◇ The light and shade ◆ ― 4 ―
一夜が明け、十月下旬の土曜日。
朝から久住家の中は騒々しい。まもなくコウが父の漸次を伴ってこの家へとやってくるためその準備に追われているためだ。
そんな中、理子は朝早くから母の弓希子に起こされ、現在は自室の中で呆然と立ち尽くしていた。
目の前には中年の世話好きそうな顔をした女性がおり、理子に甲斐甲斐しく着物を着せてくれている。
黒地の表面に赤や桃色の可憐な花々が咲き乱れ、いたるところに金色の糸が細やかに織り込まれたこの振袖の絵柄を一言で表すのなら、絢爛豪華、という言葉がまさにふさわしい。
「理子ー、着付けは終わった?」
ドアのノック音の後、理子の様子を見にきた弓希子が顔を覗かせる。硬直状態で着物を着せられていた理子は早速母親に抗議を始めた。
「ちょっとお母さんっ、なんで振袖なんて着なくちゃいけないのよ!?」
「あぁ心配しなくていいわよ? 今回は急な話だったんでレンタルしたけど、あんたが成人式に出る時はちゃんと別の振袖買ってあげるからさ」
「そんな心配してるわけじゃないわよっ! だって今回の婚約ってあくまでも形式的なものなんでしょ!? なのにどうしてここまでする必要があるのってこと!」
「だって形式的とはいえ結納よ? うちのパパの無茶な提案に向こうのお父様もわざわざいらしてくださるんだし、お迎えする側としてきちんとした装いをするのは当然じゃない」
「結局こんな大ごとになるんじゃないっ! もうっ、こんなことならやっぱり昨日コウを説き伏せてここに連れてくれば良かった!」
着付け担当の女性が理子の剣幕に驚いて帯を結んでいた手を止める。
「あら…、お嬢様はご婚約には乗り気ではないのですか?」
「エッ!?」
第三者からの突然な予想外の質問に理子は目を白黒させ、目の前で不思議そうな顔をしている女性にしどろもどろで答えた。
「え、えっと、乗り気じゃないっていうか、うちのお父さんが勝手に話を進めちゃったんで、なんか戸惑ってるっていうか……」
そこへお馴染みの台詞が轟く。
「理子ちゃんっ!! 何度言えばわかるんだい!? お父さんじゃなくてパパと言いなさいと言ってるでしょ!?」
いつの間にか戸口には父の礼人が立っていた。弓希子は自分の隣に来た夫に、「あらパパ、いつからいたの?」と尋ねる。
「だって愛しの理子ちゃんの素敵な振袖姿が早く見たくてね。さっきからあっちの廊下でずっとスタンバイしてました」
「ねぇ、どう、この色? 赤系にしようかと思ったんだけど、それは成人式の振袖用に取っておいたほうがいいかなと思ってこっちにしたんだけど」
「うん、いいよいいよ! ママから色は黒にしたって聞いた時、黒なんて地味なんじゃないかなぁって実は思ってたんだけど全然豪華じゃないか! さすがママ! いいセンスしてます!!」
「でしょ?」
久住夫婦のやり取りを聞いていた着付けの女性も手放しで理子を褒める。
「黒系はショートカットの女性にもよく似合うお色ですが、なによりこちらのお嬢様はお綺麗でお若いですから何を着てもお似合いですよね」
「いやぁよくわかってらっしゃる!! そうなんですよ!! うちの理子ちゃんは本当に可愛いですからね!! もう何を着たって完璧に似合っちゃうんです!! その眩しさに振袖の方がかすんじゃうぐらいですよ!!」
「ちょっ、ちょっとパパ! 恥ずかしいからやめてよ!」
度を越した愛娘讃歌に当事者の理子は恥ずかしさで顔を真っ赤に染める。
そんな久住家の微笑ましい光景に着付けの女性は小さく笑うと、「はい終わりました」と告げ、慣れた手つきで持参した荷物をまとめだした。
「急なお願いだったのに引き受けてくださって助かりましたわ」
「こちらこそお嬢様のご婚約のお手伝いが出来て嬉しいです。今日がよき日になりますよう。お振袖は明日引き取りに参ります」
「わかりました。ありがとうございました」
久住家を辞去する女性を見送るため、まず弓希子が部屋を後にする。
女性二名の声が遠ざかっていき、その場にまだ残っていた礼人はとろけそうな笑顔で理子の振袖姿に熱い視線を注ぐ。しかし急に、「あ、理子ちゃんの写真を撮っとかなくっちゃ! カメラカメラ!!」と叫ぶと身を翻した。
「パパ! 写真なんか撮らなくていいってばーっ!!」
しかしそう大声で父を引き止めるも、、聞く耳を持たない礼人は階下の自分の書斎へと行ってしまったようだ。
「もう……!」
早朝から両親に振り回されっぱなしの理子は頬を軽く膨らませた後、立ちっぱなしで足が疲れたのでおずおずとベッドに腰をかけた。そこへようやく起きてきた弟の拓斗が乱れた頭髪とスウェット姿でのっそりと戸口に姿を現す。
「あっ拓、起きたの? おはよっ」
「…………」
拓斗は無言で首筋に手をやり、振袖姿の理子をまだ眠そうな顔でしばらく眺めていたが、目が覚めてくるとニヤニヤした嘲笑をあからさまに浮かべ、「馬子にも衣装」とだけ呟いてその場を去った。
「なんですって!? なに失礼なこと言ってんのよ拓!!」
顔を洗うため一階へと降りて行く弟を追いかけようと乱暴に立ち上がったため、思わず足元がよろけた。きゃっ、と小声が漏れ、床にドタリと倒れてしまう。
「イタタ……」
はだけてしまったた振袖の裾を直して立ち上がると、その大きな物音で戻ってきた拓斗が呆れた顔で理子を見下ろしていた。
「やっぱ姉ちゃんは姉ちゃんだな……。いくら着飾ったって元がそれだから意味ねーよ」
「あたしだって好きでこんなの着てるわけじゃないもんっ!」
「一日ぐらい我慢しろって。こんなガサツな姉ちゃんをもらってくれるっていう奇特な人が現れたんだからさ。面倒だけど姉ちゃんのために俺もおとなしく参加すっからよ」
「えっ、拓も出るの!?」
「両家の顔合わせだから俺も挨拶しろってさ。コウさんあと一時間ぐらいで来るんだろ? 急いで支度すっから。姉ちゃんももう階下にいた方がいいと思うぜ?」
拓斗が出て行き、再び一人になった理子はハァ、とため息をついた。
毎回毎回、こうしていつも翻弄されっぱなしだ。コウに対する自分の気持ちを確認する前に周囲の状況がものすごいスピードでどんどんと展開していくこのパターンにはいまだに慣れることができない。
―― 一時間後。
約束の時刻を十分ほど過ぎた頃、久住家のチャイムが鳴った。
コウと漸次の到着をそわそわとした気持ちで待っていた久住家のメンバーの顔に一瞬緊張が走る。
「いらしたようだね」
ブラックスーツに身を固めた礼人がソファから立ち上がったのをきっかけに弓希子や拓斗もそれに習って立ち上がった。
しかし理子がソファから立ち上がらなかったため、「姉ちゃん、何ボケッと座ってんだよ。まさか緊張で腰でも抜けたか?」と揶揄する。
「ちっ、違うわよ! 振袖だから動きにくいだけ!」
「早く立てよ。行くぞ」
「わかってるわよ!」
ソファから立ち上がり、家族全員で玄関先へと向かう。
弓希子がドアを開けると、そこには午前の日差しにレッドブラウンの髪を輝かせた青年が立っていた。
「すみません、お約束の時間を少し過ぎてしまいました」
ダークスーツを着た長身を大きく二つに折り、遅刻したことを謝罪するコウに、「いやいいんだよ。こちらの勝手でわざわざ君のお父様にご足労いただいたんだからね」と礼人が寛容なところを見せた。
「ありがとうございます。……あ、紹介します。僕の父です」
コウはそう言うと身をひねらせ、後方に待機していた漸次を紹介した。
大柄の筋肉質な身体を窮屈なブラックスーツに強引に詰め込んだ漸次が、己のトレードマークであるスキンヘッドをてらてらと輝かせ、久住家のメンバーの前に堂々と現れる。
「どうも! コイツの父で漸次と申します! この度はお宅のお嬢さんをうちの息子にいただけるということで非常に嬉しく思っとります!!」
理子以外のメンバーは漸次を初めて見たので少々驚いたようだ。
礼人と弓希子は一瞬声を無くしていただけだが、拓斗の口からは「すげぇな、悪役レスラーみたいだ」という無遠慮な第一印象が漏れた。
理子が「ちょっ拓斗っ、失礼なことを言うんじゃないの!」と諌めると、同じく慌てた弓希子が「よっ、ようこそいらっしゃいました。理子の母で弓希子と申します。こちらが夫です」と素早くフォローをした。
妻から紹介のたすきを引き継いだ礼人は「初めまして」と恭しく頭を下げる。
「理子の父で礼人と申します。これは息子で拓斗と言います。拓斗、コウくんのお父様にご挨拶を」
「……こんちはッス」
斜に構え、首をカクリと前に倒しただけの挨拶をした拓斗に、「ちゃんと挨拶なさいっ」と弓希子が小声で叱る。そして「さぁこんなところで立ち話もなんですからどうぞお上がり下さいな」と笑顔でコウと漸次を招き入れた。
「では遠慮なくお邪魔させていただきます」
一礼をし、先に革靴を脱いだ漸次が礼人と弓希子の案内でリビングへと消えてゆく。
続いてコウも玄関先から中に入ったが、その場で理子の振袖姿をしげしげと眺め「リコさん、すごくお綺麗です」とこぼれるような笑顔で率直な感想を述べた。
褒められた理子は顔を赤くし、「あっありがとっ」と早口でお礼を言ったが、続いて投下されたコウの質問に、少女の高まったテンションが瞬く間に下がる。
「リコさん、今その中に着けておられるのって和装ブラなんですか?」
尋ねた本人は全く悪気はない。
だが聞かれた側にとってはまたブラの話なのかと突っ込みたい気持ちで一杯だ。
そこへ一旦はリビングへと移動していた弓希子が廊下の扉から出てくる。
「ほら理子も蕪利さんもいつまでもそんなところにいないで早くこっちに来なさいな」
「はい。では行きましょうかリコさん」
「う、うん」
並んで歩きだした時、振袖の背中にそっとコウが手を触れてきたのがわかり、身体がビクリと震える。
しかしときめきで心臓がトクリトクリと小さく鳴る中、あの後、向こうで武蔵とはどうなったのだろうかという小さな黒い不安が理子の胸中をさざ波のようによぎっていった。