Sweet fish ! ⇒ Sweet drink !? <2>
── 大好物な食べ物のはずなのに咀嚼がまったく進まない。
おかげで権田原家に連れてこられた六匹のたい焼きたちも、尻尾を一口齧られた物がわずかに傷を負っただけで、残りは未だ無傷で生存している。
甘い白餡がかすかに覗く負傷物を手に、白のカジュアルシャツを無造作に羽織ったコウはダブルベッドの端に浅く腰を掛けてうなだれていた。
頭の中は理子の誤解をどうやって解いたらいいのか、それ一点のみがグルグルと超高速で回り続けている。胸の辺り一帯が内側からズキズキと鈍く痛み続ける中、自分が一番大切に想っている女性からあらぬ誤解を受けるという事がこれほどまでに耐えがたく、そして辛いという事実を、コウは初めて味わっていた。
考えがまとまらないまま時間だけが淡々と過ぎてゆく。
寝室にある壁掛け時計の長針がちょうど一回りした頃、熟睡している女性の腕時計からアラーム音が鳴る。その途端にベッドが大きく揺らいだ。
「ヤダっ! 寝過ごしちゃったっ!?」
背後から響いてきたその叫び声で、彫刻のように固まっていたコウの石化が解ける。コウは飛び起きた女性に呆れたような視線を向けた。
「……やっと起きた」
起き上がったすぐ側にコウがいることに気付いた女性は、薄紫色のキャミソール姿で屈託のない笑みを浮かべる。
「おっかえり~! いつ帰ってきたの?」
「いつ帰ってきたの、じゃないだろ。なんで勝手にここで寝てるのさ」
コウは女性に視線を走らせる。だが目の前にある女体のラインは見事な曲線美であるにもかかわらず、その視線にはほとんどといっていいほど熱が感じられない。
「だぁってコウってばせっかく私がここに来たっていうのにどこかに出かけちゃってるんだもん! 着いたそうそう、一人で留守番させられたらヒマになって眠くなるのは当然じゃない!」
「だからってそんな格好で寝ないでくれよ」
「なーに言ってんのよっ! 今さら恥ずかしがるような関係でもないでしょーが!」
女性は大きく口を開けて快活な笑い声を上げると、ウエスト近くまである茜色の髪をフワリと後ろに払う。
「それにあんたは女性下着請負人じゃない! 女の下着姿なんて嫌ってほど見慣れてるじゃないのっ」
「そりゃあ見慣れてはいるけどさ、さっきは完璧にマズいタイミングだったんだよ……」
先ほどの理子との修羅場を思い出したコウが再び肩を落とす。
「あららっ、コウってば珍しく不機嫌じゃない? こっちで何かあったの?」
女性は身体にかかっていたタオルケットを跳ね除け、ベッドの上で立ち膝の姿勢になる。そしてコウの背後ににじり寄ると、気さくな調子で背中に両手を置いた。
寝室内に訪れる、ほんの一時だけの沈黙。
コウは無言で素早くベッドの端から立ち上がると、自分の背に置かれた手をさりげなく外した。そしてゆっくりと振り返るとキャミソール姿の女性を見下ろし、静かな声で告げる。
「大ありだよ、姉さん」
女性の身体が一瞬だけピクリと反応したことには気付かず、コウは疲れきった顔で溜息交じりに言葉を続けた。
「姉さんがそんな格好で寝ているからさ、さっきこの家に来た人に僕らの仲を思いっきり勘違いされたんだ」
「それってもしかしてリコの事っ!?」
なぜか興奮した様子で女性はベッドから勢いよく立ち上がる。それに伴い、負荷が増加した部分のスプリングが少々苦しげな声を上げた。一方のコウは女性の口から理子の名前が出てきたことに驚いた様子を見せる。
「なんでリコさんのことを知ってるのさ……?」
「だって昨日ゼンさんに聞いたんだもん!」
「父さんに?」
「うん! それよりリコはどこ!? どこにいるのよっ!?」
コウはもう一度長い吐息をつき、理子が飛び出していった玄関の方角へ視線を送る。
「だからもういないよ……。勘違いして怒って帰っちゃったから」
「ええーっ! リコいないの!? 私リコに会いたかったのにぃー!!」
「だから、それはシロナのせいだって言ってるだろ?」
「そんなー! だって私はここで寝ていただけじゃない!」
“ シロナ ” と呼ばれた女性は、心外だというような顔でベッドに乱暴に座り込む。
「仕事が忙しくて昨日からほとんど寝てなかったんだもんっ! 襲いくる睡魔に逆らえなかったんだから仕方ないでしょっ! それに服を脱いだのだって、この部屋の暖房が効きすぎて暑いぐらいだったからよ!」
今回のトラブルの張本人が上目遣いで拗ねた表情を見せる。その態度といい、口調といい、見る限りでは明らかに反省していなさそうだ。
コウは一度壁掛け時計に視線を移し、現在の時刻を確認する。そこで自分がまだ齧りかけのたい焼きを手にしたままだったことに気付き、一旦紙袋へと戻した。
「いいからとにかく服を着てくれよ。それより連絡も無しでここに来て何かあったのか?」
「休暇を取って遊びに来ちゃった~!」
「なんだ、遊びに来ただけか……。あぁそういえばシュウさんが今こっちに来てるらしいんだけどさ、どの区画にいるか知ってる?」
そう尋ねられたシロナの顔から一気に笑みが消えた。
「いきなりあいつの名前出さないでくれるっ!?」
シロナは苦虫を噛み潰したような顔で言い捨てると、近くにあった薄手のジャケットを引き寄せて八つ当たり気味に羽織った。
「大体、シュウの行動をなんでコウが知ってるのよ!?」
「僕も父さんに聞いたんだ」
「ゼンさんに!? じゃあゼンさんに話したのは一体誰なのよ!?」
「多分シュウさん本人だと思うよ?」
「もうっあいつったら本当にしょうがないわね! 自分の職務の重要性を分かってんのかしら!? 後で蹴り飛ばしてやるわ!」
「それでシュウさんはどこにいるのさ?」
「そんなこと部外者のあんたに言えるわけないじゃないっ! 私たちの内部規約を知ってるくせに、あんたもなかなかいい性格してるわよねっ」
「ハハッ、やっぱり無理か」
教えてもらえない事は予め分かっていたのか、コウは特に落胆する様子もなくシロナから視線を外して窓際に近寄る。
「気のせいかもしれないけどさ、すごく近くにいるような気がするんだよ。……あっそうか! シロナはシュウさんに逢いにここに来たんだね?」
「ちょっ、ふざけないでよっ!! なんで私がわざわざあいつの後を追うような真似をしなくちゃいけないのよ!?」
両の瞳をキッと吊り上げ、ミニスカートを身に着けながらシロナが吼える。しかしコウは涼しい顔で窓の外を眺め続けたまま、更に盛大に煽った。
「だってシュウさんはシロナの事が好きなんだよ? シロナだってそれを誰よりも分かってるくせにさ。あまりシュウさんを待たせすぎるのも可哀想だからいい加減にプロポーズを受けてやればいいのに」
「じょっ冗談でしょ!? なんで私がシュウなんかとっ!」
「そうやってシロナが変な意地を張っていつまでもシュウさんの気持ちに応えないと、こっちも色々と困るんだよね」
「ハ? なんで私があいつのプロポーズを受けないと、あんたが困ることになるのよ?」
シロナが衣服を完全に身に着けたのを背後の空気で察したコウは、室内を振り返ると穏やかな表情でその理由を話す。
「だってシロナがそうやって素っ気無い態度を取るたびにシュウさんにストレスがどんどん溜まるんだよ? で、それが臨界点を越すと、唖然とするぐらいの理不尽な理由で僕に絡んでくるんだ。朝方まで延々とシロナの愚痴をこぼされたこともあるんだからね」
「そんなの横暴、断ればいいじゃない!」
「そんなことをできるのはせいぜいシロナぐらいのもんだよ」
コウは諦めたような口調で肩を竦める。コウとシュウの関係を過去から順を追って回想してみたシロナは二度大きく頷いた。
「あーそういえばコウって昔からシュウにはからっきし弱いもんね~! 身体能力は恐らくあんたのほうが上なのにさ、ヘンなの!」
褒められているのかけなされているのか判断しづらいその言葉に、コウは困ったような表情でほんのわずかだけ眦を下げる。
「ねぇ一度あいつにガツンと逆らってみなさいよ? 気合を入れて本気を出せば絶対にあんたが勝つって!」
「そんなこと出来るわけないだろ。昔から色々と世話になってきて恩義もある人なんだからさ。あっ、それはもちろんシロナにも言えることだけどね。感謝してるよ」
「…………」
シロナの視線が急に宙を泳いだような動きを見せる。
「どうかした?」
急に黙り込んだシロナに向かってコウが心配そうな眼差しを向ける。するとシロナはかすかに伏せた顔を素早く上げ、
「なっなんでもないっ」
と慌てたように一言だけ答えた。