貴女は僕の最優先 <1>
その明くる日。
理子は水砂丘高校三階の渡り廊下から外を眺めていた。
( コウ、もう目が覚めたかなぁ…… )
ベッドに倒れ伏し、最後までまったく動かなかったコウの事が気にかかって仕方が無い。コウをあんな目に遭わせたのは父親の漸次だが、その漸次に攻撃させた原因は自分にあるからだ。
勿論、柔肌の乙女を強引に襲おうとしたわけだから、それは絶対に許されるべき事ではない。だがそれとは別に、何となく後ろめたい気持ちと、とても心配な気持ちが理子の中で強く混在しているのも事実だ。
── 休み時間中にかけられるBGMが校内にゆったりと流れている。
ショートカットの後頭部が縦に丸めたノートでいきなり小突かれたのはかけられていたBGMが次の曲へ移ったのとほぼ同時だった。
「イタっ!」
驚き、慌てて後頭部を押さえる。すると冷淡な声がすぐ後方から聞こえてきた。
「何ボケッと外見てんだよ」
「いっ、痛いわねっ! なにすんのよっ!」
振り返った理子は目線を上げ、クラスメイトの笹木 蓮の浅黒い顔をキッと睨みつけた。蓮は丸めたノートで自分の首筋を二度軽く叩き、無表情で再度同じ質問を繰り返す。
「何をしてるのかって聞いている」
「私が何をしてようとそんなの笹木に関係ないじゃん!!」
「……」
蓮は窓から差し込む日差しで黄金色に輝く自分の髪をわずらわしそうにかき上げると、今度は蔑視に限りなく近い冷めた視線を容赦なく理子に送りつけた。
「お前が今朝からボケッとしているせいでアホな横面がずっと視界に入っていい迷惑だった。お前のせいで勉強に集中できなかったから速やかに責任を取れ」
「ハ!? なによその訳の分からない言いがかりは!」
「いいから責任を取れ。購買でポカリ買ってこい」
「なにそれ! なんで私が笹木に奢んなきゃいけないのよ!」
「いいから来い」
右腕が宙に吊り上る。
「いっ、いたた! ちょっと止めてよ腕掴むの!」
結局半ば拉致のような形で理子はその場から連れ出された。
廊下を引きずられるように歩かされ、ついに我慢できなくなった理子は蓮に噛み付く。
「笹木! あんた転校生のくせに、なんでいっつも私にばかり突っかかるのよ!」
「別に。お前が俺の隣に座ってるからウザいだけだ」
「席順なんてクジで決まったことでしょ! 私のせいじゃない!」
「おい購買ついたぞ。いいから早く買え」
「あんたねー! よくもしゃあしゃあとすっとぼけた顔で女の子に奢らせようなんて真似が出来るわね! フツーは男が奢るもんでしょっ! コウなら絶対……」
“ コウなら絶対そんなことしない ” と言いそうになって慌てて口元を押さえた。
「コウ? 誰だそれ?」
蓮の顔が怪訝そうに曇る。
「だ、誰でもいいじゃない! 奢ればいいんでしょ! 奢れば!」
ポカリではなく、わざとその下の「超あったか汁子」でも買ってやろうかとも思ったが、今度はどんな毒舌がくるか分からない。自動販売機にコインを突っ込み、渋々ポカリを購入すると理子はそれを放り投げるように渡した。
「はい! これで満足でしょ!」
空いている片手でなんなくそれをキャッチした蓮の声は不満げだ。
「おい、コウって誰だよ」
「だ、誰でもいいじゃない!」
「俺らのクラスの奴か?」
「違うわよ! だから笹木には別に関係ないじゃん!」
「…………」
蓮は不貞腐れた顔でプルトップを引き起こし、中身を一気に飲み干すと、空き缶を理子に押し付ける。
「捨てとけ」
「なっ……!」
青い缶を手にわなわなと怒りに震える理子をよそに蓮は背を向け、さっさと教室へ戻っていく。
「なんなのよもうっっ!」
振りかぶるぐらいの大きなモーションでくずかごに空き缶を投げ入れ、蓮の背中に向かって思いっきり舌を出してやった。
たまたま席が隣だったからとはいえ、最近の理子はいつもこうして蓮のパシリのような真似をさせられている。
「あ! 理子がいた~!」
そう叫びながら駆け寄ってきたのは真央だ。
ただし運動神経が鈍い&しとやか系の真央の走りは、走っているというよりランラララン、と暢気にスキップしているようなスピードである。
真央は理子の側にまで駆け寄ると、歩き去ろうとしている蓮の後姿を見て笑う。
「もしかしてまた笹木くんにイジめられてたの?」
「あの金髪男、本当にムカつくよ! なんで私にばかり絡んでくるのか分かんない!」
「席が隣だから仕方ないんじゃない? まだ友達もいなさそうだし、きっと理子なら話しやすいのよ」
「冗談じゃないわ! あーもう早く席替えをしてくれればいいのにーっ!」
両手をぶんぶんと振りながら理子が怒りを露にした時、真央が「あっ桐生先生だ!」と嬉しそうに叫ぶ。
「え?」
真央を視線の先を追って振り返ると、通路の先から桐生がゆったりとした歩調でこちらに近づいてくるのが理子の目に映った。
ポケットに手を突っ込み、背をかがめ気味に歩いていた蓮がその横を通り過ぎようとした時、桐生が何か一言話しかけた。そして蓮の頭を軽くポンと触る。
いきなり声をかけられて頭頂部を軽く触られた蓮は、一瞬足を止めて胡散臭そうな目で桐生を見た。だがすぐに顔を背けると無言でそのまま歩き去って行く。
「いいなぁ笹木くん、桐生先生に頭撫でてもらって……」
進行方向を変えた桐生が右の通路へと曲がり姿を消した途端、頬を桃色に染めた真央が心底羨ましそうな声を出した。
完全に恋する乙女モードに入っている真央を様子を目の当たりにし、理子は感心したように呟く。
「本当に真央は桐生先生が好きなんだね」
「うん!」
弾む声でそう答えた真央の顔を見た理子は、可愛い、と素直に思った。
きっと、これが恋している顔。今の私もこんな顔をしているのかなぁ、とふと考える。
「ねぇ理子。私、桐生先生のことが好きで良かったなぁって思う」
「何? 急にどうしたの?」
「うん、なんとなくだけどね…」
もじもじと身をよじらせ、少し言いづらそうな口調でそう前置きした後、真央はそっと目を伏せて告白する。
「…もし、今私に好きな人がいない状態だったら、もしかしたらあの人……、コウさんを好きになっていたかもしれないって思うから」
「えぇーっ!? 真央っ、それホントッ!?」
それは予想もしていなかった突然の出来事だった。親友の突然の告白を受け、声が意思に反して勝手に裏返る。
「ふふっ、そんな顔をしないで理子」
焦る理子の様子を見て真央は柔らかい表情で微笑んだ。
「今の私が好きなのは桐生先生なんだから。今は先生のことしか見えていない。たとえライバルが多くても、それでも私は先生が好き。この気持ちは変わらないから大丈夫よ」
体内では動揺のために心臓がドキドキと激しい脈を打ち出している。そんな自分の鼓動を感じているにもかかわらず、理子は「ハ、ハハ、そっか」と努めて平静を装った。
「でもさ、昨日の天女の里でのコウさんって、今思い出してもすっごくカッコ良かったよね」
真央は急にキラキラと目を輝かせ、理子の顔を覗きこむ。感情が大幅にヒートアップしているためか、いつもの真央に比べればかなり早いテンポの口調だ。
「だって理子がお風呂場の中に突っ込んできたトラックの下敷きになりそうになったのを、自分の身の危険も顧みずに間一髪で助けたんだもん! いくら理子のことが好きだからってなかなか出来る事じゃないと思うのっ。理子が今こうしてケガ一つしないで元気でいられるのもすべてはコウさんのおかげよねっ」
「う、うん……」
「だから理子はコウさんにいっぱい感謝しなきゃダメよ?」
「そ、そうだよね」
まだ少々戸惑いがあるものの、二度相槌を打つ。
どうやら昨日武蔵が行った『記憶操縦』とやらで、一昨日コウが引き起こしたスパ破壊は “ トラックの暴走による偶発的な事故 ” として、真央やスパの関係者の記憶に綺麗に上書きされてしまっているらしいのだ。
今朝、真央から初めてこの話を聞かされた時は、親友が言っている意味がまったく分からずに唖然としてしまった理子であったが、おおよその推測がついた今は、こうして何とか苦笑混じりに頷けるようになったところである。
武蔵によって造られた記憶を最後までなぞり終えた真央は、「だからね」と、どことなく感傷的な表情で呟く。
「もし私もコウさんのことが好きになっていたら、私達困った事になっていたのかなぁ、って今ふと思っただけよ」
「それってドラマとかではよくある展開だけど、もし同じ男の人を好きになっちゃったらきっと辛いだろうね」
「そうね。どうしたらいいのか分からなくなるかも」
二人はお互いの顔を見合いながら、もし自分達がそういう状況に陥った場合を脳内でシミュレーションし、それぞれ淡い溜息をつく。
「……ね、理子はそうなっても友情って続くと思う?」
「続く……と信じたいな」
「私も」
しかし真央はまた一つ溜息をつくと耳にかかる髪をかきあげた。
「ねぇ理子。桐生先生ってどこか不思議なところがあると思わない?」
「不思議なところって?」
「私は先生のことが好きだから余計にそう思うのかもしれないんだけど、桐生先生って何だか存在感が私達と違うの。う~ん、何て言ったらいいのかな、そうね、例えるなら仙人のような感じ? “虚空に生きている人” って感じがするの」
「んー…、どことなく飄々とした雰囲気があるとは思うけどさ、さすがに仙人は言いすぎじゃない? 前から思ってたけど、真央は桐生先生に対してイメージ補正が強すぎだよ」
「ウフフッ、確かにそうかもね!」
そうあっさり認めると、真央はもう一度桐生が去った方角を見つめた。
「それよりも当面の問題はどうやって桐生先生と二人っきりのチャンスを作るかなのよね。どうすればいいのかなぁ」
「とにかく倍率高すぎだよね……。この高校の女の子達の半分は、桐生先生の事がいいなぁ、って思ってるんじゃない?」
「本当にそうよね。先生を振り向かせるのは東大に行くより難関そうな気がしちゃうもん」
若干ブルーになってしまった真央を元気付けようと、理子はグッと拳を握りしめてエールを送る。
「でも真央、明日から修学旅行じゃない! もしかしたら二人きりになるチャンスが来るかもしれないよ? だからここは決して挫けずファイトあるのみだよ!」
「うん、頑張る!」
「そうそうその意気だよ、真央!」
二人は声を合わせて笑った。
しかし真央はすぐに笑う事を止めて「あっ大変っ! 忘れてた!」と叫ぶ。
「理子、ちょっと来て! こっちの方がよく見えるから!」
そう言うと真央は理子の手を取り、別の窓に向けて走る。
「ほら! 校門のすぐ横にいる人を見て! 私あの人があそこに立っている事に気付いて、それで理子を探していたの!」
真央が指差す方向を見て、理子も声を上げた。
「コウッ!?」
理子は窓枠に手をかけるとそこから大きく身を乗り出し、コウと思われる人物に視線を注ぐ。門柱のすぐ横にひっそりと佇み、俯くその容貌はまさしくコウだった。
「理子! そんなに身を乗り出しちゃ危ないよ!」
今にも落ちそうに見えたのか、真央が慌てて理子の腰にすがりつく。そして慈愛のこもった声で言った。
「やっぱりあの人コウさんだよね?」
「う、うん。間違いないと思う」
「じゃあ理子、行ってきたら?」
「エ!?」
「あの人の所に行きたいんでしょ? だって顔に書いてるもん」
「ウソッ!?」
慌てて自分の頬を両手で触った理子を見て、真央はとても優しげな表情で笑った。
「大丈夫。もし戻ってくるのが間に合わなくて休み時間が終っちゃったら、私の方から上手く先生に言っておくから」
本心は今すぐにでもコウの元に行きたかった。だがこのいきなりの提案にまだ心の準備が出来ていない理子は言葉を濁す。
「で、でも……」
「ほら、私の気のせいかもしれないけど何だかコウさん元気がないように見えるの。だから早く行ってあげて。ね?」
その言葉と共に真央が掌全体でそっと理子の背中を押す。それは決して強引な力ではなかったが、思わず足が自然と前へ出た。
「行ってらっしゃい、理子」
振り返ると微笑む真央が小さく手を振っていた。
「……うんっ! ありがと真央! 行ってくるっ!」
親友の優しい後押しで決心がついた理子は笑顔でそう叫ぶと、校門側で佇むコウの元へと一目散に走り出していた。