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ph 2 翅のある獣

 phase 2 翅のある獣


 1


 ジークは老人の背に生えた(はね)を、黒いアゲハチョウのようだと思った。

 月明かりで翅は艶を増し、鱗粉(りんぷん)がラメのように光って見えた。


「アゲハチョウの翅を背負うのがカワイイ妖精じゃなくて、こんな白髪のジジィとか、絵にならねぇー」

 と、彼は内心呟いた。


 老人はフェンスの枠に立ち上がり、今にも飛び去ろうとしている。

「待てよ。話をさせてくれ!」

 ジークがそいつに向かって、一歩一歩近付いていく。


 ジークはそいつの目の前で、黒いベストとシャツを捲って見せた。

 彼の腹部は黒ずんで、壊死(えし)している部分があった。

 指で押すと、ブラックチョコレートみたいな、黒くどろっとした汁が出る。


「牙が折れたと言われたら、その通りかも知れねぇ」

 ジークは自分でも認めた。

 老人は顔をしかめた。

「おい…、臭いぞ。おまえ、肺腑(はいふ)(くさ)っとるじゃないか! ちゃんと食事しとらんのか!? ここまで酸っぱい腐臭がするぞ」

 老人はジークに対し、唾を吐いた。


 ジークは先刻、愛理とラーメンを食べてきたことを思い出し、自分でも笑いが込み上げた。

「一度死んでから、自分に相応(ふさわ)しい食事ってのは取ってねぇかな。俺はもう、これ以上この世に留まりたいとか、思わねぇから…」

 彼は正直に話した。

「再び死にたいんだな? (わし)が息の根を止めてやろうか!?」

 老人が拳を前に突き出し、ぐっと握りしめた。


「一つ、聞く。ここはおまえの縄張りか?」

 老人が問い掛けた。

「そうだ。仲間が大勢いる。あんた、もうちょっと考えた方がよくねぇか? こっちは数が多いんだ。あんただって、数には勝てねぇ。もう少し、目立たないように食事できねぇのか!?」

 ジークの返事に、老人は口元を(ゆが)め、(たる)んだ目尻をつり上げて、

「おまえみたいに弱い野良犬に、何も言う資格なんかない。数ではない。力で決まるんだ。ここは(わし)の縄張りにする。おまえ達は出て行くしかないぞ」

 と()えた。


 老人がジークを威嚇するように、翅を広げた。

「チッ」

 ジークが舌打ちして、巨大な翅を仰ぎ見た。


 広げられた翅の表側に、黒と灰色の濃淡で、スカルみたいな模様が浮かび上がった。

 ジークは見覚えがある毒々しい模様に、胸騒ぎを感じた。

 スカル模様の黒いアゲハチョウを、彼はかつて、自宅の温室で見た…。


 老人は翅を羽ばたかせ、鱗粉(りんぷん)を散らした。

 老人の足先が、フェンスの上に浮き上がった。

 ばさばさと羽音が起こり、巨大な翅の巻き起こす風が、ジークの帽子を飛ばした。

「おまえはここに、何しに来たんだ? 飢えた野良犬みたいに、食い物を探してうろついとるのか…」

 囁く老人の歯並びに、トラみたいな長い牙は見当たらなかった。

 しかし、新鮮な血を飲んできたばかり。

 そいつの歯が赤黒く汚れている。


 ジークは小さく呟いた。

「俺はただ、確かめたかった。乱暴に他人の命を奪い、(むさぼ)り食う(けもの)の正体を突き止めたかった…」


 老人は極端に痩せていたが、骨の上に(はがね)のような筋肉が張り付いている。

 そして、驚いたことには、老人の腹から、更に二本の筋張った腕が生えていた。


 手足が三対。昆虫のように。

 

 ジークは冷や汗を垂らした。

 老人の体に(みなぎ)るエネルギーから、周囲を圧するような力の波が溢れている。

 老人はまさに、充電仕上がった状態だ。

 老人の中で、命が赤々と燃えている。


 目の前の相手を見て、ジークはヤバいと思う。


「儂をこの街から追い出したいんだろう? おまえに出来るか? 無理だな。力が違い過ぎる。おまえが誰かの血を啜った後なら、多少は面白いことになったかも知れないが」

 老人が嘲笑った。


「野良犬よ。おまえは生ける(しかばね)になった後も、人間臭い心に(とら)われて、狩りが出来ない。儂らは人間と変わりゃしない。人間が牛や豚や鶏を食うように、儂らは人間を命の(かて)とする。何も問題ないだろう?」

 老人がジークの迷いを見透かした。


 老人もまた、自分自身の苦しみを吐露した。

「野良犬。儂は同種の存在と、こうして出会える日を楽しみにしてきた。同じ苦しみを分かり合えるのは、同じ境遇の者だけだ…。永遠の命に何の価値があるだろうか? 孤独がひたすら続くだけだ。呪われた種だ。血が欲しくて、毎日頭がガンガン痛む。おまえなら、儂のこの痛み、わかってくれるな? 儂は喉が渇いて、渇いて、気が狂いそうだ。一生を終わることのない、この渇き…」


「何も食わなきゃ、いずれ死ねる。腐って、溶けて、磨滅(まめつ)していく」

 ジークがにやりと笑う。

 だが、

「それは難しいな。儂は水を飲むように、血を飲んで渇きを癒やそうとする。儂の邪魔をするなら、おまえ達を狩るぞ…」

 老人がしわがれた声で凄み、ジークを脅した。

 ジークは老人の表情に、憂いを垣間見た。


「無駄話は終わりだ」

 ふいに老人が動き、その拳がジークの腹を突き破った。

 老人の拳が彼の背中側に貫通すると、その指先をぱっと開いた。

 老人はそのまま、手を()じ回しながら引き抜いた。


 ジークは(はらわた)と黒い血を撒き散らしながら、後ろの壁まで吹っ飛んだ。


「殺られる…」

 その瞬間、ジークは終わりを覚悟した。


 ジークは壁に全身打ち付けられ、ぐしゃっと潰れた。

 彼の体は壁から崩れ落ち、床に折れ曲がって転がった。

 体中の骨が砕け、肉を突き破った。

「う…うう……」

 ジークはぴくぴくと痙攣し、鼻孔から血を垂れ流した。

 彼は大きく白眸を()き、上体をのけ反らせて、ひゅうひゅう、風が漏れるような呼吸をした。


「野良犬。夜明けまでそうしてたら、朝日で焼け死ねるよ。死ぬことがおまえの望みなんだろう?」

 老人はそこで一歩下がり、大笑いしながら上昇した。

 彼は巨大な翅を羽ばたかせ、夜空へ消えていった。




 2


 ジークは救急車のサイレンで、目を覚ました。


 マンションの階下で、慌ただしく人が出入りする気配。

「誰かが、あの蝶人に血を取られたんだ……。また、人が死んだ…」

 ジークが無理して、起き上がった。

 彼の(あご)から、汗がぽたぽたと(したた)った。

 彼は腕の捻じれを巻き戻し、自分の腹を見た。


 腹に開いた風穴では、赤味のある肉が盛り上がり、傷を(ふさ)ごうとしていた。

 驚異的な再生力だ。

 しかし、エネルギーが若干足りないのか、傷は完全に塞がり切らずに、猛烈な痛みと熱を発した。

「いっ…てて…」

 ジークが思わず(うめ)く。

 彼の腹は蝶人に掻き混ぜられ、(うず)が出来たみたいになっていた。


 ジークは痛みに心がおかしくなり、声に出して笑った。

「ああ…、クソッタレ。また、死に損ねちまった……」


 夜明けに、ジークはぎりぎり間に合った。

 彼が目を覚ますのが後少し遅かったら、黒い炭になるほど燃えていただろう。


 彼はフェンス越しに、マンションの駐車場を見下ろした。

 パトカーが到着したようだ。

 ここで警察と鉢合わせたりしたら、本当に事件の容疑者にされてしまう。

 「六階ぐらいか…」

 ジークは地上からの高さを、目測で測った。


 彼は痛む腹を片手で抱え、立ち上がった。

 そして、六階の高さから飛び降りた…。


 彼の体が風に乗った。

 ふわり、宙を飛んでいる。

 ジークは猫のように柔らかく、アスファルトに舞い降りた。

 着地の時、殆ど音も立てなかった。


 彼はそこから先、酔っ払いのように記憶がない。

 敷地の裏口に停めていた車に辿り着いた後、どうやって運転したかも憶えてない。

「ジーク!?」

 自宅に入ったら、愛理の声がした。

 ジークは愛理に支えられ、真暗闇の寝室に入った。


 そこで強烈な眠気に襲われ、意識を失った。




 3


 ジークは丸二日、眠り続けた。


 彼が目を覚ました時、そこはいつものベッドだった。


 彼は負った深手にも関わらず、体力を持ち直した。

 しかし、空腹感の方は耐え難いほどに膨らんで、今にも誰かを襲ってしまいそうだ。


 温かい血と柔らかな生肉が欲しかった。

 血塗れの腹に顔を埋め、血を(すす)り、(はらわた)を食らいたい。


「こうしちゃられねーんだ」

 ジークは起き上がろうとして、激痛に呻き声を漏らした。


 ふらつくジークが、リビングのドアを開けた。

「あっ……!!」

 彼は入口で硬直した。

 きれいに片付いていたはずの彼のLDKが、とんでもなく散らかっている。


 テーブルの上には、アイスクリームを食べたカップとスプーン、炭酸飲料の空缶。

 コンビニで買ってきたスナック菓子の包装紙と、弁当の空き箱。

 ヨーグルトが零れ、フライドチキンの食べた後の骨がそのままになっている。

 床に脱ぎっ放しのシャツとデニム、散らばる靴下、スニーカー。

 歯ブラシとコップが転がり、バスタオルが湿ったまま椅子に掛けられている。

 リビングの中央に大型のスーツケースとスポーツバッグが置きっ放し、そこから溢れ出す衣類があった。


「汚ぇー。…冗談だろ!? あのクソ女!」

 潔癖なジークは、呆れて愛理に目をやった。


 愛理はソファーで毛布を股に挟み、Tシャツとデニムのショートパンツという格好で、未だ眠り続けている。

 あどけない寝顔で、二十歳には見えない。


 ジークは衝立(スクリーン)に、手洗いした黒い下着が干されているのを見つけた。

「こらっ!! そんなとこにパンツとブラ干してんじゃねぇー!!」

 彼の怒鳴り声で、愛理が飛び起きた。

「あ。下着、二組しか持ってきてないんだ。だから、毎日洗わないと…」

 寝ぼけ眼を擦る愛理。

「はぁ!? 二組だ? 少な過ぎるだろ!? てか、衝立の後ろとか、もっと目立たないとこに干せよ!! このオッサン少女が。色気なさ過ぎて、食欲も出ねーわ! おい、居候。ちょっと部屋を片付けろ!」

 ジークが彼女の毛布を()ぎ取った。


 愛理は慌てて、毛布にしがみついた。

「うわっ、何するんだよ、ジーク!! …あれ!? もう大丈夫なんだ? 新種の吸血鬼(ダーク)に半殺しにされたんだよね?」

 彼女が言いにくいことを、ズバッと言った。

「クソッ。ムカつく女だなー。本当に可愛くねぇ。全くもって、タイプじゃねぇー!!」

 ジークが本気で腹を立てた。


 今度は、愛理が逆に腹を立てた。

「ジークこそ、何やってんの!? 新種の吸血鬼(ダーク)を、捕まえるんじゃなかった? 腹に穴開けられて、降参したわけ!? 情けないったら! ジークはね、うちの一族で最強のおじいちゃんの血を分けられた、幸運な男なんだからね!! 栄養足りてたら、そんな簡単に負けるはずないのに! とても強いはずなんだよ!」

「弱くて、悪いか? 相手は翅があって、腕が四本だぞ。おまえは見てねぇから…。それに、俺は人間の血を吸うのが、すげー嫌なんだよ!」

 ジークが開き直った。

「また死んじゃうよ、ジーク!?」

「好きで蘇ったんじゃねぇ。おまえのジイサンが勝手にしたことだ。俺が頼んだわけじゃねぇー!」

 ジークが愛理に言い返した。

「ジーク!!」

 愛理が瞬間湯沸かし器のように一瞬で熱くなり、ジークのシャツの襟を引っ掴んだ。

 彼の襟元から、シルバーのクロスのペンダントが零れ出た。


 愛理が後方へ飛び退いた。

「ちょっと、ジーク! あんたは吸血鬼(ダーク)なんだよ。神に見放され、鬼と成り果てた身なんだよ。いつまでクロスなんか付けてるのさ!?」

 愛理は彼のペンダントを見て、気分が悪くなった。

「俺は人間だ!!」

 ジークが毅然と言い返した。


 やれやれ、と愛理は頭を振り、肩を竦めた。

「ジーク、今から食事に行って来なよ。傷の修復にエネルギー使い過ぎて、また腐ってくるよ。私達は朝日に焼かれない限り…、完全に干からびて消滅するまで、何十年もかかるんだからね!!」

 彼女はやや大袈裟に言い聞かせた。

 しかし、ジークは真に受けて落ち込んだ。

「え!? そんなに…!?」

 彼は絶望を隠し切れなかった。


 愛理は彼が哀れになった。

「ジークは…もしかして、死にたいの? どうして? 折角、おじいちゃんに助けられたのに…、また生きられるチャンスを得たのに。なんでそんなに死にたいの?」

 愛理が不思議に思い、尋ねた。

「一番…大切なものを失ったから…」

 ジークが彼女から目を背けた。

「何を?」

「最愛の…ひとを……」

 ジークが蚊の鳴くような声で呟き、愛理にはよく聞き取れなかった。

 ジークの眸は長い前髪で見えなかった。 

 愛理はもっと聞きたかったが、それ以上聞いてはいけない気がした。


 彼はいずれ、黒い血を垂れ流し、内臓がかちかちに固まって冷えていく。

 死というやつは、何故こんなに苦しみと痛みを伴うのだろう。

 蝶人の気持ちが、ジークには理解出来る。


「永遠の命とは、永遠に続く痛みの地獄だ」

 ジークが心の中で思う。

 ここで誰かの血を吸って、多少長らえたところで、一体何になるのだろう?

 生まれつきの吸血鬼(ダーク)でない身の彼には、命を長引かせるほど、残酷な飢えと渇きが続く。

 それは蝶人を見ても明らかだ。

 蝶人は爆発的なエネルギー代謝、超人的な能力を支える為に、どんどん必要な血の量が増したのだろう。




 4

 

 ジークは苦悩した。

「俺にあいつが殺せるか? いや、ただの痩せてガリガリのジジィじゃねーか。蝶だから、手足が二本多いだけだ。そんなの、大した意味ねぇし」

 彼の頭の中が、蝶人を倒すことだけで一杯になった。


 彼はシャワーを浴びて服を着替え、隣りのカフェに行った。

 いつものように、カウンターでビールと、ニンニクたっぷりのペペロンチーノを頼む。


「元気ないっすね、ジークさん」

 若い店長が尋ねる。

 今夜は音楽も、ジークの耳に届かない。

 邪魔な雑音のように聞こえる。


「一回だ。試しに血を飲んでみたら…? 前に飲んだ、黒瀧のジイサンの血じゃねぇ。例えば若い女の子か、ふっくらした子供の血だ。…麻薬みたいに脳で強い刺激になって、やめられなくなったらどうする?」

 彼は口の中で、ぶつぶつ呟く。

「献血みたいなもんだ。俺は誰も殺したりしねぇ。途中で飲むのをストップして…400シーシーぐらいなら…、献血してもらうのと一緒だよな?」

 ジークは自分に言い聞かせた。

「一回だけ飲んで…、あの蝶人を殺したら…。俺は元へ引き返せるか? 人間に戻れるか?」

 ジークはカウンターに突っ伏した。

「ジークさん、どこか悪いの? 全然食べてないじゃない」

 アルバイトの女の子が、彼のパスタが減らないのを見て、カウンターの中から話しかけた。

 けれど、ジークは答えられる気分じゃなかった。



「お兄さん、ダイジョウブ? 酔った?」

 いつの間にか、ジークの隣りに、彼よりデカいインド人の男が座っていた。

 ターバンの代わりにバンダナを巻く、かなり怪しいインド人だった。

 白いTシャツに紺色のベスト、長い脚にデニムが似合い、鼻が高くて整った顔だ。

「おまえ、誰だよ?」

 機嫌が悪くなったジークが睨む。


「これ、私が作ったカレーね。たぶん、どこの店のカレーより美味しいよ。辛くないよ。日本人でもイケる!! 味見してみて!」

 男が本格的なインドカレーの入った、自前のタッパーウェアを差し出した。

「え、持ち込み!? 飲食店で、それはヤバいんじゃ…」

 断ろうとするジークに、男が強引にカレーを勧めてくる。

「私のカレー食べたら、絶対に元気になるからね! 何か悩んでることがあってもね、美味しいカレー食べたら、幸せーーってなるから!」

 びっくりするような理屈だが、インド人はみな、そう言う。


「いや、俺はまさに、その食のことで悩んでるのであって…。あ…!」

 男がジークの口の中に、カレーをすくったスプーンを突っ込んだ。

 ジークの口いっぱいに、フルーティーでスパイシーなカレーの味が広がった。

 日本人に食べさせる為か、辛みを抑え、深さとまろやかさがあった。


「コノヤロー! 誰の使ったスプーンだよ!?」

 ジークが立ち上がって怒鳴ると、男の隣りから返事があった。

「私よ。ジーク、こんばんはー」

 ヒスパニック系の美女が手を振っていた。

 彼女はジークのマンションの隣りの部屋の、南米の衣料通販のオフィスで働く。

 民族・人種の入り混じるヒスパニック系は、顔が美しくてスタイルも抜群な人が多い。

「ベロニカのスプーンならいいよ」

 ジークは椅子に座り直した。


「ベロニカさん。私、この悩める若い日本人に親切にしました。彼にカレー食べさせてあげた。美味しかったってー」

 インド人の男は陽気に話しかけ、ベロニカも楽しそうに受け答えしていた。

「おい! 俺は言ってねぇし!」

 ジークが男に怒鳴ったが、無視された。

 ジークは落ち込んでいたはずなのに、何故か口元に笑いが浮かんできた。


「うちの店も、カレーありますよ。シーフードカレーとチキンカレー、イタリア野菜カレーが…」

 店長が小声で、DJブースから抗議した。


 インド人の男はベロニカみたいな、とびきり美人を前にして、とてもはしゃいでいた。

「ベロニカさん。おうちはどこですか? お仕事はこの近く?」

 ベロニカも、隣りのマンションとは言わない。

「うん。近いよ。近い、近い」

「この道ですか? どこで曲がる? 目印は?」

 男はやけに具体的に聞く。

「ジークのうちの隣りで働いてるの」

 ベロニカが曖昧に答えた。

「おお、ジークさん」

 話がジークに戻ってきた。


「そう来たか…。俺の家は教えねぇよ」

 ジークが男に聞かれる前に、早々と断った。

 彼は、

「あんたのおかげで、なんか吹っ切れた気がするよ。今から、俺に相応しい食事に行く。俺を元気にしてくれる、そういう飯だ。ありがとうな」

 と、インド人の男の肩を叩いた。

「だから、カレーがお勧めだよ」

「そりゃ、あんたのソウルフードだろ。俺の血には、別のものが合う」

 ジークと男が言い合った。


「それは、何すか?」

 店長がメモを取る用意をしている。

「女の子を(あさ)ってくる」

 ジークが真面目に答えたのに、カウンターの中のアルバイトのコが、

「サイテーです。ジークさん」

 と後ろに引いた。


「ジーク、アスタ・マニアナ(また明日)」

 ベロニカが手を広げ、ジークも、

「アスタ・マニアナ(おやすみ)」

 ベロニカの頬に軽く、挨拶のキスをした。



 カフェの外に出ると、ちょうど小雨が降り出した。

 空は真っ暗。

 通りを行く人が(うつむ)き、歩を早める。

「食事に、おあつらえ向きの雨だ…」

 ジークが飲み屋通りに飛び出した。












 









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