Sweet fish ! ⇒ Sweet drink !? <17>
疾走する身体の表面を寒風が滑るように流れてゆく。
喉元に赤い痣をくっきりとつけた天然男は、驚くべき速さで理子のいる場所へと移動を続けていた。
気ばかり急いてどうしようもない。
スピードを上げる余地はまだあるが、これ以上加速すると不必要な周囲の注目を浴びてしまうことになる。もどかしさが募るばかりだ。
しかしシュウに教えられたポイントまであとわずかという場所で、コウはピタリと走るのを止めてしまった。道端にうずくまる老婆の姿が視界の端に入ったためだ。近所にある 『 たい焼き一石庵 』 で売り子として店を切り盛りしている元気な老婆にどことなく似ていたため、余計に放っておけなかった。
「あの、どうかなさいましたか?」
座り込んでいる老婆に声をかける。
すると老婆はコウを見て少し驚いたような顔をした。
「えらい派手な頭のお兄ちゃんだねぇ! ……おや、あんた、ここが赤くなってるけどどうしたんだい?」
コウはハッとした表情をすると素早く喉元に手を当て、シュウに締め上げられた跡を隠す。
「い、いえ……、これはなんでもありません。それよりこんなところに座り込んで具合でも悪いのですか?」
「いやいや違うさ」
背の曲がった老婆は皺の数を増やして微笑むと、自分の隣にある大きくて重そうな袋を指さす。
「これを店にまで運んでいる途中だったんだが、手が痺れちまったんで少し休んでいただけだよ」
道端の石に腰を掛け、のんびりとした声で答えた老婆の姿がコウの目には実際以上に小さく見えた。
「あの、良かったらお持ちしましょうか…?」
早くリコさんに逢いたい、その気持ちの強さはまったく変わらなかったが、気付くと老婆を気遣う言葉が自然と口をついて出ていた。
「本当かい? ありがたいねぇ」
老婆は嬉しそうな声で答えると、拝むポーズを見せる。
「なむなむ」と呟きながら両手を合わせてペコリとお辞儀をする様子がとても可愛らしく見え、その小さな姿に癒されたコウの口元が緩んだ。
「じゃあ行きましょうか。お店はあちらの方向ですね?」
「よっこらしょっと……、すまないねぇ、お兄ちゃんもどこかへ行く途中だったんだろ?」
「いえ、僕の用事も同じ方向なので気にしないで下さい」
コウは軽々と袋を抱えると、再び歩き出した老婆の後をついてゆく。
「はいはい、ここだよ。ご苦労さん」
重い袋の配達先は老婆が営んでいる屋台だった。
ビニールで出来た軒先には “ おいしいよ~! べりーぐっどー! ” と少々癖のある楷書体で書かれた半紙がぶら下げられている。
「ありがとうなぁ、お兄ちゃん。大したお礼はできないけど、良かったらこれを飲んでおいき」
湯気を立てている白い液体が、大きな鍋からひしゃくで紙コップに注がれてゆく。老婆から紙コップを受け取ったコウは、軒先で揺れている紙の一枚に視線を移した。
「これ、 “ すいーと・どりんく ” っていう飲み物なんですか?」
そう尋ねると老婆は誇らしげに胸を張る。
「小学生の孫が最近えーごを習いだしてねぇ、それで甘い飲み物をえーごで何て言うのかを聞いたら “ すいーと・どりんく ” って言うって教えてくれたんだ。近頃は外国の人もたくさん来るからね、その人達にも分かるようにえーごで書いてみようと思ったのさ。さぁさぁ、飲んでみてごらん」
「は、はい、いただきます」
早く理子に逢いに行きたいコウは、紙コップに注がれたその熱い飲み物を息を吹きかけて冷ましながら急いで飲み干した。そして飲み終えると目を見開き、素直な感想を述べる。
「これ、すごく美味しいですね!」
身体の中心がじんわりと温まってくるような感触に思わず頬が緩む。初めて体験したその味は、慈愛のこもった優しい甘さに溢れていた。
「そりゃあそうさ、わっちが作った自慢の品だからね。ほれ、よかったらもっとお飲み」
「ありがとうございます!」
不思議と懐かしさを覚えるようなその飲み物は、サラリとしたほのかな甘みを口中に伝えながら喉の奥に消えてゆく。そして二杯、三杯と飲み続けるにつれ、身体の芯が次第に熱くなり始めてきた。いつのまにか風の冷たさも感じなくなってきている。
「美味しい飲み物をありがとうございました。僕、人と待ち合わせしているのでもう行きますね」
白濁とした甘い飲み物を心から堪能したコウは、老婆にあらためてお礼を告げた。
「本当に助かったよ。お兄ちゃんは旅行でここに来ているのかい?」
「え? は、はい。そんな感じです」
「また来る事があったら顔を出しなさいよ。ご馳走するから」
「ありがとうございます。では失礼します」
「気をつけてな、お兄ちゃん」
「はいっ」
コウがその屋台から走り去ると、老婆の隣にたこ焼きの屋台を出し、今までの成り行きの一部始終をずっと見ていた売り子の男が感心したような大声を出す。
「今の兄ちゃん、いい飲みっぷりだったなぁ! 婆さんのその甘酒がよっぽど気に入ったんだなっ!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
( コウ、まだかな…… )
時の流れがとても遅く感じる。
シロナが去り、そわそわとコウの到着を待ち続ける理子の元に、待ち人の声がようやく届いた。
……が、それはなぜか頭上から聞こえてくる。
「こんなところにいやがったか」
「エ!?」
驚いて上を見上げる。するといつの間にそこに登ったのか、大木の枝の上でコウが仁王立ちをしていた。そして立っていた枝を蹴ると空中で綺麗な一回転を決め、理子の目の前に見事な着地を見せる。
しかし着地した次の瞬間、その身体は真横にフラリと大きく傾いた。
「コウ!?」
だがコウは何とか倒れずにその場に踏み止まると、素早く獲物に近づき、その左肩をがしりと掴む。
「ったく毎度毎度手間かけさせやがって……。どれだけ俺を焦らせれば気が済むんだお前は」
「ハ!? ……え、何っ!? お酒くさっっ!!」
ほのかに漂う甘酒の香りに、思わず理子はコウの手を振り解いて飛び退った。そして距離を取ったことによって、コウの瞳が赤く染まりだしている事にもこの時点でようやく気が付く。
「ま、まさかあんたお酒飲んでるわけじゃないでしょうねっ!?」
「酒なんか飲んでねぇよ。飲んだのはさっき屋台の婆さんがくれた、……何て名前だったけな……、あぁ思い出した、“ すいーと・どりんく ” ってヤツだけだ」
「スイート・ドリンク!? 何よそれ!?」
「何だ知らないのかよ」
コウは片側の唇の端を上げ、ニヤリと笑う。
「熱くて白くて甘くてすっげぇ旨い飲み物だったぜ?」
「この匂い……! それってもしかして甘酒じゃないのっ!?」
「だから “ すいーと・どりんく ” だって言ってんだろうが。分かんねぇ女だな」
コウは上半身をふらつかせながら前髪を邪魔臭そうにかきあげる。そしてかきあげたその手で今度は理子を正面から指さした。
「おいそれよりリコ、今日こそ最後までヤラせてもらうからな、覚悟しろよ?」
「えええええええええええええ────!?」
── 万事休す。
コウの前で素直になれるように努力しながら甘いムードに浸るつもりが、ここでまさかの急転直下だ。
ふらつく足取りでコウが近づいてくる。
助けを求めるために慌てて周囲を見渡したが最悪な事に人気は皆無に近い。そして目の前にはなぜかアルコールを摂取し、すでに本能全開モードに入っている男が赤い瞳をギラつかせて立ち塞がろうとしている。
先ほど急遽作った重要キャッチフレーズ、『 好きと言う前にまず夜這いの誤解を正そう! 』もこうなっては全く意味が無い。
どうやら今の理子にとっては夜這いの誤解を解く前に、まず自分の貞操を守ることの方が先決のようであった。