Come on! my house! <2>
異性に抱きしめられるなんてもちろん初めての経験だ。混乱で思わず「ひぇっ!?」と叫んでしまう。
「あれ? 今生徒の声が聞こえたような……?」
桐生の声だ。慌てて口を閉じる。
「気のせいではないですか? 今生徒達は全員昼を食べているからこんな所まで来ないでしょう。ねぇ広部先生?」
「あぁまったくもってそうですねっ!」
なにやら廊下は不穏な空気が漂っているが、一方のコウはまだ感動のオンパレード中らしい。
「リコさん……ありがとうございます、僕のために……!」
ますます強くぎゅぅぅ、と抱きしめられ、全身の至る所にコウの身体が触れて頭がくらくらしてくる。不整脈が激しすぎて、心臓が二倍くらいに肥大していそうな気がした。
「ちょっ、ちょっとコウ、離してってばっ!」
このままだと本気で悶死してしまいそうなので、必死にコウの身体を押し返し、精一杯の抵抗を試みる。するとコウは少しだけ身を離したが、代わりに今度は壁に両手をつき、理子をその中にすっぽりと収めた。
「そういえば以前、武蔵に教えてもらったことがあります」
「は? 何を?」
「惚れた女性を口説く時は “ 一押し二金三男 ”。とにかく押して押して押しまくれと」
そう言いながらコウは自分の体ごと理子を壁際に一気に押し付けてきた。
「わぁっ!? おっ、押す意味が違うでしょうがっ!」
この人ちょっとヘンです! と誰かに同意を求めたいが、残念なことに今二人の側に佇んでいるのは薄く埃を積もらせた巨大地球儀のみだ。
その時、社会科準備室の扉がガラリと開く。
「誰かいるのかい?」
声の主は桐生だ。
二人がいた場所は戸口からは死角になる部分、地図などの資料が収められているスチール戸棚の影だったのが幸いした。桐生は理子とコウにまだ気付いていない。
息を殺してこの場をやり過ごさないといけなくなってしまった。理子はアイコンタクトでコウに “ 喋らないで! ” と必死に訴える。コウは微笑みながら小さく頷いた。どうやら伝わったようだ。
しかし意志の疎通に安心したのも束の間、今が抵抗出来ない状況なのを見越してか、再び抱き寄せられる。後頭部にそっと手が添えられ、そのまま胸元にまで深く引き入れられた。
驚きで身を強張らせながらも戸口に桐生がいるので声も出せず、糸の切れたマリオネットのようにこれを受け入れるしか今の理子に残された道は無い。
コツコツ、と革靴の音が室内に響き、桐生が社会科準備室内に入ってきた。
二人はピッタリと抱き合いながら静かに息を殺す。
右の耳元にコウのわずかな息遣いを感じ、心臓が爆発しそうだ。
こうして体を完全に密着させているとコウの全身の様子がはっきりと分かり、ますます身体が強張ってくるのを止められない。どうかこの心臓のドキドキがコウに伝わってませんように、と下を向いて祈るばかりだ。
しかももうこれで終わりかと思ったらまださらに強く抱きしめてくる。
今にも右頬に触れそうな位置にコウの唇が近づいてきたので、その距離を広げるべく、わずかに身をよじった。
すると男性とは思えない滑らかな長い指が理子の顎にそっとあてがわれ、伏せていた顔をクイ、と上げさせられる。強制的に視線を合わせられたその先には、優しげな光が佇む双眸が自分を見つめていた。その瞬間、コウが何をしようとしているのかが本能的に分かり、心臓が三段跳びで跳ね上がる。
声を出せない分、理子は必死でもがきまくったが、結局目を閉じる余裕も与えられず、予想通りのことをされる。
「んっ……!」
木枯らしが吹く外をずっと歩いてきたのか、コウの体温は少し低めだ。
だから柔らかくて、少し冷たいのだけれど、でもその中心はだけかすかに熱を持っているような……例えるならコウの唇はそんな感触がした。
唇を優しく押し当ててきた後、次に左の口角から右の口角まで、やわやわと甘噛みされる。そのなんともいえない気持ちよさに気が遠くなりかけ、押し返すためにコウの胸に当てていた手に力が入り、黒のハーフコートを思い切り握り締めてしまう。するとそれが許諾の合図と受け取ったのか、ますますコウは抱きしめる腕に力をこめ、再び深い口づけをしてきた。
男性とキスをするのはこれが初めてだったが、そんな理子ですらコウの巧みさが分かった。異様に手馴れている感じがするのだ。
「素晴らしいですね……」
窓際にまで歩み寄った桐生は外の見事な紅葉を眺めて一人呟いている。実はその左脇の戸棚の影では恋愛ドラマも真っ青の熱烈ラブシーン中なのだが。
「ほら桐生先生、ここに誰かがいるなんてやっぱり先生の思い違いだったでしょう? さぁ一緒に天宝飯店に行きましょう。早くしないと席が埋まってしまいますよ?」
スキャンをしたらそのまま特売価格が表示されそうな見事なバーコード頭を手で撫でつけながら、藤野が準備室内に入ってくる。
「えぇ、ではご一緒させていただきます。……よろしいですか、広部先生?」
桐生は余裕にも取れる落ち着いた笑みを見せ、廊下に残っていた広部は不貞腐れた表情で大きく腕を組んだ。
「あーはいはい! どうぞどうぞ!」
「ははは、じゃまいりましょうか」
藤野の言葉で準備室の戸が閉まると三人の教師の足音はゆっくりと遠ざかっていった。
「ぷはっ!」
元々体育会系体質で、中でも肺活量には自信がある理子だったが、さすがに一分近くにも及んだ無呼吸接吻は堪えた。勢い良くコウから顔を外し、ぜいぜいと荒い息を繰り返す。
驚いたのがコウの息が何一つ乱れていないことだった。穏やかな眼差しと涼しい笑顔で理子を見下ろしている。
「コウ、あ、あんたねぇ……!」
両肩に怒りを乗せ、理子はコウを睨みつけた。
ファーストキスは痺れるようなドラマチックな展開で体験するのが夢だった理子にとって、こんな雑然とした埃っぽい部屋でしかもほぼ強引にされたとあっては憤りが治まらない。
「リコさん、これ受け取って下さい」
「ハ?」
突然顔の前に差し出されたキラキラと光るそれに理子は思わず目を凝らす。
コウの長い指の先がつまんでいるのは真新しい銀の鍵。それが社会科準備室の窓から差し込む陽光を浴びて白い光を放っていたのだ。
「僕が借りている家の鍵です。今朝、これをお渡ししようと思っていたのですが、リコさんが急に僕を引っぱたいて帰ってしまわれたので……」
「あっ、当たり前でしょ! コウがいきなり胸なんか触ってくるから!」
思い出したらまたむかっ腹が立ってきた。
「先ほど武蔵から夕方までには戻ってくると連絡が入ったんです。家の住所はこの紙に簡単な地図を書いておきました。ここからならそれほど遠くありませんので、今日学校が終わったらいらして下さい。もし僕が外出していたら、この鍵を使って中で待っていて下さいね」
コウは一枚のメモ紙と鍵を理子の制服のポケットにスッと入れた。
「ではお待ちしてます」
そう告げるとその場に理子を残し、コウは身を翻して準備室を後にしようとする。
理子はキレた。本気で完璧にキレた。
「い、行かないからね! 絶対!」
身勝手な背中に向けて怒鳴ると去りかけていた足音がピタリと止まった。
コウは再び理子の前に戻ってくる。
「なぜですか? 今朝リコさんは仰っていたではありませんか、僕が未来から来たという証拠を見せろ、と」
「もうその作り話はたくさんよ! なんでそう私の都合も聞かないで勝手に自分のペースで物事を進めようとするのよッ!! なんと言われても絶対に行かないからね!?」
「分かりました」
「へ? そ、そう……」
あっさりとコウが受諾したので思わず拍子抜けしてしまった。そして今、胸の中をほんの少しだけ寂しい風が通り抜けた気がするのは気のせいだと思い込む。
「ではこれを頂いていきます」
しゅるん、という衣擦れの音。
あっという間に胸元の濃緑のリボンタイが抜き去られる。見事な手際だった。
「武蔵がよく言っているんです。“ 女は約束を破るのが性でそれが専売特許みたいなものだから、必ず質草の代わりになるようなものを取っておけ ” と。では失礼いたします」
「あーっ! リボン返してよっ!」
「夕方お待ちしてますねっ」
扉越しに振り返り、質草に取ったリボンを大きく掲げるとコウは社会科準備室から軽やかに出て行く。
「待ちなさいコウッ!」
慌てて廊下に飛び出したが、その姿はもうどこにも見えない。
( ── 嘘!? こんな一瞬でいなくなる!?)
ふと、目の前の廊下の窓の一つが開いていることに気付く。
ハッと予感が走り、窓に駆け寄ると中庭をコウが走り去っていくのが見えた。
左手に握られた緑のリボンタイがまるで “ バイバイ ” と言っているかのようにひらひらと楽しげに舞っている。
「……嘘でしょ……ここ三階なのに……」
涼しくなった襟元を押さえ、思わず出たひとり言。
最後に一度校舎の方を振り返り、何とも爽やかな笑顔を最後に残して赤髪のライオンは去っていった。
結局また終始コウのペースに巻き込まれて終わってしまった。どうやら今回も理子の完全なる敗北である。