貴女は僕の最優先 <2>
速い。つい数秒前までためらっていたとは思えないほどのスピードで校舎内を駆け抜ける。
教師に見つかればまず間違いなく呼び止められ、叱責されるところではあったが、本日の気まぐれな幸運の女神は理子に味方をしてくれたらしい。前進を阻む恐れのある障害物に一切出くわさずに校舎の外へと出ることができた。
だが校門へと急いでいた理子の足が急に止まる。
( 誰だろ、あの子? )
小学5~6年生と思われる幼い少女がコウと何かを話している。
身長は150センチほどで、両肩に届くか届かないかほどの薄茶色の髪の裾は可愛らしくカールされていた。
女の子はコウを見上げ、何かを熱心に話しているようだ。
こちらに背を向けているためにコウの表情は分からないが、反対にその子の表情はよく見えた。女の子は少し怒ったような表情で最後に一言何かをコウに伝えた後、踵を返してその場を走り去ってゆく。
「待ちなさい!」
コウは相手を呼び止め、走り去った方角に片手を伸ばす。だがその女の子は立ち止まらずにそのまま姿を消してしまった。
その場に残されたコウは軽く溜息をつき、困り果てた様子で伸ばした手を戻して自身の口元に当てる。そしてその体勢のままで校舎の方を振り返った。そして振り返ったすぐ先に理子がいることに気付くと、驚きの表情を浮かべてその場に固まる。
「あっ、リ、リコさん……!」
硬直しているコウの表情にありありと悔恨の色が浮かんでいることに気付いた理子は、側に駆け寄ると元気よく声をかけた。
「コウ! 身体、大丈夫!? ケガしてない!?」
「……!」
自分にまさかそのような優しい言葉をかけられるとは思っていなかったコウは、感極まったような表情で言葉を無くしている。
「いつ気がついたの? 今朝?」
「は、はい」
「コウってば昨日帰る時も全然目を覚まさなかったから、私ずっと心配してたんだからね?」
「リ、リコさんっ!! もしかして僕は昨日貴女にまたひどい事をしてしまったのですかっ!?」
畳み込むような勢いでコウが尋ねる。怖いくらいに真剣な表情だ。
「一昨日の夜から今朝にかけて自分が何をしたのかあまり覚えていないんです! もしかして僕はまた貴女に…」
「それはもういいのっ!」
わざと言葉を遮る。そして明るい口調で続けた。
「あのさっ、リビドー化…だっけ? 一昨日の夜はうちのお父さんが強引にお酒を飲ませたからそれでおかしくなっちゃたって武蔵に聞いたけど、昨日もまたリビドー化しちゃったのはどうして?」
「……その辺りもよく覚えていないんです」
コウはその場で大きくうなだれる。
「リコさんのお父様と大切なお話をした後、リコさんがスパに出かけられたことを知ったんです。それで貴女をそこから助けなくてはと思って必死に走っていたら、その途中で急に頭の中が真っ白になって意識が飛んで……。そして今朝気がついたらベッドの上でした」
「タ、タイム!! スパから私を助ける、ってどういう意味よ!?」
コウは着ていたフライトジャケットの左ポケットから例の『東方行事艶語録』を慣れた手つきで取り出す。
「僕、スパが何かが分からなくて、この本で調べたら淫蕩湯のことだって書いてあったんです。それで貴女を助けにいかねばと」
「 “ いんとーゆ ” ? それって何?」
「 “ 男性が放蕩の限りを尽くす事が出来て、女性は無料で入浴出来る代わりに、裸で男性の入浴作業を最後までお手伝いしなければならない施設 ”、がスパなんですよね? 僕、そんな不埒な行為を行う場所にリコさんを絶対に行かせたくなくて……」
「ハァァァ!? 何それ!?」
驚きでまた顎が外れそうだ。
「いや、ですからこの本に」
「バカーッ!! スパはそんなやらしい事をする所じゃないわよっ! そんなデタラメなエッチ本、もう絶対に見ちゃダメだからね! そうやっていつも持ち歩くのも止めてっ! 分かったッ!?」
「は、はい! 分かりました!」
理子の剣幕に呑まれたのか、気持ちいいぐらいの即答で返事が戻ってくる。
「絶対だからねっ!? 約束破ったら許さないからっ!!」
「はい!! 守ります!! 本当に済みませんでした!!」
目の前で深く頭を垂れるコウを見た理子は、今回はこんなところで止めておくか、と思い直し、腰に手を当てた。
「……もしかして私に謝るためにここに来たの?」
コウが静かに頷く。
「えぇっ今まだ午前10時だよ!? まさか私が出てくる放課後までずっとここに立っているつもりだったの!?」
するとコウは「何故そんな当たり前の事を聞くのですか」と言いたげな不思議そうな表情を見せた。
「もちろんです。下校の時間帯に来て、万一貴女とすれ違ったりしては大変ですから」
「だっだからってフツーこんな時間からずっと待つ!? 今日も結構寒いのに!」
「いえ、リコさんをお待ちする時間などあっという間のことですから」
大不評の『東方行事艶語録』を再びポケットにしまいながらコウが答える。
「そ、そう……」
カァッと顔が熱くなるのを感じた。
どうやら5~6時間もの間、一箇所で想い人を待ち続けるという行為はこの青年にとっては大した事ではないらしい。こんな寒空の下、この人は放課後までここでずっと自分を待つつもりだったのかと思うと心のどこかで喜んでいる自分がいる。
「それよりリコさん、“ もういいの ” とはどういう意味なのでしょうか?」
襲われた本人がもういい、と言っているのにコウは執拗に尋ねてくる。
「だからもういいって言ってるじゃない」
「そうですか……、ではやはり僕はまた貴女を……」
コウは沈んだ表情で視線を落とす。
「……リコさん、実は今日ここで貴女を待っていたのは、すぐに聞いていただきたい大切なお話があったからです」
「大切な話?」
「そうです」
コウは背筋を伸ばすと女王に忠誠を誓う騎士さながらに片手を左胸に当て、「リコさんっ!」と名を呼び、その場に跪く。
「どうか僕と結婚して下さいっっ!!」
あらゆる順番を超華麗にすっ飛ばしまくったコウのムチャ振りプロポーズが発動を迎えた輝かしき瞬間だ。クラクラと眩暈がするが、予想通りの展開でもある。
「コウ、あんたね……」
「僕は貴女に二度もひどい事をしてしまいました! 例えリコさんが許してくれても、やはりこれは許されるべきことではありません! だからお願いですっ、どうか僕とっ」
「ちーがーうーっ! コウは何もしていないんだってばーっ!」
何とか真実を伝えようと両手を激しく上下に振り、理子は懸命に必死さをアピールした。しかしその言葉を聞いたコウは急にテンションを落とし、地面につけていた片膝を離してゆっくりと立ち上がる。
「……リコさんは優しいですね。僕のために嘘をついて下さるなんて」
「嘘なんかついてないってば!! だって本当に何もされてないもん!!」
しかし二度同じ言葉を聞いてもコウは深く俯いた。そして情けをかけられた事を恥じいるような表情で静かに首を振る。
「いえ……、今までは本能化している時の記憶は一切思い出せなかったんですが、実は一昨日の夜に記憶を失った以降の断片的な記憶なら今回はいくつか残っているんです。ですから自分がリコさんに何をしてしまったのかは分かっているつもりです……」
控えめに顔を上げ、後悔に滲んだままで無理に微笑もうとするその表情が何だかとてもいじらしく見え、母性本能を刺激された少女のハートが内部でキュンと音を立てる。おかげで、更なる否定の言葉を言うタイミングを逃してしまった。
「リコさん」
理子の両肩をコウがそっと掴む。
「貴女に好きになってもらえるまで僕はいつまでも待つつもりでした。ですが二度もリコさんを辱めるようなことをしてしまった以上、僕は責任を取る必要があります。いえ、責任を取りたいんです。必ず幸せにするとはお約束できませんが、でも精一杯の努力は惜しまないつもりです。だからどうか僕と結婚して下さい。お願いです」
── この時身体の中を走ったある予感に、少女は小さく身震いをする。
このままいくと多分間違いなく流される。
恐らく一気にこの豪流に乗せられて、結婚と言う名の人生の滝壺へと一直線コースだ。だがまだ何も知らない16歳の自分がこの意味不明なハプニング混じりの豪流に身を任せるのは少々危険を感じるため、抵抗の代わりに必死に大声を張り上げる。
「だだ、だぁーかーらー!! コウは私に何もしていないのっ! 私をスパから連れ出してあんたの家で無理やりエッチなことをしようとはしてきたけど、その途中でコウのお父さんに後ろから殴られて気絶しちゃったの! 私の言っていることが嘘だと思うなら武蔵に聞いてみなさいよっ!」
武蔵の名が出たため、コウがハッとした表情になる。
「それが武蔵がいないんです。どうやら父と一緒に向こうに戻ったらしくて……」
「うん、そうだよ? だって昨日コウのお父さんが武蔵に言ってたもん。武蔵にプレゼントがあるから俺と一緒に戻れって」
「父が武蔵にプレゼント……ですか?」
漸次がそのような事をするのがかなり不可解なのか、コウは口元に手を当てて少し考え込む姿勢を見せる。
「珍しいな。一体なんだろう」
「一日で帰ってくるみたいだから、帰ってきたら武蔵にプレゼントは何だったのか聞いてみればいいじゃない」
「そうですね。武蔵に聞いてみることにします」
「それで話は戻るけどっ!」
コウが素直に頷いたので、ここからは再びヒートアップして糾弾という名の戦闘再開だ。
「 “ 私に対して責任取る ” とかそういう訳分かんない事を考えないでよねっ! 昨日の朝コウがうちのお父さんにそんなヘンな事を言っちゃったせいで、今私の家は大変なことになってるんだからっ!」
「大変な事ってどういうことでしょうか? お父様にはリコさんを頂く事にすでにお許しをいただいておりますが……」
やんわりと反論され、理子の顔が瞬時に赤く染まる。
正直この件は花も恥らう乙女の口からは言いたくはない。
だが久住家で一騒動が起こっているという事実を知らないコウに、現在勃発している事態を認識させるためだ。ここは恥ずかしさを堪えて言わねばならない。
こうなったら勢いに任せて言ってしまおうと、理子はコウに向かって人差し指を突きつける。
「コっ、コウってばさ、うちのお父さんからもらったあの箱の中身を使わなかったから私を妊娠させたかもしれないって言ったんでしょ!? コウがそんなバカな事を言っちゃうからね、うちでは昨日の夜から一大ベビーブーム旋風が吹き荒れているのよっ!!」
「一大ベビーブーム旋風…ですか?」
理子が恥ずかしさに耐えて口にしたこの必死な告白でもまだ事態を把握し切れていない鈍感男は、キーワードの一部を繰り返してきょとんとした表情を見せる。
「そっそうよ! お母さんなんて “ 理子は若いから中に出しちゃったら妊娠する確率高いわよぉ~? 赤ちゃんの靴下編みはじめておこうかしら? ” なんて言ってるし、拓斗は “ 俺まだ中学生なのにもう叔父さんになっちまう可能性があるのかよ!? ” って嘆いてるし、しかもお父さんはお父さんで、“ 仕事もプライベートも根本は同じっ! 何事にも予備知識は必要だー!” なんて言い出して、本屋で手当たり次第に大量の育児雑誌を買い込んで勉強しまくってるのっ! たった一日でもうこれだけの大フィーバーぶりなんだからっ! 私はコウに何もされていないんだから妊娠なんか絶対にしているわけないのに、もう本気で勘弁してほしいわよ!」
途中一度も酸素を取り入れないで一気に言いきったため、肩まで使って息をする。
そしてこの事実を聞いたコウの様子がここで一変した。
「……じゃあ僕は、僕は本当に貴女を傷つけていないんですか……?」
そう呟いたコウの声はわずかに震えていた。そこで理子は断定の意味を込めて強い口調で言う。
「そう! まったく傷つけてないから! 全然大丈夫なの! 分かった!? 分かったら二度と……ふぁぁっ!?」
── 話の途中でいきなり抱擁された。
しかもお互いの腰が相手に完全密着するほどかなり大胆に。