Sweet fish ! ⇒ Sweet drink !? <7>
「……ねぇ、夜中どこに行ってたの?」
しばらく黙り込んだ後、シロナは久住家の玄関先に熱い視線を送る青年にポツリと尋ねた。
「ん? ここだよ」
「ここ…って、あんたリコの家に来てたの!?」
「うん。シュウさんの邪魔をしないようにどこかで時間を潰そうと思って家を出たんだけど、気付いたらここに来てた」
「……ふ、ふぅん」
曖昧な相槌を打つシロナに、「ほら、あそこに窓があるだろ?」と久住家の二階の一角をコウが指し示す。
「あそこがリコさんの部屋なんだ。それで昨日帰り際に何気なく窓を見たら鍵が開いててビックリしたよ。でもそのおかげでリコさんの寝顔が見られたけどね」
「やだ、ちゃっかり無断侵入したってわけ!? でもどうしてリコを起こさなかったのよ? そこで謝っちゃえば良かったのに」
「グッスリ寝ていたから起こすの悪いと思ったし、それにあの時はリコさんに逢えただけで嬉しかった。だからいいんだ」
「…………」
「それにリコさんの寝顔、すごく可愛かったんだ。許されるなら朝までずっと見ていたかったよ」
「コウは本当に好きなんだね、リコのこと」
寂しげな笑みを浮かべたシロナとは対照的に、振り返ったコウの表情は嬉しさに満ち溢れている。
「もちろんだよ。リコさんの事を考えているだけで幸せなんだ」
「……そっか。良かったじゃない」
そう呟くように答えると、シロナはコウからゆっくりと視線を外した。
「そういえば琥珀は? ムサの代わりにこっちに残ってるんでしょ? 私、ぜんぜん姿を見かけてないんだけど」
「もしかしたら拗ねてるのかもしれない」
「拗ねてる? それどういうことよ?」
「それがさ…」
ここに来て新たな厄介事を思い出したコウはふぅと息をつく。
「ここで欲しいものがあるからお金が欲しいって突然言い出してさ、それで使い道を聞いたら僕には言いたくないって言うんだよ。それじゃ上げられないよって言ったら怒っちゃったみたいなんだよね」
「えーっ! じゃああの子、お小遣いが貰えないからつむじを曲げて帰ってきてないってことなの!?」
「うん多分ね」
とコウが頷く。
「あっきれたわ、まるで子供ね! でも電脳巻尺がこの時代で欲しがる物って何なのかしら?」
「さぁ……。琥珀の考えている事はさっぱり分からないよ」
「ヘンなの。あの子の元々の操作者はあんたなのに」
「そう言われても分からないものは分からないさ。一晩頭冷やしたら帰ってくるだろ。それに琥珀が僕の近くに来れば感覚で分かるからあまり心配していないよ」
気持ちはすでにここにあらず、といった様子でそう答えると、コウは電柱脇から大きく身を乗り出した。
「……それにしてもやっぱりリコさん遅いなぁ。もうとっくに学校に行く時間だと思うんだけど……」
「もう三十分以上は待ってるもんね」
往来を行き交う人々の数が増えてきた。おかげで電柱の脇に潜み、二人でこそこそと話をしていると人目を引くようになってきている。
「ねぇここにずっとこうしていても寒いしさ、直接リコん家に行って確認してみた方がいいんじゃない?」
「そうするよ。シロナはここで待ってて。あ、悪いけどこれ持っててくれないか」
左手に持っていた小型のアタッシュケースをシロナに渡し、コウが電柱脇から歩き出した時、玄関扉が開いて中から弓希子が出てきた。手にはゴミ袋を持っている。
「あっ、おはようございます!」
その挨拶でコウの姿に気付いた弓希子は、ゴミステーションに行きかけていた足を止めた。そして、
「あら蕪利さんじゃない。おはよう」
そう挨拶を返した後、
「今日はお仕事お休みなの?」
とコウの姿をしげしげと眺める。
本来ならスーツ姿でいなくてならないところが、今のコウは濃灰のミリタリージャケットと黒のパンツ、ワークブーツを身に着けている。予想外の質問にコウは一瞬焦った表情を見せたが、すぐに話を上手く合わせた。
「は、はい! 今日は有休を取ったんです! そっ、それであの、リッ、リコさんは今いらっしゃいますか?」
「理子ならもうとっくに学校に行ったわよ? 今日から修学旅行だから朝早く集合なんですって」
「シューガク旅行……?」
聞きなれない単語に、コウは首をかしげる。
「あら、今日から修学旅行へ行く事、蕪利さん聞いてないの?」
「はい。何も聞いてません」
「あぁなるほどね! 分かったわ!」
ゴシップ好きな弓希子は手にしていたゴミ袋から完全に手を離し、コウに向かって意味深な視線を送る。大好物の話題になってきたために俄然ノリ気になってきたようだ。
「昨日あなた達ケンカしたでしょ!? だから理子もあなたに修学旅行の事を言わなかったのよ、きっと!」
「僕とケンカ…ですか? リコさんがそう言ってたのですか?」
コウの表情が曇る。
「ううん、何も言わなかったわ。でも昨日の理子の様子を見ていたら母親の勘でなんとなく分かっちゃうのよ、そういうことはね!」
くびれた腰に手を当て、弓希子が自信満々に断言する。
「そうですか……」
昨日、シロナがあられもない姿で寝室で寝ていたことが原因で理子を泣かせた事が重く胸にのしかかり、コウは声を沈ませた。
「大丈夫! 旅行から帰ってきたらケンカのことなんて全部忘れてるわよ! それより蕪利さん、よかったら今夜家で一緒に夕飯はいかが? ほら、今週末のこともあるし、先に少し打ち合わせしておきたいじゃない!」
「あ……そうでしたね」
弓希子のその言葉で、コウは礼人と約束をした大事な予定を思い出した。だが今はそれよりも先に解決しなければならない問題がある。まずはそちらが最優先だ。
「実は今夜は用事があります。済みません」
「あら、今日もなの? それは残念ね。いっぱいご馳走してあげちゃおうと思ったんだけどな」
「申し訳ありません。そちらの件はまたあらためてお伺いさせていただきます。あの、ところでお聞きしたいんですけど、“ シューガク旅行 ”ってなんですか?」
「えっ蕪利さん、修学旅行を知らないの?」
「はい」
「修学旅行を知らないなんて珍しいわね! 蕪利さんの中学や高校で修学旅行って無かったの?」
「は、はい」
「へぇ、今はそういう学校もあるのね。ん~そうね、簡単に言えば、各地の名所を観光したり、男の子と女の子が一気に急接近できるチャンスのある行事のことよ」
簡略しまくりな説明のため、修学旅行のイメージが掴めない。すると相槌を打たないコウの反応でそれを察した弓希子は、気を利かせて更に詳細を語った。
「もっと明快に言っちゃうとね、【 日中は歴史を肌で感じて 夜は人肌を感じる 】ってとこかしら? でも正直、日中の行動なんてどうでもいいのよね~! お楽しみは何といっても夜よ、夜! 先生たちに見つからないように相手の部屋に入り込むスリルがたまらなくってさ! 私も思い出すわぁ~」
コウは小さく眉をひそめた。漠然とした不安が胸の中を駆け抜ける。
それは修学旅行というものがどういう行事なのかはまだ理解し切れていないが、どう好意的に解釈しようとしても胸騒ぎが収まらない部分が今の説明の中に一箇所存在していたためだ。
「あの、“ 人肌を感じる ” ってどういう意味なんでしょうか?」
不安を抑えた声で尋ねると、陽気な回答が返って来る。
「んふっ、修学旅行ってね、部屋を消灯する時間になると教師が時々見回りに来るの。でもその監視に見つからないように相手の部屋にこっそり入り込んでさ、一緒の布団に潜り込んで、色んなスキンシップを朝方までい~っぱい楽しんじゃうってわけ!」
「なっ……!?」
── 来た。
嫌な予感が的中だ。
コウの表情が愕然としたものに変わる。
「待って下さいっ!! リコさんはなぜそんな旅行に!?」
「なぜって……、だって必ず参加しなきゃいけない大切な行事だもの。それに理子も楽しみにしてたわよ? あの子、名所巡りとか結構好きだしね。それよりさ、蕪利さんの高校って修学旅行が無かったんでしょ? どこの高校出身なの?」
しかしコウはその問いには答えなかった。弓希子の話の後半がほとんど耳に入っていなかったせいだ。その表情からは、ショックのあまり血の気が完全に失せている。
「あら、蕪利さん急に顔色が悪くなったみたいだけど、どうしたの? 良かったら少しウチで休んでいく?」
しかし弓希子のその思いやりすらも、もはや鼓膜の場所まで一切届いていない。
( 嘘だ……絶対に嘘だ……! あんなに清純なリコさんがそんな淫らなことをするなんて……! )
「蕪利さん?」
コウは辞する挨拶もせずに弓希子に背を向け、呆然と歩き出した。その足取りは完全にふらついている。しかし数メートル進んだ後、コウは急にハッとある事を思いついた。
( そうだ、もしかしてあれに……! )
目つきが剃刀のような鋭さを増したと同時に、今までの足取りが嘘のようにコウはいきなり走り出した。電柱の影に隠れていたシロナが慌てて後を追ってくる。
「どうしたのよいきなり!? ねぇあの人がリコのお母さんでしょ!? 年の割りにスタイルも全然崩れてなかったし結構キレイな人ね! さっすが…」
そう言いかけたシロナはそこで慌てて口をつぐむ。現在別の事で頭が一杯なコウは当然シロナの声も聞こえていない。
「何!? 何か言ったシロナ!?」
「なななんでもないっ!! それよりリコは?」
「もうとっくに学校に行ってた! 今日からシューガク旅行っていうのに行ってるらしい!」
「シューガク旅行~? 何それ?」
「僕もまだよく分からない!」
「えぇ~! じゃあ誤解が解けないじゃない! これからどうするつもりなのよ? リコの学校へ行ってみるの?」
「いや、その前にまず確認することがあるっ!」
そう叫ぶとコウはシロナを引き連れて真っ直ぐ権田原家に戻った。
ブーツの紐を解くことすら今はもどかしい。
流行る気持ちを抑えて靴を脱ぎ、足音荒く家の中に入ると本棚にしまってあった例の蔵書を手にする。その書名はもちろん、理子から “ お触り禁止令 ” をキツく言い渡されている、例の『 東方行事艶語録 』だ。
「あ~その本懐かしい~!!」
ようやく追いついたシロナが剥げた本を指さした。
「あんた小さい頃それ持ち歩いてたわよね! それで何を調べるの?」
「シロナ、ちょっと黙ってて!!」
せわしなくページをめくる。
弓希子から教えてもらったあの言葉はこの事典に載っているのかいないのか。
【 し 】のページから該当する単語を探す指がかすかに震えていた。
「……あった!!」
知りたかった情報に辿り着いたコウは、それを貪るように読んだ。
先ほど弓希子が説明してくれたことと同じような言葉が並んでいるが、その中でまたしても理解不能な言葉が最後に紛れている。
“ 修学旅行 ”=小学~高校にかけて行われる教育活動のこと。
教師引率の元、生徒が団体で遠隔地に出かけ、普段の生活では
体験できないような様々な経験を味わうことが目的とされる。
なお宿泊を伴う場合、部屋は男女に強制分離させられるが、
その際は夜間に教師の目をかいくぐって夜這いを行うのが
この行事の正式な作法とされている。
「ねぇねぇコウ何が書いてあったの~!?」
シロナがコウの肩越しに後ろから艶語録を覗き込む。しかしコウは返事をしない。
「何黙りこんでるのよー! どの言葉を調べてたのか私にも教えてってば!」
「……」
何度も強く身体を揺さぶられ、放心状態だったコウの口がかすかに開く。
そして今の文章の中で意味の分からなかった語句が疑問の呟きとなって発せられた。
「ヨバ、イ……?」