四十丁目 第九編『痛み』
「…ああ、そういうことで頼む、じゃあ晩飯食ったらな」
三丁目は受話器を置いた。部屋には誰もいない。親父と母さんは先に風呂へ行くと言い、雨はきららちゃんと晩飯を先に食いに行ってる。
兄貴は俺が犯人がわかった。と聞くなり、自分が考えたことを全て俺に話してくれた
「……」
ベッドに背中から飛び込む、スプリングの跳ねる音がして三丁目の体をやわらかく受け止めてくれた
「やっぱり…俺がやらなきゃダメだよな…」
誰に言うでもなく拳を天井に掲げた。真っ白な天井が質問に答えるとは思わないが、三丁目は続ける
「……なんでだ…」
風が吹き、三丁目の声を掠う。
「……なんで」
目をつむった。頭の中でいろいろなことがぐるぐる回る。腹をふくらす気は無かった。きっと食べても砂を噛むような思いがするだろう
……時計を見た。午後10時53分。大幅に夕食の時間は遅れ、すでに皆疲労もピークのはずだ。
首を横に倒して外を見た。どす黒い海がよせては返し、月も星も無い真っ暗な闇の中が部屋の中まで侵入してくる
「……ごめんな」
ふっ、と目を閉じた。
きっと大丈夫…兄貴はそう言った。
大丈夫…大丈夫…
心の中で繰り返す。
大事なのは事件を解決することではない。助けられるかどうかだ、アイツを…この暗い闇の中から……
だがわかっているんだ。
俺には……こういうことしかできないってこと……
目を開けた。徐徐に暗闇に慣れてくる。
三丁目はベッドから起き上がり、蛍光する時計をもう一度眺めた
「……そろそろ行かないとな」
準備など必要無かった。
全部受け止めてやればいい
三丁目は扉を開けた
――――――
―――
時刻は0時00分
三丁目は回廊を歩く、薄暗い中で親父と母さんに会い、次いで雨ときららちゃんに会った。どこへ行くの、と聞かれたが、曖昧に答えた
アイツは待ってる。
あの場所で
――――――
―――
中庭、と言うにはあまりに広い城の庭園。ばあちゃんに聞けば庭いじりは桐葉じいさんの数少ない趣味のひとつだったらしい。まどろっこしいことが嫌いな俺とは正反対の趣味だ。それでもばあちゃんは似てるという。俺は…桐葉じいさんのことよく知らないけど……これからあなたの孫と……
……あなたの甥が…ここで喧嘩します…ごめんなさい…
――――――
―――
「……よう」
真っ暗な中、まれにはれる雲が月の光りをのぞかす
「……よう」
ベンチに座り、俺に返す
「………」
「………」
沈黙…というにはあまりにうるさかった。風、海、葉、……そして自分の…心臓の、鼓動
「……なんで嘘ついた」
「……」
さざ波が寄せる。定期的に繰り返す波が、次第に心を落ち着けていった
「……嘘って?」
「……悲鳴なんか聞こえなかっただろ」
「………」
月明かりが二人を照らす。俺は庭園の草垣の傍、アイツは俺の前、2、3メートル離れたベンチ
「俺、岡さんが倒れたとき、東塔の服飾室にいたんだ」
「………」
「あのとき、早良さんに言われてはじめて会場で何かあったって知った。知ってるよな?東塔のあそこと西塔の教会って本城と対称の位置にあって、かなり離れてるって。」
三丁目は続けた
「……だから、あのとき教会にいたって言うお前が悲鳴を聞けるはずないんだ」
「……でもシスターさんは…」
「ああ、それははっきり言って自信無い。兄貴が実験してくれた。あんとき悲鳴を上げた女の人、まあ一人や二人じゃないだろうが、あの馬鹿兄貴ときたら、クソ真面目にも全員の声とシスターが聞いた声と比べたんだ。人間の記憶やそのときの声のトーンで曖昧だがな、一致はしなかった。無理に甲高い声出そうとしたのがあだになったな……………琴葉…」
月明かりが影を奪い去り、琴葉の姿が現れる。焦ってもいなければ、苛立ってもいない。ただ微笑を浮かべてこっちを見ている
「……続けて?」
小首を傾げて琴葉が言った
「……秋奈さんと楠太郎は簡単だ。伊達に8年間一緒に暮らしてねぇだろ、どうしたら油断させられるかなんてわかりすぎるほどにわかってるはずだ」
「くっ……ふふ…」
「……」
「あはははは!」
「………」
琴葉が急に笑い出す。どこまでも無邪気に
「あははは……随分と穴だらけな推理だねぇ…探偵さん」
「まあな…兄貴ならもっと上手くやるんだろうが、俺にはこれが限界」
二人してもう一度笑う
「なんでこんなことした、とは聞かない、理由がありすぎるからな」
「………」
「ただ、謝ってくれ、たぶんそれでみんな許してくれる」
「………許す?」
「ああ……」
三丁目が頷くと、何を思ったか、琴葉はベンチから立ち上がり、三丁目との距離を保ったまま芝生の上を歩き始めた
「……許す?誰が?もしかして岡が?」
琴葉は怒ってなどいなかった、心底楽しそうに後ろで手を組み、行進のように大袈裟に歩いてみせる
「……琴葉?」
芝生をサクサクと歩く音が、噴水の飛石に到着することで聞こえなくなる
「何を許してもらうの?あたしが、あいつらに」
「…おい琴葉」
琴葉は噴水のへりに座り、足をぶらぶらさせた。ちょうど真上から月が覗き、その場所だけスポットライトを浴びた歌劇の舞台のようになる
「あははは、そ、あたしがやったの、8年間の恨み、全然足りないけど」
「……お前」
「なぁに?その顔、怒ってるの?」
「………」
三丁目が拳を固めたまま黙りこくるのが気に食わなかったのか、琴葉は急激に態度を変える
「なんとか言えよ、浅岡三丁目」
「!」
三丁目は、はっ、と顔を上げた。琴葉のこんな口調ははじめてだった
「…あのね…岡さんとか生かしといたのは一応8年間育ててくれたから、でもあたしが一番殺したいのは……」
琴葉はポケットをまさぐり、何かを取り出した。暗闇に光る……あれは…
「お前だよ、三丁目」
ついぞ無表情だったものが、ここではじめて怒り歪む。琴葉は慣れた手つきで、ナイフを右手と左手で弄び、まるで汚いものを見るように三丁目を見た。いくら暗くてもわかる。突き刺すような視線だった
「な、なんでだよ!琴葉!」
「うるさいな、黙ってたと思ったら急に叫びやがって…」
イライラしながら膝の上で頬杖をつく琴葉
「理由なんか知らなくていいさ、お前はここで死ぬ」
琴葉はにやっと笑うと、ナイフを右手に持ち、つかつかとゆっくり距離を縮めてきた
「……くッ!」
いきなりの琴葉の暴走、三丁目は成す術もなくあとじさる
「……お前がいるから…」
琴葉がうつむき、ぶつぶつと呟く
「お前のせいだ……お前のせいで……『ボク』は……ッ!」
「……ボク?」
疑問に思ってる暇は無いらしい、三丁目は庭園の一角に追い詰められてしまった
「許さない……許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないッ!!!!」
「……ッ!」
歯をギリギリと食いしばり、琴葉が力いっぱいナイフを横なぎに振り抜いた。本気だ…そう感じる一瞬の間に間一髪で三丁目はそれをかわし、視線をずらさぬまま後ろへと跳ぶ
「琴葉!お前どうしたんだよ!!!」
肩で息をしながら叫んだ。しかし琴葉の勢いが止まることは無い、猛然と三丁目に突進し、怒りの叫びを上げる
「あぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!」
「琴葉ァ!」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ!!!ボクの……ボク達の名前を呼ぶなァァッ!!!」
もはやその顔は憎しみしか見て取れない。狂気に染まった琴葉の殺気が三丁目を圧迫し、反応を一瞬鈍らせた
「死ねッ!」
「……ッ!!!」
琴葉はナイフを突き立て、三丁目の肩目掛けて振りかぶった。闇の中、獲物を見つけた狼の眼光の如くナイフが光る
キィンッ!
「なッ!」
ナイフは三丁目に突き刺さる前に根本から折れてしまった。先端は激しく回転しながら弧を描き、噴水の傍までキラキラと光りながら飛んでゆく
『や、やめなさい!』
「早良さん!?」
三丁目の前に早良さんが立ちはだかった。真っ赤な袴がなびき、黒髪が怒りでざわざわと逆立つ
「はは……俺に死んでほしかったんじゃないんですか?」
『き、気が変わったのよっ!』
早良さんは果敢にも腕を前に伸ばし、琴葉に狙いを定めるが、三丁目が脇から入ってそれを制した
『さ、三丁目くん…』
「早良さん、助けてくれてありがとう。だけどこれは俺がやらなきゃダメなんです」
『でも……』
いいから、とにっこり微笑み。すぐに顔を強張らせると、きっ、と手が痺れてうずくまる琴葉を見る
「大丈夫か?」
「……ッ!うわぁぁぁぁぁッ!!!」
「ぐぁッ!!!」
『三丁目くん!!!』
琴葉がよろよろと立ち上がり、倒れ込むようにして三丁目の頬をぶん殴った
「……痛ぇ…」
芝生にねっころがりながら頬を摩る。
「ボクからッ!『彼女』をッ!取らないでッ!くれよォッ!!!」
マウントポジションに入り、両の手で交互に三丁目の顔をしたたかに殴りつける。拳が擦りむけて、血が滲む、琴葉はそれさえ気付いてない。ただひたすら怯えにも似た叫び声を上げて殴った。鈍い音と巻き散る血、それだけが夜の庭園を彩っている
「ボクには『彼女』しかいないんだァッ!!!」
琴葉はわめき苦痛で顔を歪めながら、がばっ、と三丁目から飛びのき、脇腹を思い切り蹴り上げた。三丁目の体がくの字に折れ曲がり、一瞬宙に浮き、しかしそのまま芝生の上を転がる
『三丁目くん!!!』
早良さんが駆け寄る。しかし三丁目はよろよろと起き上がりつつ、カタカタと震える腕でそれを止めた。
おそらくもう声がうまく出せないのだ。三丁目の唇は痛ましいほどに裂け、右目はとっくに塞がっている
「ボクらは二人で一人……彼女はボクだけのものだ…」
琴葉は三丁目の傷などお構い無しに夢遊病者のような足取りでふらふらと三丁目に歩み寄る。その様子は三丁目に操り人形を想起させた。見えない力で強制的に動かされている。そんなイメージだ。だとしたら琴葉を動かすのはなんだろう
「ゴホッ!ガホッ!!」
ぺっ、と血糊を吐き、口元を拭う。シャツにべったりと真っ赤な鮮血がじわりと染み込むのを見てはじめて自分が怪我をしているのだと実感する。さきほどから頬はおろか、腹や右腕、その他各所にまったく痛みを感じなくない。
逆に痛みは心を襲う。
殴られるより、よっぽど痛かった
……二人で一人…
万華鏡を見ているように揺れる世界の中、ぼんやりと三丁目の頭にある記憶が蘇ってくる
『私と、お前、似た者同士、だから助ける』
…あいつらは知ってたのか…
琴葉は…
「あはははははははははははははははははは!!!!!!ボクは…あたしは……鷹司琴葉!!二人で一人!!」
狂ったように同じ言葉を連呼する琴葉。
「おいおい、反撃しないの?本当に死んじゃうよ?」
大の字に寝そべる三丁目の体を小突き回しながら、琴葉は笑いを噛み殺す
「……俺は『女』は殴れない」
「……あ、そ」
急にしらけた顔になり、琴葉はくるっと向きを変えた。何をするかと思えば、噴水の傍まで行きさきほど折れたナイフ、刃渡り15センチメートルほどの刃の部分をハンカチで包んで手に取り、つかつかと戻ってくる。
「なんで今年になってはじめて実行したかわかる?」
冥土の土産と言わんばかりににまっと笑い、寝ている三丁目の脇に蹲踞した
「さぁ……」
「『ボク』がやっと『こっち』に出てこられたんだよ!!彼女は優しすぎるんだ……だからボクがやってやった……」
「……ふーん」
「……ッ!」
呆然と返事を返すだけの三丁目にイライラしたのか、さっきより強く三丁目を小突き回した
「ムカつくなぁ、お前」
「ぐッ!がッ!あッ!」
蹴り回されるたびに漏れるうめき声。晩飯を食わなくてよかったな。そんなことを考えられるくらい三丁目は冷静になっていた
「じゃあ…琴葉は関係無いんだな…」
「ふふふ……彼女は、ね…」
「そか……」
ゆっくりと目をつむった
何が無理すんな、だ…
何が全部受け止めてやればいい、だ……
何より自分に怒りが募る
助けてやれるのか、俺が……?
「お前がいけないんだ……彼女は……お前のことを…」
目を開くと、琴葉は血が滲むほどに唇を噛み締め………
「……は…か……んだ…」
「ああ?」
「……琴葉はな……泣かないんだ…」
はっ、とする琴葉。
涙が止まらない。次々と溢れ、頬を伝い、顎に移り、地面に落ちる
「泣くなよ……琴葉…」
「やめろ…ボクの名を呼ぶな……ボク…あたしの……名前……」
手に持ったナイフがぽとりと落ちた。琴葉は頭を抱え、焦点の合わない視線で空の闇を見つめる
「…………琴葉」
三丁目が呟くたびに琴葉は必死で頭を振り、うめく
「琴葉……!」
「やめろ…やめろ…ボクから……彼女を…」
ふらふらと立ち上がり、さっきまで追い詰めていたはずの三丁目から逃げようとする
三丁目は叫んだ
「琴葉ァ!!!」
「あ…う……ぐぁ…やめ……ろ…!」
三丁目の叫び、それを聞いた琴葉は天をぶち破るような絶叫を上げ、憑き物が落ちたかのように、ふっ、と倒れた…
「いっつ……大丈夫か…琴葉…?」
腕をおさえ、足をひきずり、琴葉に近づく
「……さん…くん…?」
やつれた琴葉の顔
蒼白で瞳には力が無かった
それでも……
「お疲れ…琴葉…」
「…ありが…と…うっ…さんくん…ひぐっ…」
にっこりと琴葉に笑うと、琴葉も笑う。
流さないと決めた涙が溢れた。腕で隠すが、ダメだ…止まらない
「泣くなよ…」
「ごめ…ね…痛い…よね……あたし…全部……」
力無く腕を上げ、三丁目の頬を触った。
「気にすんな、お互い様だ」
「あはは……なにそれ……?」
「なんとなくだ」
くすくすと笑う琴葉
三丁目は空を見上げた。だんだん白み、海がほのかに暖かい光に染まってきている
「大丈夫か?」
「あ……、なんでここに…?」
塞がっていない左目の方で後ろを振り向くと、そこには灰路の姿があった
「こっぴどくやられたな……この嬢ちゃんは…?」
琴葉に視線を落とすと、すーすーと寝息を起てていた。疲れて眠ってしまったのだろう
「……俺の…」
「…俺の?」
「親友だよ……」
「そうか…」
ふっ、と二人して微笑む。
「あー…痛ぇ…な…」
「お、おい!」
痛み、というより全身に響く衝撃が、三丁目の意識を掠おうとする
「灰路……あと頼むわ…」
灰路が頷くのを確認したあと、三丁目は自分が気を失ったことを自覚した
次でラストです