Come on! my house! <1>
水砂丘高校、昼休み直前。
机に頬杖をつき、理子は窓の外を呆けた表情で見ていた。
その右肩を軽く叩かれたのは授業終了のチャイムが鳴る三十秒前のことだ。
「私の授業はそんなにつまらないですか? 久住さん」
頬杖をついていた手を外し、慌てて右上を見上げる。するとそこには社会科担当の男性教師、桐生元の憂い顔があった。
「授業が始まってからずっとそうやって窓の外を見てましたよね……」
桐生はかけていた眼鏡を中指でクイと押し上げた後、今度はその指でコツコツと理子の机をリズム良く叩き始める。
「す、すみません!」
両肩を竦め、これ以上ないくらいにまで小さくなる。まるでエアーが完璧に抜けた着ぐるみのようだ。
理子の謝罪に桐生はハァと溜息をつく。
まだ若干二十五歳、涼しげな中に知的なマスクを持つ正統派の桐生は、綺羅星の如く女生徒の人気をその身に一身に集めている教師だ。
一ヶ月前に前任の教師が健康を害し、その後任として桐生がこの高校に赴任してきた時、素敵な先生だなぁと理子も思ったことがあった。だが、真央を始めとして周りに恋敵があまりに多く、その段違いな競争率の高さに、好きというよりは漠然と憧れている状態だった。……そう、昨日までは。
授業終了の合図である救いの鐘の音が鳴り始めたのでようやくコツコツという音が止まる。
「じゃあ時間になったことですし、今回は特別に大目にみましょう。ただし、あれを社会科準備室に戻しておくこと。いいですね?」
教壇の横にあるA4倍世界地図が入った大きな筒を桐生は指差す。
「は~い……」
「ではお願いします」
桐生が教室を出て行くと真央がくすくすと笑いながら理子の机にまでやってきた。
「理子ってばせっかくの桐生先生の授業もそっちのけでずーっと外見てたんだ?」
「う、うん」
「もしかして昨日のあの男の人の事考えてたの?」
「……ッ!」
途端にガシャン、という耳障りな音がした。図星を突かれ、ギクリとした拍子に筆箱を落としてしまったのだ。だがすでに教室内は昼の準備に向けてざわめき出していたので特に目立つことはなかった。
「あ、拾ってあげる」
真央が散らばった筆記用具を拾い集める。
「わぁ、これ初めて見た! カワイイ! 隣の雑貨屋さんで買ったの?」
昨日コウに買ってもらったヒヨコペンが真央の手の中でまた目を回している。
「そ、そう」
「ねぇ理子。昨日は結局帰りにいなかったんでしょ? あの赤い髪の人」
真央がまた話題をコウに戻してきたので理子は急いで椅子から立ち上がった。昨日の帰りに会ったことはもちろん、今朝公園で話をしたことも全部内緒にしているのだ。
理由はもちろん、コウが理子にしてきたあの忌まわしき衝撃行為(胸タッチ)を話せないからである。
「ご、ごめん、真央! あれを準備室に戻してくるっ!」
「あ、じゃあ私も一緒に行こうか?」
「ううんいいよ。走って行ってくるから!」
「あ、それなら私は待ってた方が早いよね。行ってらっしゃい」
「うん、すぐに戻ってくるからお昼の準備してて!」
そう真央に伝えると理子は教壇に歩み寄った。そして黒板の右端に立てかけてあった特大地図が入った筒をうんしょ、と持ち上げる。
「重っ……!」
さすが縦横どちらも一メートルを越す巨大地図が入っているだけのことはある。筒の縦の長さなどは理子の背とほぼ変わらない。
抱えるというよりはしがみつくような持ち方で教室のある四階から三階の社会科準備室に向けての長い旅がいざスタートする……はずだった。
ちょっぴりズルをしてほんの少しだけ筒の底をズリズリと引きずりながら廊下を進んでいた時、とんでもない光景が廊下の窓から視界に飛び込んできた。
まさか、と思いながらも急いで窓枠に駆け寄る。
窓ガラスを開け、落ちないように気をつけながら身を乗り出してみると、なんと一つ下の三階の渡り廊下を赤い髪が悠々と移動中。それは呆れるほどにナチュラルで、感心するほど堂々としていた。
( ―― なっ、何やってんのよ、あの男はっ!!)
学内に不審者が侵入した、と誰かが教師に告げにいっては一大事だ。
その場に特大筒を放置すると、理子は三階の渡り廊下目指して走り出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
下へと続く階段を飛ぶように駆け降りる。
( ―― 何しに来たの、アイツ! 勝手に胸触った事はまだ許してないんだからね!)
確かにコウは一応「失礼します」とは断ってきたが、こっちが許可していなかったのだからあれでは了承を得た事にはならない。
三階に着くと真っ直ぐに渡り廊下に向かって走る。
幸いなことに、教師だけではなく、生徒も見あたらない。今は昼休みに入ったばかりで各自教室で昼食にしているからだろう。しかし三階の端には職員室がある。教師と鉢合わせしていないことを祈るのみだ。さらにスピードを上げて渡り廊下への最後のコーナーを曲がる。
「あっリコさん!」
ちょうど廊下を渡りきってきたコウが理子を見て嬉しそうに名を呼ぶ。
全力を使い切った理子はハァハァと息を切らせながら叫んだ。
「コッ、コウ! あっ、あんた、何してんのよ、こんな所でっ!」
「はい、リコさんに会いにきました」
なんとも潔い返事だ。その飾り気の無い素朴さが、逆に乙女のハートに直に響く。
しかし今はそんな事を言っている場合ではない。
「どっどうやって校内に入ったのよ!? 正門の側には守衛室があるのに!」
「正門からは入りませんでしたから」
「じゃあどこから!?」
「南側の大きな建物の裏からです」
「みっ、南側って、まさか体育館の裏!? だ、だってあそこにはフェンスが……」
水砂丘高校の体育館側には高いフェンスがそびえているのだ。
「乗り越えました」
とコウは事も無げに軽く言う。
それが本当だとしたらなんて身が軽いんだろうと思いつつ、理子はコウの顔をビシッと指差す。穏やかな笑みの相手に向かって激怒するのはあまりいい気持ちがしないが、いたしかたない
。
「コウ! 言っとくけど私はまだ朝の事を許してないからね!?」
コウは軽く目を伏せた。
「済みません……。どうしても僕の作るブラをリコさんに着けてもらいたくて……」
「だ、だからいいって断ったでしょ!?」
「リコさん……僕の腕が信用できないのでしょうか?」
喉元に手を当て、真顔で尋ねてくるコウ。
「違ーう!! そうじゃなくて! コウの腕が信用出来ないとかいうんじゃなくて、だ、だから、つまり、はっ、恥ずかしいの!」
「リコさん、どうか恥ずかしがらないで下さい。僕は貴女にピッタリのブラを差し上げたいだけなんです。決してリコさんの胸が見たいからとかそんな邪な気持ちで言っているわけではありません」
「だ、だからそれは分かってるけど……」
「でしたら是非。ジャストフィットするブラをつけることは身体にもとてもいいことなんです。合わないブラをつけているとバストの形も悪くなりますし、肌が赤く腫れたり肩こりがおきることもあります。本来ならバストにつくべき部分が他の部分に流れて、メリハリの無い体型になってしまいますよ?」
最後の言葉が思い切り引っかかった理子は、どうせ私はメリハリの無い凹凸少なめ体型よっ! と内心で愚痴る。
コウの言っていることは確かに正論かもしれないが、男性に面と向かってそんな事を言われるとなんだか凹んでしまう。しかし熱弁をふるったコウは一歩も引く構えを見せない。このままではバストをコウに見せることになってしまいそうだ。なんとか上手く断ってここから追い出さねばならない。
そう考えた矢先、廊下の先から広部の大声が聞こえてきた。
「……しかし藤野先生、あの桐生先生はどうにかなりませんかね!? 俺はあの先生と話す度に頭の血管が毎回ぶちぶちと切れているような気がしますよ!」
「はっはっはっ、広部先生、また桐生先生と揉めたんですか? あなたたちは水と油のように離反する関係ですからなぁ」
「あの妙にえらぶった態度が気に食わないんです! この間も廊下を走っていた女生徒を俺が叱っていたら、桐生先生がスッと現れて、『もうそれぐらいでよろしいではありませんか。いつもそう大声で生徒達を怒鳴るばかりでは少々能が無いのでは?』なんて、逆に俺に説教かましてきやがってですね……」
このままだと鉢合わせだ。
「コ、コウ! ちょっとこっちに来て!」
理子はコウの手を取り、一番手近な社会科準備室に飛び込む。
「あのリコさん……」
「シッ! ちょっと静かにして!」
やがて二人の教師の話し声がすぐ近くまで聞こえてくる。今コウが通ってきた渡り廊下の先には職員室がある。だからこの廊下は教師がよく通るコースなのだ。
まったくよくここまで誰にも見つからないで来れたものだと理子はコウの運の強さに感心する。
すると広部達が歩いて来た反対側からも教師がやってきて、最悪な事に理子達が隠れている部屋の前で立ち話が始まったようだ。
「これは藤野先生に広部先生。今日はどちらでお昼になさるんですか?」
「あぁ桐生先生。私達は裏の天宝飯店に行くところですが、よろしければ先生もご一緒にどうですか?」
「ふっ、藤野先生!」
広部の慌てた声が聞こえてくる。
「いいじゃありませんか、昼は大勢で食べたほうが美味しいですよ」
「でっ、ですが……!」
どうやら立ち話は長くなりそうだ。
「……どうしよう、出られなくなっちゃった……」
理子はポツリと呟いた。
「どうしてですか?」
と頭上から暢気な問い。小声で叱り飛ばす。
「何言ってんのっ。コウが見つかったらタイヘンなことになるでしょっ」
「僕がこの建物に入るのはいけないのですか?」
「あたりまえでしょっ。部外者が校内に入ってるのが分かったら大騒ぎになるわよっ。だから先生方がいなくなるまでここでやり過ごさなくっちゃいけないのっ。もっと自分の立場を考えなさいよ、まったくっ」
それを聞いたコウは小さく身じろぎをし、次に発せられた言葉には深い感動の響きが混じっていた。
「リコさん……」
「なに?」
「……じゃあリコさんは僕の身を案じてこうして必死に庇って下さっているんですね……?」
「へ?」
身をよける暇も無かった。
制服がほんのわずかだけ、くしゃり、と小さな悲鳴を上げる。
そしてあっという間に包み込まれていた。マスカットの香りと、コウの腕の中に。