ごめん 嘘をついた 【 2 】
「さぁ来いリコ」
場の主導権は “ 欲望に忠実な本能全開男 ” がすでに完全掌握している。現時点で逃げる術は恐らく無い。
「待っ…!」
身を固くする理子の背中に素早く手が回される。すぐさま身体を引き寄せられ、なし崩し的に抱きしめられた。
「ひゃぁぁぁっっ!?」
片側の頬だけが温かい。
コウが理子の頬に自分の頬を強引に押し付けてきたせいだ。自分と理子の体温の差を肌で実感したコウは、更に強く頬を押し当て、理子を暖めようとする。
「……身体冷えきってんな。さぁ行くぞ」
甘酒の香りに加え、早朝の公園で初めて会った時と同じ、マスカットの香りが理子の鼻腔をくすぐる。
「いいいいっ、行くってどこへよっ!?」
「邪魔が入らずお前とゆっくりヤれる所に決まってんだろ」
「ふぁっ!?」
今度は背筋に沿って中心をさわさわと撫でられる。これはもう一刻の猶予も無さそうだ。
「もっもうーっ!! だからなんで最後は必ずそこへ行きついちゃうのよーっ!! お酒飲んだ後のあんたの頭の中はそれしかないのっ!? コウのバカッ! エッチ! スケベ! もう知らないっっ!!」
そう叫んだ後でいつも同じフレーズでしかこの男を罵倒していないことに気付く。メリハリをつけるためにももう少しバリエーションを増やしたいところだが、元々ボキャブラリーが少ないのだから今はどうしようもない。そんなことよりも今はまず脱出だ。
「離してってば!!」
理子は必死にもがき、抱きしめられていた腕の中からなんとか逃げ出すことに成功した。コウの首元に綺麗に巻きつけられていたチェックのマフラーがその弾みで形が崩れる。
「待てよ」
マフラーを素早く肩にかけ直し、コウは背後から絡め取るように再び理子に抱きつく。
「どっ、どこ触ってんのよっ!?」
今度は腰の位置にまでしっかりと手が回されているので身動きがほとんどできない。
「……急に優しくしたかと思ったら今度はまた突き放しか?」
コウはその完全密着した体勢で理子の耳元にまで口を寄せ、低い声で囁く。
「お前が嫌がる事はしたくないが、こうやって何度も焦らされるのもそろそろ限界だ。今日こそ絶対にお前とヤるぞ。いい加減に観念しろ」
「ダ、ダメだってば!!」
どうしても頑なな態度を崩さない理子に、「なぜだ?」とコウが問う。
決して声を荒げているわけではないが、苛立っている事ははっきりと分かる。
「ダメったらダメなの!!」
「じゃあ俺はどうすればお前とヤれるんだ?」
「だっ、だからそうやってヤルヤルばっかり言わないでよっ! ムードもなにもあったもんじゃないじゃない!」
「じゃあムードを出せばヤらせてくれるのか?」
「何言ってんのよ! 今のあんたなら百年経ったってそんなのムリに決まってんじゃっ…きゃあああぁっ!?」
ドサリという音が雑木林に響いた。
乱暴に地面に組み伏せられ、その余波で周囲の枯葉が数センチ浮き上がる。
「やだやだ! 離してよっ!!」
大声で叫び正面を見上げると、自分を上からじっと見つめているコウと、その余白に曇天の一部が見えた。
「……分かった。もう降参だ。俺の負けでいい」
「エ…?」
「リコ、俺はお前が好きだ。お前以外の女は考えられない」
コウは地面に投げ出されている理子の手に自分の指をしっかりと絡め、覆うように力強く握りしめる。
「俺はお前を諦める事は絶対にできない。どうやっても、何があっても、諦められない」
絡められた指にさらに力が込められるのが分かった。触れているコウの手のひらは、暖かい、というよりは熱いくらいだ。
「だから俺の物になってくれ。頼む」
すぐ真上にある赤く染まった二つの瞳。
自分に向けられたその視線は痛いほどに真っ直ぐで、目を逸らすことが出来なかった。そのあまりにも真剣な様子に、思わず情にほだされて「いいよ」と言ってしまいそうになる。だがこの状況でOKしてしまえば、このままどこか別の場所へとさらわれて間違いなく本日中に自分の全てを奪い取られてしまうだろう。
「ま、待ってコウ! お願い、私の話も聞いてよ! 私ね…」
奪い取られるのはいい。
だがそれはいつものコウ、自分の知っているコウとでの話だ。それを伝えなければならない。
「嫌だ、聞きたくない! お前の顔を見たら何が言いたいかくらい分かる!」
コウが初めて声を荒げる。
しかし理子の言葉を遮った直後、叩きつけるような激しい雨音が急に勢いを弱めて音を無くした時のように、コウの声に影が落ちた。
「……リコ、そんなに俺が嫌か……?」
落胆しているのは声だけではなかった。
真剣な表情の中にも同じ色が滲み、赤く染まる瞳が所在無げにゆらゆらと揺らいでいる。
数日前の深夜、ベッドの上で拒絶したあの時と同じだ、と下から見上げている理子は思った。
何もかもあの時と同じだった。
泣き出したいのを必死に堪えているような、そして何かに脅え、助けを求めて必死にすがりつくような顔。そんなコウがたまらなく不憫に感じ、
「い、嫌じゃないよっ!?」
と思わず答える。
「……本当か?」
かけられたその言葉でコウの表情はゆっくりと変わり、わずかに明るい色が差す。
「うん、嫌じゃない、嫌じゃないよっ! でもね、今はそういう事はできないから……ひゃあぁっ!?」
いきなり覆いかぶさってきたコウに驚き、両腕で必死に押し返す。
「なっ、何すんのよ! あんたまさかこんなところでっ!?」
「あぁ。もう待てない。ここでヤることにする」
── さすが遠慮の無い男である。情にほだされればいきなりこれだ。
「ここで!? ちょっ何考えてんのよあんたー!! 人の目があるでしょー! 正気に戻れバカー!!」
「俺のことを嫌いじゃないなら問題はないはずだ。おとなしく受け入れろ」
「やっ……!」
強引に唇を奪われる。
相変わらずのその巧みさに、必死に抵抗していた力が弱まってしまった。
キスの後、コウの唇が這う感触と熱い吐息を首筋に感じた理子は、枯葉の上で大きく身をよじらせる。
「ひゃあん!! 止めて止めてーっ! それくすぐったぁーい!」
恥じらいながらそう叫んだ次の瞬間、何かが鋭く爆ぜるような微音がコウの側頭部付近で鳴った。その直後、理子の上にかかっていた圧力が一気に消える。
拘束から解かれ、身体の自由が戻った理子は急いで身を起こした。
── コウの姿が見えない。
キョロキョロと周囲を見渡すと、コウは少し離れた場所で雑木林のある一点を険しい表情で見つめている。
「誰だ……?」
数ある大木の一つに向かい、片耳に手を当てたコウが敵意のこもった声で呼びかける。
するとそれに応えるかのように、大木の幹の後ろに潜んでいた少年がニヤニヤと笑いながらその姿を現した。ワイルドに伸ばした跳ねた黒い長髪に、赤いパーカーを無造作に羽織った勝気な顔の少年だ。
「おいおい、こんなクソ寒い季節に青〇ンおっぱじめる気かよ!? 最近の若者は大胆なこったな!」
少年は明らかにバカにしたような見下げた口調で手中の弾を弄んでいる。今の爆ぜるような音は、手にしているその一つを少年がコウに投げつけたためのようだ。
しかも少年は “ 最近の若者 ”と言う言葉を使ったが、どう見ても少年の方が理子よりも若い。弟の拓斗と身長も年齢も同じぐらいに見える。
跳ねた長髪の少年は唖然として座り込んでいる理子に素早く近寄った。
「ようお疲れさん。相変わらず襲われてんなぁ」
「そいつは俺の女だ。近づくな」
コウが怒りを露にする。
燃えるような瞳で睨みつけられ、威嚇された少年が口を尖らせた。
「なんだコウ、俺のことが分かんねぇのかよ? ヘッ冷たいもんだな! ま、そんなことよりも今はなんでお前がまた本能化しちまってんのか、俺はそっちの方が断然興味あるけどよ!」
( この人、コウのことをよく知っているみたい…… )
ということは、この少年もコウと同じで、未来から来た人間だということになる。
「ね、ねぇ、あなたも未来から来た人なの……?」
少年の背に向かってそう尋ねると、
「あぁー!? なんだよ、お前もまだ俺のことが分かんねぇのかよ!?」
肩越しに振り返った少年は忌々しそうに顔を歪め、舌打ちをした。
「……まぁいい。まずはお前を助けることの方が先決のようだしな。ちょっくらコウの奴をおとなしくさせてくるから、そこから一歩も動くんじゃねぇぞ。分かったな子雌?」
「こ、こめす……?」
自分に向かってそんなふざけた呼び方をするのは理子の知っている限り一人、いや、あの子憎たらしい一台だけだ。理子はコウの元へと近づいてゆく少年の背に向かって叫ぶ。
「 あ、あんた、もしかして武蔵なのぉーっ!? 」