ph 3 狩りの夜
phase 3 狩りの夜
1
半年前だ。
ジークは、浸水して沈みつつあるボートに取り残された。
顔まで水に浸かっていたのを、誰かが髪を掴み、水から引き上げた。
「どういうことだ、ジーク? なんてザマだ!?」
彼を呼ぶ声から、ジークは自分を引き上げた相手が誰かを知った。
湖水と涙で視界が潤んで、何も見えなかった。
広い湖の波間に、彼のボートが沈んでゆく。
ちゃぷちゃぷと小波の音が聞こえていた。
「黒瀧のジイサン、もういいから放っといてくれ」
ジークはそう言ったつもりだった。
実際には、ゴボゴボッと水を吐き、むせた。
「よくはない。このままでは、おまえが死んでしまう」
声にならなかった言葉を聞き取ったみたいに、相手は低く落ち着いた声で返事を返し、ジークの手を堅く握った。
黒瀧は、ジークの裂けた腹からはみ出た腸を眺めた。
ボートの中の水は、彼の血で真っ赤だった。
「死なせてくれ。何よりも大事な恋人と…そのお腹の子供まで…一度に失った…。俺は天涯孤独の身に戻った。もう、一人じゃ生きていけねーんだ。生きててもしようがない…」
ジークはそう言おうとして、口をパクパク動かした。
半分も言葉にならず、声が掠れた。
ジークは既に、虫の息だったから。
黒瀧は何度も頷き、
「そうか。そうだな。気持ちはわかる。しかしだな、ジーク。おまえはこの復讐をするべきだ。このまま死ぬのは、余りにも悔しくないか?」
と提案してきた。
「…復讐なんて…空しいだけだ。俺は…人として死にたい。吸血鬼には、なりたくねぇ……」
ジークは闇に堕ちることを拒んだ。
「こんな酷い目に遭わされたのにか? おまえは幸せを掴むべきだ。その為に鬼になったとしても、悪いことがあるもんか」
黒瀧が腰からナイフを抜き、自分の左手首を切る気配。
甘い血の香りがした。
ジークの霞む目に、薄ぼんやりと黒瀧の血塗れの手が見えた。
濃い血のとろみが、唇から舌の先へ、喉へと伝わった。
「やめろ、ジイサン!!」
ジークは顔を振って、もがいた。
黒瀧が無理やり、ジークの顎を引き、口の中に手首の血を滴らせた。
血は激しく噴き出し、泡を立てて彼の口へ飛び込んでいった。
ジークは恐怖し、力一杯に抵抗しようとした。
甘ったるい血だ。
気分が悪くなる。
彼の意識が朦朧とする。
ただでさえ、彼は大量に血を流し、ショック状態に陥っている。
腹の痛みは、切られた直後は凄まじく、今は麻痺して感覚もない。
「しっかり飲め。おまえはもう一度生きる機会を得たんだ。ただし、半年に一度は狩りをして、人間の血をたっぷり飲むことだ。そうしなければ、おまえは腐り始める」
「うわあああ…!!」
ジークが喚き、必死にもがいた。
二ヶ月が経ち、死から蘇ったジークが日本に戻ってきた。
2
腐り始めた体を元通りにする為に、そして維持していくために、ジークは新鮮な生き血を必要としている。
「人間の血を糧とすることが、人間が鶏や牛を食うことと同じなわけねぇんだよ」
今でも、彼は自分が吸血鬼として蘇ったことを、認めようとしない。
彼は暴力的に若い女の子を襲う、自分の姿を想像した。
次々に噛みつき、肉を食いちぎる。
歯形がつくほど強く噛み、牙を深く深く食い込ませ、血がだらだら溢れるのを眺めたい。
喉を鳴らして、生温かい血を飲みたい。
ふと、ジークは自分が怖くなった。
彼は小雨の中、立ち止まった。
彼のシャツが濡れ、肌寒い。
ジークは前髪を掻き上げた。
露わになったカフェオレ色の眸が、暗闇の中でぼうっと光る。
駅前のファストフード店のガラス窓から、眩しいほどの光が漏れている。
夜九時だ。
駅前は人通りが多い。
彼は吸い寄せられるように、自動ドアを潜った。
「カフェラテにするかな…」
ジークは寒そうに震えながら、カウンターに手を掛け、メニューを覗き込んだ。
可愛らしい女の子のバイト店員が微笑みながら、千円札を受け取り、
「六百五十円のお返しでございます」
と、お釣りを手渡そうとした。
その手を、ジークがいきなり掴んだ。
「え…!?」
店員は意味がわからず、動揺した。
「お客様、どうなさいましたか…?」
「痛い? 痛くない?」
ジークが小声で尋ねた。
ジークの掌から、白い何かが突き出てきた。
二つの小さな角のようなもの。
そして、掌の皮膚が不自然に動き、そのうちぱっくりと口が開いた。
白いものは、牙だった。
ぷつぷつと歯も生えてきた。
掌に開いた口の中は暗黒で、あるはずの骨も血管も、筋もない。
牙が彼女の手首に食い込み、血が溢れ出した。
ジークの青白い手の甲の、薄く水色に浮き上がった静脈が、どくんと大きく脈打った。
彼の手がすぐに上気し、ピンク色を帯びた。
掌の口が血を吸い上げ、ゴクゴクと音を立てて飲んだ。
彼の右手の静脈が盛り上がり、速いリズムで脈打ち始めた。
彼の冷えていた体が温まっていく。
全身を新鮮な血がめぐる。
ジークはカフェラテに一口、口をつけた。
「ああ!! すげぇうまい…!!」
彼は右手から、温かな血の甘みを感じた。
あまりの美味しさに、脳が痺れるほどだった。
「ありがとうございました」
店員はカフェラテの話だと思った。
彼女は全然痛みを感じてない。
けれど、ずっと手を握られているので、困ったような顔をしている。
「ごちそうさま」
ジークが店員に囁き、牙を抜いた。
掌の口から長ーい舌が出て、血を一滴も残さぬよう、舐め回した。
店員は眩暈を感じた。
急に貧血を起こしたみたいで、その場にしゃがみ込んだ。
彼は何食わぬ顔で、左手にカフェラテを持ち、レジから離れた。
彼はまだ残っているカフェラテを、そのままダストボックスの上に置いた。
3
駅の出口で女の子が二人、左右に分かれて手を振り合った。
「深由、またねー」
「うん、来週ねー」
深由と呼ばれた女の子に、突然ジークがぶつかってきた。
「きゃっ」
ぶつかられた深由が、一瞬ジークを見た。
痩せて長身の、髪を伸ばした男。
目つきが悪く、愛想がなく、冷たい表情をしている。
瞬間的に、ジークは歩道をすれ違う、深由のビニル傘を持つ手を掴んだ。
深由は二十歳の専門学校生。
長い黒髪、清楚で内向的な感じ。
甘くて美味しそうな匂いがした。
「あっ!! 何を…!?」
深由はびっくりして、傘に入ってきたジークを見上げた。
雨に打たれたジークが、
「傘に入れてくれねーかな? 不二富町まで」
と頼んだ。
彼は強引に、深由の手首を掴んだまま、傘を自分の高さに引き上げた。
「えー!? 深由、その人、誰ぇー!? その人が深由の彼なの!?」
深由の友人が、道を渡った向こうから聞いた。
深由は傘を引き戻そうと、試みている最中。
「彼じゃ…」
深由は否定しかけ、黙った。
友達の中で深由だけ、彼氏がいなかった。
先日、見栄を張って、彼氏が出来たと嘘をついてしまった。
でも、深由が写真を見せないので、本当かどうか疑われる始末。
嘘がバレそうになっていた。
深由は友人に背を向け、ジークと並んで歩き始めた。
彼は深由の好みのタイプじゃなかったが、この際、どうでもいいと思った。
友達についた嘘の為に、彼女はジークを送ることにした。
「あなた、誰? 傘に入れるのはいいけど、手を放してもらえません?」
深由が優しいタレ目で、ジークを睨んだ。
「俺はジークって呼ばれてる。あんたは?」
ジークの掌で牙が剥き出され、深由の手首に食い込んだ。
彼女は気付かない。
「私は深由。うちは中町だから、不二富町の手前なんだけど…」
ジークの眸が生気を取り戻した。
彼のバサバサしていた髪が、見る見るうちに艶やかになった。
彼は漲るエネルギーを感じた。
ファストフードの店員からスタートし、彼は既に、数回の食事を繰り返してきた。
彼はもう、歌い出したい気分だった。
突然、浮かれたように、
「俺、腹ペコだったんだ」
彼が深由に告げた。
ジークの気分が高揚し、酔ったみたいに気が大きくなった。
彼は少年のように純粋な笑い声を上げ、深由と路地の石段を走り降りた。
深由は全身から力が抜けていくように思い、足がもつれそうになった。
「待って。走らないで」
深由がジークを呼んだ。
傘を差した人達が商店街をゆく。
傘が視線を遮り、誰も、周囲に気を払わない。
先刻、彼は混み合う雑踏を駆け抜けてきた。
「血が沸き立つのがわかる!! 俺は活力を取り戻したんだ!! 今なら、何だって出来る!!」
彼は横断歩道を歩きつつ、シャツを捲り、腹の傷を確認した。
傷は完全に癒え、渦のような跡だけが残っていた。
彼は喜びに溢れ、家路に着こうとしていた。
彼は食事のデザートに、深由を選んだ。
若くて生命力に溢れた血を、存分に味わった。
深由は歩くほど、疲れを感じた。
意識が虚ろになるほどだった。
深由がはっと気付いたら、彼に掴まれた手首から、一筋の血が垂れていた。
彼女はしばらく、その真紅の血をぼんやりと眺めていた。
「…どうしてかな。部分麻酔でもされてるみたいに、痛みがないよ。ジーク…さんは、今評判の吸血鬼なの?」
夢を見ているみたいに、深由がゆっくり囁いた。
「吸血鬼が十字架付けて、息がニンニク臭かったりする?」
ジークはすっとぼけて答えた。
彼の掌から長い舌が伸び、垂れていた血を舐めた。
猫の舌みたいにざらつく舌だった。
「…信じてもらえないかも知れないけど、この前、女の人が死んだ夜、私、見たんだ。夜空を…でっかい蝶が飛んでた。黒い翅の…。あれはこの世のものじゃなくて、魔界の生き物だと思う」
深由は半分、夢の中にいた。
何となくぼんやりとして、ほろ酔いのように心地よかった。
ジークはちょっと、調子に乗って吸い過ぎたのだ。
彼女は呼吸が浅くなり、心拍が弱くなってきた。
「大丈夫? 深由ちゃん、だっけ?」
ジークが深由の手から牙を抜いた。
「ジークさんが…私の血を吸ったんだよ…。私も死ぬのかな…? 聞かせて。あなたは、あの蝶の仲間?」
深由は彼の方に、崩れるように凭れかかった。
「死なねぇよ。貧血を起こしただけだ…。記憶も消える。怖い思いをさせたお詫びに、教えてやるよ。俺はあの蝶のジジィの仲間じゃねぇ」
シークが深由の耳元に囁きかけた。
「私が見たの、子供だよ…。妖精みたいな…」
「子供ー!?」
ジークが聞き返した時、深由は彼の腕の中、眠っていた。
彼は我慢できなくなり、恋人を抱くように抱き寄せると、深由の首筋に犬歯を突き立てた。
これが吸血鬼本来の、長く鋭い牙だ。
血飛沫が数滴、ビニル傘の内側に飛び、筋を引いて垂れた。
ジークは深由をおんぶして、彼女の一人暮らし先のアパートまで行った。
彼女の鞄から鍵を出し、ワンルームの部屋のベッドに、深由を寝かせた。
4
玄関で物音がする。
愛理は毛布の中で、目を上げた。
瞬間、彼女は殺気を感じ、敏捷にソファーから跳んだ。
愛理が天井で手を着き、体勢を変え、脚を旋回させた。
ジークが彼女の蹴りを躱し、空中でその脚を掴んだ。
彼は彼女を、投げ飛ばそうとした。
部屋の重力の方向が変わったみたいな、二人の動き。
暗闇の格闘。
愛理はバク転するように体をしならせ、うまく着地した。
「ジーク! 何のつもりだよ!?」
気の短い愛理が叫んだ。
ジークは天井に靴底を付け、逆さに立っていた。
「俺は蝶人を殺してくる! あいつの首を引き抜いてきてやらぁー!!」
ジークが眸を爛々と輝かせ、叫び返した。
ジークの野獣のような眸を見て、愛理は呆れた。
「食事がうまくいって、高揚してるの? それは結構だけど。ちょっと血を吸ったぐらいで、強くなったつもりなんだ!?」
彼女はバカにしたように言う。
「何だよ。何が言いたい?」
愛理の言い方が、ジークの気に障った。
彼は狼のように鼻に皺を刻み、長い牙を見せた。
愛理はリビングの中央まで歩き、逆さに立つジークと向き合った。
「あんたが街で女の子を連続で襲って、暴れてる力の波を、私はここでずっと感じてた。私達の同業者は、みんな、あんたの行為を感じてたはずだよ!!」
「それがどうした!?」
ジークが苛立つ。
愛理は彼の眸を見据えた。
「やい、ジーク。あんたが他の吸血鬼と戦おうなんて、百年早いんだよ! 今みたいな動きで、何人も食い殺した吸血鬼に勝てるわけないだろーが!」
「血を吸った量と、力の差が関係あんのかよ!?」
ジークの中の野獣が吠えた。
「もっともっと、食事しないとね。例えば、聖職者の血を飲めば、レベルが上がるよ」
愛理がソファーに座り、脚を組んだ。
「私達は血だけでなく、同時に魂も啜り取る。精神的に高潔で、魂の力が備わった人の血を飲むと、格段に違ってくる。…勿論、聖職者は私達の邪悪な気配に敏感で…。アハハハ…!! ジーク! 下手すりゃ、こっちが殺られるんだ!」
愛理が大口を開けて笑う。
「聖職者って? 日本じゃ、坊主か、神社の宮司とか食えばいいってことかよ?」
ジークが天井から飛び降りた。
重力場が反転したみたいに、今度はソファーの横に立つ。
「坊主と宮司!? うーん……、どうだろう?」
外国育ちの愛理は返答に悩んだ。
その時だ。
愛理の耳がぴくっと動いた。
彼女の視線が鋭く、窓の外へ向かう。
「ジークに刺激されたかな!? 異種の吸血鬼の波を感じる! それも、集団で動いてる!!」
愛理がジークに伝えた。
「はぁー!? 何匹いるんだよ!? 片頭痛持ちのジジィだけじゃねーのかぁ!?」
ジークが舌打ちした。
「ねぇ、ジーク。車出して。あのポンコツ。奴等の波を、追いかけよう!!」
愛理がスニーカーを拾い、踵を踏んで履いた。
「ポンコツで悪かったな。おまえのジイサンが提供してくれた、中古車なんだよ」
ジークが車のキーを掴み、愛理とともに玄関を出た。