◇ The light and shade ◆ ― 6 ―
久住家一階の和室。
略式ではあったが結納も滞りなく終わり、場は両家の食事会へと移っている。繊細に盛り付けられた豪華料理の他に日本酒も出されているため、理子は先ほどからヒヤヒヤしっぱなしだ。
( もしまたお父さんがコウにお酒を勧めようとしたら何があっても止めなくっちゃ! )
振袖姿の少女は祝い膳の料理を時折口に運びながら密かにそんな決意を固めていた。この場でコウが本能化でもしたら大変な事態になることは間違いない。
その事ばかりが気になって有名料亭の祝い膳の味をきちんと堪能しきれていない理子の心配をよそに、渦中の礼人はまず漸次に酒を勧め始めている。そして自分が注いだ酒を杯で一気に飲み干した漸次を見届けた後、コウに顔を向けた。
「コウ君は飲まないよね?」
「はい。お付き合いできなくて済みません」
「謝らなくていいよ。理子ちゃんから聞いたけど体質的にお酒が飲めないんだって? 知らなかったとはいえ、この間はあんな無理強いをして悪かったね」
「いえ、僕がきちんとそのことをお話してお断りすべきだったんです。申し訳ありません」
漆塗りの祝い膳を前に、コウが神妙な顔つきで頭を下げる。
「あらコウさんは悪くないわ。悪いのはうちのパパよ。パパってばあの日コウさんに抱えられて帰ってきて大変だったのよ? しかも玄関先で寝込んじゃうから結局コウさんに寝室まで運んでもらったし。パパだってもういい年なんだから自分の限度量ぐらい分かってるでしょうに情けないわよね」
「し、仕方ないじゃないかママ……。だってあの時はとうとう理子ちゃんに彼氏ができたと聞かされて動揺しちゃってたんだ。なんかこう、お酒で全てを忘れてしまいたいっ、って言う気分になっちゃってさ……」
礼人はそんな言い訳と共にせわしない動作で眼鏡のずれを直し、あらためて漸次にも謝罪をする。
「如月さん、実は先日コウ君と飲みに行ったのですが、私が強引に酒を勧めたのでご子息は無理をして私の杯を受けてくれたんです。しかも私が酩酊してしまったせいでさらに迷惑をかけてしまったようでお恥ずかしい限りです」
「いえ非があるのはうちの息子ですよ。こいつは昔からそうなんです。言いたい事があっても言わねぇで自分の中にぐちぐちと溜め込むようなところがありましてね。言いたいことは遠慮せずになんでも言え、と口を酸っぱくして教えてきたつもりだったんですが……」
表情をわずかに曇らせた漸次に、「それはご子息が相手を思いやる気持ちを持っているからですよ」と礼人が細やかなフォローを入れる。
「それに次の日娘から事情を聞かされて私は嬉しかったんです。何度勧めてもコウ君が酒を飲んでくれないのでつい私も大人げなく、私の酒が飲めなければ娘と付き合うのは許さない、とくだらない無理強いをしてしまったんですが、その後コウ君は私の杯を何杯も受けてくれました。飲めない体質なのにそこまで無理をしてくれたということは、それだけうちの娘のことが大事だったということなのでしょうからね。……そうだろコウ君?」
慶事用の丸箸を膳の片隅に置き、正座をした足に手を置いて話を聞いていたコウが素早く顔を上げた。そして強い口調で断言する。
「僕が一生をかけてお守りしたい方はリコさんしかいません!!」
かしこまりながらも真っ直ぐで情熱的な宣言に、その対象者である理子の頬にさぁっと赤みがさした。動揺で箸を手から取り落としそうになっている理子に、「あそこまで言ってもらえて嬉しいでしょ?」と母の弓希子が小声で話しかけてくる。
「もう完全にあの人はあんたの虜のようね……。よくやったわ理子。あそこまで骨抜きにしておけば結婚した後もこっちが主導権を取りやすくなるわよ。さすがは私の娘ね。血は争えないわ」
「おっお母さんっ、声もう少し小さくしてよっ」
焦るあまり右手に余計な力が入ったようだ。丸箸の先が身を切り開かれた伊勢海老の上部にグサリと豪快に突き刺さる。
「コウに聞こえちゃうじゃないっ、お母さんの声って元々大きいんだからっ」
「大丈夫、これぐらいの声なら聞こえないってば。それとさっき初めて見た時から思ってたんだけどね、コウさんのお父さんってさぁー……」
ここで弓希子はにやりと意味ありげに笑い、男性サイドに見えないように口元を片手で隠した後で残りの言葉をこっそりと告げる。
「性欲強そうよね」
「ぶっ!」
伊勢海老の頭が胴体からポロリと皿から落ちて膳の上を転がる。どうやら箸の先が殻を貫通してしまったようだ。
「なっなに言ってるのおかーさんっ!?」
「理子はそう思わない?」
「思わない! っていうか分かんないっ!」
こそこそと言い合っている母子をよそに、男性サイドでは近い将来執り行われるであろう、次の行事に向けての話題に移っている。
「ところで如月さんはこの子たちの挙式スタイルについては何かご希望はおありですか?」
「そうですなぁ、本人たちの希望を汲み入れるのが一番だとは思うんですが、出来ましたら俺は日本的な式でこの二人が夫婦の契りを交わすところを見てみたいと思っとります」
「日本的な挙式、ということは神前式がご希望ということですね?」
「はい。ですがそれはあくまでの俺個人の希望です。もしお嬢さんが別の形での式がいい、と言うのであればうちとしてはそれで構いません」
「なるほど」
「あっあの、父が勝手なことを言って済みません。昔から父は古い物やしきたりなどに興味が強くて……」
父親同士の話題に全神経を集中して耳を傾けているコウはまだ箸を置いたままだ。
「いやいやそれはいいんだよ。もし君たちがこのまま結婚まで辿り着くのならこれからは家同士の付き合いが始まるんだ。だからこうして今のうちから両家それぞれの希望も話し合っておくことはとても重要な事だよ。それでコウ君はお父さんと同じ意見なのかな? それともうちの理子ちゃんと式を挙げるならこんな式がいい、とか別の具体的なプランはあるのかい?」
「いえ僕は特に希望はありません。リコさんが望まれる形に合わせようと思います」
「うんうんコウ君は分かってるね」
コウの返答を聞いた礼人は大きく相好を崩す。
「結婚式なんてさ、所詮は女性のためにやるようなものだからね。全部終わった後でああしたかった、こうしたかったなんて何年もグチグチと文句を言われるのも辛いし、相手の好きなようにさせてあげるっていうのが一番賢明だよね。じゃあコウ君は特に希望は無し、と。……ということで! さぁお待たせしたね理子ちゃん! 主役である肝心の理子ちゃんはコウくんと式を挙げるとしたらどんな式がいいんだい? 遠慮しないで自分の希望を言ってごらん」
「ええっ!? 急に聞かれても困っちゃうよ!」
「じゃあ理子ちゃんも特に希望はないってこと?」
「き、希望がないっていうか、その……」
上目遣いでコウの方をチラチラと見ながら言葉を濁す理子に横からアドバイスが入る。
「理子。純白のウェディングドレスが輝いて見えるのは若いうちだけよ。あんたは若いんだからドレスは着ておきなさい。後で後悔するわよ」
「おっと、ママは教会派なんだ? ん~、ウェディングドレスの理子ちゃんもいいけど、私は清楚な白無垢姿を一番見てみたいんだよね……。それに神前式って厳かな雰囲気があるだろ? 神の元から嫁ぐ、みたいなあの幻想的な感じが好きなんだよなぁ」
「ねぇパパ、それなら如月さんのご希望でもあるし、お式は神前式にして、事前にフォトスタジオでドレス姿を撮ったらどうかしら?」
「おおっナイスアイディアです! いいとこ取りってやつだねママ! じゃあ如月さん、この子たちが挙式を行う場合は神前式ということでいきましょう!」
「本当ですか!? 俺の我侭を聞き入れて下さってありがとうございます! こいつの紋付袴姿を一度見てみたいと思っていたんでありがたい!」
「え、ちょ……」
―― 来た。
また理子を置き去りにしての暴走展開が幕を切って落とされる。
「ではこの二人の結婚の話が具体的になった時は式の前に写真を撮るということでその時はまたご足労願ってもよろしいでしょうか?」
「えぇ、その時は仕事を放り出してもまた駆けつけさせていただきますんで」
「そういえば如月さんもコウ君と同じお仕事をなされているんですよね。ご自身のお店をお持ちだとコウ君から伺いましたが……」
「えぇ、俺は自分で店を出してます。オーダーメイドで下着の注文を請ける個人商店みたいなもんですな。まだ先の話にはなりますが、いずれ俺が現役を退く時にはできればこいつに店を継いで貰いたいと思っとります」
「ほう、いずれはコウ君にご自身の店を継がせたいのですね……。サラリーマンの私から見れば上に従わなくていい世界だなんて羨ましい限りですよ。お仕事の方はかなりお忙しいんですか?」
「おかげさんで固定の顧客はそれなりにおります。溜まった注文がなかなかさばけなくて結構待たせちまってるせいで、馴染みの客からはさっさと作れとよく小言をもらってますがね。そういう客には “ これ以上オーバーワークしたらストレスで髪が抜けちまうからもう少し待っててくれ ” って頼んでなんとか勘弁してもらってますよ」
自分のハゲ頭をネタにして漸次が豪快に笑ったため、理子もついそれにつられて吹き出してしまった。くすくすと笑いながら念のために漸次の頭をよく見てみたが、やはりそこに毛は一本たりとも見当たらない。
( やっぱりコウのお父さんって面白い人だなぁ )
結納の席ということもあり今日の漸次はサングラスをかけていないため、先日権田原家で見た時よりもさらに子どもっぽい笑顔に見える。
「そんなお忙しい身なのにこの度はわざわざお越しいただいて本当にありがとうございます」
弓希子の謝辞に、漸次は「とんでもない。今日は息子の晴れ舞台にこうして立ち会えることができて感無量ですよ」と照れくさそうに笑った。
「ねぇパパ。如月さんもお忙しいのだし、いっそのこと今日ドレスの写真を撮っちゃうっていうのはどう? 理子もメイクはバッチリ決まってるし」
「いいねいいね! 善は急げと言うし! これからご一緒していただいてもよろしいでしょうか如月さん?」
「参りましょう! 楽しみですな!」
「コウ君もいいね?」
「はいっ!」
「よしっ、じゃあ今から出発しよう!! あっママ、拓斗も呼んで来て! せっかくだからさ全員で写真も撮ろう!」
「それいいわね。でも出かける前にこれからすぐに撮る事が出来るかどうか向こうに確認した方がいいんじゃないかしら」
「そうだね、それはママにお願いするよ。探せば空いている所どこかはあるんじゃないかな。ところでママ、私のコートってどこに仕舞ってるんでしょうか?」
「寝室のクローゼットよ。自分で取ってきてね」
「了解です! いやぁ~、まさか一日に二回も素敵に着飾った理子ちゃんが見られるなんて今日はなんていい日なんだろう!! 体から溢れ出るこの興奮を抑えきれません!」
―― ダメだ……またいつものパターンだよ……。
がやがやと出かける支度を始めた一行の中で理子は一人頭を抱える。
そして礼人と弓希子が和室を出て行ったので、室内には理子と未来組二名が残った。
「父さん、ほらコート」
「おうあんがとよ。お前、そのスーツで撮るのか?」
「どうなんだろう。もしかしたらリコさんに合わせてタキシードに着替えるのかな」
「もし着替えるんならお前は背もあるしフロックコートにしとけ」
「テイルコートは?」
「フロックだフロック。あれが正式なんだしよ、素直にそれにしとけって」
「うん分かった。あるならそれにするよ。……おや、どうかなされましたかリコさん?」
唖然とした顔で自分を見ている理子に気付き、コウが声をかける。
「二人とも男の人なのになんでそんなに詳しいの……?」
「おいリコ、俺らは女性下着請負人だってことを忘れてねぇか? 婚儀用の下着なら俺も幸之進も何度も作ってきてる。内側だけじゃなくて外の部分の多少の知識ぐらいはあってもおかしくねぇだろ?」
「あっそっか!」
「そういうことだ! さぁこうして結納も交わしたし、今日からお前は正式に俺の娘だからな! よろしくなリコ!! さぁ行くぞ行くぞ!! 今日はめでてぇなぁ!!」
「ひゃあっ!?」
すでにほろ酔い状態の漸次の手で理子は半ば引きずられるように玄関へと連れ出される。
「父さん! リコさんは僕がエスコートするから!」
「いいじゃねーか! 俺はこっちに頻繁に来られないんだからよ、今日ぐらいはその役は俺に任せとけって!」
ドタバタと大騒ぎをしながらもなんとか全員が揃った後、一行は二台のタクシーに別れて自宅から少し離れたフォトスタジオへと向かう。そして次の目的地に着くまでの間、すでにグロッキー気味の振袖姿の少女は、どうかこの後もうなにもおかしな事が起こりませんように、と車中で必死に祈り続けたのだった。