Dramatic love! <3>
「神様、どうかもうあのヘンタイがいなくなってますように……!」
帰宅の途につく理子は胸の前で軽く十字を切り、恐る恐る校門の外へと出てみる。
いつもは真央と一緒に下校するのだが、最悪な事に今日に限って生徒会の書記をしている真央が総会に出席することになったため、一人で帰る事になってしまったのだ。
女性の下着に異常な情熱を持っているようなヘンタイに気に入られちゃったのかも、と思うだけでズッシリと気が重くなる。
しかしなぜかここで青空に向けて未練がましく大きなため息を一つ。
朝に引き続き、つい一時間ほど前に見たあの青年の笑顔が脳裏から離れない。正直な所、あの青年のルックスが完全に自分の好みだったからだ。
背も百八十近くはあったし、マスクもいいし、細身だがただ細いだけではなくてどことなく筋肉質っぽい所も全部ひっくるめてタイプだった。強いて難点をあげるとすればあのちょっと派手な赤い髪ぐらいだ。それだけに本当に残念でならない。
大きく息を吸い覚悟を決めて正門を出ると、すぐに前後左右、辺り一帯をか弱き小動物インパラのようにキョロキョロと見渡す。が、周囲に赤い髪のライオン……もとい人影は見当たらない。 とにかく今のうちだ。
急いで帰ろうと小走りになりかけたが、高校のすぐ隣にある小さなファンシー雑貨屋で一旦足を止める。シャープペンシルの芯がもう切れそうだったのをふと思い出したのだ。さっさと芯を買って帰ろうと店先に近づいたが、綺麗に並べてあるたくさんのシャープペンシルが目に留まり、何気なくその一つを手に取る。
デザインは黒と白のみのシンプルなものから、ノック部分に動物の立体キャラクターがつけられているキュート系の物まで様々なタイプがあった。それぞれのタイプを一通り手に取りあれこれ吟味した後、その中で一番気に入った物を芯と一緒にレジに持っていこうとした時。
「貴女はヒヨコがお好きなんですか?」
上から声が降ってきた。
背後にまったく人の気配を感じなかったので、驚きは倍になり、思わずシャープペンシルを取り落としそうになる。今朝聞いたばかりのその穏やかな声には当然まだ聞き覚えがあった。
慌てて振り返ると、朝に横っ面を引っぱたき、体育の授業中にフェンスの向こう側で手を振っていた、例の “ 見かけは爽やか好青年 ” が、
「またお会いしましたね」
などと言いながらいつのまにか目の前に立って微笑んでいる。黒のハーフコートが理子の方に向かって揺れ、またかすかにマスカットの香りがした。
「今朝の貴女の一発、かなり効きました。おかげで一気に目が覚めましたよ」
自分に失言があったとはいえ、いきなり引っぱたかれたのに怒るどころか青年はニコニコと笑っている。責める様子もまったく感じられない。
「あ、あなた! 今日私の体育の授業を覗きに来たでしょ!?」
理子は脅えを悟られないように攻めの口調で応酬しながらも、いざとなったらこの雑貨屋の中に逃げ込んで助けを求めようと考えていた。
「覗きに来た、とは随分な言われようですね」
しかし青年は特に気分を害した様子も無く、変わらずに笑みを浮かべている。その優しげで穏やかな笑顔にまたしても魅入りそうになってしまう。
( ―― これで今朝「ブラ見せて」なんて変なこと聞いてこなかったら、この人のこと、絶対好きになってるのにーっ! )
地球の裏側にまで突き抜けるぐらいの強さで地団駄を踏みたい気分だ。
「これ、お返しします。貴女、あの後これを落として行かれたんですよ」
青年はハーフコートの左ポケットからスッと何かを取り出した。
「あっ!」
青年の手のひらの上に鎮座しているものを見た理子は思わず大声を出す。
そこには小さなピンク色の小銭入れがあった。朝の散歩の途中で何か飲みたくなった場合に備え、散歩の時だけに持ち歩いている物だ。
「あ、ありがとう……」
少々気まずかったがとりあえず礼を言ってその小銭入れを受け取った。
しかしそれはそれ、これはこれだ。再びキッと青年を見上げて問い詰めるように尋ねる。
「あ、あなた、まさかストーカーじゃないでしょうねっ!?」
「ストーカー……ですか?」
青年はキョトンとした顔で問い返す。
「済みません……その言葉の意味がよく分からないのですが……」
「エェ!?」
理子は驚きの声を上げた。
「ちょっと失礼します」
たった今、小銭入れを出したポケットと反対の場所から、古びた黒い小型の事典のようなものを青年は取り出した。
「載っているかな……」
そう呟きながら中のページをめくり出す。青年が手にしているその本の背表紙がちょうど理子の目線と同位置だったせいで、かすれてはいるがその本のタイトルが目に入った。
“ 東方行事艶語録 ”
タイトルは何とか読むことが出来たが、著者名の金字は完全に剥げきっていて読むことができない。
「あの、よろしければ今の言葉の意味を教えていただけますか?」
どうやら載っていなかったらしい。本を閉じ、青年は真面目に尋ねてくる。
「だ、だから! ストーカーっていうのは、特定の人物の後を勝手につけまわす人間のことよ!」
理子のこの短い説明で青年はすぐに理解したようだった。
「あぁ、分かりました。ここではストーカーっていうのですね」
「は……?」
「あ、いえいえ、こちらの話です。失礼しました」
青年は優雅に手を振った後、少し心外だという様子で理子の顔を見る。
「あの、逆にお尋ねしたいのですが、なぜ僕が貴女の後をつけまわしていると思ったのでしょうか?」
「だ、だってどうしてあなた、私の高校が分かったの!? この中には小銭しか入れてなかったのに……!」
それを聞いた青年は「あぁ、なるほどですね」と呟くと笑顔のままで少し身をかがめ、理子の顔を人差し指で指した。目の前に突きつけられたその手は男性とは思えないほど綺麗な手だ。
「それは簡単に分かりました。貴女の名前は “ くずみ りこ ” さんって言うんですよね? そしてこの高校に在籍する二年生です」
── 嫌な予感は現実に。理子の顔色が青くなる。
その怯えた顔を見れば今の理子の心の中を読むのは誰でも出来る容易いことだ。青年はおかしそうにまた笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいですよ。実は貴女のご友人に教えてもらったんです」
「ゆ、友人? もしかして真央のこと?」
「マオ? いえ、違います。ほら、貴女があの公園で毎朝会っておられる、ちょっと寂しそうな顔のお爺さんがいらっしゃいますよね?」
「あ」
そういえばあのお爺さんに名前と学校を訊かれたことがある。
「貴女が走り去ってしまわれた後、それが落ちていることに気付いたんです。どうしようかと困っていたら、その方、芝田さんと仰るんですけど、僕らの一部始終を見ていたみたいで、貴女のお名前と通っている高校を教えて下さったんです」
「そ、そうだったの……」
やってしまった、完全な勘違い。とにかく謝らなければ。
「あ、あの……失礼なこと言っちゃってごめんなさい……」
すると青年は優しげな表情のまま、小さく首を振る。
「いえ、いいんです。貴女にもう一度お会いしたかったから……」
「エェーッ!?」
青年の意味深な台詞に心臓の鼓動が一気に早まる。
この強烈な右ストレートに、ファイティングポーズを取る間も無くノックダウン寸前の理子は一人あわあわと右往左往するばかりだ。しかしまだ敵のラッシュは終わらない。
「リコさん」
今度はいきなり名前で呼ばれた。
「ははは、はいぃっ!?」
混乱レベルは最大MAXだ。
乙女妄想回路も許容値を大幅に超えた高負荷により、完全にシステムダウン。リングに投げ込む白タオルが必要かもしれない。
「今朝は本当に申し訳ありませんでした……!」
背筋を伸ばし、直立不動の体勢を取ると、青年は大きく前方に身体を折る。
「完全に僕の配慮不足でした。初対面の女性にいきなりあんなことをお願いしてしまって……。でも悪気は無かったんです。どうかそれだけは信じて下さい。お願いします……!」
謝辞と共にさらに身体が深く折れ曲がる。それは角度にして優に四十五度を軽く超えていた。
自分への告白ではなかったことに微妙にガッカリしつつも、真摯な態度で平謝りするコウの姿を見て理子の中に一つの疑問が浮かび出す。
でもただ「ブラを見たい」という目的でないとするならば、それは一体どんな理由なのだろう。それを確かめたくなった。
「あなたの名前はなんて言うの……?」
理子の口調から棘が消えたので青年の顔にホッとした色が浮かぶ。
「あ、そうですね。そういえば僕だけ貴女のお名前や年齢を知ってるのは不公平ですよね。僕の名前はコウと言います。年は二十四です」
「二十四歳!?」
「はい」
「見えない……」
と理子は呟いた。
童顔のせいか、頑張ってもせいぜい二十歳くらいの容貌だ。
「よく言われます」
コウは照れたように笑った。
さぁいよいよ本題だ。
「……あ、あのさ、女の子のブラなんか見てどうするの? 私、今朝は驚いていきなり引っぱたいちゃったけど、今はあなたが単にエッチな興味本位であんなことを頼んできたようにはもう思えない。も、もしかして何か特別な理由があったりするとか?」
この言葉でコウの顔から急に笑みが消えた。そして正面の理子をまじまじと見つめる。向き合ったその顔は恐ろしいほどに真剣で、好みのタイプの男性から見つめられて、自分の視線の先の置き場所が分からなくなる。
右にするべきか、それとも左に流すべきか。
結局恥らいながらわずかに目を伏せた。
「リコさんの仰るとおり、理由はあります。僕にとっては重大な理由です」
どうやらかなり深刻な理由らしい。真面目に語るその顔は百%本気の顔だ。
「ど、どんな理由?」
「僕自身の成長のためです」
「はぁ?」
その言葉の意味が分からない。その成長とやらの為に、出会う女性に片っ端から「ブラを見せてください」と頼んでいるのなら、やはりヘンタイの烙印をあらためて押させてもらうことになる。
「でもまさかこんなに早く見つけられるとは思いませんでした」
そのコウの言葉に理子の視線は再び正面遥か上へと昇る。
「見つけた、って何を?」
「貴女をです」
「は?」
今度の意味も分からない。
「それ、僕にプレゼントさせて下さいませんか」
「え? それって?」
コウが指差す先は手の中の淡い黄色のヒヨコペンだった。返事が遅れたその隙に、ヒヨコはするりと上に逃げていく。
唖然とする理子の手からそれを取り上げるとコウは雑貨屋の中へ入っていってしまった。やがて三十秒もしないうちに小さな袋を手に戻ってくる。
「どうぞ」
白い紙袋が目の前に差し出される。
雑貨屋のオバさんが紙袋をケチッたのか、どう見ても入りそうにない小さい袋に無理やり商品を突っ込んでいるのでヒヨコのノック部分が思い切りはみ出している。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 買ってもらう理由なんかない! しかも私、あなたを引っぱたいてるのに! お金ちゃんと払うからっ!」
「いいんです。遠慮なさらないで下さい」
「だっ、駄目だってば! お金払うっ!」
少額とはいえ、買ってもらう理由も無いのに受け取るわけにはいかない。頑なに固辞し、慌ててブルーのスクールバッグから自分の財布を取り出そうとした。しかしファスナーを開けようとした理子の腕をコウの手が優しく掴み、押し留める。
「ひゃぁっ!?」
心臓がビクンと跳ねあがり、思わず叫んでしまった。異性との接触経験値はまだまだ初期値の理子には腕を取られたこの程度でもかなりの刺激だ。
「リコさん」
またいきなり名前を呼ばれ、反射的に「ハイッ?」と答えた声は面白いぐらいに声が裏返っていた。
掴まれている腕の部分が暖かい。
コウの手はとても綺麗な手だが、制服のジャケット越しに伝わる指の間接や節々の感触は確かに男性のもので、そのギャップにまた理子の胸は大きく高鳴る。
「よろしければ明日お時間を取っていただけないでしょうか?」
「明日…?」
「はい。まだ貴女にお話したいことがあります」
「はっ、話があるなら今ここでしてよっ!」
このままだと自分の気持ちごと、コウのペースに流されてしまいそうだ。虚勢を張り、必死で強気の口調を保つ。
「僕もそうしたいのですが、この後、人と待ち合わせをしていますので……」
コウは残念そうに暮れ始めている秋の空を見上げる。
「リコさん、明日も今日お連れになっていた犬の散歩に行かれるのでしょう? 明日、今朝と同じ時刻に僕はまたあのベンチにいますのでいらして下さい。では今日はこれで失礼します」
一方的に用件を伝え、去りかけようとするコウを理子は慌てて呼び止める。
「あっ! 待ちなさいよ!」
「明日お待ちしていますねっ」
「ちょっと! だから、まっ、まだ私行くって言ってな……!」
だが待ち合わせに遅れそうなのか、急いだ様子のコウは最後に会釈をし、身を翻すとかなりのスピードで走り去っていってしまった。
「足、早っ……!」
コウの俊足に思わず独り言が漏れる。
そして遠ざかる黒コート姿が完全に見えなくなると、理子は回れ右をして家路につき始めた。
明日、行くべきか行かざるべきか。
あのコウという青年がヘンタイでないという確証はまだ取れていないのにノコノコと出かけていくのは危険ではないだろうか。でも今日の真央ではないが、こうしてもう一度話をしてみて、コウが悪い人間にはどうしても見えない。その思いはさらに強くなる。
悩みながら視線を落とすと、たった今プレゼントされたシャープペンシルが視界に入り、紙袋からはみ出している黄色のヒヨコとバッチリ目が合った。
飛び出たまん丸の目の部分があちこちにくるくると動き、そのお間抜けでひょうきんな愛くるしさに思わず微笑みが浮かぶ。
( ―― うん、明日目を覚ましてから考えようっと! )
胸が少しだけ軽くなった理子は決断を明日に先延ばしにすると、ヒヨコペンを大切そうにスクールバッグの中にしまいこんだ。