ph 13 怪異病棟
phase 13 怪異病棟
1
細井は悲鳴を上げ、逃げ帰った。
「ちょっと見せて下さいね…」
ジークは田村の顎を押さえ、口の中にペンライトの光を当てて確認した。
間違いなく、田村に歯が生え始めていた。
ジークはどう考えるべきか、悩んだけれど、
「すごい薬ですよ…。本当に、もう入れ歯の必要がないですねぇ…」
と、頷いてみせた。
ジークが目撃した奇妙な事件は、それだけじゃなかった。
患者達は独立した病棟にいたけれど、ある日、一人が見当たらなくなった。
看護師と医師で手分けして、消えた患者を探し回った。
ジークは同じ研修組の薄井医師と組み、病棟やダイニング、ロビーを探し回った。
ジークと薄井は患者の名を叫びながら、ロビーから中庭に出た。
彼等は同時に、中庭に不気味な黒い影を発見した。
植込みの側にしゃがみ、一人ぶつぶつと呟き続ける、老人の姿だ。
「ベックさん、こんなとこに居たんですか?」
ジークはホッと汗を拭い、嬉しそうに声をかけた。
ベックは鬱のような暗い表情で、ジークを見上げた。
「ドクター・タツガミ? 私は今、ここで考え事をしてたんです…」
ベックは青い眸を地面に向けた。
「どうかしたんですか? みんな心配してるから、早く病室へ戻りましょうよ、ベックさん」
ジークは夕闇で輪郭がぼやける、ベックの姿に迫った。
「蚊が…」
ベックはか細い声で呟いた。
「蚊がね…、僕の血を吸ったんですよ…。そしたらね…、落ちて、死んだ。…どうして? 僕は蚊を探して、もう一度血を吸わせてみた……。やっぱり死んだ。ほら…」
ベックが足元を指差した。
ジークと薄井がベックを宥める為、彼の言う場所を見下ろした。
蚊の死体が二つ、三つ、落ちていた。
その蚊は叩き潰したものではなく、体も丸みを持ったまま、死んでいた。
「ドクター。僕の血には、蚊を殺すような毒が流れてるのか? あの点滴の成分は何ですか!?」
ベックがジークと薄井に尋ねた。
薄井は吹き出し、
「最初に説明書をご覧になってるはずですよ。蚊が死んだのは、何かの偶然じゃないですかね?」
と、言った。
ベックは信じてもらえなかったので、不機嫌になった。
ジークは死んだ蚊を拾い上げ、指で潰してみた。
予想したよりも、はるかに黒い血が指に付着した。
墨を溶かしたように、真っ黒の血だった。
ジークはそれを汚らわしいと感じ、手をハンカチで拭き、シャツの上からシルバーの十字架のペンダントを握った。
2
数日後、大学のミーティング室に、研修組の医師達が集まった。
最初に、大祐が話し始めた。
「みなさん、同じことを考えてるはずです。あの患者達は異常だと。違いますか!?」
誰も返事しなかったが、大祐に異議を唱える者もなかった。
「田村さんは歯が生えてきた。ベックさんの血を吸った蚊が死んだ。ビルさんの胃癌で切除された胃が、元の大きさまで回復した。マイケルさんの髪がふさふさに生えてきた。モニカさんは六十五歳で妊娠し、出産した。彼女は生理もない更年期だったのに」
大祐は有り得ない患者の状況を並べ立てた。
「モニカさん達は肌も艶々として、若返った。声も張りが出て、歩き方もしゃんとするようになった。脳梗塞の後、リハビリが進まず、歩けなかったショーンさんが歩けるようになった。一方で、彼等は夜眠らず、興奮しやすくなった。痩せてきた。薬が切れると肌の血色が悪くなる。意味不明のことを口走ったりする。…何だか、麻薬の常習者みたいだ」
大祐は手を大きく振り、身振りも大きく、感情を込めて話した。
聞いているジーク達は、静か過ぎるほど冷めていた。
ベックの血を吸った蚊が死んだところに来た薄井は、
「言いたいことはわかりますよ。じゃ、警察に届け出る? 警察は医学の専門家じゃないですからね。法律でも、どうなんだろう? 治験薬で起きた副作用というか…、彼等が異常に変化してしまったこと…を、証明するのが難しいですよ。あの患者達は傍目に、被害者ではなくて、成功例なんですから」
と大祐に詰め寄った。
クソ真面目な笹木も、薄井に続いた。
「死ぬはずだったのに死なずにすんで、彼等は興奮してるんですよ。多少、副作用があったとしても、それは今後早急の課題ということで。奇妙だからって、特に問題はないですよ」
日和見な笹木は、何も考えたくなかった。
「ええっ!? 歯が生えて来るとか、異常じゃないですかぁー。僕はこんな恐ろしいとこ、一分だって居たくないですよぉー!!」
巨漢の細井が言い返した。
ジークも細井に、
「何が起きてるか、事と次第によっちゃ、黙ってられねーってレベルですよ、これは…」
と、応じた。
「すげぇー知りてぇー、つーか。ほんと、何が起きてるんでしょーねぇー? だけどー、患者を解剖するわけに行かないしね。最後まで見届けたいとこなんですけどぉー、うちは結婚したばかりの妻が身籠ってましてね、早く日本に帰って、妻の側についててやりたいんです。あ、勿論、ここが怖くなったとかじゃないんですよー。いやぁー、残念だなぁー!」
いつもニコニコ愛想がいい渡辺が、愛想良過ぎる作り笑顔を浮かべて言った。
彼は帰国が希望らしい。
「待って」
ルビーが手を挙げた。
「みんなで協力して、原因究明しましょうよ。奇妙!? ちっとも、そう思わないけど。だって、細胞が活発に代謝したり、もう再生されないはずの組織が再生されたり、すごくないですか? この奇跡を明らかにするのが医者の使命じゃない? 黒瀧教授、すごい人だわ!!」
ルビーは奇跡という言葉を使った。
彼女は優しい微笑みで、
「ねぇ、もう少し、この治験の成果をじっくり検証していきましょうよ!? そんな怖い顔しないで」
と、大祐を説得しようとした。
彼女は黒滝教授をとても尊敬していた。
「ルビーさんはこの間、ビールは炭酸飲料じゃないの? って、聞いた人だからな。自分の専門分野以外は苦手なんだよな」
ジークがルビーをからかった。
「あっ、達紙先生。また、その話…」
ルビーが頬を膨らまし、拗ねた。
「ルビーさん。この話、黒瀧教授には内緒ですよ。俺達が調べてるってこと、言わないで下さい」
大祐は不安そうに、ルビーを口止めした。
ルビーは憤慨し、
「私は子供達の難病を何とかしてあげたいだけ。末期癌の患者や子供達に限らず、これは未来的に発展する、希望に満ちた研究なんだと思う」
と、職業的な熱心さで、事の異常さを直視していなかった。
「俺はヤベーと思う。これが医学か!? 黒魔術じゃねぇか!?」
ジークは大祐に呟いた。
「大祐、手を出さねー方がいい。何も見なかったふりして、早く日本に帰ることだ。どこか、人智を超えた世界に踏み込もうとしてるようで、怖い」
ジークが大祐の肩を叩いた。
大祐は資料を握り締め、
「俺一人でも、黒瀧教授の正体を暴く」
と言って、ジークの忠告を聞こうとしなかった。
3
ジークと大祐が、真夜中の病棟を走っていた。
「細井先生を見かけなかった!?」
ジークがドアを開け、詰所の看護師に問い掛けた。
細井はとっくに病棟を去ったはずだった。
でも、夜中になっても、ホテルに戻らなかった。
その日はルビーを含めた全員で食事をする約束で、ルビーの大ファンの細井が来ないなんておかしかった。
ジークと大祐は食事会の帰り、病院へ寄ってみた。
ロッカーに彼の鞄が残っていた。
二人は顔を見合わせ、嫌な予感を感じた。
病棟の詰所の看護婦は、青白い顔をパソコンの方からこちらに向けて、
「手術室の方へ行くのを見ました…」
淡々と答えた。
「なんで、手術室!?」
「黒瀧教授を探してました…」
看護師は興味なさそうに答え、パソコンの方に向き直った。
「急ごう!! 細井先生に何かあったかも知れない…!!」
大祐が不安に駆られ、ジークの白衣を引っ張った。
二人がエレベーターを待ち切れずに階段を駆け降り、手術室へ向かった。
手術室の中は真暗闇で、つんと消毒薬の匂いがした。
そこには、誰の気配もなかった。
照明を付けた大祐が、
「うわっ!! ジーク!!」
と、大声で叫んだ。
ジークが眩しく照らされた手術台を見ると、細井が仰向きに寝ていた。
「細井先生!?」
ジークは血の気が引くのを感じた。
細井が着用していた、青い手術着が乱れ、腹部で生地が引き裂かれているのが見えた。
辺りは血の海で、手術台から床に血が、水道の蛇口を閉め忘れたみたいにポトポトと滴っていた。
若きメタボの細井の、脂肪で盛り上がっているはずの腹部が、逆に深く抉れていた。
ジークと大祐は言葉が出て来ない。
頭の後ろを殴打されたみたいな衝撃を感じた。
細井は大型の肉食獣に食い荒らされたみたいに腹部を裂かれ、腸を食いちぎられていた。
だらりと手術台から垂れた腸、ジークの眼に見えるほどハッキリと、細井の腸に歯型が付いていた。
ジークは何が起きたか、理解できないのに、患者の田村の顔が浮かんだ。
彼は新しく生え揃った歯で、肉を食いちぎりたいと語っていた。
そのことが、何気なく連想された。
細井は何か邪悪な存在への生贄のように、手術台に供えられていた。
細井は眼をかっと開き、叫ぶような、苦痛に悶絶するような形相で絶命している。
「なっ…、…何だ、これは!?」
驚いて叫んだのは、黒瀧教授の声だった。
ジークと大祐が、手術室の入口を振り返った。
黒瀧教授が呆然としていた。
「細井くんが私に話があると言ってきたんだ。日本に帰らなきゃいけない用事が出来たとか、言ってた…。彼が遅いんで、心配になって探してたんだが…」
教授が一歩一歩、手術台に近付いていった。
「…まさか、こんなことに…。どういうことなんだ!? もう死んでるのか?」
黒瀧教授は声を震わせ、興奮して髪を掻きむしった。
「…警察を呼んだ方が」
ジークが言った。
「待て。…こんなこと、一体誰が!? この病院の誰かが!?」
黒瀧教授の叫び、深い動揺を露わにした。
しかし、教授の表情の全てが、ジークには嘘臭い演技に思えた。
「教授、これはとてもじゃないけど、人間の仕業とは思えません…」
ジークは握った拳の内側に汗をかいた。
大祐も同じだった。
「教授。とにかく、警察に届けましょう。獣か、殺人か。何にせよ、警察が明らかにしてくれる」
大祐はジークより強引に迫り、自分の白衣のポケットからスマホを取り出した。
「待てと言ってるんだ」
教授がすっと大祐に寄り、片手で制した。
「病院側に迷惑がかかるかも知れない。もし、これが殺人で、犯人が我々の中にいるとしたら…。考えてみなさい」
教授が威圧的にその場を仕切ろうとした。
「これが殺人なら、尚のこと、警察を頼るべきだ」
大祐が言い張った。
「その場合、第一発見者の君達が疑われるかも知れないぞ!」
教授は警察に通報しようとしなかった。
外部に漏らすまいと考えていることが、ありありとわかった。
「俺達の歯型と一致しないでしょうから、そんな心配はご無用ですよ。教授こそ、こんな時間まで、何をなさってたんです?」
ジークの問いかけは、黒瀧教授を疑うかのようだ。
教授は焦った。
「私は…ちょっとカルテの整理をしてたんだよ。おや、もう、こんな時間だったのか?」
教授は白々しく腕時計を見た。
「ここは私に任せて。私の息子は、この街の警察署の署長なんだ。私が警察に連絡を取る」
教授がジークと大祐の背中を押し、手術室から二人を追い出そうとした。
大祐はムキになって、何か言い返そうとしたが、ジークが彼を引っ張り出した。
「大祐。病棟の317号室だ」
ジークは大急ぎで、大祐を連れて三階へ戻った。
暗い廊下を、足音を殺して走る。
非常灯だけが灯っている、暗い通路の先に、大部屋が並んでいる。
その病棟は深夜、活気づく。
罵りや啜り泣き、狼の遠吠えのような声、誰かが嗤い話す声が聞こえる。
「痛い…」
苦痛の呻き声。
「食いたい…。生の…」
意味不明な呟き。
「うひひひ…」
誰かの奇怪な嗤い声が響く。
ジークはペンライトを点け、317号室の窓際のベッドのカーテンを開いた。
ベッドはもぬけの殻だ。
「田村さん? トイレか?」
大祐がベッドの名札を見た。
ジークはベッドのシーツを撫でて、冷たいことを確認した。
「トイレじゃない」
ジークが小声で呟いた。
彼の脳裏に、血を口元から滴らせている田村の姿がイメージされていた。
「…なんだろう? 映画のゾンビみたいにしてしまうクスリなのか?」
ジークは不安を口に出した。
二人は足音を忍ばせ、病棟をヒタヒタと歩き回った。
ロビーまで来て、ジークのスマホのバイブが鳴った。
「こんな夜中に?」
大祐がスマホのディスプレイを覗いた。
ルビーの名が表示されていた。
「もしもし?」
「もしもし? 達紙先生? 瑠美ですけど。細井先生は見つかりました? 気になって、私も病院来てみたんですけど。達紙先生は今、どちらにいらっしやいます?」
ルビーの無邪気な声を聞き、ジークが蒼褪めた。
「ハァ!? マジでこんな時間に、ルビーさんまで来ることないでしょ!? 日本と違うんだ。危ないでしょ!?」
ジークが怒鳴った。
大祐は横で聞いてて、はらはらした。
「で、どこに居るんですか? ルビーさん」
「ああ。今、黒瀧教授のオフィスです。黒瀧教授と一緒です。大丈夫ですよー」
ルビーが楽しそうに答えた。




