ph 28 異界突入
phase 28 異界突入
1
ジークの視界が真っ白になり、一瞬輝いて消えた。
体が捩じり飛ばされるような衝撃の後、暗闇だけが残った。
音も聞こえない。
誰の気配もない。
その場の空気の広がりが、空のような無限の大きさを感じさせる。
何も触れることが出来ない。
頬に風を感じない。
翼は折れて砕けたのか、羽ばたいてくれない。
匂いもなかった。
暑いのか、寒いのか、それもはっきりとしなかった。
脱力感があった。
疲労困憊だった。
血もたくさん失われ、それ以上にエネルギーが失われた。
彼の波はどん底の低調さだった。
「ここはどこだ?」
何か既視感を覚えながら、暗闇を見回す。
ジークはどこかを浮遊している。
水面近くを流され、ぬるま湯に漂うような感覚。
自分の声が、ぼわわわんと割れて揺らめいて聞こえた。
水中で喋ったみたいに、音が聞き取りにくかった。
「墜落する途中か!? 朔夜はどうなった!?」
ジークは慌ててもがいた。
「いや、これは墜落後か? 俺はあの世に向かってんのか?」
ジークの脳裏に、答えが閃く。
まさか。
いや、そうだ。
この虚無の世界。
ここは前にも来た。
「う、嘘だろーー!?」
ジークが絶叫した。
彼の絶叫は空しく、ぼわわわわわーんんんと響き、消えた。
「ここは何だか、あの時の異界みたいだ。朔夜のマンションで、俺の魂が闇に堕ちかけた時の……」
ジークはヤバいと思った。
彼は自分の肉体を探した。
肉体はどこにも見当たらなかった。
次元の異なる世界。
ここに物質は存在を持ち込めず、捕らわれるのは魂だけ。
この世界で、ジークの魂は、彼の姿を目に見えるカタチとして再現する。
それは彼の意識・思考が、未だ健在なので、物質世界と変わらぬカタチに自分を映像化出来る。
従って、ジークに手足はあるけれども、その手は何も掴めはしない。
彼は黒い衣装を身にまとっている。
これは彼の潜在的な意識が、無意識にデザインしているものだから、衣装に関しては不鮮明で曖昧だ。
彼の意識がイメージする通りに、黒いシャツに黒っぽいデニム、黒いブーツ、黒い帽子までコーディネートされている。
彼は時折、暗闇に光る稲妻が鏡に映った一人の男を見せつけるように、自分の姿を客観的に目撃する。
彼は一度死んで、肉体が腐敗していく過程にありながら、まだ達紙ジークという一人の人間の自我に執着している。
そのことを、この虚無の世界で再現された、彼のリアルなカタチが象徴している。
彼の自我は、制御を失っていくゾンビ達の曖昧な自我と違う。
この世界では、自己主張が強い性格も、自己中心的な考え方も、悪ではなかった。
そうでなければ、カタチを長時間保つことが出来ないだろう。
何故ならば、ここは個人の自我を食い尽くす、脳内へ侵略する闇の領域なのだ。
闇は弱い人間を食い尽くす。
その心を蝕み、汚していく。
人間を堕落させ、欲望塗れにしていく。
何もかもが億劫になり、短絡的に暴力で解決したくなる。
ジークの中で、心臓の音がドクン、ドクンと鳴り響く。
心臓なんて物質的なものは持ち込めてないはずなのに、彼の意識の中心で、最も神聖な場所が鳴っている。
ジークは更に力が抜けていくのを感じ、怯んだ。
「クソ、闇に飲まれちまう。ヤベェー…!!」
と、小さく呟いた。
2
ジークは朔夜の猛攻を食らい、千の細切れに切り刻まれたはずだった。
今、異空間を漂う。
どうやって流れ着いたか、それは不明。
朔夜の攻撃を躱したのか、もろに受けて異空間へ飛ばされたのか、それも不明。
「覚醒して!!」
と、愛理が叫んだが、ジークに覚醒の方法がわからなかった。
また、覚醒の意味もわからなかった。
「何に覚醒するって言うんだよ?」
ジークは答えの見つからない中で呟く。
どこまでも無限に広がる、暗闇。
ジークは暗闇を静かに落下していく。
「どうしたらいいんだ…。どこまで落ちてくんだ? 俺は…黒瀧の眸や、朔夜の中にあるような闇の深淵に向かって、落ちてるんだろうか…」
ジークはこの先まで、落ちてはならない気がした。
と言って、どうやれば這い上がれるのか、全然わからない。
手をバタバタ振ったり、もがいたりした。
しかし、所詮、この両腕も意識の上での立体映像に過ぎない。
ジークの感覚と思考が、徐々に麻痺しつつあった。
彼は自分のカタチが、次第に透けていくように感じた。
「…俺の心が削り取られていく…。闇が俺を吸収しつつあるのか…」
ジークはゾッとする。
どうにも防ぎようのない攻撃、相手は実体がない暗闇。
その場を流されるだけで衰弱していくジーク。
ジークの自我が薄らいでいく。
「俺は誰だった? 俺は…達紙…ジーク…だ、たぶん…」
ジークはがちがちと奥歯を震わせて鳴らした。
感覚としては、手足の痺れに近いものが心に迫っていた。
「何しにここへ…? …朔夜と戦ううちに…気付いたら、この次元に…」
ジークは何とか思い出そうとした。
思い出す端から、記憶がぼやけていく。
彼は焦り、パニックになった。
「俺は誰だ? 何故、ここに? …わからねぇ! そんなの知るか!!」
彼は自暴自棄になって叫んだ。
「俺はここから出る方法を考えなくちゃならねぇー!! 望んで来たんじゃねーからな!!」
彼の意識から造られた体全体に、痺れが及んできた。
「腐りゆく俺は、この世にあっても、あの世にあっても、既に亡霊に違いねーんだ。それとも、これが俺の夢でないと、どうやって確かめることが出来る?」
ジークは歯噛みした。
「人生すら、そうだ。どうやって、これが現実か、確かめられる? 全てが、過ぎてしまえば夢みたいなもんだ。俺のどこからどこまでがリアルで、何日前から夢の中かなんて、目が覚めるまでわかりゃーしねぇー!」
ジークは頬をつねってみた。
「これは、俺の夢か? もしかしたら、他人の夢で、俺は架空の登場人物かも知れねぇー。じゃ、この達紙ジークって男は誰なんだよ?」
頬が痛いような気がしたが、痛くない気もした。
「俺を、俺だと証明する手段があるだろうか? これがニセモノの俺じゃないと、確認する方法を、誰か教えてくれ!!」
ジークは周囲を見回した。
濃い闇がねっとりと彼を押し包んでいた。
彼は息苦しさを感じながら、思考を続けた。
思考を続けなければ、彼の存在は消えてしまう。
「俺はどこから来て、どこへ行くんだ? 吸血鬼なんてそもそも、存在してたのか? 俺は黒瀧のジイサンに騙されたんじゃねーか? 人間が一度死んでから、復活出来るか? どんな奇跡だよ? 俺はたぶん、蘇ってない。屍体のまま、うろうろしてただけなんだ…」
彼は自分の数ヶ月を振り返ろうとした。
記憶を手繰り寄せるのは、困難だった。
「俺の自我は…、屍にプログラムされた生理的行動を維持する程度のレベルまで、後退してるんじゃねーかな…」
医療の現場で、救えた命を救い切れずに落ち込んだ日に、自分の限界を見た気分になったことを思い起こす。
「俺は…、この世界にどう必要なんだ? 何か意味があって、存在してきたんだろうか?」
自分の存在がちっぽけ過ぎて、ジークは孤独に押し潰されそうになった。
真っ暗の傷だらけの心に、ぽっかり大きな空洞ができて、そこから黒い血が流れ出した。
ジークはこの虚無の空間の中で得たカタチを、自ら破壊し始めた。
ジークの虚ろな眸に、死んでいく患者達の痩せこけた顔が映った。
それから、湖に沈みゆくボートの中で、徐々に水に浸かって息が出来なくなる瞬間を思い出した。
その死の迫る瞬間のように、胸がきゅっと絞られたみたいに痛くなった。
切なくて、切なくて、胸から溢れ出す黒い血が止まらなかった。
「俺は大祐に裏切られた…。ああ、思い出した。あんなに信じてた親友に…裏切られて、一番嫌なことをされた…。俺は利用されていたんだ、大祐…? おまえの顔を見るのも耐えられねーほどに、おまえが憎かった……」
途切れ途切れに、死ぬ前の記憶がフラッシュのように脳裏で光った。
大祐の憎々しげにジークを罵倒する顔、向けられた憎悪の眸、ジークを呪うような捨て台詞が次々と映像になった。
「高校の時から…、おまえを一番の友達だと思ってた…。まさか、おまえが…俺を裏切るなんて…。おまえが俺のことを、そんな風に思ってたなんて…」
ジークの眸の縁に、涙が盛り上がった。
「おまえと過ごした十年間は…きれいな思い出ばっかりだよ…。最後の一ヶ月を除いて…」
過去の映像の中で、大祐がジークに食いかかり、ジークが木槌で大祐の顔面を払った。
大祐は三階の窓から庭に飛び降り、森へと走り去った。
映像の中に、中学生の男の子が現れた。
女の子のように可愛らしい顔立ちなのに、捻くれて根性の腐った一面が、影のように表情につきまとう。
「ジーク…。おまえのせいで、姉さんが死んだんだ。おまえが姉さんと結婚さえしなければ…!!」
憂の声がぼわわんと割れながら、再びジークの耳に響いた。
ジークは憂を見下ろし、苦々しく呟く。
「いい加減にしろよ。姉さんの幸せを、いつも邪魔してきたんだよな。実の弟のおまえが、姉さんをあそこまで追い詰めたようなもんじゃねーか?」
憂はへらへら笑い、
「姉さんは心臓の悪いオレを見捨てたりしない。姉さんは自分の命より、おまえより、オレを選んだんだよ。ジーク…」
と、ジークの胸を突き飛ばした。
ジークは片足を滑らせ、ボートに落ちた。
そのボートは、悪霊に憑りつかれていたみたいにジークを引き込み、湖の中央へ流されていく。
ジークはその時、水上で誰かに襲撃された…。
あれはゾンビか!?
彼は腹を食い裂かれ、死んだ…。
記憶の途切れたジークは頭を抱え、眸を閉じ、映像の続きに集中する。
映像は、石を投げ込まれた水面みたいに乱れて消える。
「待て!! 消えないでくれ!!」
映像は消えてしまい、次の登場人物が現れた。
黒瀧だ。
ジークが死ぬ直前に見上げた黒瀧の姿は、彼の涙と湖水で滲み、不明瞭だった。
「…これは余りにも酷い。君は復讐するべきだ…」
黒瀧が囁く。
ジークは何か違和感を感じた。
言い知れぬ恐怖と緊張を感じた。
そのジークの心境と、黒瀧の優し過ぎる同情的な声が何か噛み合わない。
「ジイサン…」
ジークが水の中から手を伸ばした。
ジークの手が、がしっと黒瀧の腕を掴んだ。
「ジイサン…!!」
ジークは確信を込め、記憶の映像の中の黒瀧の腕を掴んだ。
この虚無の異空間で、その時ほど確かな、生々しい手応えはなかった。
ジークは記憶の中に突っ込んだ自分の右手が、冷たい湖水に触れるのを感じた。
その冷たさは、リアル以上にリアルだった!
「ジイサン、どんなに闇が俺を脅したって、俺は俺でしかねぇー!!」
ジークはこの異界に飛ばされてから初めて、自信を口にした。
先刻までの弱気さから、見違えるようだった。
彼の褪せていた姿が、漸く少し色づいた。
ジークは黒瀧に問い質した。
「どうなってんだかわからねーけど、俺は今、あんたと繋がってる。そうだろ!?」
ジークが問い質すと、黒瀧は揺れるボートの上で笑った。
「君は…深淵に向かって、ボートを漕いでいるんだ」
黒瀧が囁いた途端、ジークはまたどこか別の映像の中に嵌まり込んでいた。
ジークは黒瀧を背後に座らせ、ボートを漕いでいた。
闇夜の湖で、ボートの先端に腰を下ろした黒瀧は、ランプのようなオレンジ色の灯りを手に提げていた。
ボートは真っ暗な中を進む。
行き先を知るのは、ランプをかざして前方を見詰める黒瀧のみだ。
「ジイサン…」
ボートを漕ぎ続ける以外に何もできなくなったジークが、喉から声を絞り出す。
「俺は深淵でどうなるんだ…?」
黒瀧は前を見据えたまま、質問に回答する。
「闇は実体のないもので、また、生命でなく、例えるなら宿命そのものだ。闇には抗い難く、到底、手懐けられるもんじゃない。…君は滑稽にもがいている。…私は君に教えるのを忘れていたんだ。闇に抵抗すればするほど、速く闇に飲まれていくということを…」
ジークはランプに下から照らされた、黒瀧の端正な容貌を見た。
髭を生やし、すっきりと整えて、秀でた額から高い鼻筋、思慮深そうな眸、皺のない若い肌と雄弁な口元、文句の付けようのない横顔だ。
数百年を経て、様々な苦難を越えて培ってきた知性と冷静さ、必要とあらば身内も切り捨てる冷淡さ。
ジークは何故か惹かれ、どこか魂の部分で共鳴してしまう。
「闇は血に宿るものではない。伝染するものではない。血に託された契約。我々はこの血を未来へ繋いでいく。出来るだけ多くの後継者を探して…」
黒瀧は前方を見渡す。
彼には、この暗闇の全方位が見えている。
「何の為に?」
「人間を全て、吸血鬼にする為に…。その為に、吸血鬼が誕生する確率を引き上げねばならない…」
黒瀧は、孫の黒瀧教授との共同研究について、暗に触れた。
「人間は餌なんだろ? 増え過ぎたら、餌が足りなくなるんじゃなかったのか?」
「人間は餌でない…。我々の……なのだよ。人間が全て吸血鬼になっても、吸血鬼は滅びない。だって、元々、闇は…光と対の要素だった。この世界の半分であり、この世界の構成に必要不可欠な存在だった。闇は不当に駆逐された…」
黒瀧はボソボソと話し、急に聞き取りにくくなった。
「闇は全ての人間の中に、今も眠っている。この世界の夜の一時には、世界を覆ってくれる。知らなくていいことを秘密にして、憎しみを包み、人間の醜さを隠してくれる。人間がきれいごとを言えるのは、闇のお蔭だ」
「闇は悪魔か?」
ジークが問い続ける。
「闇は…この世界の………の領域だ。不可侵の。闇が人間の精神を一方的に侵略する。闇とは…、総称だ。君はシンボリックなものを、リアルに考えようとしている。闇は君に捕えられることはないが、闇の方は君を捕え、破壊し吸収することが有り得るわけだ」
黒瀧はわかりやすく説明しようとして、余計に話をややこしくした。
「ジーク。忠告したはずだ。闇について理解したら、恐ろしさで発狂してしまうと。闇とは、元々君の内側にあったもので、今、眠りから目覚め、君を狂わせようとしてるものだ。つまり、君自身の負の全てだよ」
黒瀧の言葉に、ジークは吐き気を感じた。
「つまり、俺の中の負が、俺をこんなに異質に変えて、俺自身を呪ってると?」
「そうだ。君がそれを望んでいるからだ!! さあ、深淵に落ち込むぞ!!」
黒瀧が叫んで立ち上がり、ランプを水の中に投げ捨てた。
黒瀧の姿が闇に溶け込んだ。
ボートは急に沈み始め、浸水した水が噴水のように噴き上がった。
「ジイサン!! 逃がさねぇ!!」
ボートごと水中に引き込まれ、激しく回転した。
ジークが投げ出され、ボートも転覆した。
ジークは黒瀧の姿を一瞬垣間見た。
彼は黒瀧の腕を掴もうと、精一杯手を伸ばした。
ジークはものすごい勢いで、水中の渦に引っ張られた。
巨大なスクリューが渦を巻くように、水流が旋回している。
その渦の中心へ、何周もメリーゴーランドを回るように回転しながら引き込まれていく。
ジークの心臓は、ドクン、ドクンと鳴り続けていた。




