ph 49 磔
phase 49 磔
1
ドクン、ドクン。
右手の先で、血が脈打つのがわかる。
黒飛龍剣からジークの右腕に、闇が激しく流れ込もうとする。
ジークが意識的に拒むと、闇が右腕の血管の中で、逆流して暴れる。
この闇を受け入れてしまうと、彼の精神がまた一段、闇に汚染されていく。
ジークは地上から見つからないように、適度に高度を取る。
彼はあえて、闇をまとい、黒い霧と共に空を流れていく。
目指す山がまだ見えても来ないうちに、向うからも黒雲が押し寄せてきた。
地獄の門が開き、無数の亡者が溢れ出すみたいに。
不浄で禍々しい波が、夜空一帯に広がる。
「ひゃー、もう来たのかよ」
ジークはげっそりした。
生憎、今宵はフローラに襲われて、体調が最悪だ。
毎晩、フローラの呪いで精気を奪われた為に、命を消耗しつつあった。
暗雲が立ち込め、夜空の星を消していった。
結界の中で、稲光が閃く。
浮かび上がる魔族、黒蝶の巨大な翅と六肢を持った姿が、ジークの肉眼にも捕えられた。
敵は五匹だ。
ジークが黒飛龍剣を持ち直した。
剣の柄に黒瑪瑙、両刃で刃渡り90センチ。
彼は吸血鬼特有の怪力で、片手で振り回す。
が、闇を大量に吸い込んだ黒飛龍剣の重さは、100キロを超えていた。
「くそー。この剣、ちょっと重過ぎだぁー」
ジークが愚痴を言った。
弱ってくると腐り始める彼の体は、腐乱死体を闇の血で繋ぎとめているだけだ。
血を失い過ぎると、腕が腐って、ちぎれる恐れがある。
先頭の黒蝶が、武器を携えて襲いかかってきた。
そいつの武器は、四本の腕が変化した鎌だった。
日本刀並みの切れ味を持つ鎌で、腕が人間の腕よりずっと長い。
死神のように、そいつは鎌でジークの首を刈ろうとした。
「邪魔すんな、グロ蝶ども!!」
ガン、ガン!!
激しい音を立て、火花を散らして刃がぶつかり合った。
黒蝶は刃を交えながら、同時に舌管をひゅるっと伸ばし、ジークの目を突こうとした。
ジークは舌管を剣で刎ね、鎌を一本斬り落とした。
しかし、黒蝶も鎌二本で黒飛龍剣を押さえ込んだ。
腕が四本なので、攻撃が躱しきれない。
黒蝶の残る一本の鎌が、ジークの首を刈り取るコースに入る。
「うあっ」
ジークが海老反りした。
間に合わない。
彼の喉が鎌に裂かれ、血をぶわっと噴き上げた。
黒飛龍剣を押さえ込んでいた鎌が、シューシューと音を立てて白煙を上げた。
黒蝶は怯み、剣から鎌を引いた。
ジークはゴボゴボ、喉から血を噴いた。
咽て、血を吐き続ける。
彼のシャツの前が、朱に染まった。
「その剣は何だ!?」
黒蝶達が口々に言った。
ジークは血を吐きながら、
「じぐぉくっ…の剣…どぁよっ!!」
と、怒鳴った。
彼の前に、不治の病から黒蝶へ、変わり果てた蝶人が並んでいた。
空高く、何もないところで、ジークと黒蝶のどちらも、闇を足場にして浮かんでいる。
彼は腹が痛むのを感じた。
風船が萎むように、腹が腐って萎んだ。
血を大量に流した為に、体が急激に腐っていく。
ジークは黒蝶と打ち合いになった。
黒蝶数匹が交互に、鎌と舌管で襲ってきた。
ジークは重い黒飛龍剣で受け流し、そいつらの腕や頭部を斬った。
斬れば斬るほど、黒飛龍剣は闇の血を吸い込み、重くなった。
彼の腕は、重さでちぎれそうに痛んだ。
ジークは二匹の黒蝶の攻撃を一本の剣で受け、空中で宙返りして、囲みを抜けた。
斬撃の音が周囲に響いた。
黒蝶は鎌が溶けないように、剣と触れる瞬間を一瞬に抑え、何度も引いては鎌を繰り出した。
その攻撃の速さは、自動で回転する精密機械のようだ。
ジークは少しずつ、手がもつれ、遅れを取っていく。
傷が増え、黒い血飛沫が飛ぶ。
「くそぉぉぉー!! いい加減、通してくれよぉー!!」
彼が焦り始めた。
最初の五匹の他に黒蝶が集まり、敵の数が増えてきた。
ジークは一瞬の隙を突き、黒飛龍剣で風を巻き上げた。
異界へ、黒蝶をまとめて吹き飛ばすつもりだ。
空間が大きく歪み、渦が生じる。
けれど、予想に反して、ジークは黒飛龍剣を操り損なった。
大量の濃い闇が、黒飛龍剣から放出された。
ジークは弱り過ぎ、黒飛龍剣を支えきれなかったのだ。
彼の力の限界を見て、黒飛龍剣は自由になろうとした。
闇が黒蝶達を飲み込み、ジークをも飲み込んだ。
意志の弱い者は、一瞬で闇に溶かされ、白骨になって墜落した。
その場に地獄が出現した。
黒い火焔が沸き立ち、黒蝶の翅に火を点けた。
火だるまになって燃える黒蝶。
サメの歯のような闇が食いかかり、バリバリ音を立てて食われる黒蝶。
幻覚に襲われ、精神を狂わされて死ぬ黒蝶。
ジークは暴れる黒飛龍剣を抑えようとしながら、洪水を止められないのと同じに、怒涛の闇の流出に成す術がなかった。
「待てよ、おい!!」
彼は剣に向かって叫んだ。
闇は地上に向かって垂れ、消防の放水のように勢いよく、街に降り注いだ。
街を汚染する闇。
あちこちに火の手が上がり、予定外の犯罪が起こり、殺人が殺人を呼ぶ。
「何やってんだよ、そっちじゃねーし!!」
ジークは黒飛龍剣を扱い切れない。
彼自身も闇に包まれ、自然に発火した。
「燃える!! 鵜野影馬の地獄火と同じだ!! 俺は骨まで焼き尽くされてしまう!!」
ジークは黒い火焔の中で呼吸を停め、翼から服から、どんどん焼けていくのを感じた。
火を叩こうとするのに、火は彼の手から逃げ、服に絡まり、全身に広がった。
彼の手は、燃え盛る火の中で黒飛龍剣を放してしまい、炭のように黒くなっていく。
ジークは焼けていく中で、
「ルビー。今から、君のとこへ行くよ…」
と呟き、果てた。
2
真下に、二人の人影があった。
一人は落ちてきた黒飛龍剣をしっかり受け止め、悪戯っ子のように笑い声を立てた。
もう一人は、同情の声を上げた。
「あーあ、ジークのヤツ。死んじまったか」
ナオの嘆きを、圭太が嘲笑った。
「馬鹿は死ななきゃ治らないんだから、どうでもいいよー。俺達に内緒で、黒蝶を一匹、助けに行こうとしたんだぜ? そんなジークが黒蝶七匹と相討ちしたー。ウケるー」
ナオは圭太に憤慨した。
「よく笑ってられるな。あいつのお蔭で、朔夜さんは命拾いしたんだからな。鵜野影馬を仕留めたのはジークだって、忘れるなよ。圭太」
「どんだけ仁義に厚いんだよー。ナオ、そんなに甘っちょろいこと言ってたら、おまえも生き残れないと思うよ?」
圭太は黒飛龍剣に薄手のコートを絡めて立ち上がり、車のキーを出した。
ナオもゆっくり立ち、心配そうに空を見上げた。
「ナオってば、早く帰ろうよ。ジークには、この間、借りを返したよ。あいつと、あいつの女を助けてやった。もうチャラだろ? 俺達は黒蝶と蛾の巣、両方を始末しなきゃならないんだ。ああ、面倒臭い」
圭太が車に乗り込んだ。
ナオはまだ空を見上げていた。
「ああ、おまえはそれ持って、朔夜さんのとこ帰れよ。俺はちょっと、様子を見てくる」
ナオが覚醒し、空へ跳び上がった。
「わっ、待てよ、ナオ!! あの闇回収しないと、ジークはまだ地獄火の中なんだぞっ!!」
圭太も跳び上がった。
圭太とナオが空の上に着いた時、まだ黒い火が燃え盛っていた。
地獄火はこの二人も食らおうと、激しく火柱を立ち上げ、火の粉を飛ばして迫ってくる。
「こいつが消火栓だよ、ナオ」
圭太が鼻歌を歌いながら、闇を黒飛龍剣に吸い込んだ。
闇は大気中に拡散し、かなり薄まって少量になっていた。
燃え滓が落ちていないか、ナオが視線を走らせた。
夜空に星が戻ってくる。
微風が吹き、月明かりが照らす。
星の海原に、ナオと圭太が静止している。
「ジークー。死んじゃったのかぁー!?」
ナオが呼びかけた。
ナオはジークの波を、微かに感じた。
ドクン、ドクン、微かに脈打つ、心臓の音が聞こえる。
ナオは透明になったジークの魂を感じた。
「例え肉体の殆どを失っても、心臓さえ無事なら、再生出来る…!?」
ナオはジークの肉片を探した。
「これか!?」
ナオは香ばしく焼けた一塊の中に、少しばかりの半生肉を見つけた。
その肉は腐りかけで、酸っぱい悪臭を放ちながらも、心臓が鼓動していた。
「心臓だけで生きてるって、どういうことなんだ?」
圭太も驚き過ぎて、ジークの心臓から目が離せなかった。
彼の心臓は、執念を感じさせた。
ナオが周囲の炭を拾い集めていく。
「ジークがジャーキーになっちゃったよ!!」
圭太が笑い転げた。
「チッ。こいつ、また助かりやがって…」
ナオはジークの心臓を懐にしまい込み、空を降った。
「どうすんの、ナオ?」
「血の井戸にしばらく浸けてみよう」
ナオは急いで助手席に乗り込み、無免許の圭太を運転席に座らせた。
「じゃ、ひとまず、朔夜のとこだな」
圭太がハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。
車はジークが目指した山とは反対方向へ、走り始めた。
3
封印のフローラは電気を消した部屋で、一本の蝋燭の炎と向かい合っていた。
彼女は蝋燭の火の揺れるのを眺め、微笑んで言った。
「見える…。あの男の命の尽きるのが。さあ、ヘル様…。最後の花びらです」
フローラが手の中に持っていたピンクの薔薇が、花びら一枚のところまで萎れていた。
彼女が囁くと、最後の花びらがすうっと消滅していった。
「ジーク…。あの男はこれで、今宵死にます…」
フローラは満足そうに、花びらの無くなった茎を眺めた。
4
ジークは暗室で起き上がった。
彼は何かヌルヌルした液体に浸されていた。
鼻を突く匂いに、吐き気が込み上げた。
死の匂いがする。
体が重くて、死にそうなほどだるかった。
余り新鮮でない血の匂いが、全身に染みついていた。
何だか、体がバラバラに崩れそうな、不思議な不安でいっぱいだった。
ジークは吐き気を堪え、池から這い上がった。
中の島のようなところに上がり、暗闇の中、眸を凝らした。
方形の石壁、積み重ねた石で囲われた浅い池があり、天井が筒状になっていた。
窓はなく、洞窟みたいにひんやりとしている。
ジークは中の島に立ち上がろうとして、何かにぶつかった。
天井から何かが吊るされていた。
屠られた牛の肉の塊ように、人間が逆さに吊られていた。
それも、首筋を斬られて。
ジークが寝ていた池は、人間の生き血を絞った池だったのだ。
「うわぁぁぁっ!!」
未だ人間の正常な感覚で、吸血鬼に馴染めていないジークは慌てふためいた。
「ジーク。そいつを食って、上がって来いよ。おまえ、まだ腹が腐ってるだろ?」
天井の板蓋が開き、圭太が顔を覗かせた。
「こ、ここは?」
ジークは呆然としていた。
「あ? びっくりした? 俺達、全部見てたんだよ。おまえが黒飛龍剣で、黒蝶の温室を破壊した瞬間からね。おまえが地獄火に巻かれて、ジャーキーになってたのを拾い集めて、血の井戸に浸けてやったんだ。助けてやったんだよ。礼はいいから、そいつ、食って。ナオが狩って、運んできた」
圭太が井戸の底に、声を響かせた。
「ナオが!?」
ジークはナオに感謝した。
罪悪感がないわけではなかったけれど、せっかくの差し入れということで、美味しく頂くことにした。
人間の腹を食うことは、夢にまで見た。
死んで数時間ぐらいか、その臭い肉を食うことが、ジークに満腹感と幸福感をもたらした。
がつがつ貪りつつ、死体の顔はなるべく、見ないようにした。
でも、食うことで自分がゾンビであることを自覚し、切なくなった。
肉を補充し、腹部を回復させたジークは、軽く二、三歩で井戸を駆け上がった。
井戸の板蓋を開けると、どこかの屋敷の裏庭に出た。
圭太とナオが近くの縁側に座り、月を見ながら何か話していた。
「ナオ…」
ジークがナオに抱きつこうとした。
ナオは血濡れのジークから逃げ、鼻を摘んだ。
「そこに綺麗な水が湧いてるから、ちょっと体を濯げよ」
ナオは小川を指差した。
「今、何時だ? 俺、復活するまで、何時間かかった?」
ジークが詰め寄った。
ナオは苦い表情で、
「七時間ぐらいかかったな。やめとけよ、もうすぐ夜明けだ。山なんて、朝日から隠れる場所がない。危ないから、もう行くなよ」
と、引き留めた。
ジークはぶるっと震えた。
「そんなに経ってるの? マジで、のんびりしてられねー…」
ナオはムカついて、刀を左手に持ち、縁側に立った。
「おまえな、心臓だけに近かったんだぞ。我ながら、よく再生出来たなーと思うよ! でも、体力的に回復出来たとは言い難い。命あっただけ感謝しろよ。今日はもう何も出来ないんだ。安静にしてろよ!!」
ジークは悩んだ。
「わかってんのさ。大体、あの黒蝶のジジィは俺を殺そうとした敵だしな。助けてやる理由なんか、一つもねーんだよ。完璧な仲間割れなんだ。勝手に死ねばいい…。でも」
ジークの心に、哲の涙の顔が思い浮かぶ。
脳腫瘍で苦しみ、憂に騙されて黒蝶になってしまった哲。
「わかってないじゃないか。今から飛んでったって、山小屋跡に着く頃には夜が明ける。もう間に合わないからな!!」
ナオが縁側から飛び降りて、ジークの前に立った。
ナオはジークより、少し背が低い。江戸時代末に生きた人間の成れの果てだ。
「ジーク。おまえの立ち位置は、俺達の側しかないんだよ。同じ黒瀧の一族だ。他におまえを保護してくれる団体はないし、俺達以外の誰から見ても、おまえは敵だ。黒蝶の年寄りと少しばかり心を通じ合ったって、そいつは異種の吸血鬼なんだ。俺達はどのみち、そいつらと全面戦争するしかない……」
ナオとジークが向き合った。
「ジーク、おまえは人間じゃない。吸血鬼なんだ…」
ジークは眸を潤ませ、後ろに一歩下がった。
受け入れ難い現実。
未練ばかりの、女々しい心。
「今、人間の腸を食ったんだろ? それが本当のおまえ…」
「うるせぇ!!」
ジークがぱっと、夜空に跳び上がった。
カラスのような翼を広げ、ジークは山へ飛び立った。
5
ジークは藍色が薄くなって抜けていく、東の空に向かって飛んでいた。
夜明けの時刻が迫り、彼は内心後悔した。
確かに、夜が明けたらどこに隠れたらいいんだろう。
ジークは山の尾根に辿り着いた
哲は文字通りの磔にされていた。
翅の上から、杭を地面に打ち込まれ、両手、両足にも杭を打ち込まれ、首と胴を鎖で縛り付けられていた。
「…あんまりだ…。なんてひどいことを…」
ジークが哲の側に降りようとした。
「来るな!! 野良犬!!」
哲が突然、叫んだ。
血だらけ、土だらけの顔を凄まじい激痛に歪め、半日にも及ぶ磔で衰弱した体を、ぎりぎりまで起こした。
「来るんじゃない、野良犬!! 儂に構うな!! これは罠だ!!」
哲が掠れた声を張り上げた。
「え…!?」
ジークは表情を凍りつかせた。
以前、愛理を生け捕りにした蛾人の網が、地中から跳ね上がって、ジークを捕まえた!
ジークは蜘蛛の巣にかかる蝶のように呆気なく、網にかかった。
彼の前に、懐かしい人物が歩み出た。
長身で、ジークと似た痩せ型の背格好で、顔立ちが端正で、知的でクールな物腰の…。
「だ…大祐……!!」
ジークは網の中から、手を伸ばした。




