貴女は僕の最優先 <3>
久住理子、ただいま絶賛取り込み中だ。
しかも間の悪い事に母親と散歩中の幼児が通りがかり、コウに全力で抱きしめられている理子を見て「あれみてママー!」と天真爛漫さを振りまきながら声を上げる。
「タッ、タッくん! 見ちゃいけませんっ!」
今後の情操教育に悪影響を与えると思ったのか、母親が我が子の両目をすかさず手で覆う。しかしそんな母の気持ちを大胆に逆撫でするような緊急事態はここで終わりではなかった。
「離してってば! 小さい子が見てるじゃないっ!」
必死で身をよじればよじるほど、ますます強く抱きしめられる。
「リコさん! 僕が乱暴していないのならリコさんは今も処女ってことですよね!? あぁ良かった! 本当に良かったですっ!」
── こっ、この男……っ!!
脳内温度、ここで一気に沸騰だ。
「アンタこんな所で何とんでもないことを言い出してるのよぉー!!」
道の真ん中で少女の怒りは爆発したが、この叱責も完全に有頂天になっているコウには全く届いていない。それどころか、全身で喜びを表し、理子の腰に更に思いきり両手を絡めてくる有様だ。
「いたいよママー!」
幼児の悲しそうな声が聞こえた。
強烈なハグをされながらもそちらに目を向けると、つい今しがたまで我が子の両目を必死に手で覆っていた母親は、今度は両耳を塞ぐポジションに急遽変更している真っ最中だ。しかも幼児が痛がっているその様子から見て、耳を押さえつける手に相当な力が入ってしまっているらしい。
「ねーママー、“ ばーじん ” ってなぁにー!?」
若い母親の口からヒッという驚愕の声が漏れた。どうやらガードは間に合わなかったようだ。
「ねーねーママぁー! ばーじんってなぁーにぃー!?」
我が子を思う母の大きな愛は今回も実ることはなく、幼児の口から二度目の無邪気な問いが聞こえてくる。
「マッ、ママはそんなの知りませんっっっ!!」
若い母親はヒステリックにそう叫ぶと幼児を素早く横抱きにし、まるで爆弾を抱えて敵地に特攻をかけるような必死の形相であっという間にその場からいなくなった。
校門前に静けさが戻る。
ようやくコウが抱擁を解いてくれたので、十分な呼吸ができるようになった。
「本当に良かった……。今度こそ最後まで貴女にひどい事をしてしまったのかと思って……」
コウが安堵の息を漏らす。
「では昨日の僕を止めたのは父さんなんですね?」
「うん、そう」
理子は大きく頷く。
往来で大恥はかかされたが、襲われた誤解は何とか解けたようだ。これでこっちの問題はひとまずクリアだ。
「昨日父をここに呼んでいて本当に良かったです。僕、貴女と一緒になりたいということを父にも話しておきたくて」
「あ…、そ、そう……」
顔を赤らめ、もごもごと返事をする。
その辺りの事情は昨日漸次から聞かされてすでに驚愕済みだったが、こうしてあらためて本人から言われるとやはりかなり恥ずかしいというか照れるものがある。
「お、お父さんに後でお礼でも言っておいたら?」
「えぇ、そうですね」
とコウは小さく笑った。
「ねぇコウ。それであんたにすごく聞きたかったことがあるんだけど…」
その時、突風が二人の間を吹き抜けた。
不幸にもその突風は地面から急上昇する軌道だったため、制服のスカートが理子の意思に反してあっさりとその動きに乗る。
「ひゃっ!?」
理子は慌てて両手で真下を押さえたが、スカートはかなり大胆にまくれ上がり、それぞれのひだが優雅に踊る。下着を見られなかったかと焦る理子が慌てて見上げると、コウは少し驚いた表情で口元に手を当ててスカートの辺りを見下ろしていた。
「いっ、今見えちゃった!?」
「あ、はい」
コウはあっさりと頷く。若干驚いた表情ではあったが、なぜか返事は動揺など一切感じられないナチュラルなトーンだ。
「えぇっ見えちゃったの!?」
最悪な展開であったが、ここでまず頭に浮かんだのは16歳の乙女らしい初々しい発想だった。
── どうしよう! 今日カワイイ下着はいてたっけ!?
しかし焦るせいもあり、急には思い出せない。
「あ、あ、あのさ! コウに聞きたいことがあるのっ!」
「はい、なんでしょうか?」
とにかく下着を見られた事はもう無かった事にしよう! それしかない! そう思った理子は多少どもりがちの口調で先ほど言いかけていた質問を再開する。
「きっ昨日コウのお父さんが言ってたんだけどっ、 “ コウにとって私のことが最優先 ” って一体どういう意味!?」
「あぁ、そんなことですか」
コウは爽やかに笑う。
理子を傷つけていなかったという事実を知り安堵感を得たためか、先ほどとは打って変わった滑らかな口調だ。
「そのままの意味ですよ。僕にとってリコさんは、かけがえのない、最優先に大切にしたいただ一人の女性 、ということです」
サラリと告げてはきたが多大な愛情が込められているその返答に、思わず頬が紅潮しそうになる。
「じゃっじゃあ “ モデル ”は!? それはどういう意味なの?」
「僕の作るブラを身につけてくれる方のことです。だからリコさんは僕の型式であり、なおかつ最優先であるということですね」
「ナンバー・ゼロは?」
「えっ、No,0の事を知ってるんですか?」
コウが少し驚いたような表情を見せる。
「それは父さんから聞いたのですか?」
「ううん、武蔵がコウのお父さんに話していたのを横で聞いていたの」
「そうでしたか……。No,0とは最優先の別名ですよ。 “ No,1よりも更に前 ” 、という意味合いで使います」
「ふぅーん……」
理子が抱いていた疑問に対して次々と解答が明かされる。
今までの説明を聞き、とりあえずここまでの部分は多少ではあるが一応納得ができた。だが、まだ聞きたい事は残っている。
( あいつはコウだ それでいいじゃねぇか )
一番聞きたかった疑問を口にする直前で、気がかりな言葉を思い出す。
あの時武蔵が言い放った言葉の奥深くには、“ その件はコウに何も聞くな ” というプレッシャーがはっきりと滲み出ていた。
── それなのにもし私が尋ねた事を知ったら武蔵は何て言うだろう。
それにコウは私にその答えを教えてくれるのかな……?
「まだ何かご質問はありますか?」
目の前の青年は穏やかな表情で微笑んでいる。
聞かれたくないこと、そして知らないほうがいいこともある、というのはよく分かる。だが、それでも理子は知りたいという自分の気持ちを抑えられなかった。
「い、言いたくなかったら無理に言わなくてもいいんだけど…」
どんな返事が戻ってくるのかが不安で、目線を足元に落とす。
「コウの名前って “ 幸之進 ” って言うんでしょ? どうして私に本当の名前を教えてくれなかったの……?」
するとここまで笑顔だったコウの表情にわずかだが影が落ちる。
「……父さんがそう言ってたんですね」
「うん」
「その名前は父がつけてくれたんです。でもその名前は僕の本当の名前ではありません」
「え、どういうこと?」
「この話は話すと長くなってしまいます。リコさん、お時間は大丈夫なのでしょうか?」
「あ! いけない!」
理子は慌てて自分の腕時計に目を落とした。すでに次の授業が始まっている時間だ。
「ごめんっ、もう戻らなきゃ!」
「ではリコさん、今日の帰りに僕の家に寄って下さいませんか? 貴女ににまだ話せていないことをきちんと話しておきたいですし」
その提案に思わず声が弾む。
「うん! 分かった!」
「今日は出かけないでリコさんが来るのをお待ちしていますね」
「じゃあ学校が終ったらすぐに行くから!」
「はい。では後ほど」
優雅に一礼をし、晴れやかな表情でコウは去っていった。
その後姿を見送っている時、理子は自分の顔が自然とほころんでいることに気付く。
コウが自分を傷つけていなかった事を知ってあんなに喜んでいたこと、そして尋ねたことに何も隠し事をせず素直に答えてくれたこと、そして今日の午後にまた会うことができること、それら全てが今の理子にとってはたまらなく嬉しい事実だ。
( そうだ! 今日家に行く前に何か甘いものを買っていってあげようっと! コウは甘いもの大好きだもんね! )
教室に戻らなくてはいけない事もすっかり忘れ、放課後の行動をどうするかを真剣に考えていた理子に、突然グラウンドの方角から、「おい久住ッ!」とぶっきらぼうな呼び声がかかる。
思いもかけない方向からいきなり声をかけられ、理子はビクリと背筋を伸ばしてその方向を振り返った。
「広部先生!?」
誰もいないグラウンドに一人立っていたのは体育教師の広部だった。周囲に生徒はいないため、これからここで授業があるわけではなさそうだ。
広部はつい今しがたまで理子とコウがいた場所を顎でしゃくり、明らかに面白く無さそうな声でボソリと告げる。
「授業が始まったってのに随分大胆なことしてたじゃねぇか? いくらお前さんが青春時代真っ只中とは言っても、あれは見過ごせねぇレベルだな」
── ウソ!? 広部先生にもさっき抱きつかれていたのを見られちゃったの!?
先ほどの親子だけではなく、よりにもよってこの広部に先ほどのシーンを一部始終見られていた事を知った理子は焦りまくる。場合によってはペナルティとしてこのまま広部と一緒にグラウンドを百周させられる可能性もあるため、ここはとにかく低姿勢に出ておく方が得策と判断した理子は慌てて頭を下げた。
「す、すみません! すぐに教室に戻りますからっ!」
だが広部は理子のこの謝罪を軽く流し、更に突っ込んだ質問を重ねてきた。
「で、久住。今の男、お前の彼氏ってヤツか?」
「え!? あ、え、あの、その、か、彼氏とゆーか……そのー……」
まさか自分に一切の断りもなく勝手に結婚の予定を立ててきた相手とは言えない。
返事に困るその様子を見た広部は急に無言になり、何かを言いたげな表情で理子の顔をしげしげと眺め出した。
「な、なんですか、広部先生?」
「別に何でもねぇよ。ただ今の男にくれてやるには少々勿体ねぇような気がしただけだ」
あくまで何気なく思っていたことを口に出した雰囲気ではあったが、広部が発した言葉に理子は驚く。
「そっそれって、どういう意味ですか!?」
「……とりあえず今は早く教室に戻れ。そらっ駆け足っっ!!」
「はっはいぃっ!?」
突然の号令に、身体が条件反射で動いた。理子は踵を返してその場から猛然とダッシュする。
俊足の理子の姿が瞬く間に校内に消えてゆくまでの間、広部は不機嫌な表情でその場から一歩も動く事はなかった。そして理子の姿が視界から消えると、今度はやれやれといった表情で腕を組む。
「……手前勝手な理屈だとは分かっちゃいるが、やっぱりすんなりとは認められんなぁ。いきなり横から強引に獲物をかっ攫われちまった気分だぜ」
広部はやるせない口調で呟き、軽い苛立ちをこめた動作で自分の短い頭髪を数度ガリガリと乱暴に掻いた。