◇ The light and shade ◆ ― 1 ―
修学旅行も終わり、四日ぶりの自宅へ戻った理子は懐かしの我が家へと足を踏み入れる。
寝不足のせいで少々体が重い。
しかし疲れは残っているが、荷物を置いたらすぐにコウの家に行くつもりだ。
修学旅行初日の夜、武蔵の手引きで旅館から外へと連れ出してもらえたおかげでお互いの誤解は解けた。だがその後は寒空の中、寺の瓦屋根の上でずっと抱きしめられていただけで結局はコウとあまり話ができていない。
それに本能化の前と後、それぞれの人格が同一であることの確証が取れた途端、硬い表情で闇夜に消えていった武蔵のことも気になる。
「ただいまぁー」
玄関の上がり口に土産袋をドサリと置いた理子の出迎えに真っ先に現れたのは愛犬のヌーベルだ。
久しぶりに理子を見たせいで大興奮している。何度も吼え、短いシッポを激しく振り、その喜びを全身で表している。
「あっヌゥちゃん! よしよし、いい子にしてた?」
ヌーベルの頭を撫でてやっていると、母の弓希子もリビングから出てくる。
「お帰り理子。旅行、楽しかった?」
「うん、すっごく楽しかった! 荷物置いたらちょっと出かけてくるね!」
「あら、長旅から帰ってきたばかりなのにこれから出かけるつもりなの?」
行き先はコウの家ということはわざと伏せたせいで、弓希子は呆れ顔だ。
「うん、ダメ?」
「まだ夕飯まで時間はあるし別にいいんだけど、理子、あなた少し疲れた顔してるわよ? どんな用事か知らないけど明日にしたら?」
「大丈夫すぐに戻ってくるから!」
勘の鋭い母にこれ以上深読みをされないよう、靴を脱いで弓希子の横を通り抜ける。すると駆け寄ってきたヌーベルがさらにじゃれついてきた。
「ごめんね、後で遊んであげるからねヌゥちゃん」
足元にまとわりつくヌーベルの頭をもう一度撫でてやっていると、振り返った弓希子が「あぁそれと理子、今日はできるだけ早く寝なさいよ?」と釘を刺した。
「えっどうして?」
「だって明日そんな疲れた顔して蕪利さんのお父様にお会いするわけにはいかないでしょ」
「はぁぁーい…………って!?」
驚きのあまりヌーベルを撫でていた手がブレた。勢いでその湿った鼻先を二度強くさすってしまい、ヌーベルがぶしゅん、と盛大なくしゃみをする。
「ちょっとお母さんっ! それどういう意味っ!?」
「どういう意味って、明日蕪理さんのお父様がここにいらっしゃるのよ」
「どうして明日コウのお父さんが来るの!? コウは!? コウは来るの!?」
「来るに決まってるでしょ。婚約相手が来ないでどうするのよ」
「コンヤクッ!? 誰のっ!?」
「あんたに決まってるじゃない。他に誰がいるのよ?」
晴天の霹靂とはまさにこのことだ。
「なんなのよそれっっ!? 何あたし抜きでまたおかしな展開になってるの!?」
「だって一昨日急遽決まったんだもの、仕方ないじゃない」
「だからどうしてそんなことになったのよ!? まさかコウが言い出したの!?」
「ううん、違うわ。婚約の提案はうちのパパよ」
「お父さんが!? なんで!?」
「それがねぇ……」
弓希子がハァ、と悩まし気なため息をつく。
「最近会社で色々と考えさせられる出来事があったみたいなのよ。それでこれから理子と付き合っていくつもりなら婚約しておいてほしいって蕪利さんに頼んだみたい」
「なんで婚約なんかしなきゃいけないのよっっ!?」
理子の絶叫を聞き、またしてもヌーベルの本能が危険を察知したようだ。寝転んで腹部をさらけ出していた状態から素早く身を起こすと、尻尾を揺らしながらさっさと居間に逃亡してゆく。
そんなヌーベルを横目で見送り、「理子の言うことももっともよ。ホント、笑っちゃうくらいの急展開だもんねぇ……」と弓希子が苦笑を漏らした。
「そういう訳で理子には事後報告になっちゃったけど、今日は早く寝て、明日ちゃんと早起きしてよ?」
「だから言ってる意味が分かんないってば! お母さんっ、お父さんが帰ってくるのって明日なのっ!? 」
「パパなら今書斎にいるわよ」
「えっ!? もう帰ってきてるのっ!?」
「えぇ。明日に備えて今日は有給を取ってきたんですって」
「分かった! お父さんに直接聞くからもういい!」
理子はそのまま一気に廊下を走り、憤りに身を任せて書斎のドアをノックもせずに大きく開け放つ。
「お父さんっっっっ!!!!」
理子の大きな呼び声に、書斎に座って書き物をしていた父の礼人は手にしていた万年筆を机に置くと、リコ以上の大声で叫び返した。
「理子ちゃんっ!! お父さんじゃないっって言ってるでしょ!! パパと呼びなさいっパパとっっ!!」
「あ…」
父の逆ギレで出鼻を挫かれた。
しかしここは真相を究明するためにも突撃せねばならない。足音荒く書斎に入り、仕切り直しをする。
「パッ、パパ!! あたしパパに話があるんだけどっ!?」
「もしかしてその話って、コウくんとの婚約の件かい?」
愛娘の凄まじい剣幕を見た礼人はべっ甲眼鏡の位置を決め直し、理子を落ち着かせる意味も込めてゆったりと微笑んだ。
「そう!! なんでいきなりそんな話が持ち上がってるの!?」
「あのね理子ちゃん、実はこれにはふかいふかぁ~い訳があるんだよ。聞いてくれるかな?」
「聞くに決まってるじゃない!!!!」
「うんうん、じゃあ話すからまずはそこに座って」
礼人は前回の時と同じように理子を書斎机の向かいに座らせ、自分も肘掛け椅子にゆっくりと腰を下ろした。そして机の上に両肘を付き、組んだ手の上に軽く顎を乗せ、重苦しい表情と気落ちした声で「実はさ……」と事情を話し始める。
「実はさ、パパの部下の一人が出来ちゃった結婚することになってね……。その子、今年大学を卒業して4月に入社したばかりの新人の女の子なんだよ。……どう思う理子ちゃん?」
「どう思うって……、それがどうかしたの?」
「どうかしたに決まってるじゃないかぁあああああ――っ!!!!」
「ヒャアッ!?」
正面に座る父がまた突然素っ頓狂な大声を出したので、驚いた理子は椅子から飛び上がった。
「パ、パパ!! 急に大きな声出さないでよ!! ビックリするじゃない!!」
「あぁごめんごめん、パパつい興奮しちゃったよ……。でもそうか、学生の理子ちゃんにはこれだけの説明じゃピンと来ないんだね」
「うん、全然ピンと来ない」
「あのね理子ちゃん、その女の子が入社したのは今年の春です。そして今は何月だい?」
「……10月?」
「そうだよ理子ちゃん!! 今は10月なんだよ!! ありえないだろ!?」
「何が? 今月ってパパの会社忙しいの?」
「ちがぁああああーうっ! そういう意味じゃないですっっ!!」
再び興奮した礼人は肘掛け椅子から勢いよく立ち上がった。
「だからその子は入社してわずか半年で会社を辞めちゃうってことなんだよ!! 春に入社してきてさ、早く一人前の営業にしてやりたくてパパたちも一生懸命教えてきたのに、半年で辞めちゃうだなんて! 女の子なんて所詮結婚までの腰掛け程度でしか働かないものなんだからって頭を切り替えようとしているんだけど、でもそれにしたってわずか半年って辞めるってありえないよ!!」
「あーそういうことかぁ……」
「そういうことです!! 理子ちゃんっ、企業ってのはねっ、いずれは社内の重要基幹の一部となってもらうために最初は戦力にならない新人の子たちを一から手取り足取り教えて育てるわけ! そのためにわざわざ教育期間というものを設けているわけですよ! それで春から色々教えてきてやっと芽が出始めてきたと思ってたらさっ、“ 彼との赤ちゃんが出来ちゃったんで今月いっぱいで辞めたいんですけど ” ってどういうこと!? こんなこと本人の前じゃ絶対に言えないけどさっ、パパは完全に裏切られた気分なんだよ!! しかもその子、来月急ぎで結婚式を挙げるっていうから、パパも式に出席してお祝いのスピーチしなくちゃいけないしっ!!」
「落ち着いてよパパ! そんなに興奮したら身体に良くないってば!」
「ありがとう理子ちゃん、理子ちゃんは優しい子だね……」
愛娘にいたわられた礼人はそう呟くと、疲れた表情で肘掛け椅子にまた腰を下ろす。
「……だけどね、このやるせない気持ちを社内で愚痴るわけにもいかないし、でも胸の中にもやもやしたものはずっと溜まっていたんだよね……。で、この間、男の部下だけを連れて飲みに言った時に、パパってばさ、“ お前たちはそういう事をしでかさないようにしっかりしろよ ” 的な説教まがいのことをついポロリと言っちゃったんだよ……」
「ふぅ~ん」
おぼろげではあるが、おおよその事情が飲み込めた理子が小首をかしげる。
「でもパパのその発言ってお酒の席のことだったんでしょ? 言われた部下の人たちもそんなに気にしていないんじゃない?」
「だといいけどね……。でもさ、そういう経緯があったせいで、今回パパも自分の身に置き換えて色々と考えたわけ。そして一昨日、完璧に閃いちゃったわけ」
「なにを閃いたの?」
「悲しいことにうちの理子ちゃんにもとうとう彼氏ができちゃったし、とりあえずあのコウくんと事前に婚約さえ交わしておけば問題ナッシングになるってことにですよ」
「だっ、だーかーらー!! だからなんでそこでそういう展開になるのよっ!?」
「だって部下たちにそういう偉そうなことを言っちゃった手前さ、まだ十代の理子ちゃんに出来ちゃった結婚なんてことをされちゃったらね、パパが立場的に困っちゃうわけですよ。パパの面目丸つぶれになっちゃうぐらいのことはピチピチ学生の理子ちゃんもなんとなく理解できるよね?」
「分かんない!! ぜんっぜん分かんないっっ!!」
「分かんないかぁ……。よく考えてごらん理子ちゃん?」
「なにをよ!?」
「もし、この先まかり間違って理子ちゃんにコウくんの子どもがうっかり出来ちゃったとしてもだよ? すでに婚約をしている間柄ならそれも若さゆえのフライングってことで温かく見てもらえるだろうし、パパの面子も潰れないってことなんです!! だからとりあえず理子ちゃんとコウくんが婚約を済ませておいてくれれば、パパは安心してこれからもお仕事にガンガン励めるってわけなんですよ! ということで、明日はよろしくねっ!」
「よろしくね! じゃないわよ―っ!!」
「あぁそうそう、コウくんに聞いたけど、理子ちゃんはもう向こうのお父さんにお会いしているんだってね。先方さんも理子ちゃんのことを元気のいいお嬢さんだってとても気に入ってくれてるみたいだし、父親であるパパはすごく鼻が高いです! ま、これだけ可愛い天使のような理子ちゃんなら気に入られて当然だけどね! ……あれっ理子ちゃーん? もしもーし、どこに行くのかな~? まだパパのお話は終わってないんだけど~?」
「もう知らないっ!! あたしに断りなくまたパパとコウで勝手に話を進めちゃっていい加減にしてよ!!」
「おぉ~! さすがうちの理子ちゃん! 怒った顔も一段と可愛いね!」
「パパのバカ―ッ!!」
そう叫ぶと理子は書斎を飛び出す。目指す先はもちろんコウの家だ。
両眉をキッと釣り上げ、勝気な少女はコウの家に向けて全力で駆ける。
いつもの優しいコウはとっくの昔に好きになっているが、本能化した後の乱暴なコウをまだ好きになれていない今の状態では、婚約などとんでもないことであった。
それに理子としてはコウに問い質したいことがまだ山ほど残っている。
本能化前と本能化後、どちらも同じコウだと判明してしまった今となっては、胸の中にあるこの数々の不安すべてを取り除いてもらうまではコウを受け入れることなどできない。
「コウッ!! いるんでしょっ!?」
玄関扉を乱暴に開けると、理子の声を聞きつけたコウがすぐに姿を現した。そして荒い息を吐いて到着した理子を見て嬉しそうに笑う。
「あっ、修学旅行から戻ってこられたんですね!! お帰りなさい!!」
いつもの穏やかなコウを見た途端、つい今しがたまで体内に満ち溢れていた怒りの感情は瞬く間に萎み、頬が勝手に赤くなる。
急降下したテンションで、「た、ただいまっ」と早口で挨拶を返すと、赤面した少女の温かい片頬に青年は手を当て、「良かったです。向こうに戻る前にお逢いできて」と安堵の表情を見せた。
「エ!? 向こうって、未来に戻るつもり!?」
「はい。もう一度こちらに父を連れてこないといけませんから」
「お父さんを連れてくるって、まっまさか明日のため、とか……?」
「えぇ。明日のリコさんとの婚約は父にもぜひ立ち会ってほしいですし」
やはりこの婚約話は冗談ではないのだと理解した理子はコウの左腕を掴んだ。
「あたしはついさっきパパからこの話しを聞いたの! いきなり明日婚約するなんて言われても困るんだけどっ!?」
「ですがリコさん。これは貴女のお父様からのたってのご希望なので、僕からはどうにも……」
「だからこれから一緒にうちに来て! それでパパに明日のことは無しにしてって頼むから!」
早速説得を開始すると、コウはおっとりとした笑顔で自分の左腕をつかんでいる理子の手の上に自分の手のひらを愛おし気に重ねた。
「リコさん、いきなりのお話で戸惑っておられるのは分かります。でも貴女のお父様は仰ってました。この婚約はあくまで形式的なものだから、と。だからそうあまり難しく考えなくていいんじゃないでしょうか?」
「でっでも形だけっていったって、やっぱり婚約は婚約なわけだし……」
「大丈夫ですリコさん、ご安心なさってください」
コウは焦っている理子を遠慮がちに抱きしめた。
「リコさんが僕を好きになってくれるまでは僕は貴女に一切手を出すつもりはありませんし、ずっと待つつもりでもいますから。ただ、この間もお伝えしましたが、リコさんが僕を好きになってくださらなくても、僕が貴女を好きでい続けることだけは許してください。では父を迎えに行ってきますね」
「まっ待ってよ!!」
抱擁を外し、父、漸次を迎えに行くために外へと出て行きかけていたコウを理子は慌てて呼び止める。
「ねぇ武蔵は!? あの後一人でどっかに行っちゃったでしょ!? あいつ、あの後ちゃんと戻ってきた!?」
その問いかけにコウの表情が初めて大きく曇る。
「それが、あの後そのまま向こうに戻ってしまって、ここにはいないんです」
「ウソ!? 勝手に未来に戻っちゃったの!? どうして!?」
「僕も理由が分からないんです。でも父の話だと、なんだかふさぎこんでいるみたいで、しかも自分の能力をもっと上げて欲しいと言い出してきかないらしく、父も困っているようです」
「えっスペックを? ねぇコウ、あたしの記憶違いかもしれないけど、確か武蔵ってもう限度いっぱいまでスペックを上げてるんじゃなかったっけ?」
「えぇそうですが、でもどうしてリコさんがその事をご存知なのでしょうか?」
「この間旅館から連れ出された時に武蔵が自分で言ってたもん」
不思議そうだったコウもその答えに納得したようだ。
「あぁそうだったんですか。武蔵も性格が古風な割には口が軽い所がありますからね。あれ以上能力を補強したら内部のシステムに悪影響が出てしまう恐れがあるのでまさか父もやらないとは思いますし、武蔵自身もその危険性は充分に分かっているはずなんですが……。でも少し心配なのでそこも確認してきます」
「そうだね。そうしたほうがいいよ」
なぜ武蔵は無理を承知でさらに能力を上げたがるのか。コウだけではなく、理子にももちろんその理由は分からない。
しかし胸の中に嫌な予感がじわじわと湧いてくる。あの時コウに背を向け、赤いパーカーをなびかせて闇夜に消えていった武蔵の後ろ姿がスペックを上げたがる理由と密接に関係しているような気がしてならない。
「あのねコウ、頭の片隅でいいから記憶に残していてほしいんだけど、向こうで武蔵が何かヘンなこと言ってきても気にしちゃダメだからね? もし何かヘンなことを言っても、武蔵は本当はそんなこと思っていないんだからそこは絶対に信じてあげてよ?」
「ヘンなこと? 例えばどういうことですか?」
「え、えっとね……。たっ、例えばだよ!? 言っとくけどこれはあくまで例えばの話しだからね!?」
「はい、分かりました」
「も、もう、コウの電脳巻尺なんか辞めてやるー、とかさ……」
理子が口にした例え話を聞いたコウは一瞬唖然とした後、急に笑い出す。
「ははっ、おかしな例えをなさるんですね。でもリコさん、いくらふさぎこんでいるとはいえ、武蔵はそんなことは言いませんよ。僕と武蔵の絆はそんな脆いものではありません。これは昔の話ですが、武蔵の専属操作者が父から僕に変わった時、武蔵は“ 一生お前の巻尺になってやるよ ”、って言ってくれたんです」
武蔵を信じきっているコウにこれ以上なんと言葉をかければいいのかが分からず、理子は曖昧に言葉を濁して目線を逸らせた。そんな理子にコウは屈託のない表情で明るく笑いかける。
「では行ってきますねリコさん。明日またお逢いしましょう」