Sweet fish ! ⇒ Sweet drink !? <4>
── コウのバカバカバカ……ッ!!
たった今目にした光景が頭から離れない。
シロナとの仲を誤解されたショックで打ちひしがれ中のコウとは対照的に、こちらの感情の起伏は最高潮のようだ。
悲しさ、悔しさ、切なさ、そして憤り。
権田原家を飛び出した理子は、その感情を抱えたままで自宅まで一気に駆け戻る。
両の目元をそっと指先で触り、そこがもう涙で濡れていない事を確認した後で自宅の玄関扉に手を掛けた。
( よし大丈夫! 涙も乾いた! )
母の弓希子や弟の拓斗に今の気持ちを絶対に悟られたくない。呼吸を整えてからいつものように元気良くドアを開ける。
決して激情にまかせたつもりはなかったのだが、思いのほか強い力を出してしまったらしい。蝶番の部分からミシミシと異音が漏れたと思った途端、勢いよく開かれた扉が壁際の靴棚に豪快にぶち当たってしまった。
「キャウン!?」
耳をつんざくようなその音に、廊下の端で惰眠を貪っていた久住家の愛犬、ヌーベルが素っ頓狂な鳴き声と共に飛び起きる。そして理子の様子がいつもと違うことにいち早く気付き、今自分はこの場にいるべきでは無い、と野生の勘で察したようだ。理子に背を向け、速やかにこの場から逃亡を開始する。
しかし不幸なことにリビングへと続くドアは完全に閉まっていたため、利口な彼女は 【この場からの即時脱出は不可能だ 】 と速やかに判断したらしい。
急に進路を百八十度転換し、わざとらしいぐらいに大げさに尻尾を振りながら理子の側に擦り寄ってくると、一気にその場に寝転がり、 “ ワタシ、あなたに完全服従ですよ? ” のポーズを取る。
「ヌゥちゃん……」
理子はヌーベルの名を口にしたが、呼ばれた本人は毛の薄い腹部を無防備にさらけ出しながらも尻尾を振り続けるのを決して止めない。
あざとささえ感じられるくらいのその見事な媚っぷりを見て、怒りと悲しみに暮れていた理子の心に少しだけ冷静さが戻った。理子は靴を脱いで家の中に上がると寝転がるヌーベルの頭をそっと撫でてやる。
「ごめんねヌゥちゃん、びっくりさせちゃったね」
優しくされたことでどうやら自分に害は及ばなさそうだと察したヌーベルが、寝転がった状態から素早く起き上がり理子に飛びつく。
「きゃぁ!? 待って待って!」
そう叫ぶと理子は慌てて身を仰け反らす。
隙あらば唇を中心に顔面を余すところ無く舌で舐め回そうとするヌーベルの口元を押さえ、もう一度よしよしと頭を撫でてやると理子は再びスクールバッグを手に取った。
「ちょっと待っててね! 着替えたらお散歩に連れて行ってあげる!」
そう声をかけ二階の自室に行こうと階段へ足を向けたその時、廊下の奥から母の弓希子の声が聞こえてきた。
「理子、帰ってきたのー?」
「う、うん! ただいま」
リビングへと続く扉が内側から開き、両手を胸の前で掲げた弓希子が現れる。
「ねぇ見てよコレ。今日駅前のお店でやってもらったの。なかなかイイと思わない?」
弓希子は得意そうに理子に向かって手の甲を見せる。長い指の先にある十の爪が綺麗にネイルアートされていた。それを見た理子は少し困ったような顔で口を尖らせる。
「お母さん、そういうことばかりしてたらまーたパパが変な心配しだすから止めたほうがいいんじゃない?」
しかし弓希子はうっとりと自分の指先を見ながらシレッと答える。
「大丈夫、パパは今日あっちに戻ったんだから黙ってれば分からないわよ。でも女は幾つになっても綺麗でいたいって気持ちがどうしてあの人には分からないのかしらね……。こうやってちょっとお洒落したぐらいですぐに浮気を疑うんだもの、嫌になっちゃう。あっそうだ、それより理子、これから蕪利さんの家に行く?」
「エ!?」
これからではない。そこはつい先ほどまでいた修羅場会場だ。しかしそんな事を言えるわけもないので理子は黙り込む。すると弓希子はその沈黙を違う意味に解釈したようだ。
「今日会う予定じゃなかった? なら後で蕪利さんを夕飯に連れてらっしゃいよ」
「えぇーっ!?」
「だってパパもあっちに帰っちゃったしさ、三人より四人で食べた方が楽しいもの」
「きょっ、きょう!?」
「そう、今晩」
「よよよっ、用事があるって言ってたから無理! 絶対に無理ーっ!!」
驚きのあまり、咄嗟に嘘が出る。
「あらそう、じゃあ仕方ないわね……。なら明日はどうかしら?」
「明日!? もうお母さんってば完全に忘れてるでしょ! 私は明日から修学旅行でいないんですけどっ!?」
膨れた顔で理子が文句を言うと、弓希子は「あら」という表情で口元に手を当てた。
「あっそうか。理子は明日からいないんだっけ。じゃあ明日の晩に蕪利さんを呼ぶわけにもいかないか。理子に悪いもんね」
と一度は引き下がった弓希子だったが、妖艶な流し目を送り、わざと意地悪げに尋ねる。
「……やっぱり明日ここに蕪利さんを呼んでもいい~?」
「ダッ、ダメダメダメダメーッ!! 絶対にダメっ!!」
自分がいない時にコウを自宅に呼ぶなどとんでもないことである。
この母の性格なら、自身から湧き出る女体フェロモン攻撃を駆使しながら、出生から現在に至るまでのコウの人生の軌跡を、根掘り葉掘り探りまくること必至だからだ。
「あらあら必死ねぇ、理子! そーんなに蕪利さんが好きなんだ? でも前にも言ったけど、あんたの初の彼氏を取りゃしないから安心なさいな」
「ちっ、違っ…!」
頭にカッと血が上り、両頬が一気に熱くなった。
「フフッ、違うって何が?」
「あんなの……あんなの私の彼氏じゃないもんっっ!!」
そう叫ぶと理子は足音荒く二階へと駆け上がって行ってしまった。
また理子が大声をだしたので脅えたヌーベルが鼻を鳴らして弓希子の足元に寄り添う。
「あらヌゥちゃんどうしたの? よしよし大丈夫、そんなに怖がらなくてもいいわよ。いつもの理子と様子が違うからビックリしちゃったのね」
弓希子は理子が駆け上がっていった階段を見上げて小さく笑うと、ヌーベルの身体を抱き上げてその体を優しく撫でてやる。
「あれはね、単なる痴話ゲンカ。数日ほっときゃ治まるから。でもどうやら今日の散歩には連れて行ってもらえなさそうね」
するとまるで弓希子の言った意味が分かったかのように、ヌーベルが再び甘えた声で鼻を鳴らす。
「はいはい、ちゃんと連れてってあげるわよ。今日の夕食は拓斗の好きな物を作ろうと思ってたけど、理子の好きな物に変更しなくっちゃね」
弓希子は玄関先に置いてあったリードを手にし、ヌーベルに向かって笑いかける。そしてヌーベルが嬉しそうにはしゃぎだす中、買い物と散歩を兼ねて外へと出かけて行った。
( もうっ、ヌゥちゃんのおかげでせっかく冷静になれたと思ったのに……! )
今の冗談はいつもの母のからかいなのだと頭では分かっていたのに身体が言う事を聞かない。二階へ駆け上がると自分の部屋へ飛び込み、後ろ手で勢いよくドアを閉めた。
頭に血が上って血流がよくなったせいか、権田原家の寝室で見た先ほどの衝撃映像が脳裏で再上映され始める。それを振り払うかのように、制服も着たままでベッドへ仰向けにドサリと倒れこむと、両の瞼からそれぞれ一筋の涙が目元をゆっくりと伝い始める。慌てて飛び起き涙を手の甲で拭うと、鼻がグスンと勝手に鳴った。
( 何よ! コウってばやっぱり胸の大きい人がいいんじゃないっ! )
コウに対してもう少し素直になってみようと思い始めていた所に現れた素性の分からないスタイル抜群の女性。自分とはあまりにもプロポーションが違う事が胸にコンプレックスのある理子には余計にショックだった。
しかしいつまでもこうしていても仕方がない。ベッドから立ち上がると制服を着替え始めることにする。
カッターシャツを脱ぎ、何気なく視線を自分の胸元に送ると、やや天然気質気味なマスター・ブラが製作した渾身作が視界に入ってきた。
贅沢な刺繍をふんだんにあしらったラズベリー色のブラは胸の膨らみに完璧にフィットしている。しかし今はコウの作った物を身に着けていたくなかった。素早く外し、クローゼットから以前のブラを探す。
「無い…?」
理子の口から思わず声が漏れる。
何度ブラが入っている棚を探しても以前所持していたブラを見つけることができなかったのだ。中にあるのはすべてコウの熱い職人魂が注ぎ込まれた作品群ばかりになっている。
「もうっなんで勝手に処分しちゃうのよーっ!」
少女の怒りがまた再燃する。
しかしこのまま何も着けずにいるわけにもいかないので仕方なくコウのブラを再び身につけた。するとまるで肌と一体化しているかのような付け心地の良さが甦る。しかし今はそれが裏目に出てしまい、返って哀しい気持ちを呼びさましてしまっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
「姉ちゃん、今日は早く寝ろよ? 明日の集合時間早いんだろ? 遅刻したら大恥もんだぜ~!」
就寝前に二階のそれぞれの自室に入る間際、弟の拓斗がそう理子に声をかける。
「分かってるわよ!」
イライラした様子で答えた理子に対し、夕食時に弓希子から話を聞いた拓斗が茶化してきた。
「怖ぇー! さすが今日彼氏とケンカした女は違うな! 旅行先でヒス起こすなよ!?」
「うるさぁーい! あんたもさっさと寝なさいってば!」
「へいへい、了解了解っ! お土産楽しみにしてるぜ! あ、提灯とか十手とか印籠とかはパスな! じゃっおやすみ!」
拓斗はわざとふざけた口調でそう締めると先に自室の扉を閉める。
「だーれがあんたになんて買ってくるもんですかっ!」
べーと舌を出すと理子も自分の部屋へと入った。
すると真っ暗だった室内のカーテンがかすかに揺れたのでドキリとする。
( コウ!? )
急いで部屋の明かりをつけると、部屋の中には誰もいなかった。
カーテンが揺れていたように感じたのは扉を開けた時に室内に流れ込んだ空気が原因だったようだ。
部屋の中に誰もいないことを知った理子は静かに扉を閉める。そして窓に近づくとカーテンを開け、窓硝子の中央にあるハンドル型の錠にそっと手を触れた。鍵のかかっていない錠前を見つめ、理子は表情を曇らせる。
コウはきっと来ると思っていた。
あの後、慌てた顔のままで自分を追って言い訳に来ると思っていた。
もしかしたらまたこの窓からいきなり現れるかもしれない、そう思って夕食前にこの鍵を外しておいたのに──。
失意の中、理子はハンドルから手を離すとパジャマに着替え、明かりを消してベッドの中に入る。いつもは寝る前に大好きな恋愛小説を読み進めてから眠るのだが、今日はこんな気持ちのままで物語の世界に浸ることは到底無理であった。
カーテンをきちんと閉めなかったので開いた隙間から満月が見える。
滲むような光を放つ満月をしばらくガラス越しに見つめた後、理子はギュッと目をつぶり、羽毛布団を口元まで引っ張り上げた。
( あの女の人は今夜家に泊まるのかな。もしかしてコウと一緒にあの部屋で眠るのかな。きっとそうだよね。だって、だってコウは来てくれなかったもん…… )
閉じた眦からまた一筋の涙が零れ落ちる。
心の中は嫉妬とショックでグチャグチャだ。
理子の頬を伝って流れた水滴は握りしめたタオルケットの中へとゆっくりと吸い込まれていった。