MUSASHI 来襲! <1>
「絶対行かない、とりあえず行ってみる、絶対行かない、とりあえず行ってみる、絶対行かない…………」
草むらに咲いていたしおれかけのコスモスでなんとなく始めた花占い。
理子がブツブツと口中で呟くその度に、淡いピンク色の花びらが歩道にヒラヒラと儚く舞い落ちてゆく。今日は一段と気温が下がっており、こうして急ぎ足で歩いていてもたまに背筋がぞくりとした。
しかし今日はコウのせいで本当に散々な午後だった。
胸元にリボンが無いので担任には「だらしない」と叱責されるし、廊下に放置してしまった世界地図入りの筒をお節介な誰かが職員室に勝手に届けたせいで、桐生にも呆れられてしまった。
トドメはここまで大切にしてきたファーストキスまであんな強引に近い展開で奪われてしまったことだ。まさに “ 大厄 ” といっても差し支えないぐらいの内容である。
「とりあえず行ってみ……」
指先から離れた最後の花びらが、木枯らしに吹かれて後方へと流れていく。
「あぁーっ! “ とりあえず行く ” になっちゃったぁー!」
すぐ側をのんびりと散歩中だった一匹の黒猫がその叫びに驚いて理子のすぐ前を横切る。また何かとんでもない事が起こりそうな予感がした。
「……やっぱり行った方がいいのかなぁ……」
少女は真剣に悩んでいるようだが、コスモスの花びらは全部で八枚と決まっているので、“ 絶対行かない ” から始めれば必ずその反対で終わってしまう、花占いには非常に不向きな花であったりするのだが。
「それにしてもなによ、この住所!」
今度はコートのポケットから一枚の紙を取り出し、不機嫌な乙女は愚痴り始める。
渡された紙に書いてあった地図によると、コウの家はまさに “ ご近所さん ” と呼べるレベルの範疇にあったのだ。しかし考えてみればコウと初めて会った公園も理子の家からすぐの場所なのだし、近所に住んでいる可能性は元々大いにあったわけだ。
「行くしかないか……」
はぁぁ、と白いため息が秋の空気に溶け込んでいった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
渋々と決意を固めた理子が自宅に戻ると、母の久住弓希子と玄関でバッタリ遭遇する。ヌーベルも一緒だ。
「あらお帰り、理子」
弓希子は胸元が大きく開いた黒のキャミソールの上にキャメルの革コートを羽織り、ヒップラインを強調した深いスリット入りのタイトスカートを身につけている。腰近くまであるレイヤーの入った長い髪が一際目を引く、美人ではあるが、少々キツめの顔立ちの女性だ。
「お母さん、ヌゥちゃんとお散歩に行くの?」
これから外に出られるとあって、弓希子の足元でヌーベルは尻尾を振りまくっている。
「違うわ。明日パパが久しぶりに帰ってくるからさ、色々買出しにね。置いていくつもりだったんだけど、この子がついてきたがるもんだから連れて行くことにしたわ」
「それよりお母さん、香水つけすぎ!」
弓希子から漂うパルファムの香りに理子は顔をしかめる。
「あらそう?」
まったく悪びれずに娘に向かって笑うその顔は、パルファム以上に妖艶な色香を放っていた。
「それにお父さんが帰ってきてそんな格好見たらまた大騒ぎするよ?」
「パパと言いなさい」
即座にピシャリとした言葉が飛んでくる。
「いいじゃないの、今お父さんいないんだから」
「ダメダメ! 普段から口にしていないといざ本人の前で呼ぶときにうっかり間違えちゃうんだから」
「だってお母さん、私もう十六だよ? もういいかげんにパパって呼ぶの止めたいよ……」
「しょうがないじゃない、あの人の夢の一つなんだから。“ 娘には死ぬまでパパって呼んでもらうんだ ” って息巻いているからね」
「いい迷惑だよ……」
さっきからため息の連続だ。
理子の父、久住礼人は世の父親にありがちな典型的な娘溺愛タイプの男で、理子にいつも自分の事を “ パパ ” と呼ぶように強制している。もし間違えて “ お父さん ” とでも呼ぼうものならいつもその後は大変な事態になるのだ。
「あ、そうだ。お母さん、ちょっと聞きたいんだけど」
「なによ?」
「あのね、二丁目の権田原さんのお家があるでしょ?」
「あぁ、あそこね……。あのお宅がどうかした?」
なぜか弓希子はニヤリと笑う。
「最近あの家の人見かけないけどどうしたの?」
もらった地図に書かれていたコウの家はその権田原家の位置だったのだ。
「あらやだ、理子、あんた知らなかったの!? あそこの家、ついこの間、すっごい修羅場を迎えて大変だったらしいわよっ!?」
途端に弓希子の声が高揚しだす。とにかくゴシップや噂話の類が三度の食事より大好きな女性なのだ。
「あそこのお宅さ、上の息子が春に結婚したでしょ? で、結婚と同時に権田原さん達と同居しようってことになって家を二世帯に建て替えたじゃない?」
「うん。まだ出来たばっかりだよね」
「そう! で、二世帯住宅が完成していざ同居、になってたった二ヶ月よ、二ヶ月っ!」
「な、なにが二ヶ月?」
「二ヶ月で破綻したのよっ! その同居生活がっ!!」
鼻息荒く弓希子は叫ぶ。まさに絶叫とも呼べる声量だ。しかし “ 他人の不幸は蜜の味 ” とはいうが、これほど露骨に喜ぶのもいかがなものか。
「まぁ元からうまくいくとはあたしも思ってなかったけどさっ、さすがに二ヶ月でおしゃかになったのには驚いたわね! なんでも聞いた話によると最初の火種が玄関問題でさ、お嫁さんが玄関を二つにしたい、って言ったのを税金対策で結局一つにしちゃったのが発端みたいよ!? そこをスタートにお嫁さんに不満がじわじわと積もっていって、ついに “ もう一緒に住めません! ” ってドカンと大爆発してさ! で、結局息子夫婦はあの家を出て、あそこのご夫婦二人で住むには家も広すぎるし、それで売りにだそうとしたんだけど、でもこの不景気で査定があまりつかなかったから結局賃貸で家を貸すことにしたんだって!」
“ 立て板に水 ” どころか “ 立て板に豪流 ”クラスの淀みない強烈な説明に理子は呑まれる。
「そ、そうなんだ。詳しいねお母さん……」
そうか、そこをコウが借りたのか、と状況を把握できた理子が二階へ行こうとすると、
「理子、ところでどうして権田原さんの家のことなんか聞いてきたの?」
「いっいや、別に? ただなんとなく聞いてみただけ」
「……怪しいわね」
手にしていたハンドバッグを乱暴にシューズボックスの上に置き、弓希子の目が妖しく光る。
「なっ、なにが!?」
「母親……ううん、女の勘よ!」
ハイヒールが玄関先に吹っ飛ぶ。靴を脱ぎ捨てた弓希子は長い髪を揺らしながらずかずかと廊下を歩き、理子の前にまで来ると腰に手を当てて娘の顔をじぃっと覗き込んだ。
「……男でしょ?」
「ハイ!?」
「男が絡んでいるわね、今の話題には……。私には分かるのよ。そういう恋愛の香りをかぎ分ける事に関してはね」
恋多き人生を送ってきたらしい弓希子には恋愛に関する嗅覚が恐ろしいほど優れている所がある。それは狩猟の雄、あのポインターに勝るとも劣らない研ぎ澄まされた嗅覚なのだ。
「しかしとうとうアンタにも男の影がちらつくようになってきたか……」
「ちっ、違うってば! ほら、お母さん、買い物に行くところだったんでしょ!? 早く行けば!?」
「……そうね、早くしないとタイムセール終わっちゃうわ。この話題は帰ってきてからじっくり聞かせてもらうわ。じゃあねっ」
その場に何ともいえない甘ったるい香りを残し、弓希子はヌーベルを連れて出かけて行った。
なんとか母の追及をかわした理子は部屋へ戻ると制服を着替える。
「何着ていこうかな……」
と思わず無意識に呟き、慌てて頭をぶんぶんと振った。
「……っ! ってなんかまるで楽しみにして行くみたいじゃない!」
むーっとふくれながらジーンズを履こうとして、そういえば今朝もジーンズを履いていったな、と思いとどまる。
「お、おんなじ格好で行くのはアレだから、この場合は仕方ないわよね!」
チェックのミニスカートを手にまたしてもひとり言だ。
「これでよしっ……!」
デニムジャケットを羽織り、出かける前に姿見で念入りな最終チェックをした後、理子は自宅を出た。カジュアルブーツの足取りが少々浮ついていたが、その事実を知らぬは本人ばかりなり、である。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
母の弓希子命名、「修羅場の権田原家」に着く。
以前は玄関扉の横にあった表札が無くなっていた。確かに貸しに出されているようだ。
建てて間もないせいだろうがなかなか立派な二世帯住宅だ。別居騒動の発端になった玄関は一つだが、玄関上部には小型の監視カメラがついているし、リビングの窓ガラスも二重サッシでしかも防犯加工が施されていそうな分厚いガラスである。
鍵はコウから貰っているが、いきなりそれを使って入る気にはなれない。チャイムを押して反応を待った。ところが応答が無い。
この家の中に入るか、諦めて帰るか、しばし悩む。
だが担任からの追求には “ 風で飛ばされた ” などというかなり間抜けな嘘で乗り切ったが、リボンを返してもらわないと明日また自分が困る羽目になってしまう。
やはりここはあの秘密アイテムを使うべきか。
コウに渡された合鍵を恐る恐る鍵穴に差し込み、捻ってみるとロックが外れた音がした。
玄関の重い開き扉を遠慮がちに開けるとまず目に飛び込んできたのは正面にある長い廊下。右手の壁にドアがある。これがきっと二世帯の上の階に続く階段への入り口だろう。
「……コウ? いる?」
玄関内に入りコウの名を呼んでみるがやはり帰ってくる返事は無い。中に上がろうかどうしようか再び悩み始めた時、背後の玄関扉が勢いよく開いた。
「リコさん! いらしてくれてたんですね!」
扉を開けてすに理子の姿を見つけたコウが弾むような声で出迎える。よほど嬉しかったのだろう、輝くような最高の笑顔だ。
今のコウは昼に見た黒のコート姿ではなく、モスグリーンのフライトジャケットと、ジーンズという出で立ちに変わっていた。こういう格好をするとますます二十四には見えない。
先に靴を脱いで玄関に上がると、コウは理子の手を取った。
「さ、上がって下さい!」
いきなり手を握られて思わずビクッと手を引っ込める。
「あ、すみません。僕、手が冷たいですよね」
コウは今の理子の行動が自分の手が冷えていたせいだと思ったようだ。
「ど、どこに行っていたの?」
どぎまぎしながら理子は尋ねる。
「はい、ブラの視察です」
「あっ、そう……」
そうまで軽やかに言われると、返す言葉も無い。コウは先に立つと「どうぞ」と左手側のリビングへと続く扉を開けて理子を招き入れる。少し迷ったが結局ブーツを脱ぎ、理子は室内に入った。
「すみませんリコさん、まだ武蔵は帰ってきていないようです。今暖かい飲み物を淹れますのでそこにお座りになっていて下さい」
通されたリビングには人気が無かった。生成り色のソファに座るように勧められたが、理子は「お茶なら私が淹れようか?」と申し出てみる。
「じゃあ一緒に淹れましょうか?」
コウはフライトジャケットを脱ぎながら温厚な微笑みでそう提案してきた。
ドキリと心が揺れる。
それを悟られないように、持ってきた手土産の袋をとりあえず側にあったテーブルの上にドサリと置いて先にキッチンへと向かった。
調理台の上にあった銀のポットを手に取りながら、またしてもコウのペースに流されていきそうな自分を叱咤する。
「リコさんはコーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
続いてキッチンに入ってきたコウがそう尋ねる。
「ど、どっちでもいいけど?」
「じゃあコーヒーにしましょうか」
まだ真新しい食器棚から慣れた様子でコウはドリッパーとコーヒーミルを出す。蓋付きのコーヒーミルに豆が入れられ、ハンドルがゆっくりと回りだすと、挽かれた豆の芳醇な香りがキッチン全体に漂いだした。
「この香りってなんか落ち着きますよね」
「うん」
「あとは茶葉を焙じる香りとか。懐かしい気持ちがして気分がリラックスします」
「コウはそれにプラスして甘いものがあれば言う事ないんでしょ?」
「ははっ、そうですね。でも知り合って間もないのにリコさんが僕の好みを理解して下さっていて嬉しいです」
「そっ、そんなの今朝の話を聞いたら誰でも分かるわよっ!」
そんな憎まれ口を叩いてはみたが、コーヒーミルの回転する音だけが支配する静かな空間にこうして二人きりでいると、不思議に気持ちが少しずつ落ち着いてきている事に理子はまだ気づいていなかった。