ごめん 嘘をついた 【 9 】
「ひゃあっ!? 出るってここから!?」
武蔵が窓から飛び出したので、必然的に理子も外へと脱出することになる。
旅館の部屋窓から向かいの建物へと飛び移り、ビルの屋上、次は個人宅の屋根の上と、武蔵は着地先を次々に変え、夜の帳の中を巻尺で縛り上げた理子を連れて駆け抜ける。
「ちょ、ちょっと武蔵! こんな運び方しかないの!? すごく怖いんだけど!?」
グルグル巻きにされている自分を空中で支えているのはこの二本の巻尺だけだ。しかも、その片方の先端が無残に千切れているのがさらに理子の恐怖心を煽る。
「漸次さんに能力を限界まで上げてもらったからお前程度の重さなら余裕で運べるようになったんだよ。ぎゃーぎゃー喚かないでおとなしく運ばれてろ」
冷えた空気の中でつけた文句に対し、戻ってきたのはそんな無慈悲な言葉だった。
ここはその限界まで上げてもらったという武蔵の能力を信じるしかない。
五分ほど空中を移動し続けていた武蔵は、ある1ヶ寺の屋根瓦に着地すると、
「おらよ。持ってきてやったぜ」
と巻尺を一気に解いて理子を無造作に放り投げた。
「きゃあああああ!?」
高い位置からいきなり空中に放り投げられた理子を赤い髪の天然男がしっかりとキャッチする。
「リコさん、済みません。こんな夜更けに強引にお呼びたてして」
目の前にまず飛び込んできたのは自分のモカ色のマフラー。
そして次に見えたのは自分を抱きとめて微笑んでいるコウだった。
「コウ! 正気に戻ったの!?」
「はい。僕、またやっちゃったみたいですね……」
「もうお酒飲まないってあたしと約束したでしょ!? どうして飲んだのよ!?」
するとチェックのマフラーを巻いているコウは申し訳無さそうに、
「実はリコさんにお会いする前にお婆さんの荷物を運んで差し上げたら、その方がお礼に白い飲み物を下さって……。それにアルコールが入っているなんて知らなかったんです」
と目を伏せる。
「でも結構飲んだでしょ!? すっごくお酒臭かったもん!」
「は、はい……。三杯目を飲んだところまでははっきりと覚えているんですが、その後の記憶がまたあやふやになってしまっています。リコさんの仰る通り、もしかしたらその後まだ続けて飲んだのかもしれません」
「じゃあお酒を飲んだ後、自分が何をしたか今回は覚えている部分はある?」
「リコさんにお逢いした時のことはぼんやり覚えてます。高い場所から貴女を見下ろしてどこかに一緒に行こうと言ったような気がします。それで理由は分からないんですが、その時のリコさん、すごく怒っていました」
「……それだけ?」
「はい、あとは全く覚えてないです」
「そ、そう」
理子はホッと胸を撫で下ろす。
武蔵がコウの相棒を止めると言い出したことなどは何も聞こえていなかったようだ。
「あ、コウ! それよりごめんね! あたしシロナさんとコウのこと誤解してた! シロナさんがベッドで寝てたのはあたしの勘違いだって教えてくれたの。昨日引っぱたいちゃってごめんね……」
「いえいいんです。僕はリコさんの誤解が解ければそれで」
コウが笑う。
その穏やかな笑みに、やっぱり昼に見たコウとこの人は別だ、と理子は確信を持った。
「それに誤解していたのは僕も同じです。修学旅行にヨバイという行為はしないんですね。さっきシロナから連絡が来て、そう教えられました」
「そうだ! そのことも武蔵に伝言するの忘れてた! なんで修学旅行に夜這いをするなんて思ったのよ!?」
そう問い詰めると、「そ、それは……」とコウが視線を泳がせる。
「言いなさい!!」
「は、はい……。実はあの辞書にそう書いてあったので……」
「あの辞書って……、まさかデタラメでエッチなことが書いてあるアレのこと!? あの辞書はもう触っちゃダメってこの間言ったじゃない!!」
済みません、とコウが謝る。
そこまで素直な態度に出られると続けて怒りづらい。理子は口を尖らせつつも、今回はこのまま許す事にした。
「……今回はもういいよ。もうあの本ゼッタイに見ちゃダメだからね!?」
「はい、お約束します」
神妙な顔で二度目の約束をした後、コウはようやく心からの安堵の笑みを見せる。
「でもリコさんの誤解が解けて本当に良かった。ここの神様にまでお願いした甲斐がありました」
「あ、神様ってもしかしてこれ?」
コウから少しだけ身を離し、屋根瓦から滑り落ちないよう気をつけながらコートのポケットから例の絵馬を取り出す。
「あ、それ僕が書いた……、どうしてリコさんがそれを?」
「絵馬掛けにかかっているのを見つけたの。だってこの唐草模様の巻尺って武蔵でしょ? これで分かったの、この絵馬を描いたのがコウだって」
そうだったんですか、と答えたコウは少し恥ずかしそうだ。
「どうしてここに武蔵を描いたの?」
「その札に願い事を書く前に他の方の札も見てみたんです。そうしたら札に馬とか狐とか鶏などの絵が描いてあったので、もしかすると自分の相棒をそこに描くのがルールなのかなぁと思って」
それを聞いた理子がたまらずに吹きだした。
「あはははっ! 何それ!? すごい解釈だね!」
「違うんですか?」
「違うよ! 大体どうして馬や狐や鶏がパートナーなのよ?」
「そうですよね……。僕もそこがヘンだなぁと思いました。馬なら昔は移動の手段で使われていた時代もあるから相棒というのも分かるなぁと思ったんですけど、狐とかネズミとかが全然分からなくて」
笑いすぎたために目尻に浮かんだ涙を指で拭うと、理子は武蔵にも確実に聞こえるようにわざと大きな声で言う。
「そっか、絵馬にパートナーを描くルールだと思ったから、コウは武蔵を描いたんだねっ!」
「はい。僕の相棒は武蔵ですから」
「そうだよねっ、コウのパートナーは武蔵だもんねっ! 武蔵のこと、大切でしょ!?」
「えぇ、もちろんです」
理子は、ほら見なさい! と言いたげな顔で武蔵に視線を送る。しかし今の二人のやり取りは聞こえているはずなのに、少し離れた場所にいる武蔵は素知らぬ顔だ。
その不遜な態度に少しイラッとはしたが、コウからその返答を聞けただけで今は充分だった。
上機嫌になった理子に、コウが絵馬を指さして武蔵の新情報を教える。
「そういえばもう武蔵はその唐草本体じゃないんですよ。昨日父さんに色々とカスタマイズしてもらったみたいで今はシルバーの本体になってます。武蔵、リコさんにも新しいフロントを見せてあげたらどうですか?」
しかし武蔵は同じ屋根上の少し離れた所でしゃがみこみ、そっぽを向いたままだ。
それを見たコウは申し訳無さそうな表情で代わりに理子に謝る。
「済みませんリコさん。なぜか今日は武蔵は機嫌が悪いみたいで……」
すでに武蔵のメタリックシルバーのフロントは見ているし、なぜ機嫌が悪いのかも理子は知っているが、ここはもちろん知らないふりだ。
「いいよ別に。気にしていないから」
「ありがとうございます。あぁ、そうだリコさん。父さんが武蔵に何をプレゼントしたのか直接聞いて見なさいって仰ってましたよね。あのアンドロイドがそうみたいです。でも服も一緒に買ってもらったのにあんなに汚してしまってるし、機嫌が悪い理由を聞いても話してくれないんですよね……」
すると武蔵が低い声で、この服をこんなにしやがったのはお前じゃねぇか、と毒づいた。
「何か言いましたか武蔵?」
「……別に」
また武蔵はそっぽを向いた。
コウは再び理子に顔を向けると子どものように幼い表情で、とても嬉しそうにある物を取り出した。
「それでこんな時間にここに来ていただいたのは、誤解させてしまったお詫びにリコさんにこれをプレゼントしたかったからなんです」
出てきたのはアタッシュケースだ。
以前に極彩色のレインボー・ブラが詰め込まれていたあの鞄がここに来て再びの登場である。
── ということは。
「もっもしかしてまたブラを作ってきてくれたの!?」
「いえ、今回はブラではありません。これです」
ロックを外し、コウがケースを開ける。
「わっ、スゴイ……!」
今回も中は極彩色マジックに溢れていた。
しかし物はブラではない。
── 今度は下だった。
唖然とした表情でそれらを眺めている理子に、意気揚々とした天然男の解説が始まる。
「以前にリコさんに下着を贈らせていただきましたが、僕、ブラしか差し上げていなかったですよね。でも昨日リコさんとお逢いして、下着は上下セットで贈るべきだって事に気が付くことができたんです」
「な、なんであたしに会ってそんな事に気付いたのよ!?」
「ほら、昨日、水砂丘高校の前でリコさんとお話していた時に風であなたのスカートがめくれたじゃないですか。その時にリコさんの穿いていた白い下着を見て、あ、下もセットであげるべきだったなぁって」
「なっ……!!」
どちらかというと味も素っ気も無い、決してお洒落とは言いがたい純白の下をコウにばっちり見られていたことを知り、少女の顔が恥ずかしさで朱に染まる。
「以前にお贈りしたブラと同系色で作っているので合わせて使って下さいね」
そうコウが言った時、急に夜風が強く吹いてアタッシュケースの中の下着が一つ残らず夜の帳の中へとフワリと舞い上がった。
七枚の極彩色がそれぞれ思い思いの方向へと楽しそうに旅立ち始めてゆく。
その光景を目にしたコウが、
「武蔵! お願いします!」
と叫ぶ。
武蔵は返事をしなかったが、屋根瓦の上にしゃがんだままで黙ってシルバーのエスカルゴをパーカーから取り出した。
そしてそれを手の中に握りこみ、巻尺口を漆黒の夜空へと向け、大きく右手を振る。
途端に巻尺口から飛び出した一本の白い巻尺が、まるで生きた白蛇のように夜の闇を右に左にと素早く這い回った。
その細く白い身体にセンチやメートルの単位を細かく刻んだ巻尺は、すべての下を逃すことなくそれぞれの穴に次々に通し、夜空を一気に駆け上る。
── 由緒正しき寺の屋根の上で、巻尺に通された七枚の下着がひらひらと夜風に吹かれる。
巻尺が天を指し示しているせいで、そこに通された色とりどりの下着はまるで夜空に連凧を上げているようにも見えた。
理子は一つも取りこぼすことなく全てを拾いきった武蔵のその見事な手腕に感心したが、よりにもよって神聖な寺の上での下着凧上げに、あたし達、神様のバチが当たらないだろうかと一抹の不安も覚える。
「良くやりました武蔵!」
コウが笑顔で相棒を褒め称える。
しかし今の働きを主であるコウに褒められた武蔵は相変わらず一言も言葉を発しない。
仏頂面で黙って巻尺を操作し、そこに絡めていた下着をすべてアタッシュケースの元へと運ぶだけだ。
コウは元通りにその下着をしまい込み、アタッシュケースを閉じると、「後で宿にお送りする時にあらためてお渡ししますね」と理子に微笑む。
「あ、ありがと」
「気に入っていただけましたか?」
「気に入ったっていうか……でもちょっと大胆すぎない?」
「そうですか?」
「うん、結構透けてる部分が多かったような気がする……」
そう言われたコウはほんの少しショックを受けたような表情で声を落とした。
「済みません、僕のお客さんってリコさんのような10代の方がほとんどいらっしゃらないので、可愛らしい下着のデザインってあまりしたことがないんですよ」
それはそうだろうな、と理子は思った。
自分がもし未来で生活していたとしたら、コウのように若い男性に下着を作ってもらおうなんて思わない。絶対に女性の職人に作ってもらうだろう。
「これからはリコさんにもっと気に入っていただけるような可愛らしいファンデをデザインできるよう、もっと勉強しますね」
そうこれからの決意を語ると、なぜかコウは更にその表情を大きく曇らせる。
「それとリコさん、僕はあなたに謝らなければいけないことがあるんです」
「謝るってなにを?」
「済みません、僕、あなたに嘘をついてしまいました」
そんな出だしで始めたコウは、目の前の理子に遠慮がちな視線を送る。
「……以前にリコさんの部屋で僕、言いましたよね。僕のことを好きになれないのであれば、潔く貴女のことを諦めるって。でも僕の誤解でしたが、ヨバイで貴女を失うのかもしれないって思った時、それが無理だってことが分かったんです。貴女を諦めるなんて僕には出来ない」
── その告白の瞬間、周囲の音が消えた。
恐ろしいぐらいにシンと静まり返る空気を、遠くで鳴くスズムシの雅な歌声が断続的に割り入る。
驚きで声を出せない理子の視界の端で、バスク・ムルのフ-ドをかぶった武蔵が何も言わずに静かに立ち上がったのが見えた。
武蔵はそのまま無言でコウに背を向け、その足を止めることなく隣の建物へと大きく跳躍してゆく。
「あ!? 待って武蔵!!」
武蔵を引き止めようと屋根から立ち上がろうとした理子を、コウが押さえ込むように強く抱きしめる。
そして少女の耳元で再度謝罪をした。
「嘘をついてしまって済みません。でもどうしても貴女を諦めることはできそうにないんです。だからもしリコさんが僕を受け入れてくださらなくても、僕が貴女をずっと好きでいることだけは許してください」
たとえ振り向いてもらえなくてもずっと想い続ける、そう宣言したコウはますます理子を強く抱きしめ、少女の首元にその顔を埋める。
「コ、コウ……」
マスカットのほのかな香りが漂う中、強い好意を抱き始めている男性から激しく抱きしめられ、恋に純情な少女の胸は高鳴った。
しかしコウの後ろ髪の隙間から赤いパーカーのフードが舞っている光景を目にすると、その高揚した気持ちも一気に萎んでゆく。
── ほらな 何度も言わせんなよ子雌 いつものコウも豹変したコウも同じなんだ
それだけは絶対に変わらない事実なんだよ
自分の操作者に見切りをつけた武蔵の背が、再びそう語っているような気がした。
武蔵の羽織る赤いパーカーがみるみるうちに小さくなってゆく。
そしてやがてその色が暗闇に溶けて完全に見えなくなるまで、理子はただ呆然とコウの腕の中で言葉を無くしていた。