ごめん 嘘をついた 【 5 】
消え入りそうな小声で礼を口にし、マフラーを返し終ったコウが地面へと飛び降りる。
このままでは我を忘れたあの武蔵に半死半生の目に遭わされるかもしれない──。
そんな恐怖に取りつかれてしまっている理子は、樹の上から精一杯片手を伸ばして必死で引き止める。
「コウ! 行っちゃダメだってばっ!! お願いだから逃げて!!」
しかし地面に降り立ったコウは樹の上の少女を見上げると、「そこから絶対に動くなよ」と念を押すだけだ。
「もうこの分からず屋ぁー!! どうして言う事を聞いてくれないのよー!」
だが想い人である理子の再度の懇願でも本能化した男の向かう先は変わらなかった。理子に背を向け、敵の前へと歩を進める。
武蔵は恐れることなく再び自分の前に戻ってきたコウを憎々しげな表情で出迎えると、吐き捨てるように言った。
「おいクソガキ、ぶん殴る前に一つだけ褒めてやる。あの子雌を身を挺して庇った事、それだけは合格だ。……コウ、お前変わったよ。すげぇ変わりやがったよ。きっとあの子雌が、死にたがりのお前をそこまで変えてくれたんだな」
しかし口にしたその賛辞とは裏腹に、武蔵の目つきは相変わらず突き刺すような鋭さを保ったままだ。
「だがな、それとこれとは話が別だ。その理屈は分かるな?」
コウは一言も言葉を発しない。
「分かったのならさっさと来いよクソガキ。泣いて土下座したってもう絶対に許してやらねぇ。さっきテメェが吐いた漸次さんへのあの暴言、死ぬほど後悔させてやる。……おい! 聞いてんのかよ!?」
終始無言を貫くコウに、ついに武蔵が痺れを切らす。
立てていた中指を奴隷を呼びつけるようにクイクイと折り曲げ、まだ煮え滾っている怒りを再び外へと爆発させた。
「分かったんならとっとと来やがれぇっっ!! この恩知らずがぁぁっっっ!!」
武蔵の咆哮が雑木林の空気を大きく震えさせる。
しかしコウはその咆哮にも動じることなく、クリアな視界を得ようと無表情で何度も瞬きを繰り返した。
武蔵が身に着けている衣服で赤の色を持っているのはバスク・ムルのパーカーだけだ。なのに今のコウにはそれ以外にも赤い部分が映って見える。それは左目の中に大量に入り込んでしまっている血が、自分の片側の視界を鮮血色に染めているせいだ。
瞬きを繰り返すごとに赤いまだら模様は、視界の中でゲル状に動きながらその形を変えてゆく。
勝算のある闘いでは無い。
情報をすべて搾取されてしまっている自分が不利な状況にあることなど、理子に止められる前からすでに自覚している。だがそれに加え、視界不良というこのハンデを背負っていても、コウは一切のためらいを見せずに臨戦体勢を取った。
逃げ出すわけにも、負けるわけにもいかない。何があっても。
退くことはできない理由が自分にはあるからだ。
“ 何があってもあいつを俺の物にする ”
今のコウを支えているのは決して揺らぐことの無いその秘めた強い決意だ。
身を低め、呼吸を浅くし、武蔵の一挙手一投足をその視界に収める。
この男を倒し、あいつを攫う。
そして今度こそ二度と離さない。自分の側に一生縛りつけておく──。
本能化した男の頭の中にある願望はただそれだけだ。
左瞼から流れ続けている血をジャケットの袖口で乱暴に拭い、コウが先制攻撃を仕掛ける。
息をするのも惜しむほどの速度で拳を繰り出し、相手の反撃のタイミングを完全に潰した上で放つ回し蹴りは標的を捉えた。
「つッ!」
攻撃を喰らった武蔵の口元から初めて苦痛の声が漏れる。
仕切り直した戦闘が先ほどとは違う結果となって現れ出し始めたことに、戸惑うその顔は強張っていた。
しかしコウは追撃の手を緩めない。己の瞬きすらも最小限に抑え、赤く染まる視界の中でひたすら目の前の敵を倒すことだけに集中し続ける。
空気ごと切り裂くような鋭い蹴りが武蔵の顔面に目掛けて放たれた。頬肉ごとえぐり取るようなその蹴りを、後ろに倒れこむことで直撃を免れた武蔵のパーカーにさらに泥が付着する。
「調子にのんなクソガキ!!」
左の頬に裂傷を負った武蔵が吼えた。
枯れ草の上から素早く起き上がると右の拳を固く握りしめ、コウに向かって殴りかかる。
自分に襲い掛かってきた武蔵の動きに合わせ、己の拳を相手の顔面に叩きつけようと、コウも同時に右の拳を繰り出した。だがクロスした腕はどちらも目標物を捉えきれず、両者の顔の位置がすぐ側にまで接近する。
共に譲れない信念を抱えている二人は口元から荒い息を吐き、互いの目を真正面から睨み合った。
鋭い視線が交差する中、また先に動いたのはコウだ。
すかさず左の拳を武蔵の脇腹にえぐるように叩き込み、武蔵が一瞬ひるんだ隙に素早くその右腕を捻り上げてうまく背後を取った。
華麗な締め技が決まり、武蔵の右腕の間接がギシギシとおかしな悲鳴を上げ始める。
「ぐっ……! ちょいとお前を舐めすぎたっつーことかよ!」
自分が劣勢になったことを察した武蔵は、己の分身である電脳巻尺をパーカーのポケットから素早く取り出した。
「行け!!」
回路を自動から直結に変換し、巻尺口から射出した巻尺でコウの二の腕を上空に向けて吊り上げた武蔵は、自分の右腕が折られることを間際で防ぐ。
左腕をぎっちりと締め上げるその紐を目にしたコウが、
「これは巻尺か……?」
と呟いた。
「おう! お前の大事な商売道具だ! どうせ思い出せねぇんだろうがな!」
「思い出す必要などない」
コウは巻尺を力任せにむしり取ると、無残に千切れた巻尺を地面に投げ捨てた。
自分の一部をぞんざいに扱われた武蔵が、戻ってきた本体を片手に青筋を立てて怒鳴る。
「てってめぇ! 俺様を投げ捨てるとはいい度胸じゃねぇか! コウ! てめぇなんかもう相棒じゃねぇよ!」
「俺はお前など知らない」
そう一刀両断し、コウが容赦のないハイキックを繰り出す。
「ぐあっ!」
ほぼ直撃に近いダメージが武蔵の左側頭部に入る。バランスを保てなくなった身体は崩れ、大きくふらついた。
「チックショウ……! とうとう、とうとうやりやがったなコウ!」
戦闘不能になるほどの大ダメージまでは負わなかったのに、それまで激怒の状態で戦っていた武蔵はニッと笑うと急に戦闘状態を解いた。そして二度と着用できないほどに汚れてしまったバスク・ムルのパーカーを曇天に向かって勢いよく脱ぎ捨てる。
赤いパーカーはほんの数秒間だけ空中遊泳を楽しんだ後、茶色に枯れた草の上にふわりと落ちていった。
「すげぇよ今の蹴り! 今まで俺が計測してきた維持値を完全に超えてやがるっ! やっぱお前マジになれば出来るんじゃねぇかっ! すげぇヤツだったんだよ、お前はっ!」
興奮を隠し切れないその弾んだ言葉を敗北の意思表示と捉えたコウが、「今頃命乞いか?」と蔑んだ表情と無機的な声で牽制した。
「命乞いだぁ!? 誰がそんなみっともねぇことをするかよ!」
プライドを傷つけられた武蔵が歯をむき出した。
「てめぇに素直に感嘆してるだけだっつーの! しかしよ、古今東西いつどの時代でも守るモンが出来たヤツってのはやっぱり強いんだなぁ! おいコウ、てめぇがさっき漸次さんにあんなバカな事を言い出さなかったら、俺は今頃感動でお前を抱きしめて号泣してたかもしれないぜ?」
「黙れ」
コウは吐き捨てるように会話を途切らせ、手近に生えていた大木を蹴って跳躍する。
止めの攻撃モーションに入ったコウを地面から見上げた武蔵は、傍目には分からない程度の角度で口の片端をわずかに上げた。
傍若無人な電脳巻尺は不敵に笑うと、絶対的な自信を感じさせる声で呟く。
「ほんのちょいと覚醒できた程度で急に勇ましくなりやがって。自惚れてんじゃねーよクソガキが」
上空からの鋭い蹴りが武蔵を襲う。
組んだ両腕をその軌道にかざしてその攻撃を見事にガードした武蔵は、その場で軽やかな宙返りを見せ、一旦コウから大きく離れた。そしてすぐさま追撃してきたコウを足止めするため、さきほど耳元に向かって投げつけた炸裂弾を再び浴びせる。
「逃げるつもりか?」
初めて戦闘距離を取った武蔵に、今の炸裂弾をすべて避けきったコウが冷たく言い放つ。
「バ、バッキャロー! んなわけねーだろ! だからお前ごときになんでこの俺様が逃げなきゃならねぇんだよ!?」
再び見くびられた武蔵は声を荒げ、自ら脱ぎ捨てたパーカーをスニーカーの底で八つ当たり気味に踏みにじった。
「なら二度とリコに近づけないよう叩き潰す。覚悟しろ」
「ヘッ、まさかこの俺様に覚悟しろとはよく言ったもんだな! できるもんならやってみろってんだ! おいコウ、じゃあここであの子雌についてのクイズを出すぜ? 間違えずに答えろよ!?」
「何……?」
こんな切羽詰った状況の中でいきなり理子に関する質問を出すと宣言され、武蔵の策略が読めないコウの足取りが止まる。そこへすかさず電脳巻尺からの第一問だ。
「お前、あの女の裸をまだ見たこと無いよな?」
「リコは俺の女だ。あるに決まってる」
冷淡な口調でコウは即答したが、腹を立てているかのような無駄な力がその中に混じっている。そして自分の予想に反した答えが戻ってきた武蔵は「見たことがあるだと!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「まさかもうその辺りまで繋がっちまってるのかよ!? じゃあ子雌の裸を細部まで鮮明に思い出せんのか!?」
「当たり前だ」
今回も返答が早い。
一方、木の上で幹にしがみつき、事の一部始終を見守っている理子の顔は羞恥心ですでに真っ赤だ。
コウはそんな恥じらい真っ只中の少女に一度だけ視線を送り、淡々と語った。
「さっきからずっと頭の中にある。あいつの両胸は息を呑むくらい綺麗だ」
「ほぉ……、つーことはだ、さっき子雌をそこで組み敷いて襲おうとした時からお前はずっとエロい事を妄想中だったってわけかよ? ハハッ、惚れた女からエンエンとお預けを食っている男ってのは不憫なもんだな!」
そう嘲笑はしたが、予定とは違った展開に武蔵は困ったように頭をかく。
「しかしもうそこら辺りまで記憶凝着がきちまってるとは予想外だったぜ……。じゃあこの俺様も子雌の裸を見てる事を覚えてるってことだもんなぁ」
「何だと?」
不快さを感じたコウの眦が上がる。
「リコがお前みたいなガキに裸を見せるわけがない」
「おぉ!? なんだなんだ!? そっちはまだ繋がってねぇのかよ!? ハハッ、つくづく面白い体質だなぁお前はよ!」
堪えきれなくなった武蔵が腹を抱えて笑う。
「何がおかしい……?」
「残念だったなコウ! この俺様もあいつの裸をしっかり見てるんだぜ? ま、子雌は胸は小せぇが、椀杯、柔肌、乳首、形も色も感触も、お前の言う通り確かに特級品だよな。かなりの美乳だってとこはこの俺様も認めるぜ? あぁそういえばあいつの右胸の下にはかなり薄くて気付きにくいが小さな黒子が一つあるよな。場所はちょうどこの辺りだ」
武蔵が自分の右胸の一部分を親指で指し示したその場所。
それは理子の生バストを間近でよく見た者でなければ決して知り得ることのない情報だった。
「なぜお前がそれを知っている……?」
突然言い放たれたこの暴露情報に、混乱したコウの顔から瞬く間に血の気が引いてゆく。
そしてその動揺を、勝負を決める一撃を打ち込む好機を虎視眈々と狙っていた武蔵が見逃すはずもない。
「ほらなっ、隙だらけになりやがって!」
武蔵が一気にコウの懐へと飛び込んだ。
響く鈍い音。
二つの身体は一瞬重なったかと思うと、片方だけがゆっくりと地面へ倒れ伏した。武蔵の強烈な一撃を鳩尾に喰らったコウが、声も無く前のめりに崩れ落ちた音だ。
無事にとどめを刺し終えた武蔵は「ちょろいもんだぜ」と満足そうに笑い、理子が取り残されている大木を振り返る。
「おーい子雌~! 大丈夫か~? ……お? お前なに一人で真っ赤になってんだ~?」
その野暮なツッコミに、幹にしがみついているいたいけな少女は大木の上で怒鳴り散らした。
「ああああんた達! なに二人で人の胸を勝手に語ってんのよおおーっ!!」
「しゃーねーだろ! こいつにガツンと一発いいのをくれてやるには隙を作らせなきゃなんねーんだからよ!」
「だっだからってなんであたしの胸の話なんか出してくんのよー!! 他にもなんか話題はあるでしょーが!!」
「ったく、これだから生娘は困るぜ! 男のガードを甘くするにはな、好きな女に関するシモネタが一番最適なんだよ!」
「そんなこと知らないわよーっ!」
「知らねーなら覚えとけ! 今度の試験に出るかもしれねーぞ?」
「そんな下らないことが出るわけないじゃないのーっ!!」
「しっかし相変わらずぎゃーぎゃーとうるせー女だなぁお前さんはよ!」
不貞腐れたような顔で武蔵が近づいてくる。
「箸が転がっても爆笑したくなる年頃とはいえ、もう少ししとやかさを覚えろっつーの! ヤマトナデシコっていうこの国のありがたい言葉を知らねぇのかお前は!」
そう言うと武蔵はあっという間に大木によじ登り、上にいた理子をひょいと抱え上げて地面に飛び降りる。
「ほらよ。お疲れさん」
地面に下ろされた理子はすぐにコウの元へと駆け寄った。
「コウ! コウ! しっかりしてよっ!」
返事をしないコウを仰向けにし、頭を膝の上に乗せる。
コートのポケットからハンカチを急いで取り出し、先ほど自分を庇ったせいで負った、左の瞼から流れている血をそっと拭った。
後を追ってきた武蔵がコウを見下ろし、独り言のような口調で理子に話しかける。
「ちょいとだけ隙を作らせようとお前を使って揺さぶりをかけてみたが、コウがあそこまで動揺するとは思わなかったぜ。自分だけしか知らないと思っていたのに俺がお前の裸を見ていたってことがコイツにはよっぽどショックだったっつーことだよなぁ。笑えるよな、なぁ子雌?」
「しっ知らないっ!!」
赤面した理子はほんの少しだけ涙目でプイと横を向いた。
しかし膝に抱えたコウの頭からは決して手を離していない。むしろ先ほどよりもしっかりと抱え込んでいる。まるで誰にも触らせまいとするかのような抱え方だ。
武蔵も理子のその行動にはとっくに気付いているが、敢えて黙っている。どうやら気付いていないのは当の本人だけのようであった。