ph 29 深淵よりも深く
phase 29 深淵よりも深く
1
エネルギーの渦がジークの意識を飲み込んでいった。
ジークの意識はひとたまりもなく剥ぎ取られた。
丸裸になり、認識できるカタチを失った。
彼の魂は闇の中に没した。
闇の一部となり、彼は自我を失い、永い夢を見た。
暗い宇宙で、眩く輝く星々の銀河が見えた。
彼は銀河を漂うガスの一部か、塵の一つである。
自分の存在を知ることも出来なければ、他の存在を知ることも出来ない。
他と分離されない、その他の一部である。
銀河は美しかった。
薔薇色や瑠璃色の光を放って燃えながら、その光が色褪せる果てまで拡大し、生まれ、死んでゆく。
虫食いのように、暗黒巨星が光を食って銀河を掻き消してゆく。
質量が無限大になった暗黒の星は、光を閉じ込め、空間を内向きに捻じ曲げてゆく。
酸素も水もない真空の宇宙で、塵やガスと同化して永く漂いながら、ジークは自分のことを完全に忘れ去っていた。
悩みも苦しみもなく、挫折もなく、孤独もない。
痛みも恐怖もなく、煩わしさも、悲しみも、義務も抑圧もない。
ただ解放され、安らいでいた。
ジークはそこで、自分が塵に同化していることに、何の疑問も抱かなかった。
永遠に近い時間が流れた。
そこに死後の世界はなく、生まれ変わる輪廻もなかった。
究極の終焉。
心地よいほどだった。
そんな時、何が起きたんだろう。
一抹の塵にしか過ぎないジークに、小さな芽が出て双葉が開くように、何かが生まれた。
とても小さな芽で、銀河の中でどれほど取るに足らない、ちっぽけなものであったろう。
それは小さ過ぎて、宇宙の統括者の眼を免れることになった。
その意識の芽吹きは、何億分の一かの奇跡がいくつも重なって生まれた。
微かな意識は、自我までは至らなかった。
その芽は、言葉も持っていなかった。
何故か、意識は塵の中で育ち、つぼみを付けた。
赤い血のような、真紅の花弁を静かに開いてゆき、塵が花を咲かせた。
ジークは再び生まれた。
暗黒の宇宙で産声を上げ、集団から離れて、個別の存在となった。
「ここは…どこなんだろう…」
言語を使わずに、思考が始まった。
意識は客観的に銀河を見た。
「広いな…。俺は小さいな…」
意識は自分と銀河を比べ、自らの大きさをそう自覚した。
認識が始まった。
急速に、意識はジークを取り戻し、カタチを形成していった。
「俺はなんで、ここにいるんだ? ここが辿り着いた深淵か?」
ジークは自分の魂を拾い集め、足りない部分を求めて手で掻いた。
彼はあっという間に、魂にカタチをまとい、自己を見詰め直した。
「俺はどのくらい永く、この次元にいたんだ? 俺の魂がバラバラに解体されてた。俺はどうして、自分を復元出来たんだ?」
彼は足元に、萎れて散った真紅の花びらを見た。
彼は花びらを拾い上げた。
彼の手の中で花びらは粉々になり、風に散っていった。
2
「黒瀧のジイサンはどこだ?」
ジークは周辺を見回した。
測ることさえ不可能な、果てなき空間に圧倒される。
見渡す先の先まで、星々が煌めく。
ジークは驚嘆し、美しさに心を打たれた。
「これのどこが闇なんだ? 深淵にこんなに星が煌めいて、光り輝いてるじゃねーか?」
彼は宇宙の意識に、今まで同化していたことを思い出した。
この際限なき広き世界で、彼は顕微鏡で見なければならないほどの極小の塵だった。
「いや、あの塵も、俺が人間だった時の大きさと変わらねぇー。宇宙に比べたら、俺なんて塵も同然だ」
彼は頭を振り、
「俺はこんなナゾナゾを解かなきゃ、もう一度あんたに会えねーのか!? ジイサン!!」
と呟いた。
「俺のカタチと同じように、この星も比喩なんだな? 闇の深淵を銀河に例えて、俺の意識を沈めたのはジイサンか…」
ジークは黒瀧の姿を探し求めた。
彼は血を介して、黒瀧と繋がっていた。
ジークはシャツを開き、自分の心臓を見ようとした。
ドクン、ドクンと鳴り続けていた、彼の心臓。
心臓があるはずの場所には、ぽっかり穴が開いている。
彼の内臓は全て空っぽだった。
胸の暗闇から、ドクン、ドクンと音が聞こえる。
温かな血が流れ、全身を巡る気配がする。
「俺の血の匂いだ」
ジークはどこかに、自分の肉体の気配を感じた。
「最初から同じ場所にいるんだ。深淵なんて、嘘なんだよ。深いも浅いもない、落下も漂流もない。銀河もない。俺は同じ場所で、自我を奪われて眠ってたんだ…」
彼は夢から覚めた。
銀河が消え失せた。
3
ジークは最初の真っ暗闇に戻った。
彼の意識は、彼を食おうとする意識なきエネルギーに押し包まれ、血を吸われるように魂の精気を抜かれ続けていた。
「精神的なダメージを食らうと、俺は自我を擦り減らし、精気を失う…」
彼はこの異界のルールを知った。
目に見えない邪気が、ジークの認識に適うグロテスクなカタチを伴って、襲いかかってきた。
邪気はデカい一つ目でジークを睨み、彼の肩に食らいついて、バリバリと音を立てて肉を毟った。
これはイメージに過ぎないとわかっていても、ジークは肩に強烈な痛みを感じた。
意識がふっと、遠くなった。
こうして食われ続ければ、彼の魂は減っていく。
恐怖で一杯になれば、彼の魂は闇に溶けていく。
彼は心の奥底に、今まで感じたことのないほど不快な悪意が湧き上がるのを感じた。
暴力的で支配的な感情。
誰かを激しく打ちのめしたくなった。
どろどろとした、黒い感情。
そして、屍となってからの孤独、葛藤、血を吸うおぞましい記憶が甦ってきた。
日頃考えないように避けていることが、目に鮮やかな映像となって突き付けられる。
俺は…大勢殺したい。
思うままに殺して、犯して、食らって、自分の強さに酔い痴れたい。
自分の中に、悪魔が棲む。
女性の白い脚を両手に持って、股から胸まで引き裂いてみたい。
首を抜いて、滝のように滴る血を飲んでみたい。
「やめてくれ、もう見たくねー!!」
ジークは喚き散らした。
異界にいるだけで、心がどんどん汚れ、醜くなっていく。
「そうか…。吸血鬼…。俺は何ものになったか、今頃やっとわかってきた…」
ジークの掠れた声が、渇いてひび割れた唇から洩れた。
「俺は闇と、知らねーうちに契約させられてたんだ。俺は魂を売ってしまった。俺は制御を失っていく…」
ジークは呆然とした。
「俺の肉体はいずれ、崩れ去る。俺の魂は…、乗っ取られた。今後は、闇の闇の言うがままに…」
ジークは焦り出した。
「何が永遠の命だ。笑わせる。ジイサン、俺が手に入れたのは、幸せを取り戻す為の機会じゃねーよ。長々と苦しみ続ける時間を得ただけだ。そして、俺は知るんだ、本当に欲しいものを手に入れることは一生ない!!」
ジークは指先に力を込め、噛みつく邪気を引き離した。
「ルビーは生き返らねー。ルビーを失った現実を、嫌というほど思い知らされ続けるだけだ。俺は何をしに蘇ってきた!?」
ジークは歯痒くなった。
「本当に欲しいものは、何一つ…!! 心が闇に完全に飲まれるまで…、もう俺に安らぎは来ない」
ジークは知ってしまったことを後悔した。
ジークは失踪した親友の大祐を思い出した。
「あいつの歩いた苦悩の道を、俺も今、辿ってる…。大祐…」
大祐の最後の寂しそうな顔が、脳裏を過った。
闇に精気を抜き取られ、ジークはその場に伏した。
「俺はこの異界で眠り、魂の戻らなかった肉体は滅びるのか…」
ジークは腐乱していく自分の姿を想像した。
もう、それで構わないと思った。
多かれ、少なかれ、人は同じことに迷う。
問題が微妙に違っても、傷付くことは同じだ。
何も変えられない、何ともしがたい現実という重み。
ジークは死を覚悟し、目を閉じた。
ここに囚われたまま、果てる。
それも、自分にはお似合いだ。
巨大な邪気が龍のように長い身を躍らせ、ジークを何重にも締め付けていく。
ジークは死を待った。
やっと、穏やかな気分になった。
でも、やり残したことが胸でちりちりと痛んだ。
微かな痛み。
ルビーの仇を取ってやれなかった。
ルビーを殺した相手は、今も、のうのうとどこかで生きているのに。
邪気が牙を剥き、大きな口を開けてジークに噛みつこうとしている。
瞬間、ジークはかっと眸を見開き、暗闇にルビーの美しい白い顔を、その面影を、追い求めた。
邪気の長い牙が、頭上に降りかかるところだった。
「クソッタレが!!」
ジークが起き上がった。
「ジイサン、マジで勝負だ。俺が勝ったら、あんたは俺とルビーを殺した相手の名前を教えるんだ!!」
ジークは闇の中から、両刃の剣のようなものを掴み取った。
黒い血から造られたような、透明感のある墨色の刀剣。
そのデザインは、どこの国の歴史にもない。
「ジイサン、てめぇーの腹にドデカい風穴開けてやるぜ!!」
ジークはその刀剣を、邪気の中心めがけて振り下ろした。
4
ざあっと霧が晴れるように、闇が退いた。
闇が消えた場所には、白い靄がかかっている。
ジークは根こそぎ闇を絶つように、剣を縦横に振り回した。
一振りごとに闇が砕け散り、粉々になる。
黒瑪瑙みたいに光を反射しながら、闇はキラキラ輝いて砕け散った。
ジークの周囲に、白い靄が立ち込めた。
彼は力が続く限り、剣を振るい続けた。
世界は急激に収縮する。
あの際限なく広かった異空間は、今や、その端を見渡せるほどに縮んだ。
「闇が何か、教えてやろう」
白い靄の中で、黒瀧が腰を下ろし、顎髭を細い指で撫で付けていた。
「俺が知りたいのは、俺とルビーを殺した犯人が誰かってことだ!!」
「まあ、聞け」
黒瀧は急かすジークを宥めた。
「ジーク。このダークランドはな…、心の数だけ実在する。精神上の異界だよ。我々はこの世界を膨らませ、心の内に大きく飼い育ててやる代わりに、新たな能力と生存方法を手に入れた…」
黒瀧は豊かな身振りを付け、劇の俳優のように芝居っぽく話した。
黒瀧が握手を求めるように、右手を差し出して立ち上がった。
ジークはその刹那、黒瀧の右手の甲から剣で刺し貫き、その心臓まで深く切っ先を挿し込んだ。
黒瀧の姿は、すうっと幻のように靄に消えていった。
「ジイサン!!」
「ジーク…」
黒瀧はジークの背後に現れた。
「私を斬れるなら、大したもんなんだがね。力を付ける3つの方法を教えてやろう。チカラの強い人間の血を吸うことだ。魂の崇高な人間の血を吸うことだ。自分を一途に愛する異性の血を吸うことだ。おまえは強くなるだろう、ならなければならない。ケイシーは未だに、おまえを狙っているようだから」
語る黒瀧の胸を横に一閃、ジークが剣で斬り裂いた。
今度も、実体のない黒瀧だった。
「ジイサン。あんた、知ってるんだろう? ルビーを殺したのは、俺のよく知る男だって言うじゃねーか!?」
ジークが闇雲に剣を振り回した。
ジークの斬り裂いた闇が、また集結して辺りを暗くしていく。
「俺には大体、想像ついてんだよっ!!」
ジークは闇を散らしながら、喉を嗄らして叫んだ。
黒瀧の返事はなかった。
ジークが剣を振り回し、世界を掻き混ぜるほどに、空間が収縮していく。
ジークの前に境界の壁が迫る。
ジークは精神力の限界を感じてふらつきつつ、壁を斬り裂いて飛び込んでいった。




