a rival in love <1>
── タコだ。
タコが現れたのかと思った。
それが突如現れた黒いシルエットを、薄暗い視界の中で目の当たりにした理子の正直な感想だった。
「大丈夫か?」
と、扉口から声がする。
ちなみにその黒いシルエットの身体的特徴を箇条書きにしてみると、
低く野太い声。
大柄、かつ筋肉隆々の鋼のような肉体。
黒いサングラスに覆われた強面から滲み出す迫力。
……なのになぜそれがタコに結びつくのか。理由は至極簡単、単純明快で、
『 頭部がまん丸に輝いているから 』 であった。
それは朝日の中に佇ませれば背後に後光が差しかねないほどのテカリっぷりであり、その丸みは古の僧侶を連想させ、思わず伏し拝みたくなるような見事なフォルムである。
よって、タコそのもの、というよりは、 “ タコ入道”が現れた ”と言ったほうがふさわしいのかもしれない。
サングラスをかけた大柄タコ入道は、理子に向かって「大丈夫か、嬢ちゃん?」と再び問い、まだパニックから完全に脱却していない理子は、無言でコクコクと二度首を縦に振った。その様子を見たタコ入道は更に続けて尋ねる。
「もしかしてあんたがリコっていう嬢ちゃんかい?」
「どっ、どうして私の名前を……?」
見ず知らずの人間にいきなり自分の名を当てられ、理子は驚く。
「お、やっぱりそうか! ま、こんな状況で初対面の挨拶するっていうのもなんだが、礼儀はわきまえんとな」
タコ入道は理子のすぐ目の前にまで顔をグイと近づけ、
「ではいざ名乗らん! 我が名は漸次! 幸之進の父親だ! よろしくなっ、嬢ちゃん!」
と言うと白い歯を見せてニィッと笑った。
「……コウノシンって誰……?」
タコ入道、もとい、蕪利漸次の自己紹介を聞いた理子は、クリッとした目をさらにパチクリとさせ、おずおずと尋ね返す。
「あぁん?」
吃驚したせいか、漸次は素っ頓狂な声を上げた。理子の隣に倒れ伏しているコウに素早く目をやり、不思議そうな声で答える。
「こいつの事だが?」
「えぇーっ!?」
今度は理子が驚いて絶句する番だった。
「この人、幸之進って言うんですか!?」
「何だ、じゃあ幸之進の奴、自分の最優先に名前も名乗っていないのか? しょうがない奴だなぁ……」
漸次は呆れたような表情を浮かべ、分厚い胸の前で筋骨たくましい腕を大きく組む。秋風が身に凍みる時期だというのに上半身は濃緑のタンクトップ一枚だ。
驚いたせいで鼻当ての部分がずれたのか、太い指でサングラスをかけ直すと、漸次は左右を数度見回す。
「ところで嬢ちゃん、武蔵はどこに行ったか知らねぇか?」
そう尋ねられ、理子は慌てて左の方角を指差した。
「あっ、そっちのベッドの下に落ちてます!」
漸次は理子が慌てて指を指した方角に向かうとその場にかがみこむ。
「どれ……おう武蔵! 久しぶりだな! 元気にしてたか! ……ってなんだ、完落ちしちまっているじゃねぇか。こいつの回路を完全に遮断することなんて有り得ねぇのになぁ……」
「あっあの……」
「ん? どうした嬢ちゃん?」
「それ、たぶんこの人がやったんだと思います」
「何? 幸之進が?」
振り向いた漸次に向かって理子はコクリと頷く。
「自分でそう言ってました。でも私、さっきその左下のスイッチを押してみたんだけど、武蔵は起きなかったんです」
「……ほうぅ、そういう訳か。なるほどな」
ようやく合点がいった、という様子で漸次は顎を二三度撫でる。
「あの、どうして武蔵は起きないんですか?」
「なぁに簡単なことよ」
武蔵を手に立ち上がった漸次は、ベッドの周囲を回って再び理子のすぐ側にまでやってきた。
「要は通常の方法で落としていないからさ。各電脳巻尺の専属操作者が強制的に回路を落としちまった場合、それだけを押しても意味はねぇんだ。今の武蔵は完全に気絶しているような状態っていうわけよ」
「じゃあ、この人じゃないと武蔵を起こすことは出来ないっていうことですか?」
「ま、厳密に言えばそういうことだ」
漸次はそう答えたが、なぜかすぐにニィッと歯をむき出してまた満面の笑みを作り、理子に向かって親指をグイと立て、安心しろという合図を送る。
「だが武蔵の場合はちょいと特別でな。この俺でもこいつを起こす事が出来るのよ。ま、見てな」
そう言うと漸次は起動回路を押し、羽根布団の上に武蔵を置いた。そして自分の胸板が風船にように大きく盛り上がるくらいまで大きく深呼吸し、武蔵に向かって、
「起床────ッッ!!!」
と軍隊ばりの大号令をかました。
あまりにも大きいその怒号に、思わず理子は口中で小さく驚きの叫びを上げ、すかさず両耳を手で覆う。
続けざまに漸次が 「起きろ武蔵ッ!!」と声をかけると、それに呼応するかのように武蔵の体内から小さな起動音が発せられた。
人間で例えれば血色を取り戻したようなものか。
漸次の号令で唐草模様の電脳巻尺が再び息吹を吹き返す。
しかし全ての回路に電源が通り、起動を始めたその第一声を聞く限りでは、武蔵はかなり気分を害しているようであった。
「アタタタ……、ったくコウの奴、強引に回路を落としやがって……」
「よう武蔵、久しぶりだな」
武蔵の前に仁王立ちし、漸次は白い歯を見せてニヤリと笑う。
そう声をかけられ、映像回路でかつての操作者が目の前にいることを確認した武蔵は、すごい勢いで羽毛布団から浮き上がった。
「あっ、漸次さんじゃないッスか! お久しぶりですっ!」
「俺がお前を起こすなんて何年ぶりだろうな」
ふと過去に思いを馳せたのか、漸次は喋る速度を少し落とした。
「そうッスよねぇ……」
漸次から無意識に移ったのか、それとも自身も回顧しているのか、武蔵の口調もややゆとりを取り戻したものになっている。
「ところで漸次さん、なぜここへ?」
「幸之進の奴に呼ばれたからさ」
漸次は倒れ伏しているコウに再び視線を戻す。するとそれに習うように、武蔵も現在の自分の操作者に視線を移した。
「コウが? どうしてですか?」
「知らん。今朝早くに連絡してきてな、なんでもえらく重要な話があるから来てくれって言われたんだ。それよりも武蔵、どうして幸之進はお前を完落ちさせたんだ?」
立ち話に疲れたのか、仁王立ちの姿勢を止めて腕組みを解くと、漸次はベッドの上に勢いよく腰を下ろした。その重量によるスプリングの反動で少女の身体は小さく跳ね、理子は慌ててバスローブの前をまたしっかりと握り直す。
「ん~~、それが話すと少々長くなりそうなんスけど……」
武蔵は少々言いにくそうな物言いで、理子の方にチラリと視線を走らせた。
「長くなる? そうか、じゃあ向こうで茶でも飲みながら聞かせてもらうとしようか。幸之進の奴はしばらく起きないだろうしな。行くぞ武蔵」
しかし武蔵は漸次のその誘いにすぐ返答はせず、無言で体内から第二の手を出すと、それを器用に操ってコウの身体を丹念に調べだした。
「……漸次さん、ちょっとやり過ぎじゃないッスか? これじゃコウが可哀想ですよ」
コウの身体から巻尺を外し、武蔵はかつての操作者をやんわりとではあるが非難がましい口調で責めた。
「済まん、済まん。万が一ってこともあるからな、一応細胞抑制をしてきてるんだ。そのせいで力の加減がまだよく分からなくてなぁ」
漸次は申し訳なさそうな表情で丸い頭部に何度も手をやる。
「それにそこの嬢ちゃんが助けを呼ぶ声も聞こえたしよ、中途半端に攻撃してもし幸之進を落とせなかったらマズイだろ? そんでつい本気を出しちまったってわけよ」
「コウじゃなかったら死んでるッスよ?」
「確かにな。だが幸之進はこれぐらいのことじゃびくともしないさ。何たって、この俺の息子なんだからな!」
エールのつもりか、漸次は倒れ伏しているコウに向かって親指を立て、自信満々の様子でニカッと笑う。
「相変わらずッスねぇ、漸次さんは……」
そんな能天気な漸次に向かって、武蔵は呆れたような口調で呟いた。