ph 16 毒牙刺す
phase 16 毒牙刺す
1
ルビーは弟を思って、涙ぐんだ。
彼女の肩に、黒瀧教授がそっと片手を掛けた。
「ルビーさん。君の気持ちは、痛いほどわかるよ。私だって、家族がそんな病気になったら、自分の心臓を差し出して、代われるものなら代わりたいと思うだろう」
黒瀧教授はルビーの立場に立ち、親身になって言った。
でも、やがて静かに、そしてとても残念そうに囁いた。
「…だが、私達の治験の対象は、あくまで成人の末期癌の患者だからね…」
ルビーはわっと泣き出した。
黒瀧教授は心から彼女に同情した。
「君の熱意の理由がわかったよ。君は弟さんの為に、子供達の難病の研究を志し、医者になったんだね?」
そこで教授は一つ、提案をする。
「弟さんを、こっちに呼ぶことは出来るのかな? ここはリゾート地だしね。綺麗な景色が、弟さんの心を慰めてくれるかも知れないよ」
ルビーは顔を上げた。
彼女はハンカチで涙を拭きながら、
「そう…ですね。気分が変わって、いいかも知れない…。こちらでしばらく療養して、観光するのもいいですね」
と、真剣に考え始めた。
ルビーは弟を呼び寄せる決心をした。
病気の弟を飛行機に乗せるのは大変そうだったが、何とか方法がないわけでもない。
こうして、憂が湖畔の街を訪れることになるのである。
2
ここまで思い出し、ジークは冷や汗を拭った。
汗は不快なことに、後から後から流れ出た。
蝶人・哲は長い話を黙って、聞いていた。
「憂ちゃんは、俺の婚約者の弟だったんだ…。心臓の疾患を抱え、余り先も長くなさそうだったよ。第一印象は青白くて細い、ひょろっとした男の子で…。出会った時から、俺に明確な敵意を持ってた…」
ジークは汗を垂らしながら話した。
憂のことを思うと、薄気味悪さと嫌悪感が込み上げ、何故か腹立たしかった。
黒蝶の卵を保持していたという、憂。
憂は哲を騙し、吸血の黒蝶へと生まれ変わらせた。
そして、現在、憂と哲は対立する関係にある。
「憂…。まさか、あいつがおまえの…恋人の弟とはなぁ…。おい、世間は狭いものだなぁ、野良犬よ」
哲が苦いものを噛みしめるように、眉間に皺を寄せて呟く。
ジークは憂と出会った日を思い出していった。
3
ジークと大祐は間もなく、渡辺医師が帰国したことを知る。
残された研修組には、動揺が広がっていった。
大学の一角にある洋館の、黒瀧教授の研究室のある建物の一部屋。
古風で野暮ったいが、どこか懐かしく落ち着く部屋だ。
建物と同じぐらいの年代の家具が置かれ、ソファーの織物の生地が擦り切れかけている。
ジーク達はこの部屋を、溜まり場のように使っていた。
そこでバルコニーに向いた大きな窓を開放し、思い思いの場所に座って、話をした。
風と葉擦れの音が吹き込み、野鳥の声が届き、のどかな田舎の匂いがした。
だが、その日ばかりは、たわいない雑談もなく、彼等の話す声も刺々しくなりがちだった。
「副作用があるからって、どうだって言うんです? これだけの成果が出ている。余命宣告を越えて生き続け、こんなにも回復してる」
ソファーに反り返り、薄井医師が言った。
「異常な回復だけどね。それに、薬の効いてる期間限定での回復」
大祐は批判的に応えた。
「薬と不適合だった人の話聞いたー? 看護師襲って、血を吸ったらしいぞ!」
ジークが言い、
「う、嘘だぁっ!!」
続き部屋のデスクの回転椅子から振り返り、神経質そうな笹木医師が叫んだ。
「血を?」
大祐が興味を示した。
ジークは笑いながら、患者のベックから聞いた話をした。
すると、ルビーが怒り出した。
「馬鹿馬鹿しい! ナンセンスよ、達紙先生! ただの病院の怪談!」
ルビーは陳腐な作り話だと考えた。
「本当に達紙先生達は、手術室で細井先生の死体を見たんですか?」
薄井は半信半疑だった。
「嘘に決まってる!」
真面目な笹木は拒否反応を示し、耳を塞いだ。
大祐はみんなに熱いコーヒーの入ったマグカップを配り、落ち着かせようとして、コーヒーを勧めた。
ジークはバルコニーの手摺に腰掛け、コーヒーを啜りながら、考えた。
「何が不適合だったんだろう…」
ルビーは最初、大祐と気が合うようだった。
「大祐くん」
友達のように、ルビーが親しみを込め、大祐を呼んだ。
「大祐くんはこの治験を中止するべきだと思う? それとも、これだけの効果があるんだから、更に研究を進めるべきと思う?」
ルビーが、窓際に立つ大祐の顔を見上げた。
彼女の白衣の下には、目の毒みたいな深い谷間があり、細く括れた腰から華奢な脚先まで、美しい曲線だけで出来ている。
ルビーのインパクトの強い眸に見詰められると、男はみんな、ドキッとした。
「どうだろうな…。続けるべき研究とは思えないな。せめて、患者達の痛みをもう少し抑えることが出来たらなぁ。これじゃ、言い方悪いけど、薬物中毒みたいだ」
大祐はルビーが言わせたいと思う内容を薄々理解していたが、彼女に従うことは良心が咎めた。
彼はあえて、逆らい続けた。
「強い薬に縋るのも、仕方ない状況なんでしょ?」
ルビーは何とか、大祐にうんと言わせようとしていた。
4
数日後。
夕方から、ベックの容態が急変した。
ベックは点滴の禁断症状のように、猛烈な痛みに襲われた。
それは大人も狂い死にしそうなほどの、痙攣と激痛である。
ジーク達も大急ぎで病室へ駆け付けた。
「ベックさん、点滴をしますよ」
黒瀧教授が言った。
ベックは神に祈り続け、歯を食いしばった。
「ドクター。もう、あの点滴だけは……」
ベックは痛みの余り、自分でも気付かぬうちに涙を流している。
額には汗の玉が流れ、顎から滴った。
彼は息も荒く喘ぎながら、尚も点滴に抵抗しようとした。
黒瀧教授は医者だ。
彼がどんなに嫌がろうと、点滴を無理やり再開した。
ジークや大祐、ルビー、薄井と笹木も、側から様子を窺っている。
点滴が再開されると、ベックはスーッと天に昇っていくように微笑みを浮かべ、消えゆく痛みに恍惚となった。
「もう大丈夫だよ、ベックさん」
黒瀧教授が囁きかけたけれども、ベックは意識がなさそうだ。
彼はすやすやと寝息を立て始めた。
黒瀧教授と看護師が立ち去り、研修組の医師だけがカーテンの内側に残った。
全員の視線が、ベックの青白い寝顔に集中している。
「あっ!」
ジークが何かに気付いた。
「大祐、見ろよ。ベックさんの歯」
大祐が白衣の胸ポケットからペンライトを取り出し、ベックの口の中を照らした。
ベックの犬歯が、通常の二倍ぐらいの長さに伸び、先が蛇の毒牙のように鋭く尖っていた。
「うぇー、なんだよ。…これ、またかよ?」
ジークは悪寒を感じ、赤い点滴の袋を睨んだ。
ベックの牙を見た大祐は一瞬、頭の中がパニックになった。
田村に起きたことが、ベックにも起きようとしている!
大祐は狼狽しつつ、
「け、血液検査しよう…」
と、注射器を取りに行った。
「私が採血します」
ルビーが緊張しながら、ベックの腕にバンドを締め、注射器を構えた。
彼女の手が震えていた。
ベックの静脈が浮き上がり、異様なリズムで波打っている。
筋肉が急激にもりもりと山のように隆起してきて、痩せていたベックの体が陸上選手のような体格に変化した。
ベックは寝ているが、彼の中で何か、獣が覚醒しつつある。
空気がびりびり振動して、肌に伝わった。
異様な気配に、笹木が後ろへ一歩下がった。
薄井も青くなり、壁際に逃げた。
急にベックが目を覚まし、腕をぶんと振り動かした。
ルビーは注射の針を、白いゴム手袋の自分の左手に軽く刺してしまった。
彼女の血が一滴、二滴と、シーツに散った。
その時だ。
突然、むくっとベックが起き上がった。
先刻まで瀕死の状態だったベックが、充血して真っ赤な眼をかっと見開き、シーツの血痕を凝視した。
「ふはははは…。血だ…!」
いきなり、ベックが笑い出した。
真紅の唇を、口が裂けそうなほどに左右に押し開き、蛇の毒牙のような歯を剥いた。
「おお、感謝致します。与えられたこの恵みを、私のようなものを特別にお選び下さったことを、この名誉ある使命を、感謝致します…」
ベックは嬉々として祈り、病室中に響くような大声で叫んだ。
こんな大声をベックが張り上げるのは、初めてのことだった。
ベックが急にシーツの血を舐め、続いて、ルビーの腕をがっと掴んだ。
「危ねぇー!!」
ジークが咄嗟に、ルビーを抱き寄せた。
しかし、ベックはルビーの左手に、身を躍らせて飛び掛かった。
ベックの牙が指に食い込んだ。
ルビーの?
いや、ルビーの手を庇ったジークの右手の指に、ベックが噛み付いた。
「きゃあああー!!」
ルビーは恐怖で絶叫した。
不思議と、ジークは痛みを全く感じなかった。
「放せ、バカ!!」
ジークがルビーを抱きしめ、ベックの頭を何度も蹴った。
ベックは金髪を振り乱しながら、涎を狂犬のように垂れ流した。
ベックはジークの指を放し、床に転がり落ちた。
「うわぁぁぁ…!! 嘘だぁー!! こんなこと…、嘘だぁぁぁー!!」
笹木が喚いた。
ジークの指先から、鮮血が滴り落ちた。
血はだらだらと流れて床に散り、彼の足元を赤く染めていった。
流れる血を見て、ベックは完全に理性を失った。
彼は獣のように吠えた。
「グゥアアア…!!」
ジークはルビーを背中側に庇い、彼女と後方に下がった。
大祐が椅子を持ち上げ、勇敢にベックの前に立った。
ベックの青い目は白く濁り、白目は赤く充血している。
小柄な体が膨張する筋肉で膨らみ、パジャマが裂け、骨格が人間でなくなったみたいな動きをした。
血の混じった涙を流し、獣そのものの雄叫びを上げた。
「グゥアアッ!! ググガァッ!!」
彼は最早、人語を話せない。
ライオンのように、部屋に響き渡る咆哮。
ベックは床を四足で走り、大祐の両足の間を擦り抜けた瞬間、ベッドに跳ね上がった。
ジークの茶色い眸と、ベックの獣の眸が合った。
ベックは瞬時に狙いを定め、ジークに向かって躍りかかる。
ジークの喉を噛み裂かんとして。
ジークは後ろ手に窓を開け、上体をのけ反らせた。
ベックは勢い余って、三階の窓から落ちていく。
ジークと大祐が窓辺に駆け寄り、慌てて階下を覗いた。
田村の死体やゾンビについて話をして、ジークがタバコを吸った裏口が見えた。
窓の下の地面は芝生だ。
ベックは獣のごとく、身軽に地面に降りた。
そこから四足で、裏手の森の方向へ疾走していく。
まるで、生まれた時から四足の獣だったみたいに。
「田村さんみたいに、誰かを食い殺しそうだ!! 警察に連絡を!!」
ジークが叫んだ。
「ダメだ!!」
大祐が何故か、反対した。
「ジーク、ここの病棟の全員が、いずれこうなるんだとしたら?」
大祐が叫び、ジークは驚いて親友の蒼褪めた顔を見た。
「大祐、何が言いたい? 治験は中止するべきだ! 患者は何かに感染してる。隔離するべきだ!」
ジークが言い返しても、
「いや、ジーク。無理だ。どうやって隔離するんだ? 責任者は黒滝教授だ。俺達の話より、教授の話が通る。ベックさんはたぶん、もう戻らない。…田村さんみたいに。もう、手の打ちようがない…」
と悲観した。
「ヒャハハハハー!!」
唐突に薄井が大笑いを始めた。
恐怖のピークで、緊張の糸が切れたようだ。
「食われる、食われる…。もうダメだ。次は俺だぁー!!」
薄井は意味不明な発言を繰り返し、おかしくなった。
笹木は座り込み、
「これは嘘だ。私は騙されない。このようなことは、通常有り得ない。私は騙されない…」
ぶつぶつと呟き続けている。
「ベックさんを元に戻す方法があるはずだ。新しい感染症だとしたら、何か治療する方法が…」
ジークは血が流れ続ける右手を左手で押さえ、内心、恐怖に駆られていた。
もし、ベックの血や涎から感染するとしたら……。
「これが医学じゃなくて黒魔術だと言ったのは、おまえだろ。ジーク?」
大祐は眉を寄せ、嫌味を言った。
「俺はルビーさんと、あの城に潜入する。黒瀧教授を崇拝するふりをして。ああ、黒瀧教授の身辺から調べなくちゃダメだ!」
大祐が小声で、ジークに耳打ちした。
「ヤベーって。それはやめろって。大祐!」
「うるさい。止めても、無駄!」
大祐はジークの言うことに、耳を貸そうとしなかった。
5
「達紙先生…。手当てしなきゃ…」
ルビーは泣きながら、ジークの手を取った。
ジークが身を挺して助けなければ、彼女が噛まれていたのは明白だ。
看護師の詰所で、ルビーがジークの手に包帯を巻く。
ジークは抗生剤の注射を受けたが、これでいいのか、よくわからない。
大祐は、黒瀧教授を呼びに行った。
薄井と笹木は、いつの間にか、いなくなっていた。
ジークとルビーは二人でタクシーに乗った。
途中、灯りもなく暗闇に包まれた森を車内から眺め、ジークはゾッとした。
獣が一匹、解き放たれた。
ジークは闇の中に、今もベックの視線をはっきりと感じる。
その獣は元々、信仰心が強く、臆病で、感じやすい人間だった。
かわいそうに、事の本質を見抜き、邪悪な点滴を拒もうとしていたのに。
ベックの中で、何かが飽和状態になった。
闇と言ったらいいだろうか。
ベック自身が使った言葉だ。
彼は点滴によって魂まで汚され、闇に堕ちていった。
ベックの内側が闇で満ちた時、彼は獣と変わり果てた。
神に見捨てられた鬼となった。
それさえ、現在は理解し得る知性に足りているのだろうか。
ジークは不安に駆られ、シルバーの十字のペンダントを握り締めた。
彼はペンダントを外し、隣りに座るルビーに手渡した。
「お守りだよ。首にかけて」
ルビーはじっとジークを見詰めた。
「ありがとう…」
心細かったルビーはすぐ、ペンダントを首にかけた。
「私、…信じてなかった。達紙先生の言ってたこと。…あれは、何? 達紙先生の血を吸ったわ…!」
ルビーはペンダントを細い指先で撫で、恐ろしそうにジークに質問した。
「ルビー。それ、何があっても外さないで。出来たら、ねぇ、明日から、教授の論文とかの仕事を手伝って。病院には来ないで」
ジークはあの患者達から、ルビーを遠ざけることに決めた。
しかし、ルビーは怯えながら、何か必死に考えていた。
この前のように、怒り出してジークを引っ叩いたりしなかったが、
「ね、達紙先生。つまり、あの状態でも…、ベックさんは生きてるってことなんでしよう!? あの点滴を続ければ…、永久に肉体を維持出来るの?」
彼女は何か考えつつ、真剣に尋ねた。
「あの点滴を続けるには、何か限界が起きるんじゃねーか? 治験を受けた人達は、今まで何人も退院してるんだから。次の展開があるんだろ?」
ジークは自分でも釈然としない答えを言ってみた。
「達紙先生、それって、黒瀧教授は不死の研究をしてるってことなの? 不死の屍を作ってる…」
ルビーは首を傾げた。
ジークは悩み、
「ま、黒瀧の身辺調査や点滴の分析なんて、大祐にやらしときゃいいんだよ」
と、無責任に聞こえる発言をした。
ルビーは呆れ顔になった。
「あれっ!? じゃ、達紙先生はどうするの?」
「ゾンビ予備軍を放置するわけに行かねーし、明日、病院に行く。点滴は中止させねぇとな。とにかく、何とか早く切り上げて、この研修終わらせよう」
ジークがタクシーを降りる際に、ルビーの手を取った。
「不死の研究なんて、俺達には関係ねーんだ」
ルビーはやや不満そうに頷く。
「わかった。……でも、弟が療養に来るの。私の研修が済むまで」
「弟?」
ジークはホテルの入口に背を向け、ルビーに問い直した。
その時、繋がれたジークとルビーの手を叩き割るように、誰かの手が二人を引き離した。
ジークがびっくりして振り返ると、不機嫌な顔をした日本人の子供がいた。
その子供はホテルの入口から出て来たようだ。
ひたすら真っ直ぐ、ジークを睨んでいる。
「何だ、このガキャー」
ジークが小声で呟いたら、
「弟よ」
ルビーが答えた。
「ぶぶっ、マジで!?」
ジークはむせて咳き込んだ。
「憂って言うの。私とは年が離れてて、まだ十四歳。…憂ちゃん、彼は同僚の達紙さん」
ルビーが紹介した。
けれど、憂はにこりともしない。
笑う代わりに、憂は可愛い顔で小憎たらしく、ジークにこう言った。
「うちの姉貴、美人でしょう? でもね、あんたにはあげないから」
「へっ!?」
ジークは自分の耳を疑い、突然のことに面食らった。
が、相手は子供だし、ルビーの前なので、とりあえず我慢した。
「俺は達紙ジーク。よろしく」
と、ジークはちょっと苦手そうに、憂に手を差し出した。
彼はたまたまうっかりとして、包帯した右手の方を差し出した。
憂はニーッと笑い、ジークの怪我をしている指先部分を強く握り、大袈裟に振って握手を交わした。
「よろしく、ジーク!」
「いってぇー!!」
ジークが痛みに跳び上がった。




