コウの秘密 <1>
ピピピピピピピピピ
勤勉、実直さが最大の売りである時の番人は怠ける事など許されない。
本日も “ 自分の目前で睡眠を貪る輩を警報によって起床させる ” という、己に課せられた職務の一つをプログラム通りに忠実に遂行し始めた。
警告音は二秒毎にステップアップでその音量を増してゆく。
実はその前からとっくに目が覚めていた理子だったが、とりあえずこのやかましい警報を止めるため、ベッドから半身を乗り出して時の番人の頭頂部を手の平でバシン、と殴打した。
少々暴力的ではあったが、一番効果的な方法で再び沈黙を強要された番人は、渋々と時を刻むという本来の最重要業務に戻る。
「あーっ、どうしようっ!」
アラームを仮停止した後、毛布をガバッと頭からかぶり、そう声に出してみた。
明日の朝考えよう、と思って寝たのだが、結局コウと会うかどうかまだ決断できていないのだ。
だがいつもは目覚まし時計の力がなければ起きられない自分が、空が白み始める頃からこうして目を覚ましてしまっていたのはなぜだろう、と考えると思い当たることは一つしかない。
だってヘンタイかどうかまだちゃんと確認してないし! と自分で自分に言い訳をする。
しかしヘンタイでないとしたら、なぜ「ブラを見せて下さい」などと頼んできたのかが皆目見当がつかない。天井を見つめながらぐるぐると思考を巡らせていると、突然脳内に閃光。稲妻が走りまくる。
ある一つの仮説が閃いた理子は頬を上気させてベッドから一気に起き上がった。
(分かったぁぁぁぁぁぁ――ッ!! あれはお仕事だったんだっ!! きっとあの人はどこかの有名下着メーカーにお勤めしていて、ここに新作ブラのマーケティングに来ているんだ! そうよね、あの人がヘンタイなんておかしいと思ったもん! うんっ、やっぱり行ってみようっと!!)
そう決断すれば後は早いものだ。
五分後に再び鳴る予定のアラームを完全に解除し、ベッドから抜け出すと手早く身支度を始める。白のTシャツに薄手のグリーンのパーカーを羽織り、ジーンズを履こうとして悩んだ。
もう少し女の子らしい格好をした方がいいかなとも悩んだが、結局ボトムはジーンズにする。なんだか浮かれすぎている自分が急に恥ずかしくなってきたからだ。
まだ眠っている母親と弟を起こさないよう、気をつけながら一階に下り、居間の隅にあるお気に入りのタオルケットの上で安眠を貪っていたヌーベルを揺さぶって起した。
「ヌゥちゃん起きて起きて! お散歩に行こ!」
もしヌーベルが人語を話すことができたなら、“ 朝っぱらから何をあなたはそんなに張り切っているのですか ”、と告げたに違いない。それぐらいに迷惑そうな眠たげな顔でヌーベルはのろのろと半目を開ける。
「ほらほら、行こっ!」
弾む声で長い胴をツンツンと突つくと、ヌーベルはふわぁ、と大きなあくびを一つし、プルプルと首を振った。覚醒まで数分を要したがやがてシャキッとした表情に変わる。こちらも準備オーケーだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
約束の公園は理子の家からすぐ側の場所にある。
結局いつもより二十分以上も早く来てしまったせいで、顔馴染みの人達もまだ誰も来ていないようだ。ベンチへと一目散に向かったが、そこにまだコウの姿は無かった。
「早く来すぎちゃった……」
と脱力した声で呟く。昨日コウが座っていたベンチにストンと座り、目の前の池をなんとはなしに眺め出す。
( ―― あ、霧……!? )
家を出た時から今朝は少し外の空気が違うとは思っていたのだが、公園内にうっすらと白い朝もやが立ち込め始めている。それは少しずつ濃くなり初め、白一色の霧の世界に包まれだしていた。
先ほどからベンチに座る理子を木の陰からじっと見ている人影がいる。だが、この視界のきかない状態にいる理子はまだそのことに気付いていない。
最近、連日のようにテレビや新聞を騒がす物騒なニュースの数々が頭をよぎり、怖くなってきた理子は急いで帰った方がいいのか悩み出した。でももしこれでコウともう二度と会えなくなったら、と思うとなかなか帰る決心がつかない。
足元でヌーベルが不安そうにキュウンと鳴く。
「……ヌゥちゃんも怖い? やっぱり帰ろうか……」
後ろ髪を引かれる思いでベンチから立ち上がる。その瞬間、背後から右肩にポン、と大きな手が置かれた。
「ひゃぁあああぁぁぁ―――ッ!?」
理子の悲鳴にすかさず反応したヌーベルが、大好きなご主人様をこの身に変えても守ろうとその小さな身体を精一杯に膨らませ、後ろのシルエットに向かって何度も吠え立て、威嚇する。
「リコさんっ、僕です! コウです!」
叫ぶのを止めた理子が振り返ると後ろにはコウが立っていた。高さの違う缶コーヒーを二本、左手だけで器用に掴んでいる。
ヌーベルは人影がコウだと分かると途端に鳴き止んだ。
「驚かせてすみません、先に声をかけるべきでしたね」
理子の口から漏れた安堵のため息に、コウは自分の非礼を詫びる。
「すごい霧ですね。このベンチまで来るのに大変でした。やっとここまで来たんですが、リコさんが帰ろうとしていたみたいだったので、見失わないように慌てて肩を掴んでしまったんです」
コウは微笑むと手の中のコーヒーを一本、理子に差し出した。
「お飲みになりますか?」
「あ、ありがとう」
差し出されたコーヒーはショート缶。それに書かれている文字は<ほんのり微糖>。
「ブラックの方が良かったですか?」
「うぅん、甘い方が好き」
「あ、じゃあこちらにしますか?」
コウは自分の手の中に残っているロング缶を差し出した。
理子は「うぅん、こっちでいい」と辞退する。コウがかなり甘めのコーヒーを好きなことはもう昨日の朝の光景でとっくに知っている。渡されたコーヒー缶はホットで、冷え始めていた手にじんわりと温もりが伝わってきた。
コウが先にベンチに腰を下ろしたので少し間隔を空けてその隣に座る。だが座った後でちょっと間隔空けすぎたかな、と後悔した。
「リコさん。僕、昨日一晩考えたんです」
激甘コーヒー缶のプルトップを開けながらコウが先に口火を切った。
「実は貴女に折り入って頼みたいことがあるんです」
即座に理子の瞳が輝く。
「分かってる! 何かのアンケートに答えるんでしょっ?」
「え?」
コーヒーを飲もうとしていたコウの動きが止まる。
「私、もう分かってるの! あなたさ、どっかの下着メーカーの社員さんなんでしょ!? だからモニターを探してるんでしょ!? 新作ブラの!」
途端にコウは快活な笑い声を上げ、ベンチの背に大きく寄り掛かかるとまだ口を付けていないコーヒ缶を右脇に置いた。
「なるほど、見事な推理ですね」
「当たった!?」
「いえ、でもちょっと違います」
「違うの?」
「はい。でも驚きました。ここでは女性に “ ブラを見せて下さい ” と頼むとそうとう顰蹙を買うようですね。つい、自分のいた所の癖で聞いてしまったのですが」
純粋に驚いた。
「じゃっ、じゃあ、あなたが住んでいる所では普通に女の子にああいう事を聞くのっ!?」
「コウ、って呼んで下さい」
穏やかなその声に優しく頼まれるとなんでもいう事を聞いてしまいそうになる。一応八つも年上なのにいいのかな、と思いつつ、どぎまぎしながら「コウ」と呼ぶ。
名を呼ばれ、コウは満足そうに笑うと、唐突に理子におかしな質問を投げかけた。
「……リコさん、貴女はなにか嫌な事があったらその事を親や友達、大切な人に話すタイプですか? それとも気分が晴れるまで自分の胸の中に閉じこめておくタイプですか?」
何かの性格占いだろうか、と思いつつ理子は答える。
「……う~ん……、楽しい事や嬉しい事なら皆に言いたいけど、嫌な事や辛い事なら言わないで黙っているかなぁ……」
「どうしてですか?」
「きっとそれを聞かされた人も同じ嫌な気分になっちゃうだろうから」
「なるほど……」
コウは理子の答えを聞くと空中の霧を見つめた。
「あともう一ついいですか? ……口は堅い方ですか?」
「う、うん。“ 誰にも言わないで ” と言われたら大丈夫だと思うけど?」
その返事にコウはもたれかかっていたベンチからゆっくりと身を起こす。
「では、これから僕が話すことを誰にも言わないでいただきたいのです。どうか僕とリコさん二人だけの秘密で」
両手の外側がふと温かくなった。
見るとコーヒー缶を持っている自分の両手の上に、さらにコウの大きな片手が重ねられている。
男性に手を握られてまた激しい拍動に襲われ始めた矢先。
「手、冷たいですね……」
そう呟くとコウのは理子の両手を優しくさすり出した。何度も優しく撫でられ、暖められる。
「ひえッ!? なっ、何してんの!?」
「済みません、僕がリコさんをお待たせしてしまったからですね……」
労わるようにコウは手をさすり続ける。
「やっ……」
止めて、と言おうとしたがおかしなことに声が出ない。手をさすられているだけなのに、なぜか身体全体から急速に力が抜けていく。
とにかく触り方が絶妙なのだ。
どうすれば快楽のツボを突くのかを熟知しているかのようなこのソフトな動き。その気持ちよさにのぼせた状態の理子はすでにコウのなすがままになってしまっている。
そんな半分意識が飛びかけている理子の耳元に落ち着きのある甘い声が響く。
今にも理子の右頬に唇が触れそうなぐらいの距離にまで顔を寄せ、コウは理子の手をさすり続けながら自分の秘密をそっと囁いた。
「……あのリコさん、驚かないで聞いて下さいね? 実は僕、未来からこの時代に来た、時空転送者なんです」