ph 48 秘密のガーデン
phase 48 秘密のガーデン
1
久し振りに、ジークが不二富町に帰ってきた。
夕暮れ七時の飲み屋通り。
スナックが多い雑居ビルに、灯りが点る。
一般の商店には、シャッターが降りる。
駅から帰る人を迎える、チラシ配りや呼び込みのバイトも、以前より数が減った。
ベイカフェの前を通る時、ジークがそっと、店の中の様子を窺う。
店長のヨッシーが、新しいバイトと何か喋っている。
看板に記された営業時間は、午後九時までと書き直されていた。
吸血鬼騒ぎのせいで、深夜は人通りがなくなるようだ。
悪名高き、治安の悪さの不二富町ですら、すっかり活気がなくなっていた。
ジークは地下鉄に乗り、車窓から観覧車の夜景を眺めた。
湾岸線に沿って光の粒が煌めき、巨大クレーンが蜘蛛の脚のようなシルエットを作っている。
彼は駅前繁華街から住宅街へ、坂を上がっていく。
歩道の真ん中を、一匹の黒猫が横切った。
ジークは公園のベンチに座り、意識をその野良猫に移した。
彼の意識が、野良猫のカラダを支配した。
彼は野良猫のカラダを借り、ブロック塀の上に飛び乗った。
木造アパートの裏手に回り、塀から二階のベランダに飛び、とある部屋の窓を覗いた。
部屋の中では、ごく普通の主婦が夕飯をテーブルに並べている。
テーブルの前には、小学生の男の子が座り、手に持ったゲームをしている。
やがて、隣りの部屋から少年が出てくる。
如月憂だ。
「母さん、オレ、塾に行ってくる。帰ってから食べるよ」
食の細そうな憂が、継母に言う。
「別に食べなくていいわよ。残ってないかも」
母はテレビの方を向いたまま、答える。
「行ってきまーす…」
憂がリュックを肩に掛け、玄関を出た。
野良猫ジークはそろっと動き始め、アパートの階段側へ回った。
憂はジークに気付かないように、
「お、猫じゃん」
と、近寄ってきた。
ジークが見たことのないような、優しい微笑みで、憂は手を差し出した。
「おいでー。可愛いなー」
野良猫ジークは身を硬くした。
憂は猫を撫で始めた。
「憂くん」
A中学の制服の女の子が来た。
「ツグミ、どうしたの?」
「憂くん。餌が足りなくて…」
女の子が困ったように言う。
憂は人差し指を立てて、慌てた。
「しっ。外でそんな話、するなって言ってるだろ?」
憂はその女の子に対し、横柄だった。
餌?
ジークは心の中で、引っ掛かった。
「待ってて。塾の帰りに寄るから。何とか、調達するよ。ガーデンに行ってて」
憂が命令し、女の子はこくんと頷いた。
ガーデン?
ジークは女の子の方を追うことにした。
ジークの意識が野良猫を離れた。
彼は女の子を追いかけ、バスに乗車した。
女の子は十五分ぐらいバスに乗り、暗い道で降りた。
一面見渡す限り、田んぼと畑が広がっていた。
明かりは民家と、道路沿いの街灯しかない。
女の子は早足で歩き、農家のビニルハウスの間を入って行く。
周辺は、花を栽培するビニルハウスだった。
「どこまで行くの? ガーデンって何?」
ジークが声を掛けた。
女の子は急に動きが固まった。
吸血鬼の視線に縛られる。
「すぐそこ。…蝶の幼虫の飼育をやってます…」
女の子はジークの質問に、無意識に答えていた。
ジークは彼女の側に立ち、牙を剥く。
「少し献血してくれる?」
と、彼女の首筋に触れた。
新鮮な血がジークの喉に流れ込む。
若いほど、血が瑞々しくて甘い。
女の子の意識がぼやけた。
「君は憂ちゃんとどういう関係?」
「私は憂くんの同級生…です。黒蝶の…幼虫の世話を頼まれて…」
女の子が温室を指差した。
蘭の温室に、黒いアゲハのような蝶が飛んでいた。
ジークは何か、シンクロする記憶を感じた。
かつて、婚約者が温室で、黒蝶を…。
ジークは頭を振り、イメージを払った。
「…その黒蝶で蝶人が生まれるのか? 病気の治療と言って、憂ちゃんが哲さんに施したみたいに…」
「これは普通の蝶です…。血を吸う蝶だけど」
「血を吸う蝶…?」
「はい。…元々、アジアの亜熱帯に生息する蝶で、腐乱した動物の死骸や、腐った果物の汁にたかっていたんです。……あの温室の蝶は、それを改造したもの。加藤さんがラボで、吸血鬼の血を与える実験で作らせたんです…」
「加藤って、誰?」
ジークが聞き返した。
「進学塾アルカディアの経営者の、加藤さんです…」
女の子が答え、ジークも思い当たった。
ヘルが、ラボの出資者は進学塾の塾長だと、先日漏らした。
「今、憂ちゃんが行った塾って…?」
「…加藤さんの塾です。でも、加藤さんは、私達が黒蝶をラボの外で孵化させた犯人だって、全然知らない…」
ジークは驚きを隠し切れずに、
「な、なんでそんなことしたの?」
と聞いた。
「病気で苦しむ人を救う為。憂くんは入院中に知り合った人達に、黒蝶の幼虫をあげたんです…」
女の子は得意そうに話す。
でも、異常な内容である。
「え、幼虫を…? クローン細胞を移植するとか、そういう方法じゃなくて?」
ジークは吐き気を感じた。
「元はクローンでした。悪魔の真珠と暗号で呼ばれた、実験種の卵。今は繁殖に成功して、自然交配です。そこに幼虫がいますよ…。見ますか?」
女の子が揺れながら、温室の方へ歩いた。
「ジーク。何してんの?」
憂がジークの後ろに立っていた。
いつの間にか、黒蝶の翅を持つ子供を連れて。
2
「ジーク、やるじゃん。よくここがわかったねぇー」
憂が口笛を吹いた。
「憂ちゃん、塾に行ってたんだろ? 受験勉強は?」
ジークが冷静さを装った。
「餌が先だと思って。持ってきたんだ」
憂が黒蝶の子供に合図した。
子供は野球帽を斜めに被り、気絶した女を担いでいる。
どこからか、若い女を攫って来たらしい。
「ツグミちゃん。餌だよ」
黒蝶の翔が、女を温室の入口に降ろした。
「わかった…」
ツグミが意識を取り戻した。
ツグミは血を吸われて死にかけている女を、ずるずると奥へ引き摺っていく。
生きた餌を、黒蝶の群れが追いかける。
「幼虫の餌って、人間かよ!?」
ジークはショックを感じ、温室に飛び込もうとした。
彼のシャツを、翔が掴んだ。
「あんたは入るなよ。吸血鬼の先生…」
翔が元内科医のジークを、先生と呼んだ。
「俺達はさぁー、あんた達医者が救えなかった患者なんだよー。俺は今の自分に満足してる。もっと仲間を増やしたいんだー」
チビの翔が怪力でジークを引き倒し、見下ろした。
ジークは老人の黒蝶、哲を思い出した。
「哲さんはこんな結果を望んでなかった。ひどい副作用があるんだろ!? 頭痛や渇き、体の痛み。死ぬ前と変わらねー、むしろ残酷なほど、痛みは増したって…」
ジークの話を、憂が遮った。
「ジークがそんなに哲さんと親しかったとは、知らなかったよ。じゃ、哲さんと最後のお別れをして来たらいいよ。オレ、あの人を処分してきたから」
憂の言葉が、凶器のようにジークの耳に刺さった。
「はァ!? 処分!?」
憂は優越感に浸り、もっとジークを驚かせた。
「そうだよ。オレの方針に逆らって、せっかく命をあげたのに、オレを逆恨みした。オレから逃げ続けて、一匹で暮らそうとした。…オレ達は仲間だったはずだ。裏切られた。裏切り者には、相応の報いを。そういうことさ」
ジークの背中を冷や汗が流れた。
「哲さんはどこだ?」
「山奥さ。県境の尾根の、山小屋の…燃えた跡。夕方、哲さんをそこに磔にしてやったんだ。もうちょっとしたら、朝日で火炙りになるだろう」
憂がジークを睨み、片手をポケットに入れて、やや猫背で話した。
彼は淡々としていた。
ジークは焦り過ぎて、狼狽えた。
「何てことを考えるんだよ!? マジか? 朝日で火炙りってのは、吸血鬼にとって、一番残酷な死刑なんだぞ!? おまえは黒蝶にもならねーくせに、哲さんの苦しみを考えたことあるのか?」
憂は表情も変えないで答えた。
「全くわからないね。あんたの動揺する顔を見るのは、マジで清々しい気分になるよね。ジーク。他人の気持ちなんて、オレはわかりたくもないんだ。オレは幼い時から、死の恐怖と向き合ってきた。ずっと、医者に言われて来たんだ。君はもう死ぬから、もう持たないから、せめて後悔のないように。…この年で、後悔なしで死ねると思う? オレは誰を恨めばいい? オレがあげた命の有り難みがわからない哲さんは、死の恐ろしさをもう一度味わったらいい。そうすればわかる。オレのしたことの価値が」
ジークは悲しくなった。
「わかるだろ、憂ちゃん。おまえにはわかるはずだよ! 哲さんがどんなに苦しんできたか…。哲さんの苦痛や孤独、気持ちを、本当に理解出来るのは、おまえのはずだったのに!!」
憂がまた口笛を吹いた。
「あれ、かっこいいこと言うじゃん。ジーク。オレの一番大事なルビーを奪って、死なせといて。オレを孤独に追いやっておいてさ。そんなこと言うの? へぇー、哲さんに優しいんだね。こんなとこで時間を食ってる暇ないよ。早く哲さんのとこへ、駆けつけてあげたらどう?」
ジークは農道の出口と、黒蝶の舞う温室を見比べた。
幼虫を処分してしまいたい。
幸い、ここにいる蝶人は一人だけ。
ジークは背負っていたリュックから、黒い棒を取り出した。
まるで異次元から引き出すように、棒はリュックの深さを越え、一メートル以上の長さがあった。
「なんだ、それ?」
憂が首を傾げた。
ジークは黒飛龍剣を握り、鞘から抜き放った。
その途端、渦巻く妖気が周辺の闇を掻き乱した。
「やる気か、ジーク?」
憂が翔の背後に隠れた。
ジークは黒飛龍剣を構え、温室を振り返った。
余りにも大き過ぎるチカラの波が、剣をびりびり振動させて、両手が震える。
ジークの眸の色が純白に変わり、銀色に近くなった。
目の下に黒い隈取が走り、額に静脈が浮き立った。
「幼虫を? …やらせない!!」
翔が叫び、ジークに襲いかかった。
「死ね!! 幼虫に手を出すな!!」
翔の腕が四本になり、連打となって、ジークを襲った。
ジークは軽く土を蹴って、上方に跳ねた。
ジークが風を扇ぐように、剣を振った。
闇が一塊の巨大な団扇となって、温室を叩き潰した。
闇の中に異界が開き、深淵に向かって渦を巻く。
鳴門の渦潮のように、複数の渦が回転しながら、温室を異界へ引き込んでいく。
「ジーク!! 黒蝶の卵は、それで終わりじゃない。そのガーデン一つ壊したって、黒蝶の数を減らすことは出来ないよ。一匹の雌が一度の産卵で、何個の卵を産むか知ってる?」
憂は負けを認めない。
「じゃ、そこのガキも、深淵にご招待しとくか…」
ジークが剣先を、翔に向けた。
翔は怯みながら、醜い舌管を尖らせた。
翔が加速し、目にも止まらないスピードでジークに迫った。
ジークは斬撃を受けるように、翔の舌管を黒飛龍剣で受けた。
舌管はじゅっと音を立て、闇の剣に精気を吸われた。
火に飛び込む夏の蛾みたいに、翔は舌管を短く擦り減らした。
翔は子供の俊敏さと反射神経でジークを上回ったが、大人の狡さは持っていなかった。
翔が攻めるほど、舌管は闇に焼け、たちまち溶けた。
翔は翅もボロボロになり、舌管を失って地に堕ちた。
口から血を滴らせ、顔を覆って倒れた。
憂は沈黙し、ジークを見ていた。
ジークは憂と翔に、とどめを刺さなくてはならない。
ジークは自分に言い聞かせた。
「殺らなくちゃ。これ以上、人間の犠牲者を出さない為に…」
彼は震えながら、二人の子供の前に剣を振り上げた。
その時、例の発作が来た。
ジークの激しい波の解放を知ったのか、フローラが彼の心臓をキリキリと締め付けた。
ジークは急にのけ反り、痙攣しながら転倒した。
憂と翔は理解出来ず、ただ闇の異界が閉じていくのを眺めた。
ジークは地面でのたうち回った。
「ぐあああっ!!」
彼は白目を剥き、涎を垂らして苦しんだ。
憂が厳しい表情で、ツグミに指示を出す。
「全てのガーデンを、別の場所に移す。仲間に声を掛けて、丸ごと運ぶんだ!!」
「わかった」
ツグミが急いで、SNSでメッセージを送信した。
翔は十二歳で時間が停止した。
何十人も、楽しんで殺して血を貪った。
無邪気に人を殺し、罪悪感もなかった。
彼はお菓子を食べるように、美味しそうに血を啜る。
そんな翔を、憂はペットのように可愛がってきた。
ツグミは一人っ子の寂しがり屋で、命令的な憂に依存するようになった。
憂と一緒にいて、幼虫の飼育を手伝うことで、彼女は仲間を得た。
ツグミは自分の居場所を見出した、と思った。
「憂くんが正しいよ。皆でたくさんの人を助けてあげようよ」
ツグミが純粋な眼差しで、憂を見詰めた。
3
ジークは地面を這って、暗がりへと逃げた。
彼の黒飛龍剣は闇と闇を接続し、フローラの闇まで引き寄せていく。
夜空に稲妻が走った。
突如、異界が口を開き、別の景色が現れた。
闇が黒い旋風となって吹き乱れ、周囲は地震のように揺れた。
異空間の乱流の向こうに、フローラの姿が見えた。
フローラは仮設ラボの一室から、ジークを見詰め、ニタニタ笑う。
彼女は妖精のような不思議な衣装を着て、膨らんだおかっぱ頭に花を付けている。
その手に、ピンクの薔薇を一輪持っている。
ピンクの薔薇は、淡い光で出来ていた。
それが何か魔術的なものであることは、ジークもすぐにわかった。
薔薇は半分枯れかけ、残りの花びらが少なかった。
「調子に乗ってんじゃねーぞ、封印屋!!」
ジークが胸を押さえつつ、フローラを罵倒した。
フローラから邪悪な波が滲み出し、周辺の闇を更にどろどろに濃く染めていく。
闇の深淵によく似た闇色で、黒よりも黒く、油よりもどろっとしている。
彼女は人差し指をジークに向け、五芒星の印を切った。
何もないところに、金色の星が浮かび上がった。
それが、ふわっと押し寄せて、ジークの黒飛龍剣を封印した。
「もう少し。もう少しで、あんたの命は尽きる…」
フローラが予想に反して、老婆のような低い声で話した。
「待てよ!! 直接勝負しろよ!!」
ジークがフローラを掴もうと、左手を伸ばす。
黒飛龍剣のチカラが封じられ、開いていた異界が閉じていく。
彼女の姿が遠のいていく。
フローラが笑う。
「私はあんたが勝てる相手じゃないの…。私はラボで一番たくさん吸血鬼を殺したプロなのよ…」
彼女とジークの間に、闇の帳が降りる。
「くそったれ封印屋がぁー!!」
ジークが怒鳴った。
「やべー。こうしちゃらんねぇー。哲さんが…」
ジークは慌てて立ち上がった。
心臓の痛みが、少しマシになってきた。
「いや、待てよ。手間が省けるんだ。行かなかったら、勝手に一人、黒蝶が減るんだ」
彼は立ち止まった。
ジークは哲の流した涙を思い出した。
あの老人と会った夜、孤独をわかり合える相手に会いたかったと言っていた。
永遠の命を恨むと言っていた。
「…ダメだ。見捨てられねぇ!! 命が終わることを求めてた哲さんに、そんな死に方は惨すぎる!!」
ジークが黒い翼を広げ、夜空に舞い上がった。
闇を吸った黒飛龍剣が、また重さを増して、手にずしりと来た。
「この前、俺が哲さんに焼き殺されそうになった山小屋だよな?」
ジークは独り言を漏らし、力の限り羽ばたいた。




