ph 26 血の契約
phase 26 血の契約
1
朔夜にしがみ付いた愛理が、戸惑いながら彼の顔を見上げた。
「狂ってく?」
「そうだ。俺達はいずれ、闇そのものと同化する。ただのエネルギーの塊として」
朔夜の言葉の意味を、愛理は理解しようとした。
それは恐らく、自己で認識するカタチを全て失い、自分自身を再現できなくなって闇に飲まれていったベックの状態を指している。
遅かれ早かれ、そうなるものだと朔夜は考えている。
中には、四百年以上を生きる黒瀧のような男もいる。
特に変わることなく、戦国時代から生き続ける圭太のような男もいる。
朔夜は自分が、いつか消えてしまうと感じている。
自分は四百年も持たないと思う。
肉体は、人間の新鮮な生き血を吸うことで、腐乱や磨滅を免れる。
肉体の寿命は、不死に近い。
一方、精神はどんどん病んでいく。
こころというものは、肉体よりも早く朽ちるのだ。
「俺達はこの黒き血を枯れさせない為に、絶えず新鮮な血を補給して、この体の中に吸血鬼が吸血鬼たる由縁のものを増殖させていく。その何かを、闇と呼ぶ。この闇を蔓延させる為に、知らずとも、闇の指令を受けて撒き散らす。つまり、血を継承させて子孫を作る。…一族を増やそうとしない俺のような者は…」
朔夜は吹き出して笑い、
「俺のような者は……、やがて体内に闇が過剰に蓄積して、魂と肉体が破壊されていく…。魂が汚されて、遂には俺という固有のカタチ、意識を失っていくんだ…」
と、絶望的に呟いた。
「雌の吸血鬼の繁殖力は凄いと言うぞ…。おまえも…そうなるのかな? 子孫を残せば、より長生き出来る。カタチを正常に保てるからな…」
と、朔夜が愛理を振り解いた。
「帰れ。おまえが誰の孫だろうと、俺は指示される筋合いはない。おまえもジイサンの虎の威を借りて、偉そうにするのはやめてくれ。まだ血の味も男も知らん、ションベン臭いガキだ」
彼は唾を吐き、愛理の肩を突き飛ばした。
「朔夜!! そんな風にマジで思ってんの!?」
愛理はショックで、頭の中が真っ白になった。
「俺達の血には、文字が書いてある。血が魔王との契約書だ!!」
朔夜が暗い石室に入って行った。
入口の蝋燭の炎が揺らぎ、灯りが消えた。
辺りは、一寸先も見えないほどの暗黒によって支配された。
2
愛理は暗闇で泣き続けた。
祖父の名を利用した覚えはなく、朔夜と普通に接してきた。
勿論、一族の者がみんな、愛理を特別扱いしてくれているのはわかっていた。
愛理は自分が、甘ったれていたと思う。
ずっと特別扱いなのに、みんなと対等だと思っていた。
厳しい実力主義の吸血鬼の世界で、本来なら、愛理と朔夜が対等なわけがなかった。
黒瀧の保護があってこそ、彼女は他の者から親切にされてきたのだから。
愛理は石舞台の外で、朔夜の眠る鼓動を感じた。
愛理がいても、静かなこの地底で、朔夜は昏々と眠り続けた。
爆発的に消耗したエネルギー。
人間の血を吸うだけでは、足りないほどの量。
朔夜は瀕死の重傷を負ったわけではなく、休息していただけだった。
そこから、愛理は朔夜の使ったエネルギーの量を推し量ろうとした。
本人が元々貯えていた以上に使うと、死が待っている。
そして、この血は両刃の剣のように、自分自身にも刃が向いており、時に自らを傷つける。
朔夜は元の自分のカタチについて、認識を奪われそうになっていた。
ヒトなのか、鬼なのか、カタチが曖昧になっていた。
愛理は何度も見たことがあった。
ヒトのカタチを失い、異形の化け物に成り果てた鬼。
醜悪な姿をさらした鬼は、まさに内面の醜さ、負の感情をさらけ出していた。
朔夜はいつも、美しい男だった。
その内面に、どこかに癒えない傷があるのか、彼は孤独を抱えていた。
その孤独から、彼の感じやすい繊細な精神が蝕まれていくようだ。
「ジーク…」
愛理は涙で濡れた袖を絞り、
「あんまり復讐に本気になっちゃダメだ…。ジークが壊れるかも知れない…」
と、ひどく心配になった。
3
ジークは連日、三浦邸を訪ねた。
三浦医師は体調が悪く、まだ診療所に復帰できていなかった。
また、診療所の方も、壁の修理が完全ではなかった。
三浦は庭を眺め、縁側で日向ぼっこをしていた。
側に三毛猫が丸くなり、絵に描いたような、老人の昼下がりだった。
「三浦先生。お加減は…」
「来たか…」
三浦は笑顔を浮かべた。
ジークは嫌味たらしく、
「俺は来たかねーんですが、呼ばれて仕方ないから来たんです。怪我させたの、俺ですから」
と、ごそごそ袋を取り出し、
「はい、先生。ご指名通りの、駅前の二葉屋の抹茶ワッフルです。餡を挟んである…って、これ、洋風のどら焼きでしょ?」
と紙包みを渡した。
ひったくるように受け取った三浦は、
「いや。生クリームも挟んである」
と、すぐにパクついた。
「うまいぞ。君も一つ…」
「いいえ、俺は吸血鬼ですから」
ジークが辞退した。
「じゃ、吸ってくか?」
三浦が肘の内側に残る、ジークの噛み跡を見せた。
「いやいや。年寄りの血はやっぱりどうも、美味くないんです。血は若い女に限る。三浦先生に噛みついても、痩せた老牛のスジを噛んでるみたいで…」
ジークは言葉を飾らず、正直に話す。
「はっはっは!!」
三浦が明るく豪快に笑った。
白い髭が、三浦の顎を縁取っていた。
「儂はもう年だ。君にこの血を全部やるよ。癌で苦しんで死ぬぐらいなら、もう君に未来を託して、さっさとこの世にお暇するかな」
「また、その話ですか。俺はもう死んだ人間ですから、臨床の現場には戻れません。医師免許もないんですよ」
ジークは本当に困り果てて言った。
「ああ、確かに死んだと聞いたものな」
「でしょ? 外国でね、俺の死体もなしに葬式をやったらしいですよ。何でしょうね、一体。俺が再び目覚めた時には、全てが済んでいてね…。俺を吸血鬼にしたジイサンが、偽のパスポートこさえて、帰りの飛行機を予約してくれたんです。住むマンションから、新しい住民票から、全て用意が整えられた。俺はキツネに化かされたみたいに、ポカンとしてた。他に、方法もなかったし」
ジークの話に、三浦は引き込まれた。
「日本に帰って来れて、良かったじゃないか。で、君を吸血鬼にした男とは?」
三浦は色々と興味を引かれ、話の続きをせがんだ。
「ジイサンはなかなかいい人でしたけど、何しろ、吸血鬼ですからね。どれだけ、血を吸って沢山の人を殺してきたのかと思うと。仏様みたいなツラして、中身は悪魔なんでしょうねぇー」
「君は何人死なせたんだ?」
三浦が遠慮なく質問した。
ジークは数秒、息を止めた。
「実はまだ、一人も…」
三浦は大いに愉快だった。
「なんだ、まだか!! 君は意外に、肝が小さいんだな!! 吸血鬼として生きてくのに、腹が据わっとらんのだな。儂にしたみたいに、遠慮しながら少しずつ頂いてるってわけか!?」
三浦は腹の皮がよじれるほど笑った。
「三浦先生…。俺は本来、気が弱いんですよ…。そんなこと、聞かないで下さい」
「いや、すまん…」
三浦は嬉しそうだった。
「ジーク君。それはそうと、君、儂と座禅をしたことを憶えてるか?」
三浦が渋い茶を啜りながら、ジークに問い掛けた。
「憶えてますよ。初めてこの部屋に来た時に…」
ジークは懐かしそうに和室を見回した。
「やってみろ。座禅は君の内側の力を、コントロールする術になるだろう。闇に染まるな、ジーク君」
三浦が自分の痩せた手首から数珠を抜き、ジークの足元に置いた。
ジークは数珠を手に包み、心静かに目を閉じた。
「欲しいものを念じなさい。その血は君に、欲しいものを与えようとしている。君は、死や復讐を欲するな。真実を見抜く力を、客観的に考える思考力を、相手に影響を与えるだけの説得力を、念じてほしい」
三浦が背中越しに語った。
「俺はそんな聖人じゃねーし、ガラでもないですよ」
ジークは目を閉じたまま、背筋を伸ばして、結跏趺坐の形に足を組んだ。
4
帰りがけ、玄関まで深由が送った。
深由は暗い表情で、何か追い詰められていた。
「ジークさん。もし、ジークさんの血があれば、おじいちゃんの癌も治せるの? 吸血鬼は不老不死なんでしょ?」
「どうだかな…」
ジークは黒瀧教授の治験を思った。
「おじいちゃんはもう、長くないの…。余命宣告も受けてて…。とっても立派なお医者様なの。すごく沢山の患者さんを治療して、励まして、精神的にも支えてきた人で、若い先生達からも本当に尊敬されてるの。…私」
深由は子猫みたいにプルプル震えながら、
「私の血をジークさんに全部あげてもいいから、ジークさんの血を少しだけ、おじいちゃんに分けてくれない?」
と、頬に一筋涙を垂れた。
「こんな呪わしい血を持って長生きすんのは、三浦先生にとっても酷な話だよ」
ジークは即、断った。
「私…、もし、おじいちゃんが死んでしまったら…」
深由はめそめそ泣いた。
「いつかはそうなる。深由ちゃんと三浦先生じゃ、五十歳ぐらいも違うだろ」
ジークは慰める言葉もなく、ただ優しい声で話した。
「そうだけど。今はまだ、死なないでほしい。死んだら、ヤダ…」
深由は心の動揺を隠すことが出来ず、子供みたいに駄々をこねた。
「ジークさんの血がほしい…。私がもし吸血鬼だったら、おじいちゃんを病気から救ってあげられるのに…」
ジークは深由の肩に手を掛け、首を振った。
「深由ちゃん。三浦先生はそんな方法で病気を治されても、救われねーよ。生きたまま鬼になるってコトなんだぜ? 人間には寿命ってもんがある。三浦先生は立派な人生の旅をなさった。旅はもうすぐ終わるかも知れねぇ。でも、先生は今のままで、後悔なさらねーだろう」
深由は鼻を啜った。
「ジークさん、そんな簡単に割り切れないよ。死んだら、会えなくなるんだよ。私はおじいちゃんが大好き。もう会えなくなるなんて…」
涙が後からどんどん溢れ出て、止まらなくなった。
「死んだら、会えねーよ。どんなに愛しい相手でもな」
ジークは切なさに、胸が苦しくなるのを感じた。
深由もはっと気付き、ルビーのことだと察した。
「今のうちに、おじいちゃん孝行しなよ。深由ちゃん。甘えたいだけ、甘えとけよ」
ジークが靴ベラを借りてブーツを履き、玄関の戸を引いた。
「わかった…」
深由は目をごしごし擦って涙を拭い、無理して微笑んだ。
ジークは表に出ると、手を上に上げて伸びをした。
「さてと…。そろそろ、愛理のやつを迎えに行ってやるか…」
彼は鼻をピクピク動かし、空気の匂いを嗅いだ。
「愛理のやつ、うまく朔夜を見つけたかな。朔夜はまだ弱ってるみたいだな…」
ジークはそこで、何か意味があるみたいに満足げに笑った。
彼はポケットからスマホを取り出し、登録してあった誰かの番号に電話を掛けた。
5
朔夜が眠りの中で、異変に気付いた。
とても不愉快で、不吉な気配。
何かが近付いてくる。
「ジークか…。あのガキ…」
朔夜は歯軋りして目を覚ました。
未だ彼の体は、ヒトのカタチをしていなかった。
足の指先は、五本の蛇の尾のようだった。
顔はまだザラザラして、鱗だらけだった。
「おい!! 愛理!!」
朔夜が格子戸越しに、愛理を呼んだ。
「愛理!! おまえは何だって、あの疫病神を連れてきた!?」
朔夜の声に、暗闇にしゃがんでいた愛理が顔を上げた。
「何のこと?」
「ジークだ!! あの中途半端な新入りだ!!」
朔夜は忌々しそうに言った。
「ジークが私の波を追って来れるわけがないよ…」
愛理は力なく反論した。
「真っ直ぐ、こちらに向かってるようだが?」
朔夜は苛々した。
「へっ? ジークがなんで? どうやって!?」
愛理はびっくりして、洞窟の外の気配を探ろうとした。
しかし、ここの洞窟は濃い闇で満たされていて、閉ざされた空間が彼女の波を反響させ、外の気配まで読まさせなかった。
「来る……」
朔夜が唸り、二股に分かれた舌を吐き出した。
彼はシャーシャー息を荒げ、格子戸を開いた…。




