ph 10 黒蝶の秘密
phase 10 黒蝶の秘密
1
蝶人が夜を切り抜いて身に纏い、風に乗って空を舞う。
翅は力強く、艶やかで麗しい。
彼はひらひらと空高く舞う。
摩天楼の谷間を抜け、黒く茫洋とした闇に向かって飛ぶ。
黒蝶の老人、哲は、生きることに疲れていた。
彼は死に場所を求め、さすらっていた。
哲は食事しても満たされることのない空虚感で、心が押し潰されそうになっていた。
彼は渇きに苦しみながら、この苦しみの終わりを切望し続けた。
誰かが終わりを与えてくれるというなら、勿論、誰でもよかった。
しかし、苦しみから逃れる為に終わりを得ようとすると、終焉の間際に、それまで以上の苦しみが待っているわけだ。
苦しみなき終わりが、どこにも見出せないのだ。
彼は月を見上げ、哭いた。
「儂は死にたい…。これ以上生き続けたとしても、一体、何のいいことがあるだろう? 妻も息子も、先に逝った。野良犬よ。おまえはそろそろ腐りきって、動けずにおるよなぁ…」
哲は腹部が壊死した、生ける屍を思い出し、嗤った。
あの男は、人間を食糧とすることを拒み、どんどん腐っていく途中で、牙が折れた野良犬のように弱々しく不甲斐なかった。
哲は空から、夜道を一人歩く、若い女の姿を見つけた。
哲の眼は、獲物を狙う鷹のように鋭い。
女は二十歳ぐらい。
茶髪で、服装が可愛らしい。
顔の中で、眸が半分を占めるんじゃないかというほど長いつけまつげに、アイメイクが濃い。
スポーツをしたことがなさそうに色白で、何だか肉が柔らかそうだ。
哲は空中から、じろじろと観察した。
女は病院の寮を出て、道を急ぐ夜勤の看護師らしい。
哲は低空飛行に入った。
女は公園を横切って、近道をしようとしていた。
小学生がサッカーをして遊ぶぐらいの広さのグラウンド、隅に児童遊具、児童の母親が休憩する為のベンチと藤棚があった。
公園の周囲は、古くなった木々が囲み、周辺の住宅からの視線を遮っていた。
照明の数も少なく、公園は薄暗かった。
哲の目の前に、新鮮な食材がある。
無料で飲み放題、食べ放題だ。
甘い果実のようにみずみずしく、歯応えもぷりぷりしてそうだ。
哲の喉がゴクッと鳴った。
彼は湧き上がる唾を自覚し、急降下した。
2
女が公園を突っ切っていく。
哲は翅を窄め、公園の木に降り立った。
彼は木の幹から跳び、裸足の片足を一瞬、滑り台上部の青い手摺の上に置いた。
手摺を蹴り、空中に躍り上がって、次の片足をシーソーの上に置いた。
シーソーが反対側に揺れ、ギィーと鳴った。
女が気付き、こちらを振り向いた。
女が怯えた顔をした。
奇怪な老人が高速で迫ってくる。
哲の髪は白髪。
歳は七十ぐらい。
眉は長く伸びて垂れ、鼻は鷲の嘴のよう、小さな眼は獣のように鋭い。
彼は服の代わりに、黒い夜の切れ端を纏っている。
彼は部分的に夜と重なり、体が欠損しているように見える。
哲はご馳走を前に、にやにやと薄気味悪く笑っていた。
女は最早、逃れようがない。
女が短い悲鳴を漏らし、咄嗟に木の影に隠れようとした。
哲は片足をブランコの座板に掛けた。
その間、一秒の四分の一ぐらい。
座板を後方に蹴って、ブランコを通過したので、ブランコが大きく揺れ、鎖が錆びた音を聞かせた。
哲の腕の数が、四本に増えていた。
彼は二本の腕で木を砕き、残る二本で女を捕えるつもりだった。
彼が迫る瞬間に、突然、彼の視界がグニャリと歪んだ。
空間が大きく波打ち、グニャグニャと歪に曲がっていく。
「うぉぉっ!? これは!?」
哲は目に見えない何かに顔面をぶつけたみたいに、弾かれて倒れた。
そのまま、頭を途方もない重みで締められるように、地面へグイグイと抑え込まれた。
「クソッ!! やられた!!」
哲は罠に嵌められたことに気付いた。
これまで一度も感じたことのない、誰かの波を強く感じた。
この街に隠れていたとは全く信じられないほどの、強大な波が、哲を襲った。
「誰だ!? 出て来い!!」
哲は波の主に向かって、地面から声を絞り上げた。
「ふふふ…」
女が笑っていた。
…いや、女じゃない。別の生き物。
女の顔が微妙に変化していく。
女装し化粧した、若い少年だった。
同時に、哲の周囲も歪み続け、変化していった。
ここは公園などではない。
哲の背後で、がらがらと軋みながら、シャッターが降りていく。
ここは古く簡素な貸倉庫だ。
哲の背後の木だと思っていた波が変化し、木でもなく人でもない、別の生き物になった。
それは男のカタチを取り、動くことができない哲を羽交い絞めにした。
哲は生きたまま捕獲された。
哲は焦っていたが、何とか敵を見ようと、視線だけを上げた。
女装した少年が、手に銀色のナイフを携え、一歩ずつ近付いてきた。
「教えたげるよ。吸血鬼の殺し方ってやつを…! 心臓にある、おまえと闇の接続を、こいつで絶ち切るんだよ…!!」
少年がナイフを構えた。
ナイフの刃がぎらぎらと光った。
死にたい、そう呟いていた哲が。
与えられる死を覚悟し、望んでいたはずが。
哲は無意識のうちに、黒蝶の舌管を鞭のように伸ばし、少年の首を斬り落とした。
少年の頭部がボールのように後方へ飛んでいった。
少年の首から下は、硬直して立ち尽くしていた。
「てめぇー!! ぶっ殺す…!!」
降って湧くかのように、別の男が空中から躍り出て、日本刀を振り下ろし、哲の頭を叩き割ろうとした。
この男は天井裏に伏せ、完璧なタイミングを見計らって飛び出したのだ。
しかし、瞬時に、反射的に哲が動いた。
哲は黒蝶の翅を変化させ、盾のように凶刃の攻撃を防いだ。
黒蝶の翅は鋼で出来ているのだろうか。
翅は日本刀でさえ受け付けないほどの、驚くべき強度を持っていた。
続いて、哲は羽交い絞めしていた男に、しならせた舌管の先を刺し込んだ。
舌管は自由自在の形状にしなり、絶妙なポイントを正確に射抜いた。
「儂に、自分達の殺し方を教えるとはな…。こうか!?」
哲が男の心臓を一突きで貫き、闇との接続を切断した。
男は悲鳴もなく死んだ。
途端に男の遺体が黒い泡を立て、溶け始めた。
哲は驚嘆の眼差しで、俄かに溶けていく男の姿を眺めた。
それが初めて目にする、吸血鬼の死だった。
3
その吸血鬼の遺体は、浦島太郎のように白い煙に包まれ、皺くちゃの老人になり果てた。
それから皮膚が煮立てられるように、泡をボコボコ噴きながら崩れていった。
溶けて液体になるわけはなく、溶けるうちから黒く霞み、ガスのようになって渦を巻きながら消滅していった。
呆気ない終わりに、哲は立ち尽くした。
興奮して彼の息が荒くなり、深い皺を刻んだ額に汗が、こめかみに青く静脈が浮き上がった。
日本刀を持った男が、哲に斬りかかってきた。
男は抜刀するなり横方向へ抜き付け、哲は慌てて後方に飛び退き、刃先を鎖骨の1センチ手前で避けた。
男は素早く次の刃を閃かせ、鋭い音で風を切りながら、哲の頭に刀を振り下ろした。
考える暇もなかったが、哲には人間を遥かに超越した敏捷性があった。
刃とともに、ごうっと男の波が火の玉のように吹き付け、哲の体を通り抜けていった。
男の凶刃が哲を捕えたかと思われた刹那、哲はまたもや、翅を盾にして攻撃を躱した。
翅の硬さの為に、男の刀が切先から十数センチで、いきなり折れた。
男はチッと舌打ちすると、刀を地面に置いた。
彼は地面に落ちていた、女装の少年の頭部を拾い、少年の首の上に載せた。
「ほらよ。圭太、大丈夫か!?」
「ああ。サンキュ、ナオ」
少年の頭は、自分の首の切断面にぴったり吸い付いた。
少年は大きな丸い眸を何度も目瞬きさせ、
「チェッ。ナオ、俺、ミスったよー」
と、自分の手を使って、頭の位置を正面に合わせた。
首の接着はとても簡単に、一瞬でうまくいった。
「一人減っちまったよ、朔夜」
日本刀を折られた男が、貸倉庫の奥まった暗闇の中へ話しかけた。
何か物音がした。
闇がこちら側に流れ出すように、黒ずくめの男が現れた。
哲は身構え、口から蛇のような長い舌管を吐き出し、貝のように巻いた。
哲は朔夜を見て、すぐにわかった。
この男だ、先刻の強大な波の主は。
哲は警戒し、神経を張り詰めた。
朔夜は、黒い龍が身をくねらし、洞窟から這い出てくるような迫力だった。
力に満ち、沈黙の中に威圧感が滲み出る。
哲は朔夜の顔を眺め、
「こいつ。…見た目は若いが、本当は儂より高齢かな」
と、察した。
朔夜がどれほどの人間の血肉を食らってきたか、そこまでは哲にも読めなかった。
ただ、今宵の敵の中で、朔夜がずば抜けて強いことを、波だけで確認することが出来た。
「ようこそ、黒蝶さん。初めてお目にかかります…。余り大したおもてなしは出来ませんが。一匹ずつ害虫を駆除したかったんで、こうなりました」
朔夜が嫌味を込めた挨拶に、馬鹿丁寧な御辞儀を付けた。
日本刀の男が朔夜の右に控え、少年が左に並び、二人で朔夜をガードするような態度を見せた。
朔夜は蛍光灯の光と影の境に立ち、影を背負うようなどろどろした妖気を漂わせた。
「色々データを見て、分析させていただきましたよ、黒蝶さん」
朔夜の話を、哲は無言で聞いていた。
「我々は県内の一連の事件で、襲撃した犯人の特徴を三つのパターンに分類しました。…まず一つ目、複数の失踪事件について。この行方不明者達は、若くて小柄な女性ばかりという共通点がありました。これらの事件の犯人は、腕力が余りない、もしくは狩りに自信がない初級者だと、我々は推測しました……」
朔夜は黒いスーツのポケットに両手を突っ込み、薄ら笑っていた。
「二つ目のパターンは、乱暴な殺し方で、食事マナーを知らず、食事を楽しむことを知らず、センスもない。雑で、子供っぽいやり方でした。この殺し方の被害者達は女性、男性、大人に子供、年齢はバラバラ。犯行の前後に黒い人影が何度も目撃されている、計画性の無さ。犯人は何も恐れてない。そう、まるで何もわかってない子供みたいにね…」
朔夜が状況を一つずつ、分析していった。
「…さて、最後のパターンは興味深い…。この犯人は、美食家だ。それなりに綺麗な若い女性ばかり狙う。狙われた女性は、みんな一人暮らし。血は残らず、ほぼ吸い尽くされる。この犯人は慎重に獲物を物色し、付け狙い、人目を避けて襲っている。一つ目、二つ目のパターンとは異なる犯行です。必ず、別人でしょう。だって、襲い方に…センスや美学すら感じ取れます」
朔夜は自分の話に頷きながら、三つ目のパターンの犯人だけ、褒め称えた。
哲の顔色が褪めていくのを確認し、朔夜が囁いた。
「さあ、美食家さん…。こんなとこを飛んでたとは、奇遇ですね? 我々はあなたと話がしたかった。まず、こちらから言わせてもらいましょう。…ここは古き時代より、我々の狩り場です。あなた方、黒蝶に荒らされたくないんです。どうか、この土地からお引き取りを」
朔夜がポケットから右手を抜き、白魚のような美しい指を立て、左右に振った。
哲が何も答えないので、朔夜は更に話し続けた。
「あなたは単独で、まさか、その長い舌と翅、それだけで我々とやり合うつもりじゃないでしょうね?」
「威力が知りたいなら、試せばいい」
哲が唾を吐いた。
朔夜が右手を前に突き出し、翳した掌に気を集中した。
掌の皮膚を突き破り、黒い血が噴き上がった。
噴水のように噴き上がった黒い血が、見る見る凝結し、硬く結晶化していく。
朔夜の手から突き出た血の棒状のものが長く伸び、カタチは剣のようになった。
朔夜は自分の闇の血から生まれた剣を握り締めた。
その剣は黒い波を発し、空気を細かに振動させた。
朔夜が右手に生えた血の剣を構えたまま、次は左手を高く掲げた。
左手の指先の皮膚を突き破り、何かか迫り出した。
白い牙だ。
左の甲が盛り上がってきた。
獣の長い鼻先のようなカタチ。
朔夜の左手の親指が、獣の下顎のカタチに変化した。
掌に獣の口が二つ開き、鋭い歯が奥に並んだ。
獣の口はワニのように大きく上下に開き、暗黒の口腔を覗かせた。
先が二股の舌が二本吐き出されたが、口の奥に喉はない。
この二つの口は、直接、闇へ血を送る為の器官だ。
闇の次元へと繋がっているのだ。
長い牙は、人差し指、中指、薬指、小指の夫々に一本ずつ生えた。
親指から出来た二つの下顎には、四本の牙が上向きに生えた。
双頭の龍のように。
彼の左手が肘まで二つに裂け、別々に身をうねらせた。
朔夜の眸が金色に光って目尻が吊り上り、頬など顔の一部に、蛇の鱗模様が浮かび上がった。
彼の黒髪がたてがみのように逆立ち、黒いスーツの生地がいつの間にか、鱗に転じ、彼の全身のカタチが曖昧にぼやけていった。
彼の周辺の塵が、空中に浮き上がった。
磁場や重力が歪みを生じたように、彼の周辺が屈折して見えた。
彼の発する波が、周辺を圧迫して押し広げていくようだった。
朔夜の左肩の上で、双頭の龍が、各口から二股の舌をちろちろ揺らし、哲を威嚇するようにしゅうしゅう息を吐いた。
そして、
「パァァァ……ン…」
龍が一声啼いた。
龍の啼き声が貸倉庫じゅうに轟いていく。
歪んでいく空間の中心で、朔夜が二体の龍と混然一体となっていく。
龍は激しく身をくねらせ、朔夜の周囲の空間を波立たせた。
龍は血の剣と同様に、禍々しい波を勢いよく発した。
波で空気が振動し、老朽化した建物ごと、激しい地震のように揺らした。
哲はその場に立っていられず、片膝を床に着いた。
天井に亀裂が入り、哲の上に粉塵が降り注いだ。
粉塵は朔夜の引力に引き付けられ、空中を漂った。
視界が煙り、倉庫の照明が切れ、辺りに暗闇が迫る。
哲は粉塵に咳き込み、敗けず口を叩いた。
「儂を殺すのか。よかろう。殺すがいい。儂はもう、さっさとくたばりたかったんだ。楽に死なせてくれ。その龍を儂に食いつかせ、儂の心臓の、闇との接続を切るといいさ。…しかしな」
哲は片方の眉を上げ、こう呟いた。
「知りたくはないか? 儂ら、黒蝶がどこから来たか。どうやって、人と蝶が混じり合ったのか。儂を殺す前に、少し話でもしないかね?」
哲は顎から汗を垂らした。
朔夜は鼻で笑った。
「興味ありませんね。時折、我々の種には突然変異が現れる。どうってことありません。少数派は、いつも闇に葬られて来たんですよ」
彼の双頭の龍が啼く。
朔夜の闇に浮かぶ顔が、魔王のようにも見える。
「待った! 勝負の前に…、そこの男と話させてくれんかな!? 儂はずっと探してたんだ。そこで今、気配を消し損ねて見学してる男なんだが」
哲は苦し紛れに叫んだ。
簡素なスチール製の階段から、ジークが降りて来た。
朔夜は顔をしかめ、嫌悪の表情を浮かべてジークを見た。
「おい…!! おまえはなんで、俺の邪魔をするんだ!? 愛理さんが見てろって言ったはずだろ、ジーク!! どうして気配が消せねーんだよ!!」
ジークは仕方なく、朔夜に答えた。
「知り合いなんだよ。最後に挨拶させてくれよ。邪魔なんかしねーよ」
ジークは哲に向き直った。
哲は堪え切れず、嬉しそうに笑いを漏らした。
「野良犬。とうとう空腹に耐えかねて、人を食らったか? 肺腑が腐っとらんじゃないか!!」
ジークは言い訳を聞かせた。
「今、少し長らえて、あんたに会う為だったんだよ。哲さん」
哲は大笑いした。
「一度血を飲めば、それから断食なんて不可能だ。儂の名、どこで調べた!?」
ジークは数秒の間を置き、
「知り合いの弟に聞いたんだ。憂っていうクソガキさ。俺は黒蝶がどこから来たのか、知ってるよ…」
と暗い声で呟いた。
哲はとても驚いた。
「へぇー。知ってる!? 言ってみろ、野良犬!」
ジークは悲しそうに眸を細め、
「哲さん。あんたは脳腫瘍で死にかけてたんじゃないか? ……あんた、どこかの病院に入院してなかったか!?」
と、確認するように尋ねた。
哲の顔色が一段と青くなった。




