a rival in love <9>
「どうした子雌?」
リビングを出て玄関に向けて歩いていた理子の足音が廊下の途中で急に止まったため、先導していた武蔵が振り返る。呼びかけられた理子は廊下の分かれ道の先にある扉に控えめな視線を送り、その後ためらいがちに答えた。
「……コウの様子、もう一度見てから帰る。やっぱり心配だし」
「へぇ、お前意外と優しいとこあんじゃん! 見直したぜ!」
「う、うるさいわねっ!」
この傍若無人な電脳巻尺の前でだけは弱みを見せたくない理子は、照れを隠そうとわざとそんなつっけんどんな言い方をした。
「じゃあこっちだな。来いよ」
唐草模様の巻尺は方向転換をして寝室へと向かい出した。
「待ちなさいよ武蔵っ」
今いる場所がよく声の響く廊下ということもあり、理子は目の前を浮遊する武蔵の背に向かって、“ 声量を抑え気味にしながらも怒りを表す ” という器用な技を繰り出す。
「その前にあんたに言いたいことがあるんだけどっ!?」
「なんだぁ? 急にドスのある声を出しやがって」
「あんた昨日の夜、私たちの事をずっと見てたんでしょっ。だったらどうして私がコウに乱暴されていないって事、コウのお父さんにきちんと話してくれていないのよっ? あんたがちゃんと説明してくれていないから、コウのお父さんがあんなとんでもない誤解をしちゃってるんじゃないっっ」
「それはしょうがねぇじゃん」
乙女の不満全開な小声主張を聞いた武蔵は、前進を止めて理子の方を振り返ると、その場で停滞浮遊を開始する。
「漸次さんに昨夜の大筋の流れをざっくりと話したところで、着替えたお前がもう居間に来ちまったんだ。大体な、あんな短い時間で細部に渡る詳しい説明なんか出来るかよ。少しは状況を考えろ」
「じゃあ私が帰ったら絶対にその事はコウのお父さんにきちんと説明してっ。特に私が妊娠したっていう誤解だけは、絶対に、間違いなく解いておいてよねっ!」
「へーへー、分かった分かった。お前さんの仰せの通りにしておけばいいんだろ」
肩を竦められない仕草の代わりなのか、武蔵は己の巻尺を一瞬だけ体内から素早く出し入れする。
「それと、コウが破壊したあのスパ、一体どうするつもりっ? きっと今頃あの周辺は大騒ぎになっちゃってるわよっ」
「あぁそういやそうだな、あの後始末をしなくちゃいけねぇか……。ま、それは俺様がこれからちょいと出かけて上手くやってくるさ」
「上手くって?」
「記憶操作だよ。前に話したこと無かったか?」
「あ、記憶を勝手に変えちゃうってヤツ?」
「そうだ。お前の友達の記憶も軽く弄ってこないとなぁ」
「えっ、まさか友達って真央のこと!?」
「あぁ」
それを聞いた理子は真央の身を案じ、勢い込んで尋ねる。
「ちょっと武蔵! それ、痛かったりとかおかしな副作用が出るとかじゃないでしょうね!?」
「大丈夫だっての。黙って俺様を信用しとけ」
あからさまに面倒くさそうな口調でそう答えると、武蔵はまた前を向く。もう一つどうしても尋ねたい事があった理子は、武蔵が前進を始める前に慌ててそれを口に出した。
「それとコウの本当の名前、“ 幸之進 ” って言うんでしょ? コウはどうして嘘をついたの? どうして私に本当の名前を教えてくれなかったの?」
「…………」
一瞬の間を置き、音声を一段階低く下げた武蔵の言葉が廊下に響く。
「嘘なんてついてねぇよ」
軽く振り返り、そう答えた武蔵の口調は、突き放したような冷たさを感じられるほどの鋭いものだった。その威圧感に飲み込まれまいと、負けず嫌いの理子は強気に言い返す。
「だ、だってさっきお父さんがそう言ってたじゃないっ。でっ、でもどーせあんたのことだから、またマスターの重要な情報は絶対に教えられないっていうんでしょっ? 分かってんだから!」
すると武蔵は黙って背を向け、また沈黙の秒数を少しだけ溜めた後にボソリと呟いた。
「……あいつはコウだ。それでいいじゃねぇか」
その呟きを聞いた時、理子はこの唐草電脳巻尺の背からある一つの意思を感じた。
恐らく武蔵はその理由を決して自分の口からは語らないだろう。それを肌で感じた理子は、言い返そうとした言葉を仕方なく胸の奥にしまう。
「それより子雌」
理子が黙り込んだので、武蔵が会話の内容を変えてくる。
「俺は一日ここを留守にするから気をつけろよ」
「ハ? 気をつけろってどういうこと?」
「漸次さんはああ言ったが、琥珀はコウに関することでは少々常軌を逸した行動を取る事がある。今のお前はあいつにとって明らかに敵に見えているはずだ。だから十分に気をつけろ。いいな?」
いつもの武蔵からぬかなりの真剣味を帯びたその警告に、理子も思わず頷く。
「う、うん。分かった」
すると理子が自分の警告に素直に従ったので安堵したのか、武蔵は重苦しさを伴っていた音声を和らげ、自身を律するかのように呟く。
「お前に何かあったら俺はコウに顔向け出来ねぇからな」
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
寝室の扉前に着くと、武蔵は音声を消音一歩手前の音量にまで下げ、理子に命令する。
「……子雌、出来るだけ呼吸を浅くして気配を消せ」
「えっ、なんで?」
「いいから俺様の言うとおりにしろ」
「う、うん」
「俺が合図するまで動くなよ?」
理子に念を押した後、武蔵は巻尺を出し、ドアレバーに絡めてゆっくりと下に引いた。しかしなぜかレバーはほとんど動かない。
「あいつ鍵かけてやがる」
忌々しげに吐き捨てると、武蔵は大きな音を立てないように最大限の注意を払いながら体内からクロスピンを出し、それを鍵穴に差し入れた。ピンが内側に捻れるような動きを見せたかと思うと、わずか二秒足らずで鍵が外れる。
「行くぞ」
扉がゆっくりと音も無く開かれる。そして開放された室内の様子を見た理子は唖然とした。
「ハァッ、ハァッ……! あぁ~ん、コウ様ぁぁぁ~~っ!!」
うつ伏せに倒れているコウの右手の下に潜り込み、ピンク色の市松模様の電脳巻尺が、自分の本体をコウの掌に何度もこすりつけて悶えまくっているという、淫靡とは少々別の意味での衝撃シーンがそこに展開されていたからだ。
「……おい、そこの痴女」
低音声で武蔵が琥珀を呼ぶ。
「きゃんっ!?」
身体を擦り付けるその行為に夢中になるあまり、武蔵や理子が室内に入ってきたことにまったく気付かなかった琥珀は、驚いてコウの手の中から勢い良く転がり落ちる。
「な、な、何よあんた達! 勝手に入ってきて!」
「勝手に鍵をかけてんじゃねぇよ。それより何してたんだお前は」
すると琥珀は明らかに憤慨した口調でその理由を話す。
「だって久しぶりにコウ様にお会い出来たんですものっ! だから今のうちに目一杯肌と肌を会わせておきたいじゃないっ!」
「しかし相変わらずどうしようもないヤツだな。いい加減に自分の立場をわきまえろよ? お前は漸次さんの電脳巻尺だろうが」
「うっさいわね! そんなことアンタに言われなくても分かってるわよ!」
こいつにだけは言われたくない、といった様子で琥珀が可愛らしい音声を張り上げて怒鳴る。
「それに、漸次様に不満があるわけじゃないわ! 漸次様のあの大きくて太くてゴツゴツした十の指で、がっしりとこのカラダ全体を強く掴まれるとビンビンにエクスタシーを感じるわよ! 無理やり犯されてるような感じがして毎回かなり感じまくってるわよっ! でもワタクシが一番感じちゃうのは、やっぱりコウ様のこのスベスベした手の中なんだもんっ! 理性とは別にアタクシの本能がどこまでもコウ様を欲しがっちゃうんだもんっ、カラダが勝手に疼くんだからしょうがないでしょーっ!」
「……ったく」
怒涛の勢いで煩悩満載な琥珀の本音エロトークを聞かされ、武蔵の体内から溜息代わりの高い異音が漏れる。
「前々から思ってはいたが、マジでどうしようもない痴女だな……。成型工程で何かミスがあったとしか思えない淫乱さだぞ。なぁお前、もしかして内部の緻密陰部がどこか抜け落ちちまっているんじゃねぇか?」
「うるさいうるさーい! 早く出てって! ワタクシとコウ様の甘い一時を邪魔しないでよ!」
「甘い一時って、コウは気絶してるじゃねぇか」
「いいのーっ! たとえ気絶なさっていても、ワタクシとコウ様は熱いハートでしっかりと繋がってるんだから!」
「おいおい、今度は熱いハートで繋がってるときたか。電脳妄想症もそこまでくると感嘆の極みだな」
「うるさいうるさいっ! いいから早く出て行きなさいってばーっ!」
「やなこった。コウの身は俺が守る」
「守るってどういう意味よ!? いいから武蔵はあっちに行きなさいよっ!」
二つの電脳巻尺が激しく言い争っている隙に、理子はベッドに倒れ伏しているコウに近づいた。先ほどからまったく変わっていないその体勢に、理子の心に小さな痛みが走る。
( コウ、また明日絶対に来るからねっ! )
二体の電脳巻尺たちに聞こえないよう口中でそう呟くと、理子はいたわるようにコウの頬にそっと手を触れ、赤い前髪を指で優しく梳った。