂は一人、駅前の繁華街へ歩いていく。
コンビニで雑誌を立ち読み、レンタルビデオ屋で中古のゲームソフトを見た。
高い棚を回ったところで、他人とぶつかりかけ、彼は、
「うわっ!!」
と声を上げた。
背の高い男がぬっと、棚の影から現れた。
「ジ…ジーク!?」
憂は腰を抜かしそうになり、よろめいて棚に掴まった。
「久し振りだな、憂ちゃん」
ジークがポケットに両手を突っ込み、鬱陶しい前髪の間から憂を見下ろした。
「幽霊!? ……じゃないんだよね!?」
憂は興奮し、まじまじとジークを見た。
「憂ちゃん…。おまえ…、何やってんの!? 呪われた蝶の飼育係になったんだって!?」
ジークがカフェオレ色の眸を向けた。
「ジーク…。そっちこそ、変わったね…? 闇に堕ちた!? そうまでして、帰ってきた!?」
憂はジークの中の異変を嗅ぎ取った。
「オレ、全く想像してなかったよ。またジークと、こうやって会えるなんて…」
「……」
ジークはしばらく無言で、中学三年になった憂を見詰め続けた。
ジークは片手を棚に着き、憂の耳の側で囁いた。
「よくも、俺の釣り用のボートに細工してくれたな…。おまえなんだろ!? 憂…」
憂は悔しそうに言い返す。
「オレが、あんたの腹をかっさばいたわけじゃない…」
ジークは、憂がボートの細工を認めたと判断した。
「おまえは全部知ってるんだな…。まぁ、いいや。今日は別の用事で来たんだ。俺は今、黒い翅を生やしたジジィを探してる。おまえ、知ってるよな!?」
ジークは凶暴な眼差しで尋ねた。
知らないとは言わせない。
「知ってるよ。哲さんのことだね。確かに、オレが育てて、羽化させた」
憂は一歩ずつ後ろに退がり、視線を泳がせた。
「哲さん? そいつ、生まれた時からジジィなのか?」
ジークは憂を見ているだけでムカムカしてきて、苛立った。
「そんなわけないだろ。哲さんは、元は人間だった。オレが哲さんを黒蝶にしたんだ」
憂は誇らしげに言った。
「グロテスクな蝶の姿が、ご自慢か。哲さん、どこにいる?」
ジークは憂の襟元を掴んだ。
「ジークには関係ないよ。ジークこそ、どこに住んでるの? 仕事とかしてる? 達紙ジークは半年前、死んだことになってるんだ。今のあんたは、医師免許もない」
憂は学生鞄を大きく振り、ジークの腕を払い除けた。
「ねぇ、ジーク。血を吸うのは、どんな気分? 他人の命を救う立場から、命を奪う立場に変わった、ご感想は!?」
憂が嫌味を込め、楽しそうに問い掛ける。
彼の残酷な質問に、ジークは答えられない。
あれは、仕事の研修で海外に行った時だ。
廊下を談笑しながら歩く、白衣姿の四人組。
一人はジークで、もう一人は親友の大祐。
それから初対面だった黒瀧教授と、黒瀧教授の「祖父」の黒瀧博士。
ちょうど、夫々の夢について話をしていたように思う。
ジークは曖昧な記憶の中で、
「…今の終末期医療は、もう助からない患者の延命処置に区切りを付けることができません。本人は延命治療を拒む意思を家族に伝えてあったのに、断末魔の苦しみを何カ月も味わい続けることになるわけです。点滴をして、酸素を強制的に肺に送り込み、血圧の低下を阻止し、心臓の活動を無理やり維持させる。本来であれば死んでいたはずの人を、延々と生かすことになるんです。その際の苦痛を、完全には和らげることができない。医療の現場は日々、地獄です…。僕らは痛みのない尊厳死、できるだけ家族の側で自宅で終えられることを、実現していきたいと思ってます…」
と、いうような内容を語っていた気がする。
「尊厳死ね…」
黒瀧教授が呟いた。
ジークの父親ぐらいの年齢らしいが、随分若々しく感じられた。
「私にはもう一つ、夢があります」
友人の大祐が付け加えた。
「私は終わりのない人生についても、研究したいと思ってます。つまり、不老不死ですね。永久に細胞が生き続けること。私は古今東西のいろんな文献、記録を読みました。中国の仙人の話なんか、とても面白いんですね。不老不死になる霊薬だの、修行だの。そして、仙人になった暁には、霞を食べて空を飛ぶんですね…。霞じゃ無理なんです。吸血鬼みたいに血を入れ替える方が、余程効率的というもんです」
彼は冗談のつもりだった。
趣味の話の延長だったんだろう。
「吸血鬼ね…」
黒瀧教授が囁いた。
彼の後ろで、黒瀧博士も頷いた。
黒瀧博士は白髪で、額も少し広くなっていたが、齢百歳には見えなかった。
それどころか、孫の黒瀧教授と同世代ぐらいに見えた。
黒瀧博士は大祐を振り返り、立ち止まった。
「私の秘めたる物語を君に話し、君が深く意味を理解したら、君は恐怖で発狂するだろう…」
ジークと大祐は蒼白となって凍りつき、口を開けたまま、何も言えなかった。
博士の言葉の恐ろしさと不可解さが、二人を氷漬けにしたみたいに、その場に固く留まらせた。
ジークが回想から、はっと我に返った時、憂の顔が目の前にあった。
「闇を狩る裏切者がやって来たよ、ジーク」
憂がジークを軽く突き飛ばし、建物裏側の避難通路へ逃げた。
「待てよ、憂!!」
ジークが追いかけた。
奥まった通路の窓ガラスが突如、砕け散った。
黒い翅が破片に映った。
小柄な子供が黒い翅を背負い、割れた窓から憂を覗き込んでいる。
「翔!!」
憂が子供の黒蝶に手を伸ばす。
翔と呼ばれた黒蝶は、小学生ぐらい。まだ、十一か十二ぐらい。
翔は憂を四本の腕で抱きかかえ、空へ舞い上がった。
羽音が立ち、風がガラスの破片を散らした。
「行かせねーぞ!!」
ジークが窓を破って飛び出し、壁を蹴って、屋根へ駆け上がった。
黒蝶が憂を抱え、ビルの屋根すれすれに飛んでいく。
それなのに、ジークがふと見下ろした地上には、どこかで見たような光景があった。
揃えた迷彩服のマッチョヒーロー。
先日、憂を追い詰めていた、あの特殊な覆面のチーム。
「おまえも、あいつらの仲間の吸血鬼か!?」
鬼神の覆面の男、ヘルがジークに確かめた。