MUSASHI 来襲! <2>
「……いつからここに住んでるの?」
コウの手元を見つめながら理子は尋ねる。
「二週間ほど前からですね」
「その武蔵って人と二人で住んでいるの?」
「はい」
コウはふとハンドルを回していた手を止める。
「そういえば今日はご迷惑をかけてしまったみたいで済みませんでした。リコさんの学校に入ることがいけないことだとは知らなかったもので」
「あっそうだ! リボン! リボン返してよ!」
「はい。もちろんお返しします。こうして来ていただけたのですから」
コウは着ていたグレーのハイネックシャツの胸ポケットから緑のリボンタイを出した。
「な、なに!? それ、ずっと持っていたの!?」
「えぇ、大切なリコさんのものですから無くしたらいけないと思って。ではお返ししますね。どうぞ」
「……!」
胸の奥が不自然に歪んだような気がした。
目の前にリボンタイが差し出される。でも素直に受け取れなかった。そうして肌身離さず大切に持っていてくれたのは嬉しかった。だが──。
「リコさん?」
「コッ、コウは勝手だよ!!」
リボンを受け取る代わりに大声で文句を言う。
「そうやって自分で勝手になんでも決めて、そして私を振り回して! 私にだって 都合ってものがあるんだからね!?」
理子の激しい口調に呑まれたのか、コウは静かに目線を落とす。
「迷惑なの! すっごく!」
「……済みません……」
「謝ればいいってもんじゃないの! とっ、とにかく、もうこんなことは二度としないで! 分かった!?」
「……はい……」
伏せられたコウの睫は何度も小さく瞬きを繰り返し、かすかに震えている。
雨に打たれて行き場を失った子犬のような、そのあまりにも哀しそうなコウの仕草と表情に、なんだかこちらが加害者になったようで、怒りのテンションが瞬く間に急降下していくのが分かる。
「わ、分かれば今回はもういいけど……」
唇を尖らせ、わずかに顔を逸らしてそう答えた時、フッと身体が浮いたような感覚がしてバランスが大きく崩れる。
今回はマスカットの香りを感じなかった。
キッチンに漂うコーヒーの香りの方が何倍も強かったからだ。
そのせいでコウに抱きしめられていることに気付くのに数秒の時間を要してしまった。
「……僕のせいで嫌な思いをなされたのなら謝ります。でも僕は貴女の側にいたいんです……!」
懇願の言葉と共に強く、強く抱きしめられる。だがその抱擁は息はできるくらいの強さなのになぜか上手く呼吸が出来ない。
「リコさん……」
両肩を掴まれ、そっと押し付けられた先は大型冷蔵庫だった。
ブゥン、というかすかな振動。
冷蔵庫が冷却にいそしむモーターの稼動音が背中越しに伝わってくる。
好きです、というコウの囁き声がそのモーターの音に混じり合う。
真正面にあるコウの顔はまだどこか哀しそうな影が残っていて、その表情を見ているだけで胸が詰まった。
「コ、コウ……」
「好きです……、貴女が好きなんです……」
わずかに潤む瞳を揺らしながら、コウは何度も何度も、まるで理子に呪縛をかけるように、目の前で同じ言葉を囁き続ける。
ここまではっきりと想いを告げられ、少女の胸の奥は大きく震えた。
そして何度も想いを囁かれる度に、身体の中心が痺れ、抗おうとする力が頬にかかるコウの熱い吐息であっけなく溶けてゆく。
理子の左頬に一度だけ軽く口付けをすると、コウの唇はそのまま頬の上を滑るように、次の目指すべき場所へと静かに移動し始める。
( ―― まっ、またこの人にキスされちゃうっっ……!)
抵抗はしなかったが、咄嗟に強く目をつぶった。
ギュッと固く閉じられた理子の唇にわずかに開いたコウの唇が後数センチで到達しようとした、その時。
二人の背後から妙に甲高い声が突如聞こえてきた。
「おいおいなんだよコウ! まだお天道さんのある内から女を連れ込んでラブシーンか? お盛んなこったな!」
どうやらキス寸前シーンを第三者に見られてしまったようだ。
理子は身を隠すようにコウにしがみつき、その肩越しに視線を走らせる。だがおかしなことにそこには誰もいなかった。
「今帰ったんですか」
理子の両肩から手を離し、後ろを振り返ったコウはそう声をかけた。
「あぁちょいと長居をしすぎて遅くなっちまった。しかし仏閣巡りはやっぱ最高だなっ! でよ、コウ。そいつがお前が惚れたっていう女なのか?」
えぇ、とコウは頷く。そして理子に向き直ると、
「リコさん。紹介します。彼が武蔵です」
コウの視線に合わせて上を見上げた理子は思わず叫んだ。
「こっ、これがっっ!?」
だがそう理子が叫んだのも無理はない。
まず、第一に武蔵は “ ヒト化 ” の生物では無かった。
直径わずか十センチ少々。
特大カタツムリの殻にそっくりな、うずまき状に膨らんだ、丸みを帯びたそのボディ。
殻の右側には小型の液晶画面のようなものが埋め込まれており、逆側のうずまき面には模様が描かれているのだが、なんとその柄は唐草文様ときている。緑をバックにつる草が四方に伸びているような曲線文様の、大昔に泥棒が盗品を失敬する時に包んだあの風呂敷柄だ。
「コレとはなんだ、コレとはっ!」
理子の頭上で武蔵が怒鳴る。
液晶側にある、二つ並んだ内のレッドランプの方が激しく点灯を繰り返している様子から推測すると、どうやらこれはかなり気分を害しているサインらしい。最初に武蔵の声を聞いた時に妙に甲高い声に感じたのは、それが機械の発する電子音だったからだ。
「リコさん、これで信じていただけましたか? 僕が未来から来た人間だという事を」
挽かれたコーヒー豆の香りの中でコウが微笑む。
武蔵を見上げ、理子はただひたすら呆然としていた。
信じるしかない光景がそこにある。
このカタツムリの殻のような珍妙な物体が喋るからではない。言葉で人間とコミュニケーションを取ることのできる機械など、この時代にもすでにいる。しかしこの武蔵はそれらとは一線を画す、決定的な違いがあった。
浮いているのである。ふよふよと。
それはラジコン等の動きとは明らかに違う動きで、主翼も回転翼も何も無い、ただの大きな巻貝のようなこの物体の動きは、自然でまさに流れるような見事な浮きっぷりだった。
キッチン内上空をふよふよと旋回しながら武蔵は再び理子に向かって怒鳴りつける。
「おい! 聞いてんのか、そこの子雌っ!」
「こっ、子雌って私のこと!?」
「……武蔵」
コウはフゥ、と息を吐き、やんわりと相棒をたしなめる。
「女性に対してそのような失礼な言葉を使ってはいけませんよ」
「へっ子雌は子雌だろうが! こいつの分類はヒト化の雌でしかもまだ子供だ! 子雌と呼んでどこが悪い!」
「済みませんリコさん……。本当に口が悪いのが武蔵の唯一の欠点で。どうかお気を悪くしないで下さいね」
困ったような笑い顔を浮かべ、代わりにコウが謝る。
「おい、子雌っ! お前、なんて名なんだ!?」
理子の顔の前に唐草文様の物体がスゥッと急降下してくる。
相手は機械だが、その不躾な態度に理子はキレた。
「な、なによアンタ、エラそうに! 人に名前を尋ねる時はまず自分が名乗るもんでしょ!」
「おっと、それもそうだな! じゃあいっちょ自己紹介ってやつをやってやるか!」
気合が入ったのか、例のレッドランプが甲高い音と共に一際明るく光り輝く。
「いいか、しっかり覚えとけ! 俺は女性下着請負人、蕪利コウの相棒で、電脳巻尺、 通称 “ エスカルゴ ” の武蔵さまだ!」
「え、えすかるご……?」
「はい。僕らマスター・ファンデがそれぞれ持つ巻尺のことを、電脳巻尺というんです」
と、コウの補足が入る。
「そういえばコウの苗字って初めて知った……。“ かぶり ” っていうの?」
「はい。ですがそれは苗字ではないんです」
コウがその先を説明しようとするとすかさず武蔵が割り込む。
「そこは俺が説明してやろうじゃねぇか! でもコウ、この子雌に言っても大丈夫なのか?」
「えぇ。リコさんには僕の補佐人になっていただきますので」
「ふーん……こいつに決めたのか……」
武蔵は理子の頭のてっぺんから足元まで何度も往復し、まるで品定めをするかのような動きを見せる。
「……お前、胸小せぇな」
「なっ! しっ、失礼ね!」
確かに大きくはないが、こんな唐草文様の珍妙な巻尺風情に言われる筋合いではない。
「武蔵。今の発言を取り消しなさい。本当に失礼ですよ」
「でも俺は事実を言っ……」
「取り消しなさい」
コウが鋭く言い放つ。
たった一言だけではあったが、普段は温厚な人間がそのような言い方をすると相手にかかるプレッシャーは非常に大きい。今まで尊大な態度だった武蔵は少しだけ神妙になった。
「……わ、悪かったな」
「済みません、リコさん」
同時に謝られ、理子は「も、もういいけど」とだけ答えた。
なんだかさっきから色んなことがありすぎて頭がついていけてない。
「おう、そうだ。コウ。そういえば俺、この後また出かけるんだよ」
「またマイナーなお寺を見つけたんですか?」
「まぁな! まだ日のある今の内に行くつもりだが、お前が一度戻って来いっていうから戻ってきたんだ。何の用だったんだ?」
「リコさんのバストを測りたいんです。武蔵がいないと出来ませんからね」
「ええええええええええーっ!?」
少女の絶叫がキッチンに響き渡る。
そんな理子に向かって、「すぐに済みますからね」とコウは爽やかに笑いかけた。