Sweet fish ! ⇒ Sweet drink !? <9>
今にも両の瞼が勝手に閉じてしまいそうだ。
しかしここで目をつぶるわけにはいかない。瞼の持ち主である理子としては必死に抵抗を続けるが、少しでも気を抜くとそれはまたすぐに勝手に降りてこようとする。
本体の意思に逆らい、暴走しようとする瞼。……つまり今の理子は完全なる “ 睡眠不足状態 ” であった。
「理子、何だか眠そうね。もしかして昨日夜更かししちゃった?」
理子を心配した真央が近寄ってくる。
教室内の椅子に座っていた理子は右目を軽くこすり、「うん。昨日なかなか寝付けなかったの」とだけ答えた。
「ふふっ、そんなに修学旅行が楽しみなの? それとも昨日コウさんと会って何かいいことでもあった?」
コウの名が出てきたので理子の表情が硬直する。
「あ~っやっぱりコウさんなんだ!? 昨日、おいでって言われてコウさんの家に遊びに行ったんでしょ? 理子ってばだからあんなに急いで帰ってたものね!」
理子は無言で視線を机に落とした。
昨日寝室で見たあの光景が鮮やかに蘇り、悔しさと悲しさで無意識に両手を強く握りしめる。昨夜はあのショックでなかなか眠れなかったため、瞼という名のシャッターが先ほどから強引に降りてこようとしているのだ。
「ね、理子っ」
騒がしい教室の中で黙り込む理子を見た真央は、無邪気な思い違いをしたようだ。くるりと周囲を見渡した後、理子の耳元に顔を寄せ、そっと尋ねる。
「……昨日コウさんとエッチしちゃった?」
「えぇっ!? ななっなに言ってるのよ真央ッ!?」
まるで痙攣でも起こしたかのように身体が反応し、座っていた椅子の脚がわずかに後ろにずれる。
真央は何も知らないとはいえ、傷心中の少女にとって今の質問はあまりにも酷であった。忘れ去りたいあの現実を吹き飛ばしたい理子は、椅子をけたたましく鳴らしてスクッと立ち上がると大声で叫ぶ。
「だれがあんな奴とエッチなんかするもんですかああーっ!!」
当然といえば当然なのだが、この爆弾発言の直後、騒がしかった教室がピタリと静かになる。
「あ」
やってしまった。
自分のしでかした行為に気付いた理子は、身を縮ませて急いで椅子に腰を落とす。すると今度は椅子ではなく、目の前の机がガタンと大きな音を立てて一度だけ揺れた。
「おい、今のどういう意味だよ」
赤面している顔を上げると、どこから現れたのか、机の上にどっかりと腰を下ろした蓮が理子を無表情で見下ろしている。
「さっ、笹木!?」
「お前、昨日誰かとヤッたわけ?」
「なんなのよあんたいきなり!?」
「いいから質問に答えろ」
黄金色の髪が朝日に反射して光る。机の上で脚を組み、蓮は理子の頭上から更に質問をかぶせた。
「お前は昨日ヤッたのか、ヤッてないのか。ヤッたのなら相手は誰なのか、速やかに白状しろ」
眉間の間を人差し指で指される。
まるでこれでは尋問だ。尊大な態度だけでなく、その口調までも完全に上から目線である。
「だっ、だからなんでそんなことをあんたに言わなきゃなんないのよっ!? 頭おかしいんじゃないの!?」
しかし理子の反論に蓮は一切耳を貸そうとはしない。
「ヤッた相手はコウって奴か?」
驚いて返事が出来なかった理子に、蓮が冷たい声で更に問う。
「図星か……。そいつ、誰なんだ? お前のなんなんだ?」
「だだだから何度も言ってるでしょ! あんたには全然カンケーないじゃん!」
「あれっ、このクラスはまだ移動してないんだ?」
教室の戸口が突然開き、真新しいスーツに身を包んだ桐生が顔を出した。
「もうすぐ出発だから全員グラウンドに行きなさい。バスもそろそろ来るよ」
「あっ桐生先生ーっ!」
瞳を輝かせ、恋する乙女モードに入った真央が胸の前で手を合わす。
「ほらほら皆急いで。このクラスだけ置いてかれちゃっても知らないよ?」
桐生は教室内にたむろしている生徒達に移動を促し、生徒達の何人かは 、「ふぁぁーい」「わっかりましたぁ」などと気の抜けたダルそうな返事をし、大きな荷物を手に皆それぞれ教室を後にする。
「こら笹木、机の上に座っちゃダメだぞ」
桐生が蓮に向かって、机から降りるようにと軽く左手を振って促す。
注意をされた蓮は渋々といった様子で腰掛けていた机の上から降り、そのまま教室の外へと出ようとした。すると戸口にいた桐生が昨日と全く同じように自分の横をすり抜けて行こうとする蓮の頭をポンと叩く。
「さ、早く行きなさい」
「……」
それに対し、蓮も昨日と同様に胡散臭そうな目で桐生を見上げ、無言で立ち去ってゆく。
蓮が立ち去ると、桐生はまだ教室に残っていた理子と真央にも声をかけた。
「ほらそこの二人。久住さんと井関さんも早くグラウンドに行きなさい」
「はぁーいっ」
これ以上ないくらいの可愛らしい声で真央が返事をする。素直な返事が返ってきたためか、桐生は口元に軽く笑みを浮かべると身を翻して教室を出て行った。
「やぁーんっ、桐生先生が笑ってくれたー!」
軽く笑いかけられただけなのに真央は一人でハイテンションになっている。しかし只今どん底MAX中の理子はそのノリについていけない。
「どーしたの理子?」
真央はどこか元気の無い理子に気付くと心配そうな表情を浮かべる。
「うぅん、なんでもない! 行こっ、真央」
理子は素早く椅子から立ち上がる。
するとここで突然真央が予想もしていなかったことを言い出す。
「ねっ理子。もしかしたらだけど、笹木君って理子の事が好きなのかもしれないね!」
「はぁーっ!? なんで笹木が私のことを好きなのよ!?」
理子のあまりの剣幕に、おっとりとした真央も「だ、だって」と一瞬怯んだ表情になる。
「さっきコウさんの名前出した時の笹木君の顔、なんだか怖かったんだもん。まるでコウさんに嫉妬しているみたいだったわ」
「そんなことありえるわけないでしょっ! あいつはね、単に私を都合のいい奴隷か手下みたいに思ってるだけよっ! もうっ、ヘンな事言い出さないでよ真央!」
「でっ、でも、さっきの笹木君の態度を見ていたら、何となくそんな感じを受けたんだもん」
「違う! 絶対に違うってば!」
「そうかなぁ……。もしかしたら理子にモテ期が来たのかもしれないよ? でも今の理子にはコウさんがいるから関係ないよねっ」
ここが最終の限界ラインだった。
理子はできるだけ普通の表情を保つように必死に努力しながら早口で頼む。
「真央、今コウの話題出さないで」
「エ? コウさんと何かあったの?」
「ごめん。今は本気でキツいから。早く行こっ」
荷物を持ち、理子は先に教室を出る。すると去っていったと思っていた桐生がまだ扉口の側に待機していた。そして教室を出ようとした理子ににこやかな顔で話しかけてくる。
「久住さん、彼氏とケンカでもしちゃったのかな?」
どうやら今の会話は聞こえてしまったようだ。
理子は桐生の眼鏡の奥にある柔和な瞳に一瞬だけ視線を向けると、沈んだ声で「いえ違います」とだけ返答し、顔を伏せてその場から走り去っていった。
「あん、待ってよ理子~!」
桐生に向かってペコリとお辞儀をした後、真央も廊下を駆け出してゆく。
その二人を見送った後、桐生は振り向かないままで背後にいる人物に話しかけた。
「そんな所に隠れて何をなさってるんですか?」
「……気付いてたのかよ」
警報装置の影にいた人物が出てくる。身をひねり、廊下に出てきた広部を肉眼で確認すると、桐生はその根拠を伝えた。
「だって背後で不穏な気配がしまくりでしたから」
「そ、そうか?」
そう指摘された広部はばつが悪そうに顎を撫でる。
「広部先生はあの久住理子が気になっているみたいですね。僕はまだここに来てまもないからよく分からないのですが、この学校って教師と生徒の恋愛はOKでしたっけ?」
「知らねぇよ」
広部が素っ気無く言い放つ。
「でもあの子、彼氏いるみたいですよ?」
「うるせぇな、そんなことはとっくに知ってる。そいつが校門前に来ているのを昨日見かけたしな。それにあんたには何も関係ない事だろう? ほっといてくれ」
「確かにそうですね。ではお先に」
桐生はあっさりと肯定すると、広部の横を音も無く通り抜けてグラウンドへと向かってゆく。去りゆくその背を追いかけたのは校舎の壁を強く殴打した音だ。
桐生の後姿を睨みつけ、壁を殴りつけた拳を再度握りしめた広部は、
「久住があいつと喧嘩? チッ、一体何がどうなってやがんだ」
と苛立ちのこもった声で忌々しそうに呟いた。