ph 1 折れた牙
phase 1 折れた牙
1
駅の裏手、小さな飲み屋の雑居ビルがひしめく一画。
その辺りで最も古く、ボロいマンションの一階。
飲み屋通りに面した角がパン屋で、隣りが足つぼ・整体、その奥のドアがいかにも怪しげなインド・ヨーガのスタジオ入口。
南米の衣料通販のオフィスが続き、通路の突き当たりのドアだけ、表札も看板もない。
夕暮れ、ダウンタウンが目を覚ます。
「チッ、ドアホン壊れてるよ」
舌打ちして、ドアを叩き始める人影あり。
「達紙さん! 達紙さん!」
ドンドンドンドン、ドン!!
かなり遠慮なく、通路の一番奥のドアが乱暴に叩かれる。
なかなか、ドアは開かれない。
人の気配はするが、居留守を決め込んでいる。
ドアを叩いていた人間は、今度はドアを蹴り始めた。
「開けろ! 開けろってば!」
怒鳴り声は、若い女の声。
「私は黒瀧愛理。おじいちゃんに頼まれて来たんだ。ドアを開けろー!」
途端に、ぱっとドアが開いた。
目の前に、不機嫌な顔をした男がぬっと、現れた。
男は年齢不詳。
少し長めに伸びた髪の間から覗く、薄いカフェオレ色の虹彩。
その目つきが悪い。
彼はバサバサした黒髪を掻きながら、身長150センチに満たない小柄な愛理を見下ろした。
「何だ、このクソガキ?」
愛理はごくっと唾を飲んだ。
相手はデカい男…。
ただし、細身。
黒いシャツと濃い色のデニムで、余計に痩せて見えた。
「クソガキじゃないよ。これでも、一応女だからね!」
「女ァ!? どう見ても男の子だろ?」
男は信じられないと言うように、愛理を凝視した。
マンションのルクスの低い電球のせいなのか。
薄暗い通路に立つ愛理が、若い女の声に反して、少年にしか見えない。
愛理の髪はショートカット、黒いベースボールキャップを斜めに被る。
メンズっぽいデニムと、サイズがデカめのスニーカー。
愛理はめちゃくちゃ可愛い顔立ちなのに、化粧っけなしで、色気もなし。
女らしく振る舞うことが恥ずかしいみたいなコ。
「あんたが達紙ジーク? おじいちゃんに、あんたがちゃんと働いてるか、見て来てくれって頼まれたんだよ。ちゃんと仕事してる?」
愛理はジークの脇の下を潜り抜け、玄関へ飛び込んだ。
「こら! 勝手に入んな!」
ジークが追いかけた時には、愛理はもうLDKに上り込んでいた。
愛理は任務を冷徹に遂行する為に、デスクの引き出しを漁った。
「あのジイサンに、こんな若い孫がいるわけねぇんだよ!!」
ジークが引き出しを閉めようとした。
「私、二十歳だよ。お目付け役を頼まれちゃった。働かないと、おじいちゃんに言いつけるから!」
愛理が彼の手を払い除けた。
ジークが凶暴さを秘めた眸で、愛理を睨んだ。
「チッ。マジで、あのジイサンの!? …仕事はちゃんとやってるよ。この三ヶ月、滞りなく金を送ってるだろ?」
「おじいちゃんは…あんたがカタギの仕事をしてるかどうか、真面目に暮らしてるか、すごく気にしてたよ」
愛理の祖父は、遠いところにいるようだ。
「全然、まともな仕事じゃなさそうだよね。その感じ」
彼女ははきはきとして、言いたい放題だった。
愛理は話しながら、小鼻をぴくぴく動かした。
「ジークの部屋、臭い…。犬飼ってる? あんた、犬みたいな匂い…」
「おまえが犬みたいなんだよ!」
ジークは最悪の第一印象を抱きながら、出窓にあったキャンドルに火を点し、インドの香を焚いた。
不思議な香りが部屋に溢れ出していった。
2
出窓の外は、すっかり暗くなっていた。
部屋の天井には、照明器具がなかった。
暗闇に灯る、赤いキャンドルの明かり。
愛理がLDKを眺め回す。
殆ど使われてない対面キッチン、カウンターがあり、大型の観葉植物と、リサイクルで拾ってきたような中古テーブルと椅子。
出窓の前にノートPCとデスク。
彼女の傍らに、仮眠用に使える黒いソファー。
この部屋にテレビはない。
愛理はジークのPCを覗いた。
彼がつい先程まで見ていたらしい、ネットニュースの見出しを声に出して読んだ。
「またA市で変死事件…。一人暮らしの若い女性が狙われる…。首に刺し傷。死因は失血死…。凶器は不明…。現場に血は流れておらず…、現代の吸血鬼伝説か…?」
彼女は今朝見た、スマホのニュースを思い出した。
「…ああ、あれね。ジーク、フリーのカメラマンって聞いたけど…。もしかして、こんな猟奇事件のスクープ狙ってんじゃないよね?」
「スクープ!? まさか。この事件は、うちにも警察が聞き込みに来たよ。警察は騒ぎを大きくしたくねぇんだけど、マスコミは興味半分に騒ぎ立ててる…」
話の途中、ジークが咳き込んだ。
「風邪? 大丈夫?」
「いつものこと」
青白い顔をしたジークが、咳をしながらデスクの椅子に座り込んだ。
ジークはPCを操作し、荒い画像を愛理に見せた。
「俺もちょっと、興味を引かれてさ。この写真、どう思う?」
彼が見せた画像には、中央に黒い穴が一つ、映っているだけだ。
「へぇー。警察がこんなの、見せてくれたわけ?」
「極秘資料。被害者の傷口だよ。警察は医療用機器のポンプみたいなもんで、血を抜き取ったんじゃねーかと考えてる」
ジークの説明に、愛理は吹き出した。
「ポンプ…。アハハハ!! 有り得ないな!」
彼女は大口を開け、明るく無邪気に笑う。
「おい、笑うなよ。二人死んでるんだ。遺体はかなりの量の血を奪われてたし」
ジークが真剣に話しているのに、愛理は笑いを堪え切れなかった。
「アハハハ!! だって…、ポンプって…、アハハハ!!」
愛理は笑い転げた。
「おまえはネットニュースと同じ。吸血鬼だと言いたいんだな!? だけど、写真をよく見ろよ」
ジークが言いい、愛理も写真を見直した。
彼女はやっと違和感を認めた。
「うーん、確かに。牙の跡が変だね…?」
牙だと、愛理は決めてかかっている。
「直径1センチの深い穴が一つだけ…」
ジークがぶるっと身震いし、写真の映像を閉じた。
愛理は腕を組み、真面目に考え込んだ。
「何だろう? チュパカブラ? 牙が一本の吸血鬼がいるって、聞いたことがあるけど。これが一本牙の跡なら、トラみたいなデカい牙の吸血鬼だね」
愛理は笑って言ったが、想像すると怖くなった。
「ジーク。殺人犯が吸血鬼なら、遺体も墓から出て来るんじゃない?」
愛理がそういうホラー映画の、ゾンビの動きを真似た。
「遺体は火葬された」
ジークが答えた。
「ジーク。吸血鬼だったら、十字架とニンニクが有効かもよ」
「クロスなら身に付けてるよ。でも、効くかな? 日本じゃ、数珠かお経の方が効くんじゃねーかなぁ!?」
ジークが首に下げたペンダントを見せた。
シルバーの十字架にイエス像がある。
愛理が後ろに飛びずさった。
「それ、本物じゃない! ジークは平気なんだ!? どうして?」
愛理は眸を見開き、恐ろしいものを見るように十字架を見た。
そう言えば、ジークはピアスや指輪など、シルバーアクセサリーをじゃらじゃら付けていた。
「おまえ、怖いの? これが?」
ジークは面白がって、怯えた愛理にペンダントを近付けた。
「ひぃぃ、怖くなんかない!! 私はシルバー・アレルギーなんだ! そんなもの、見せるなー!!」
愛理が低く唸りながら退がり、デスクに置いてあった車のキーを彼に投げつけた。
ジークはうまくキャッチし、
「ホテルまで送ってやるよ。どこ泊まってんの?」
と、愛理に尋ねた。
「あ…、後で、ここに…荷物が届くから。今夜から、ここに泊まるから。おじいちゃんがそうしろって」
愛理は腰が引けたまま、答えた。
「ばっ…、馬鹿言うなよ! 出てけ! あのジイサン、何考えてんだよ!」
ジークの頭の中が、ショックで真っ白になった。
3
ジークが愛理の為に、来客用の毛布をソファーまで持ってきた。
愛理はジークの寝室や、暗室を見て回った。
「ゴホッ、ゴホォッ!! ジークの寝室、犬臭ーい!!」
愛理がむせた。
「失礼な奴だな! 初対面でコレかよ!?」
ジークは愛理に対し、本気でムカついた。
「ジーク、栄養足りてないよね。あんたのその匂いって、ただの栄養不足だから!」
愛理は鼻を摘んだ。
「じゃ、食事に行くか。隣りのカフェで、ニンニクのきいたペペロンチーノとか、どう?」
ジークが嫌味を返した。
愛理はニンニクが嫌いだったらしく、焦って、
「やだ、ペペロンチーノなんか! ラーメンがいいな。ラーメンと餃子とビールの組み合わせって、最高だよー!」
と、言った。
「おまえ…、オッサンみたいじゃねぇか!?」
ジークは愛理の言動にびっくりした。
二人は近所のラーメン屋で、腹ごしらえをした。
この不二富町は、市内でも治安が余りよろしくない地域である。
街の中心は観光客で溢れているが、少し距離を置いた駅の裏手では、飲み屋とラブホテルが並ぶ。
細かく路地が入り組み、日本にあって日本でないような無国籍さ。
商店街も外国料理の店も、ディスカウントショップや古着屋も、ここは一種独特な空気が漂う。
人通りの多い、飲み屋通りを帰る道で、
「例の犯行現場、行ってみる?」
と、ジークが愛理を誘った。
愛理は長旅で、とても疲れていた。
「明日にしない? 犯行現場って、そんなに近いの?」
「不二富町から、徒歩五分」
ジークの答えに、彼女はぎょっとした。
「へぇー。それって、ジークは警察に、容疑者だと思われてそうじゃない?」
「俺も、そんな気がしてきた…」
ジークが前方をを指差した。
「あそこのベージュのマンションの七階。被害者は、ベランダ側の窓の鍵を閉めずに寝てた」
愛理は彼の示す方向を眺めた。
彼女の視界の中で、鉄道の高架と高速道路がすっと透明になっていく。
視線を遮っていたビルも消え、女性が殺害されたマンションの部屋が、愛理の眼に双眼鏡で拡大されるように大きく映し出されていく。
愛理は遠くから一望しただけで、
「ジーク。警察がまだ、ブルーシート張ったままだね。部屋の中はそんなに荒らされてない…」
と、詳細が見えるみたいに話した。
その後、二人はジークの自宅マンションの隣りにある、雑居ビルへ寄り道した。
一階が、パスタのメニューが豊富なカフェになっている。
「ああ、ジークさん。お久し振りっすねぇー」
入口で若い店長が、ジークに喋りかけた。
「三日ぶりだろ?」
「だってー、ジークさん、前は毎晩来てくれたじゃないっすかー。今日は可愛い男の子と一緒っすねー。弟さん?」
店長が入口のドアを開く。
「弟ー!?」
愛理が店長を猫のような眸で睨みつけた。
外からカフェに入ると、店内がとても暗く感じられた。
暗闇が濃いほど、彼等は落ち着いた気分になった。
英語の歌詞の、スローで力強い曲が店内に流れていた。
ジークはカウンターの一番奥の席に座った。
カウンターに置かれたメニューの上に、ダウンライトの光が一つ、落ちている。
「おまえ、何飲める? 二十歳なんだよな?」
ジークはハイネケンをグラスで頼み、愛理を振り返った。
「焼酎ある?」
「はぁ? おまえ、なんでそんなにオッサンなんだよ!? 女の子はこういうの、飲んどけよ」
ジークはジーマの瓶に、カットされたライムを指で押し込んだ。
「死んだ女二人以外にも、何人も行方不明になってんだよ」
ジークが話を戻した。
音楽のボリュームが大きいので、二人の会話は他に聞かれる心配もない。
「全部、この周辺? 行方不明者はみんな、若い女の人?」
愛理はラッパ飲みで、瓶の底を高く傾け、ジーマを飲み干した。
「県内各地だな。年齢は色々。ちょっと、思ってたより被害者が多いかも…」
ジークは音楽に耳を澄ませた。
音楽はアルコールとともに、心に深く染みてきた。
店長がDJブースで、次の曲を流す。
愛理はリズムを取りながら、歌を口ずさんだ。
「警察は一つだけ、犯人と思しき足跡を見つけた。成人男性の右足、それも裸足の足跡だ。指紋も取れた。だけど、足跡は一つしかねぇ」
「もう片足は、靴下か、靴を履いてたってこと?」
愛理が音楽に乗りながら、ふざけて言った。
「…俺が思うに……たぶん、犯人はその部屋に、一回しか足を置かなかった」
「はぁ? 犯人は飛んでたの!?」
愛理は目を瞬かせた。
「そうなるな…」
ジークが同意した。
ジークの推測はこうだ。
若い女性は、七階のベランダに面した窓を開け放していた。
そこから、何者かが侵入してきた。
女性は犯人の一突きで、致命傷を負った。
犯人は空中から舞い降り、いったん右足を着いたが、床を蹴って空中へ戻った。
彼女の血は、犯人とともに窓から運び出された。
愛理が、
「吸血鬼なら出来るけど、人間には出来ない犯行だよ。この犯人、ちょっとルールをわきまえない同業者か!?」
と首を傾げた。
「遠慮がなさ過ぎだよな、こいつ」
ジークがタバコの火を、灰皿で揉み消した。
「ジーク。犯人を捕まえるつもり?」
愛理は心配そうだった。
「別にー。ちょっと、どんな奴か、見てみたいだけ」
「危ないよ。ジーク。こういう無茶なはぐれ吸血鬼とは、関わらない方がいいよ」
ジークが溜息をついた。
彼は返事を寄越さず、黒い帽子を被り、カウンター席から立ち上がった。
「ねぇ、待って。新種かも…。吸血鬼はこの百年で、かなり進化したって言うよ…」
愛理が彼を追いかけた。
盛り上がる音楽が、二人の会話を掻き消そうとする。
「なぁ、なるべく早く、ジイサンの知り合いのとこへ、荷物持って避難しなよ」
ジークは素気なく言い、早足でカフェを出た。
愛理は疲れて欠伸を繰り返した。
「私、もう寝るから。犯人を捕まえたら、警察に引き渡してね」
ジークは玄関ドアを開け、彼女を内側へ押し込むと、怖い顔を作って言った。
「誰が来ても、ドアを開けんなよ。いいな?」
彼が外から鍵を閉めた。
「警察が捕まえるより、早く…」
ジークが呟き、深夜の街へ出て行った。
4
風の強い夜だった。
次々と雲が押し寄せ、月にかかる。
満月に少し満たない月が、灰色の雲を映し出す銀幕のように、流れる風を視覚的に映し出す。
木々が歌うように葉を鳴らし、枝をしならせる。
低気圧が近付いているから、風は勢いを増していく。
アスファルトの地面を白いビニル袋が転がり、どこかに散っていく。
街灯の明かりは、光の外側の暗闇を一層黒く塗り潰すばかりだ。
ジークが何かを見つけた。
不二富町から近いマンションの屋上で、何かの塊がフェンスに張り付いている。
風の悪戯で月が顔を隠し、塊はただの黒い輪郭に留まっている。
風を受けてはためく幟のように、身にまとっている粗雑な衣類が、風に煽られている。
「居た…」
ジークが呟き、車のハンドルを切った。
人通りがなくなり、車も疎らな道路を、彼のポンコツSUVが駆け抜けていく。
「待っててくれ…」
彼は心の中で祈った。
ジークが屋上の扉を開いた時、そいつは疲れたように、屋上のフェンスに腰を下ろしていた。
足は裸足で、靴も靴下も履いてない。
そいつは四枚の黒々とした翅を閉じた形で、背負っていた。
ハングライダーの翼のように、巨大な翅だった。
ジークは言葉を忘れ、その翅に見入った。
そいつが顔を、ジークの方向に向けた。
風がその衣類を靡かせ、月を覆っていた雲を吹き飛ばした。
屋上に月明かりが射した。
七十代ぐらいと思われる老人の顔が、照らし出された。
「儂が待っていたのは…、おまえのような、牙の折れた野良犬じゃない…」
老人がしわがれた声で唸った。