◇ The light and shade ◆ ― 5 ―
「あれっ、お父さんたちいない……?」
黒い不安を抱えながらもコウと共にリビングへと入る。しかしなぜかそこには誰もいない。
明るい日差しが差し込む室内をグルリと見回すと、愛犬のヌーベルがどことなくしょぼくれた顔でお座りをしているのが見えた。
「おいでヌーベル」
コウが優しく声をかけた途端、ヌーベルの尻尾が左右に激しく振られだした。この場に取り残され、寂しかったところを構ってもらえたことが嬉しくて仕方ないようだ。
息も荒く駆け寄ってきたヌーベルを、コウは床に片膝をついて受け止める。
「皆さんどちらに行かれてしまったのでしょうか?」
「ここじゃないならもしかして和室かも……。ねぇヌゥちゃん、そんなに飛び跳ねちゃダメだよ。腰を痛めちゃったらどうするの?」
しかし今にも涎を垂らしかねないヌーベルのはしゃぎっぷりは治まらない。
そんな荒ぶるヌーベルをなだめようと、理子も身をかがめてビロードのようなこげ茶色の頭を撫でてやる。
「ヌゥちゃんってコウのことが相当気に入ってるみたいだね」
「そうでしょうか?」
「うん。だってうちのヌゥちゃんって本当はすごく人見知りだもん。しかも男の人が近づくと大抵吠えかかるのに、前にコウの膝の上で眠ったりもしてたし最初から結構懐いていたじゃない」
早朝に理子と公園のベンチで会った時のことを思い出したコウが、「そうでしたね」と懐かしそうに微笑む。
「小さい頃から動物とあまり触れあったことがないのでもしヌーベルから好かれているなら嬉しいです」
「ね、もしかしてお父さんが犬とかが嫌いだから飼えなかったの?」
あんなにゴツくて強そうなお父さんなのに犬が苦手とかだとちょっと笑っちゃうかも、と思いながら尋ねてみる。しかしコウは静かに頭を振った。
「いえ、家がブラショップだからです。女性の下着という繊細な商品を扱う関係上、動物などは飼えないんですよ」
「お店の中に動物の毛が飛んじゃったら困るとかそういう理由ってこと?」
「はい。お客様には快適な環境で僕や父さんの作るブラをお求めいただきたいですから」
生真面目さを表に出し、下着職人としてのポリシーを語ったコウは、理子の振袖姿をあらためて眺める。
「今日のリコさんは本当にお綺麗ですね。貴女にこんなに和服が似合うなんて知りませんでした」
「そっ、そんなことないよ! 恥ずかしくなるからヘンなお世辞なんか言わなくていいってば!」
「いえお世辞などではありません。あまりにも魅力的なので先ほどからずっと貴女に目を奪われっぱなしなんです」
―― その直後、左頬にそっと何かが当たった感触がした。
軽くだがいきなりコウに口づけをされ、動揺した振袖姿の少女は「ひゃあっ!?」と叫ぶと、キスされた頬に条件反射で手を当てる。
「いっ、いきなりこんなことしないでよ!!」
「あ、すみません。つい…」
「つい、じゃないでしょ!?」
真っ赤になってしまった顔で叱っていると、また弓希子が現れ、リビングの片隅で身を寄せ合っている二人を見て呆れた表情で腰に手を当てる。
「あなた達、いちゃいちゃしたいのは分かるけどそれは後にしてちょうだい。さ、早くいらっしゃい」
「はい。行きましょうかリコさん」
「う、うん」
弓希子の後をついていくと礼人たちは来客用の和室ですでにかしこまっていた。
「理子はこっちよ」
上座に通された漸次やコウとは反対側の下座に座るよう母の指示が飛ぶ。
「あれ、拓は?」
「拓斗はさっきご挨拶させたからもういいの。さぁ早く座って」
両家が向かい合うような形で席に着くと、「男親のためこのようなしきたりには疎いところがございますが、もし失礼があればお許しください」と前置きした上で漸次が口火を切った。
「この度はリコさんとうちの息子の結婚をお許し頂きまして、誠にありがとうございます。本日は結納の品を持参いたしました。いく久しくお納めください」
漸次の大きな手から紅白の結び切りで彩られたのしが差し出される。しかしそれを見た礼人と弓希子はほぼ同時に眉根を寄せた。
上段に【 寿 】と書かれたそののしが、通常の相場よりもかなりの厚みがあったためではない。のしの下段の姓が【 如月 】と書かれていたせいだ。
「あの失礼ですが、ご名字は蕪利さんではないのですか……?」
弓希子の問いに、漸次の顔がわずかに強張る。
そして正座の状態から己のスキンヘッドを畳のヘリに押し当てるほどの深さで頭を下げた。
「実はこの話を進めさせていただく前に、如月 漸次から皆様へお話ししておかなければならないことがあります」
突然土下座をしたかのような漸次の仰々しい素振りに、礼人と弓希子の顔に驚きが走る。
コウ本人の説明や、武蔵の暴露のせいで多少の事情を知っている理子は、両親ほど驚くこともなく平静な気持ちでそっとコウを見た。
かすかに俯いているその顔。
リビングでつい先ほどまで一緒に話していた時の柔和な顔つきはとっくに消え、こちらも少し強張っているように見える。
「俺と幸之進は血が繋がっていません。こいつが十三の時に俺が引き取りました」
「コウノシン……? それがコウ君の本当の名前なのかい?」
表情を固くしているコウに礼人が尋ねる。しかしその問いに、「はい、そうです」と重ねて答えたのはコウではなく、頭を上げた漸次だった。
「じゃあ蕪利というご名字は……?」
弓希子もまだ戸惑っている。
何度も二人を見比べているその視線は、漸次とコウの間に共通の接点を探しているかのようだ。
「……蕪利はこいつの親の名字です。父親も、母親も、こいつが幼い頃にそれぞれ亡くなっています。天涯孤独となった幸之進を俺が引き取ったんです」
その説明に小さな嘘がまぎれていることに気付いたのは理子だけだ。
しかしそれは漸次が一瞬言い淀んだ不自然さから気付けたわけではない。以前に「蕪利は名字じゃないんです」とコウ本人から言われていたからだ。
「そのようなご事情があったとは……。しかしなぜ如月さんが引き取るようなことに?」
「幸之進の父親が俺の親友だったからです。死の直前に託されたんです、こいつを頼むと」
遠慮がちではあるが、でもどうしても聞いておきたい、という空気を滲ませて弓希子が父親同士の会話に割り込んできた。
「あの、お母様はご病気で亡くなったと聞いていたのですが、お父様もやはりご病気で……?」
「いえ、事故です」
即答だった。
しかしその事故の詳細な内容を漸次は口にせず、ただ目線を膝元に落とす。
礼人が「そうだったんですか」と相槌を打つ。
「ではコウ君…、いえ、幸之進君を如月さんがお引き取りになって男手一つでお育てになったということなのですね?」
―― それは漸次が「はい」と答えたのとほぼ同時だった。
「僕はコウです」
正座をしている脚の上に置いた自分の両手を見つめ、固い表情でコウが呟く。その声はまるでひとり言のようなか細さだった。
そんなコウに礼人は同情にも似た労りの視線を注ぐ。
「そうだね、私も君の名前はコウ君だと思っていたからこれからもそう呼ばせてもらうよ」
「じゃあ私もこれからは蕪利さんじゃなく、コウさんと呼ばせてもらうわね」
理子の両親にそう声をかけられたコウは、ハッとした表情でわずかに上半身を震わせる。
その様子を見る限り、言葉にするつもりはなかったのに無意識に自分の気持ちを口にしてしまったことは容易に見て取れた。
「ありがとうございます」
感謝の言葉がコウの口元から漏れる。だが後悔に苛まれているその声は今にも消え入りそうだ。
「俺らの家庭環境をお聞きになってお嬢さんには不釣り合いな男だとご不満を感じたかもしれません。ですがもしそれでもお嬢さんをうちの息子にいただけるというのであれば、息子は必ずお嬢さんを誠心誠意、大切にいたします。それだけは親代わりを務めてきたこの俺が保証いたします。ですので何とぞ、お宅のお嬢さんをうちの息子にください。どうかこの通りです……!」
俯くコウの横で漸次は再び深々と頭を下げる。
「父さん……」
自分の横で頭を下げている漸次を見たコウが言葉を無くしている。
しかしその表情は、“ 自分のためにここまでしてくれている ” という感動というよりは、“ なぜ自分のためにここまでするのだろう ” という不可解さに満ちていた。
「どうぞお顔をお上げください」
礼人は居住まいを正すと、いつも娘や妻の前で見せている情けない姿とは一変した凛々しく毅然とした態度で、顔を上げた漸次にはっきりと告げる。
「如月さん、私も社会で一応はそれなりの立場におりますので、様々な人間を見てきております。表面上は美辞麗句を並べても器の中身が伴っていない人間は少なくありませんが、私はコウ君と話をしてみて、実にしっかりした青年だと感じています。まだコウ君とは一度しか飲みにいっていませんし、コウ君のすべてを理解したわけではありません。ですが私はこの男性になら手塩にかけて育てた娘をお渡ししても大丈夫だと確信したからこそ、今回私共からこのような勝手なお願いをさせていただいたのです。そちらさえよろしければ今後も末永くお付き合いさせていただければと思っております」
この礼人の言葉を聞き、漸次の声が歓喜で揺れた。大柄な身体を縮こまらせて低姿勢に徹し、ひたすら感謝の意を述べる。
「ありがとうございますっ……! そちらのお嬢さんとの話をうちの息子から聞いた時、俺はどんなに嬉しかったか……。こちらこそ末永くお付き合いさせていただきたいと思っとります!」
「そんなにかしこまらないで下さいな。うちの娘はまだ十七でいたらないところも多いかとは思いますが、気立ては優しい子ですのでよろしくお願いいたしますわね。そそっかしい面もありますが、きっとコウさんが支えてくださると思っています。理子のこと、頼むわねコウさん?」
「は、はい! リコさんは必ず大切にします!」
コウも頭を下げた光景を理子はドキドキしながら見ていた。
自分を大切にすると両親の前で力強く断言してくれたせいで胸のときめきが止まらない。
礼を終えたコウが身体を起こした時、目が合ったがその表情にはいつもの柔和さがまだ戻りきっていない。
コウが不安な表情をしているとこちらも心配になってしまう。
自分をしっかりと抱きしめ、泣きそうな顔で「置いていかないで」と脅え、震えていたあの時の光景がどうしても理子の頭の中をよぎってしまうのだ。
コウがまだ自分を見ている。
だから理子はほんの少し照れながらもにっこりと笑いかけた。
大丈夫だよ、どこにも行かないよ、という意味をこめてこぼれるような笑みで優しく笑いかける。
安心したコウがようやくいつもの穏やかな表情を見せた時、リビングに取り残されて寂しいヌーベルがワンと一鳴きした声が少し離れた方角から聞こえてきていた。