Sweet fish ! ⇒ Sweet drink !? <1>
本日の授業も無事終わり、理子が待ち望んでいた放課後だ。
ガタリと音を鳴らして素早く椅子から立ち上がり、スクールバッグを肩にかける。
「ゴメン真央! 今日は先に帰るねっ!!」
大急ぎで帰ろうとする理子の様子を見た真央は、おかしさをこらえきれなくなったのかクスクスと笑い出す。
「ふふっ、もう理子ってばいくらこれからコウさんと会えるからって慌てすぎよ? 修学旅行の荷物チェック、忘れないようにね」
「べっべつにそんなに慌ててないもんっ!」
理子は即座に否定する。
しかし身体は正直だ。真央の指摘に思わず動揺し、その両頬は朱に染まっている。すると真央がここで突然、
「でも、コウさんって健気よね……」
とどこか遠くを見るようなうっとりとした表情で呟いた。
親友の物憂げな表情を見た理子の心がドキリと揺らぐ。つい先ほど、コウに対する真央の心情を聞いたばかりなのでやはり心穏やかではいられない。
「そ、そう? 一体どこが?」
「だって外はこんなに寒いのに、あんなところに佇んでずっと理子を待っていたのよ? きっと明日からしばらく理子に会えなくなっちゃうのが淋しくてきっとたまらなくなっちゃったんでしょうね……。私、そこまでコウさんに一途に愛されてる理子が羨ましいな」
真央は顔をわずかに左に向け、木枯らしが吹きすさぶ窓の外に視線を移した後、切ない吐息を漏らす。
「ちちちっ、違うってば!」
理子は帰りかけていた足を止めて取り急ぎ内容訂正をする。
「コウは違う用事でここに来ていたの! 修学旅行の間、私と会えなくなるから淋しくて来たんじゃないんだってば!」
「えっそうなの?」
赤い顔のままでコクリと頷く。
しかしコウが水砂丘高校へ来校した真の目的は理子へのプロポーズだ。
よってそれこそがまさに正真正銘の愛されている証なのだが、それを真央に話してしまう大変なことになりそうなので、ここは一先ずカムフラージュの道を選ぶ。
「でも理子はあんなに大切にしてもらってるじゃない。それに天女の里で危ないところを助けてもらってもいるのよ? あっ、さっきコウさんにちゃんとお礼は言った?」
珍しく諭すような口調で真央が軽く口を尖らせる。
「お礼って……? あ、そっか!」
武蔵によって創られた出来事のお礼など言ってはいないが、ごまかしついでにここも話を合わせておくことにする。
「う、うん。ちゃんと言ったよ?」
「そう。でもコウさんも何もケガがなくて本当に良かったよね」
真央はそう言うと理子に向かって軽く手を振った。
「ごめんね、引き止めちゃって。明日の集合時間に遅刻しないようにね」
「うん! じゃあまた明日ね!」
真央に別れを告げ、学校を飛び出す。
さぁいよいよ権田原家へ向けて出発だ。
一度自宅に戻ってスクールバッグを置いてから行くべきか少し悩んだが、早くコウに会いたいのでこのまま権田原家に向かうことにした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
“ 権田原家直行便コース ” を選択した理子であったが、途中で立ち寄ろうと決めていた『一石庵』に寄ることはもちろん忘れない。
一石庵は幼い頃から来ているので理子も顔馴染みの店だ。
老夫婦が営む小さな店で、ガラス張りの作業場では険しい顔のお爺さんがいつも黙々とたい焼きを焼き、売り子は愛想のいいお婆さんが担当している。さすが老舗の貫禄か、たい焼きの旨さは絶品と評判だ。
「こんにちはーっ!」
一石庵に着くと幸運な事に購入客は一人もいなかった。
たい焼き一匹分の値段が得になる八個詰めセットにしようかとも思ったが、コウ一人でその数はさすがに食べきれないだろうと判断し、数を減らして注文する。
「すいませーん! 白餡たい焼きを五個下さぁーい!」
店内に理子の元気な声が響く。
小休止でもしていたのか、売り子のお婆さんが奥からゆっくりと現れ、何とも味のある皺くちゃな笑顔で、たい焼き六個が入った紙袋を「よっこらしょ」の声と共に渡してくれた。
「はい、いつもありがとさん。一つおまけしておいたよ」
「えっいいんですか? ありがとうございまーす!!」
思いがけないこの小さなラッキーに弾んだ声でお礼を言い、代金を支払うと店を飛び出す。
ほんのりと甘い香りと温もりが伝わる紙袋をしっかりと抱え、理子は小走りで権田原家へと向かった。
しかしいざ権田原家の玄関前に到着すると、途端に心臓がかなりのスピードで脈動し始めている自分に気付く。どうやらこれは走ってきたために心臓の鼓動が早くなっているわけではなさそうだ。
( えーと、まっ、まずは落ち着いて! 自然な感じでいかなくっちゃ! )
そんな自己暗示を数回かけた後、意を決して玄関のドアレバーに手をかける。
「……あれ?」
思わず独り言が漏れる。
ドアレバーを握り、もう一度同じ動作をしても結果は同じだった。
なぜか玄関扉が固く閉ざされているのだ。不思議に思いながらもインターフォンを二度鳴らしてみたがやはり反応はない。この仕打ちに理子はその場でむーっと小さく頬を膨らます。
( もう! 何よコウってば! 今日はどこにも出かけないで家で待ってるって言ってたくせにー! )
しかし幸いな事に理子は合鍵をすでに貰っている身だ。自宅や自転車の鍵と一緒に、すでに権田原家の合鍵もキーケースの中にしっかり収納してある。約束もしていることだし、中に入って待っていても構わないだろうと判断した理子はスクールバッグからキーケースを取り出した。
しかしいざロックを外して玄関の内側に入った途端、家の中に漂うある異変に気がつく。
── かすかだが中で人の気配がするのだ。
「コウー? いるのー?」
ローファーを脱ぎ、そろりそろりと廊下を進む。
やがて廊下のつきあたりにある扉の奥から微かに響いてくる音が理子の鼓膜に届いた。耳を澄ますとその音源の正体はどうやらシャワーの水音のようだ。
( えええーっ! コウ、シャワー浴びてるの!? も、も、もしかしてあらためてここでまたエッチな事を私にするつもりってこと!? コウってばそういう意味で私を家に呼んだってことなのーっ!? )
動揺しまくりながらもわずかに開いている扉の隙間からこっそりバスルーム内を覗いてみると、浴室のスリ硝子の向こうに赤い髪の人間が透けて見えた。背の高さからいってもやはりシャワーを浴びているのはコウに間違い無さそうだ。
完全にテンパった理子は、廊下の中央で立ちすくむ。
( やっぱりコウだー!!! どどどどどどどどどどどどどどどうしようーっ!? )
── 確かに今までは全力でコウを拒んできた。
だが、それはすべて本能化したコウが無理やりコトに及ぼうとしたからであって、もし、素面状態のコウが自分の身体を欲してきたら一体どうすればいいのだろう。本能化していないコウに襲われた経験がまだ一度も無い今の思考回路ではどうやっても結論が導き出せそうにない。
自分の取るべき行動が分からず、至急対処策を考えるために廊下で一人あたふたとしていると、バスルームの扉が微かに軋む音がする。
( わぁぁ!? コウってばもう上がっちゃうのっ!? )
理子はとりあえずその場から逃げようと慌てて廊下の先にある部屋に飛び込んだ。そして飛び込んだ後で気付く。ここは一昨日本能化したコウに連れ込まれた寝室だ。
( ウソーッ!? よりにもよってこの部屋に入っちゃうなんて!! もし今ここにコウが来たら大変なことになっちゃうじゃない!! )
しかし幸いな事が一つある。
以前連れ込まれた時とは違い、白のレースのカーテンだけが引かれているので室内はほんのりと明るい。これなら脱出も簡単だ。
パニくりながらも入ってきたばかりの扉に手をかける。そしてこの場から急いで再逃亡しようとした時、「うぅん…」という寝言がなぜか後方から聞こえてきた。慌てて室内を振り返ると、ダブルベッドの片側にあるタオルケットがこんもりと盛り上がっている。
この家にはコウと武蔵しか住んでいないはずだ。
恐る恐るベッドに近づいた理子の目に最初に飛び込んできたのは薄紫色に透けたキャミソール一枚ですやすやと眠り込んでいる若い女性だった。
唖然としながらも、理子はその女性のあられもない寝姿に目を奪われる。
年は二十代半ば辺りで、暗赤の髪がベッドシーツの上で大きく乱れているその様は、同性の理子から見ても溢れんばかりのセクシーさを放っていた。
緩やかに上下している半球型の胸もとても大きく、理子の倍は軽くある。しかも薄手のタオルケットのすそから覗く脚は見事な脚線美で、とても美しいプロモーションの持ち主なのが容易に見て取れた。
しばらくの間、唖然とこの女性を眺めていた理子の後ろで突然扉が大きく開く。首に掛けたタオルで濡れた髪を拭きながら入ってきたのは、ジーンズ姿に上半身裸のコウだった。
「リッ、リコさん!? もういらっしゃってたんですか!?」
なぜか寝室内に理子がいることを知ったコウは驚きの表情を見せる。そして次にベッドの上で眠り込んでいる女性に気付き、更に目を見開いた。
そして、理子 ⇒ ベッドの上の女性 ⇒ 理子 ⇒ ベッドの上の女性、と代わる代わる視線の先を移したコウは、ここにきてようやく今自分が置かれている立場の危うさを肌身で実感したようだ。
「あ、あのリコさん……?」
力無いコウの呼びかけと同時にドサリ、と鈍い音がする。
それは理子の手から落ちた薄茶色の紙袋がフローリングの上であっけなく横倒しになった音だった。しかし、落下した衝撃でたい焼きの何匹かがフローリングの海にその半身を躍らせることなく無傷で済んだのは、紙袋の口がお婆さんの手できっちりしっかりと固く二重に折られていたためだ。最後まで良い仕事がしてある。
自分が紙袋を落としたことなど全く気付かず、理子は呆然とした表情のままでただただ目前の歪んだコウの姿を見つめる。
── 初めはなぜコウの姿が歪んで見えるのかが分からなかった。
だが、歪んで見えるその原因が、自分の瞳からみるみる涙が溢れてきているせいだとようやく気付き、急いで顔を伏せる。
「あぁっ……! リコさん待ってくださいっ! これは違いますっ!!」
理子の瞳から大粒の涙が零れ始めた様子を見たコウは、顔色を変えて側に近づいた。だが理子は返事をせず、素早く身を翻して寝室を飛び出そうとする。
「待って下さい! 僕の話を聞いて下さい!」
「嫌っ!!」
「お願いですから話を聞いて下さいっ!」
「絶対イヤッ!!」
「お願いです!」
逃げようとする理子を背後から強引に抱きとめようとしたため、コウは不可抗力で理子の胸を包み込むように掴んでしまった。
「や……っ!?」
いきなり両胸を背後から手で覆われ、理子の口から微かに驚きの声が漏れる。
「あっ!? す、すみません!! でも決してわざとじゃありませんから!!」
コウは慌てて手を離し、必死の様子で言い訳をする。
だがいくらアクシデントとはいえ、自分の微乳を思い切り触られた恥ずかしさと怒りで、乙女の身体はふるふると震えだした。
「……コウッ!」
まだ目に涙を溜めたまま、理子は大きく振り返るとキッとコウを見上げる。そして間髪入れずに室内にパァン、といい音が響いた。
「あんたなんて大っっ嫌いっ!!!」
そう叫ぶと理子はスクールバッグをひったくるように掴み、逃げるように権田原家を飛び出していった。
少し遅れてバタン、と玄関の扉が閉まる荒々しい音がする。
寝室には水を打ったような静けさが残り、時折気持ちよさそうな女性の寝息がかすかに混じった。
「……あーあ、どうやら完璧に誤解されちゃいましたね……」
コウは心底参ったようにそう呟くと、この騒ぎの中でもあられもない姿でグッスリと寝ている女性に呆れたような視線を送り、両肩を落として長々と溜息をつく。そして理子に引っぱたかれた左頬をさすりながら床に落ちている紙袋を拾い上げた。
( あ、これは一石庵さんのたい焼きだ……。そうか、リコさんはきっと、僕のためにわざわざ遠回りしてこれを買ってきてくれたんですね…… )
拾い上げた拍子に紙袋の口が少し開き、中から暖かく優しい香りが立ち上る。しかしこのたい焼きに込められた気遣いを噛み締めようとしても、たった今目の前で見た理子の涙が幸せにひたろうとする気持ちをいとも簡単に吹き飛ばしてしまう。
コウは落ち込んだ表情で紙袋の中から小麦の魚皮を一匹を取り出すとその尻尾の先端にぱくりと食いついた。そして沈痛な表情を崩さぬまま、胸中でそっと理子の名を呼ぶ。
( リコさん…… )
口中にゆっくりと Sweet fish の味が広がる。
不思議なことにほのかに甘いはずのたい焼きが今日はなぜか少し苦いように感じたのは、口にしたその尻尾の端がほんの少しだけ焦げているせいではないような気がしていた。